あきらめる癖
生い立ちから導き出す結論もあります。
セーラが考えたことは、どの時点で逃げ出すかということだ。
今は身体の自由が利かない。子育てにも慣れていない。一週間、一週間だけお世話になろう。そして何かのきっかけを捉えてエミリーの家を辞すべきだ。
デビッドに私なんかと結婚させてはいけない。何せ貴族との付き合い方どころか、正式な食事の仕方さえ知らないのだ。自分にしても一挙手一投足を注意される生活なんてまっぴらごめんだ。
…なんでここまでお偉い人だったんだろう。ちょっとした金持ちの商家の次男とかだったらまだしも。
あ~あ、私にはとことん運というものがないのね。
セーラが結婚の成就に悲観的になるのも無理もない。
セーラはロンドンの貧しい地区の小学校へ通っていたが、高学年になると教会や孤児院の手伝いにたびたび駆り出され、碌に勉強もしていない。
小学校を卒業する10歳になってからは宿屋の下働きに始まって、いろいろな職種を転々としながら働き続けてきた。帰る家がないのでいろんな家庭に住みこんで働いてきたが、どこでも邪魔者扱いされてきた。
18歳になってある程度見られる容姿を認めてもらい、カフェの店員になれたことはセーラにとって大出世だった。スナックの三階に小さな部屋を借りて、初めて一人で生活することが出来るようになった時には、嬉しかった。
その喜びも今回の妊娠によってすべて灰に帰してしまったのだが…。
お腹が大きい店員は洒落たカフェでは必要とされなかった。
その上、これから赤ちゃんの泣き声でうるさくなることがわかっているセーラの存在は、住居にしていたスナックにとっても困った存在だったのだ。
ベラ姉さんが言いにくそうに「悪いけど、うちも客商売だからねぇ。赤ちゃんの泣き声がしてるとお客さんも落ち着いて飲んでくれないんだよ。心当たりがないなら、他の住まいを紹介しようか?」と言ってきた日のことは忘れられない。ずっとセーラの味方でいてくれたベラ姉さん。後見人のいないセーラに、快く部屋を提供して応援してくれていた恩人に、これ以上は迷惑をかけられないと出て来たのだ。
でも、どこへ行こう。
子連れでは、今までのようなわけにはいかない。
親切そうなエミリーに内緒で協力してもらったほうがいいのかもしれない。
ああは言ってくれたが、エミリーにしても私がお兄さんの奥さんになることに、もろ手を挙げて賛成という訳ではないだろう。
ロンドンへ帰るデビッドをストランドの駅に送って行き、セーラがコインロッカーに預けていた荷物を回収すると、車は高速道路にのって一路南へと走りだした。
セーラはこんな大きな車に乗ったことはなかった。せいぜい配達のトラックの片隅に荷物と一緒に詰め込まれた経験があるだけである。それが今乗っているのは応接室が中にあるような車で、赤ちゃん用のシートもあり、デイビーはその中でスヤスヤと眠っている。備え付けの冷蔵庫からジュースを取り出して渡された時には、思わずそのジュースをじっと見てしまった。
「あ、違う銘柄のほうが良かった? 炭酸飲料もあるから変えましょうか?」
エミリーにそう言われたが、そんなことを考えていたのではない。こんなことからして自分は場違いだ。
自動車の中に冷蔵庫があるなんて…。セーラは独り暮らしの部屋に冷蔵庫なんてもちろん持っていなかった。
「いいの、これで。ありがとう。車の中に冷蔵庫があったのに驚いただけだから。」
「そっか…そうなんだね。そういえばセーラって、どこの職業学校に行ったの? やっぱりロンドン?」
エミリーは当然のようにそう聞いてきたが、セーラはとっさに答えられなかった。
「エム、孤児院だと小学校までだよ。セーラが良かったらエムと僕で簡単な教育課程を作るよ。デビッドの奥さんになるんだったらジュニア・ハイぐらいの教養は身につけたほうがいいし。」
ロブが親切にそう言ってくれたが、セーラはこの2人に正直に自分の気持ちを言ったほうがいいような気がしてきた。
「その事なんだけど…やっぱり私ではデビッドの奥さんは無理だと思うの。」
「でも…2人でいるのが自然だって言ってたじゃない。私がぶしつけに失礼なことを聞いたから?」
「ううん。エミリーにお家の、貴族の話を聞いた時から考えてたの。…こっそり逃げ出そうって。」
エミリーとロブはセーラの話を聞いてびっくりしていたが、ロブのほうがすぐに立ち直った。
「それを僕たちに言うということは、デビッドに内緒で逃げ出せるように協力して欲しいんだね。」
「ロブっ!!」
「エム、ちょっと黙って僕の話を聞いて。セーラがそう言うのも無理はないよ。僕だってセーラの立場だったらそう考えたかもしれない。」
「だって!」
エミリーは反対のようだが、ロブの方は侯爵閣下だけあって世事に長けているようだ。
「わかった。僕は君の力になるよ。でもデビッドを裏切るからには、僕たちにも心の平安が欲しい。セーラとこのちびデビッドが無事に過ごしていけるように、君に最低限の教育をつけさせて欲しいんだ。君が僕の提示した教育をちゃんと身につけたら、親子で楽に暮らしていける仕事を斡旋する。一年間うちで頑張ってみないか? 見たところ、ちびデビッドのためにそのくらいの努力をするガッツは持っている人のように思えるけど…。」
ロブの提案はセーラにとって魅力的だった。
これから一年間の安全が確保されて、今後の生活の安定も約束してくれている。いくら親切だと言っても、私なんかを親戚にしたくないのもあるのだろう。
これは疑う余地のない好条件に思われる。
「ありがとう、いい条件ね。やってみたいと思います。ただ…デビッドが何て言うか。」
セーラの答えにロブはニヤリと笑って、そっちの方は自分たちで何とかするということを確約してくれた。
結婚の許しが出るというのは難しいとは思うが、仮にサマー子爵が結婚を許しても、ストランド伯爵の病気のこともあるし、すぐに結婚式の話はでないだろう。一年間、結婚するのを引き延ばすことは自然にできるだろうというのがロブの予想だ。
エミリーはロブのことを殴りたそうな顔をして睨んでいたが、最後には諦めたのか「私もロブに協力する」と言ってくれた。
セーラは今後のことが決まって安心したのか、車の揺れの中でウトウトと眠り始めた。
セーラが寝入ったのを見て、エミリーは小さい声でロブに囁いた。
「上手いこと考えたわね、ロブ。」
「これはセーラにとっても正念場さ。ここを潜り抜けられないと、どっちにしろお互いが辛くなるだけだからね。」
「ロブのその回転の速いオツムが好きよ。」
「頭だけかい?」
「わかってるくせに…。」
見つめ合う2人を、目を覚ましたトラムとデイビーがキョトンとした顔で眺めていた。
ロブとエミリーも夫婦になりましたね。