ストランドの聖夜
クリスマス礼拝を終えた後、デビッドは独り迎えを待っていた。
静かに雪が降っていた。
風が吹いていないからだろうか目の前に落ちて積もって行く雪がスローモーションのようにも見える。
デビッドは教会の出口に佇んでぼんやりと暗い街並みを眺めていた。
「デビッド、そちらは寒いでしょう。中に入って待たれてはどうですか?」
子どもの頃から知っている神父さんが大聖堂の明かりを消しながら声をかけてくれる。クリスマスの礼拝が終わり、街の人たちは家族連れで次々と教会を後にしていった。
「もうすぐ迎えが来るはずですから、ここで待っていますよ。すみませんが入り口の明かりだけつけておいてください。」
「それはかまいませんよ。それではデビッド、良いクリスマスを。」
「ありがとうございます。オルト神父様も良いクリスマスを。」
神父さんも大きなひと仕事を終えて、奥の自宅の方へひきとっていく。これから遅めのクリスマスディナーが始まるのだろう。どことなくウキウキとした様子に見える。
デビッドの兄弟も今頃は皆それぞれの家で暖かい暖炉を囲んでいることだろう。
昔はおじいさまの家に大勢の親戚が集まったものだが、兄弟が次々と結婚して家庭を持っていくにつれクリスマスの集まりはしだいに縮小していった。
今年は長男のアレックス夫婦が子ども達を連れて奥さんの実家がある日本に行っているので、ストランド伯爵家には寝たきりのおじいさまと介護に疲れた両親しかいない。
デビッドも一週間こちらに滞在していたのだが、年明け早々に仕事が入ってしまい、今夜ロンドンに帰ることになっている。
両親と遠縁の親戚を送って行った車がもう少ししたらデビッドを迎えに来てくれるはずだ。
デビッドがぼんやりと暗闇を見つめていると、まん丸い雪だるまのようなものがゆらゆらと教会の庭に入って来るのが見えた。
その雪だるまはふらついたかと思うと、ドサッと雪の中に這いつくばり動かなくなってしまった。
「…まさか、人か?」
デビッドは雪まみれになっている塊の所に走って行った。
薄暗くてよく見えないが、太った女の人のようだ。
「もしもし、大丈夫ですか?」
「うううっ、て、天使さま…助……けて…下さい。」
その時、デビッドを迎えに来た車が教会の敷地へ入って来た。
そのヘッドライトが照らし出したものを見て、デビッドは慌てた。その人は太った女の人ではなく、妊婦さんだったのだ。
ハァーハァーと苦しい息をしている女の人は、酷い痛みに顔をしかめている。
「まさか、陣痛が起きてるんですか?!」
「え…ええ。」
「いつから?」
「わ・わからない。」
その時、雪を踏みしめる音がして運転手のヘイズがやって来た。
「デビッド坊っちゃん…この人はいったい?!」
「行き倒れだ! ヘイズ、車のドアを開けてくれっ、病院へ連れて行く!」
「は、はいっ。」
ヘイズが走って行った後で、デビッドはその女の人を抱き上げた。その人はデビッドの腕をつかんで小さな声で叫ぶ。
「教会…へ。わた…し、お金……が…ない…。」
「大丈夫、心配しないで。お金がいらない病院へ連れて行くから。」
車が走り出すとデビッドは女の人に名前を尋ねた。
その人は一瞬浸潤した後で「セーラ・クルーです。」と名乗る。
セーラ・クルーだって?「小さな公女の物語」の主人公の名前じゃないか。あまりにも偽名くさい。しかしこの緊急時に名前を問い詰めることもしていられない。
「セーラ、陣痛が少し収まったみたいだね。今のうちに聞いておくけど、ご主人の連絡先を教えてくれないか?」
「主人は…いません。亡くなりました。」
「では、親御さんか親戚の方は? どなたかに連絡しないと退院後に困るだろう。」
「親族も知り合いもいないのです。だ……いじょ…ぶ、ハァーハァー、一人でなんとか、ウウウウンッ……なり…ます。」
また陣痛が始まったようだ。感覚が短い。
姉妹の出産に立ち会ってきたデビッドには、猶予のない事態だと思われた。
「ヘイズっ!」
「この信号を抜ければ中央病院ですっ。」
ヘイズの声も切羽詰まっている。
赤信号がこんなに長いとは思ってもみなかった。
「もう少しだ。いきむのをギリギリまで我慢するんだっ。」
「ふぅーーーんっ、悪魔っ。」
「僕も天使になったり悪魔になったり忙しいな。」
こんな時なのに、デビッドは久しぶりに心の底から可笑しくなった。おじいさまが、おばあさまが亡くなったショックで病に倒れてからこのかた、笑いを忘れていた。
まだ自分は笑えたんだな。
デビッドの心の奥がじんわりと温かくなる。
信号が青になった途端にヘイズはF1レーサーさながらのドライビングテクニックで病院の救急口にピタリと車をつけた。そして警備員へ向かって「妊婦だっ!すぐに生まれる!」と怒鳴った。
病院が持ち出してきたストレッチャーにセーラを運んだデビッドは、やっと一息つくことができた。
奥に運び込まれていくセーラの手を握って「頑張れっ!」と声をかけた後には、何か大切なものを手放したかのような虚脱感に見舞われた。
「やれやれ、間に合いましたね。」
ヘイズが心底安堵して、額に浮き出ていた冷や汗を拭った。
「…ああ。」
「これから駅まで行かれますか? 荷物は積んできましたし、病院の方の手続きは私がやっておきますから。」
「…帰るのは明日にするよ。ヘイズの奥さんも帰りを待ってるだろ。クリスマスだし、最後まで責任を持って見届けることにする。どうやら、僕は彼女の天使らしいからな。」
病院の緊急口から照らされる青白い光の中で、ヘイズはデビッドの顔を仰ぎ見た。
やんちゃでいたずらばかりしていたデビッド坊っちゃんが、いつの間にか一人前の男の顔をしている。
ここは、坊っちゃんに任せるのがよさそうだとヘイズは思った。
「それでは、一旦お屋敷に帰ります。移動の足が必要になったら、必ず私をお呼びください。」
「ああ、ありがとうヘイズ。」
「いいですか? 必ずですよ。」
「わかったよ。」
「すみませんっ。ちょっとそこの人、こっちに入ってきてください。手続きをしてもらわないとっ!」
ヘイズが帰って行った後、デビッドは受付のお姉さんに捕まった。
このお姉さんは新人らしくデビッドの事を知らないようだ。この病院は祖父ストランド伯爵の後援で建てられている。デビッドのことを玉の輿に乗るための餌のように狙う女性に慣れているので、こういうそっけない対応は新鮮だ。
「お父さんはこちらの書類にご記入の後、8階の家族待合室でお待ちください。」
そう言われてデビッドは書類を眺めた。
患者の名前を記入する欄にセーラ・クルーと書くつもりだった。しかしなぜかそこに『セーラ・サマー』と書いている自分がいた。
住所もストランド伯爵家の住所を書いてしまう。
自分は…なにを馬鹿なことをやってるんだ?と思って、書き直そうとしたところで、お姉さんにサッと書類を取り上げられてしまった。
「ありがとうございます。…血液型は?」
「すみません。最近知り合ったばかりなので知らないんです。」
なにが最近だ。さっき知り合ったばかりだろう。
自分自身にツッコミを入れるが、なぜかこれが正しいような気がしていた。
「あなたのお名前は?」
「デビッド・サマーです。」
そう名乗ると、始めてお姉さんはデビッドの顔をマジマジと眺めてきた。
何かに気付いて口を開けかけたお姉さんを手をあげて止めると、デビッドは足早にエレベーターの所へ歩いて行った。
8階でエレベーターを降りた途端に看護士に声を掛けられる。
「おめでとうございます! 元気な男の子ですよっ。」
デビッドが息を呑んでいるのを見て、不安になったのだろう。
「ごめなさい、早とちりだったかしら? セーラベビーのお父さんじゃないんですか?」
「いやっ…あ、僕です。」
つい言ってしまった一言で、その看護士は満面の笑顔になった。
「お母さんの方はちょっと疲れてますけど、会ってあげて下さいな。ベビーには処置が済んだらすぐ会えますからね。」
看護士に促されて、デビッドは分娩室の扉をくぐった。
分娩室の中は独特の匂いと熱気で溢れていた。
さっきまで奮闘していたセーラや助産師たちの熱い残り香が漂っているような気がした。
セーラはこちらには背を向けてベッドの上で息を整えているようだ。
「セーラ、お疲れ様。よく頑張ったね。男の子だって聞いたよ。」
こちらを振り返ったセーラの顔は涙に濡れていた。明るい電灯の下で見ると、母になった喜びに溢れたセーラの顔には、どこか侵しがたい美しさがあった。
「ああ天使さま、ありがとう。貴方の名前を教えてくださる?」
「デビッド、デビッド・サマーというんだ。」
デビッドが名乗るとセーラはクスクスと可笑しそうに泣き笑いした。
「サマー…真冬に夏の天使が来てくれたのね。息子にはあなたの名前をつけることにするわ。」
「デビッドとつけるのかい?!」
「ええ、恩人の名前ですもの。」
会陰裂傷を縫う処置をしたいからと、医者に分娩室を追い出されて所在なく廊下に立っていると、先程の看護士に新生児室に入るように言われた。
消毒をしてエプロンと帽子をつけた途端に、小さな暖かいものを手渡された。
まだ赤くてクシャクシャな出来立てほやほやの人間だ。
その子の顔をじっと見る。
この子の名前はデビッドか…。
自分の名前を付けた人間というのは初めてだ。
「髪の毛はお父さん似ね綺麗なアッシュブロンドになりそう。目は一度開けただけだからハッキリとはわからないけど、お母さんと同じハシバミ色になると思うわ。名前はもう決まってるんですか?」
「ええ、さっき決まりました。デビッドというんです。」
「まぁ、お父さんと同じ名前になさるんですね。じゃあジュニア? それともDJ(デビッド・ジュニアの略)と呼ぶようになるのかしら?」
笑っている看護士の話をぼんやりと聞きながら、デビッドは腕に抱いている赤ちゃんの重みと温もりを感じていた。この子が大きくなって自分の方へ走って来る様子を思い浮かべる。
この子を守らなくてはならない。
そんな決心がどこからともなく湧いてきた。
ギュッと握った赤ちゃんの手を開いて、親指をあててハイタッチする。
「ハイ、バディ。よろしくな、僕がきみの父さんだよ。」
窓の外では聖夜の雪が2人を見守るように深々と降り積もっていた。
この出会いは、クリスマスの奇跡なのでしょうか。