第一章 四・イド狩り
総面積四平方キロメートルというそのあまりの広大さ故に、専用のバスや路面電車が走っている、なんて馬鹿げた事態を体現する未塾学園は、大きく四つの区域に分類される。
一つは、僕が通う東区。第一から第三までの、中学、高校、計六つの校舎とそれに準ずる体育館、グラウンド、職員棟、そして寮生の為の寮が、四つ存在する。特に特筆すべきスポットはないが、しいて言うなら、『犬神池』と呼ばれる大きな池がある。……今さらだが、嫌なネーミングだ。
二つ目が、共働きの教員が子供を預ける保育園などの託児施設から小学校までの、平均年齢が一番低い西区。ほぼ学園の中央に位置する有名なデートスポット、雷桜こと依桜も、便宜上この西区に分類される。
三つ目。唯一一般にも解放されている、商店街。小から大まで。個人商店から複合店舗まで。ありとあらゆる個人が、ありとあらゆる企業が、共存する北区。そんな、外の世界においてはあり得ないような業が平気で成り立っているのは、学園の上にいる下上の力をひとえに示しているとも言える。
下上――その持ち得る権力が、その名が示す存在が、あまりに大きすぎて一般には認知されていない、そんな荒唐無稽もいいところの存在がこの世界には確かに存在する。あたかも、“ただそこにあるからそこにあるだけ”といった顔で。案外、僕が直先輩の言う忌能なんてものをいとも簡単に信じられたのは、そういった存在に似たものを知っていたからかもしれない。
下上が存在しているなら、忌能なんてものが存在してもおかしくない。
そう思えるだけの理不尽さが、そう受け入れざるを得ないような不条理さが、下上にはある。
僕がその下上の存在を知っているのは、幼い頃、とある少女との涙なくしては、痛みと傷みをなくしては語れない想い出があるからなのだが――まあ、その辺の話は今は関係ないので置いておくとして、最後の四つ目。
馬鹿みたいに“最端”技術が盛り込まれた大学棟が幾多にも渡りひしめき、古今東西、この世界の全ての書物を抱いていると言っても過言ではない新大図書館がある、南区。その一角を、僕は、相も変わらず直先輩に連れられるまま歩いていた。
「五月雨。男。未塾学園大学経済学部経済学科所属の十九歳。趣味は小動物を殺して、“吊して”、その血を浴びること。幼いころ雨に野ざらしで捨てられているのを、“前の”両親が引き取り、人並み以上の愛情を受けて育つ。しかし十歳を迎えた誕生日、意気揚々と彼が自宅に帰宅すると“両親がバラバラにされて天井から吊されていた”。警察の度重なる調査でも犯人は杳として知れず、その後の彼の人生は絵に描いたような転落人生。見掛けだけは、しっかりと高校までの教育を終え、未塾学園大学に進学するまでにまともに見えるが、“心が転落していった”。緩やかに。それでいて確かに。落ちて、墜ちて、堕ち着いた。歪に歪んで、な」
――と。
まるで教科書を読むかのように平淡に読み終えて、直先輩は、たった今まで手に持っていた書類をどこへともなく、しまった。
「……何ですか、今の」
相変わらずというか、当たり前というか、やっぱり何の前触れもなくいきなりだったので、訳が分からない。
「プロフィールだよ」
「それは分かります」
「まあ――」
仕切り直し。
「初姫に頼んでいた“とある人物の関係者”に関するデータだよ。同時に、今から私“たち”が始末する対象のデータでもある」
あれ? 今、この先輩「たち」とか言った? ……気のせいか。
「その――いい感じに壊れてるみたいな人間のことを、イドで、それを退治するのがイド狩りですか」
もしそうなら、僕はこの先輩をどう思うだろう。
きっと、どうも思わないだろうな――ていうか、“その程度”で殺されるなら、僕なんて真っ先に殺されてるだろうし。事実はその適当な推測が事実でないことを物語っている。
「そうだったらまだ話は楽なんだがな。私も“ただの人殺し”でいられるし。……イドとは先程話した忌能が身体に“適応せず”、精神と肉体が暴走した存在を指す――まあ、これも“感じた”方が早――」
直先輩が言い終わるより一瞬だけ早く、こつん、と“僕の”足に何かが当たった。
どうやら直先輩の話に集中して、足元の確認が疎かだったらしく、何を蹴ってしまったのだろうと何気なく視線をやった先――そこには“猫の頭が転がっていた”。
――白と黒の斑模様、つい、さっき、僕たちが、遭遇した、猫――
「――――っ!」
驚き立ち止まる僕を尻目に、直先輩は長い髪を翻して、既に走っていた。
道の脇にある植え込みを、目が冴えるような身軽さで飛び越え、奥へ。僕は目が冴えると同時に我に返り、その後を追う。
ほんの僅か、抜け道のように雑木林を抜けると――
そこには、血の光景が広がっていた。
ちょっとした広場のように円形に開けた場所。その中央には、一本、孤独に立つけやきの木。
「――っ」
思わず、口元を腕で覆う。木。木だ。なんてことないその木には、無数に、天多に、頭の無い犬と猫がぶらさがっていた。逆さまに、吊されていた。ぽたり、ぽたり、と。その下、木の根元に向かって、まるで“雨のように”、血が、堕ちていく。
血溜は――ない。芝生が赤く染まって、まるで血の絨毯のように、その中央、未だ降り注ぐ血の雨を全身に浴びるようにして、一人の青年がたたずんでいた。
痩身痩躯。短く切り込まれた髪は一切染められておらず、上着に白――赤色のパーカー、黒のデニムジーンズ。背が幾分低くともすれば少年に見えかねないが、いかにも大人しく模範的な大学生、といった感じの人物だった。
あれが、五月雨、なのだろう。
まるで、図ったように転がっていたようなタイミングで、遭遇した、イド――!
「お前が五月雨か?」
と。最初から分かり切っているとでも言わんばかりの事務的な口調で、僕より一歩、前に踏み出た直先輩が訊いた。
そこで初めて、五月雨は僕たちの存在に気が付いたかのように、それまで恍惚としていた表情を一気に消し去り、笑って――
「うん?」
首を傾げた。
首を傾げて、口を開いた。
「そうだよ、俺が五月雨だ。いい名前だろう。気に入ってるんだ。自分でつけたんだけどね」
はにかむ。まるで普通の大学生のように。
「君は――君たちはこんなところで何をしてるんだい? まさかこんな場所に散歩しに来たってわけでもないだろう。兄妹には見えないし――ああ、なるほど」
何かに得心がいったように、微笑む。微笑ましく、微笑む。
「駄目だよ。俺はこれでも“愛”については寛容なんだけどね――流石に『外で』ってのは感心しないなあ」
笑う。五月雨が、わらう。嗤って、笑って、わらって、ワラウ。
なんだ、これは――?
いや、そうか――なるほど、これが、この“わけのわからなさ”こそが、イド――。
まだ僕はイドについてこれっぽっちも知らないけれど――分かる。逆さ吊りにされた犬猫。動物の成る、木。血の絨毯の上に立つ青年。そんな、状況なんてものがなくても分かってしまう。強制的に視界を、身体中のありとあらゆる感覚器官を掻き分けて、脳に侵略してくる。“あれ”が、堕ちて、墜ちて、落ちて、歪に歪んでいると――!
気持ち、悪い。
それ以外に感想が出てこなかった。
無意識の内に、一歩、後退る。
直先輩は逆に、一歩、踏み出した。
その間際。垣間見た直先輩の表情は冷たく、暗く、沈んではいないのに底が見えなくて、南極の氷の深層を覗き込むかのようで――
怒っている、のだろうか。
一瞬、直先輩の視線が向けられた先、無数に吊された動物の、死体。あの中には、先程僕たちが出会った猫がいる。
猫が嫌いだと言った。けれどそれを越えて、動物が無惨に殺されているのに腹を立てているのだろうか。
――たぶん、違う。そんな単純に、人間の感情は割り切れない。そして、殺されたから殺して、殺されたから怒って、そんな、“何かを殺すこと”はそんなに単純じゃない。
だから。
僕には今の直先輩の心情なんて察することはできないけど、他人の痛みなんて分かるべくもないけど、それでも僕が訊いたらこう答えるのだろう。
「気分が悪い」
訊くまでもなく直先輩はそう言いながら、更にニ、三歩踏み込む。
「気分が悪くて、気持ち悪くて、気に入らなくて、不愉快で、悪感で、最低で、最悪な気分で――殺したくなる」
それは、宣戦布告だった。
「最悪……ねえ」
対して。五月雨は余裕だ。余裕というよりは、綽然としている。あれは、僕たちの存在を歯牙にもかけてないというより――まるで罠に掛かった獲物を見るような――そんな、態度。
「俺は今最高の気分だよ。やっと、夢が叶う。念願が悲願が哀願が宿願が本願が熱願が、全てが、叶う。あの時の快感。あの時の心地。動物なんかの血じゃ到底味わえない、あのえもいわれぬ甘美な雨をもう一度――浴びれる」
恍惚。天を仰ぎ、五月雨は、喘いだ。最早何を言っているのか分からない。トリップしているのかもしれない。自身の想い出への、トリップ。
急速な、それでいて確固たる変化。
そこには明確な境目など皆無で、他人の存在など関係なく、物語の流れなど歯牙にもかけず、全てが自己の中で完結していた。終わり、切っていた。
再び僕らの方へと向けられたその顔は――やっぱり笑っていた。
そして。
前置きは終わりとばかりに、今度は五月雨が一歩、踏み込んでくる。
「当然、俺は君たちのことは全く知らない。他人も他人、赤を赤で塗り潰した真っ赤な他人だ。だからどうした? けれどそんなの関係ないさ。そりゃそうだ。君たちが、今、ここにいる。それだけで、俺は君たちをつ――」
一瞬。
最後まで言い終わることなく、五月雨の額にナイフが突き刺さった。
ぐらりと、その反動で、彼の身体が傾き、大した音を立てることもなく地に倒れる。驚き見ると、それはよく見れば、あの時僕自身が突き付けられたナイフで――それが、直先輩によって投てきされた物だと、遅れながら理解する。
……あの人、敵の前口上の最中に攻撃した。それも容赦ない、明らかな致命傷。
「ふむ――敵が能力を発動するのをむざむざ待つ必然性はない――と言いたいところだったが……」
それまで淀みなく歩いていた、直先輩が立ち止まる。
「まさかここまで“進行”していたとはな」
その視線の先には――“額にナイフを生やしたまま”、まるで“見えない糸に操られるかのように”、手も身体も使わず仰向けの状態から起き上がる五月雨の姿があった。
「やれやれ」
ずずずずず、と。ゆっくりナイフを引き抜きながら、五月雨は嘆息する。血が、一気に溢れ出た。下手をすると脳しょうを混じえかねないそれは、五月雨の顔を伝い、地面に流れ落ちていく。
そして、明らかに手遅れであるのに、紛れもなく致命傷であるのに、とめどなく流れる自分の血を舌で掬いながら、何でもないことのように、五月雨は笑う。
「やれやれだよ、可愛い子どもの君。駄目じゃないか。正義のヒーローが悪役の台詞を遮っちゃあ」
「ふん。私は正義のヒーローなどではないよ」
「でも、正しいことをしてるつもりなんだろ? だからこうして、僕を殺そうとしてる」
「いや――」
いつの間にか、直先輩の手にはたくさんのナイフ。
「少なくとも、私は正しくなんかない。死ぬまで覚えておけ。私がいるだけで、正しき者は正しき者じゃなくなるんだ。正義のヒーローでもなければ正しき者でもない、私はただの――」
「正"直"者だ」
宣言。そして――。
「そうか。ならば俺は吊し者だ。首を絞めて撥ねて吊して血を浴びてやるよ」
――開戦。
――――
取り敢えず安全と思われる位置まで退避した。
二人の姿が視認できる距離、そして“流れ弾”が飛んでこない場所――バトルフィールドを囲む無数の木、その内の一つから僕は顔を覗かせるようにしていた。
――流れ弾。
そう、それはまさに弾丸だった。
直先輩が投げたナイフがマシンガンのように乱れ飛び、五月雨はそれを『何か見えない物』で防いでいる。空中で弾――ナイフが次々と弾かれ、最初の致命打以外に、直先輩の投てきは一度も届いていなかった。
そして、その『何か』が分からないからこそ、直先輩は踏み込めないらしい。そして、五月雨が踏み込んでこないのは、その『何か』が遠距離でこそ真価を発揮するものなのか、あるいは、単純に直先輩が近付けさせていないのか。どちらにせよ、硬直状態。
直先輩が攻めで、五月雨が受け。はたまたそう見えて、本当は逆かもしれない。
素人同然の僕としては判断がつかなかった。どちらにいつ戦局が傾いてもおかしくない――そんな、状況。
……それにしても、本当に凄いな……。客観的に見て、そう思う。
いくら何でも、動きが速過ぎて見えないとかそういう次元ではないけれど、僕たち普通とは明らかに立っている場所が違う、そんな感じ。
五月雨自身はほとんど動いていないし、『何か』の正体なんて見当もつかないので判断できないが――直先輩、彼女のそれは、普通に常軌を逸していた。
技術による力。まるで、プログラムされたかのように機械的な、動き。
寸分違わず一定の距離を置きながら、絶えずナイフを撃ち続けている。装填から発射までがあまりにスムーズ過ぎて、本当に銃でも撃っているかのような錯覚。
そしてなにより――時折垣間見るその目が、眼が、瞳が、普通じゃなかった。
澄んだ蒼色は、平淡で無機質な青へ。意志の強い光は、対極、意志が決定された闇へ。
壊すのでも、倒すのでも、虐げるのでも、殲滅するのでも、壊滅させるのでも、看破するのでも、制覇するのでも、征服するのでも、燃えるのでも、憎しみに満たされるのでも、嫌悪を宿すのでも、殺すのでもなく――ただ“役割を遂行する”かのような瞳。もしもこの先、ターミネーターなんてものが実装されれば、きっと彼らの瞳はああいう目をしているのだろう、と。分かり切ったような見解を抱いたところで、
「ふむ――」
それまで絶え間なく続いていた、直先輩のアクションが止まる。
「血を固体に――いや、血を操る力か」
そして、扇のように手にナイフを装填したまま、何でもないことのように、そう言った。
対して。
「ああ、バレた?」
「隠すつもりもなかったくせによく言う」
「探るつもりもなかったくせによく言うよ」
やっぱり、五月雨は余裕綽々だった。
「最初から、分かってたんだろ? 仕掛けといた血の糸もことごとく切られるし、俺からの攻撃も全部投てきで防いじゃうし。本当、吊れないくらいつれないなあ」
どうやら、構図としては五月雨がオフェンスで、直先輩がディフェンスだったらしい。
「いや――私としてはお前の力など興味もないし関心すらないよ。先ほどのは、ただ勘の赴くままに言ってみただけであり、糸に関してもただ邪魔だから処分しておいただけだ。その意味ではお前の『探るつもりもない』という言葉は正しいな」
しゃりん。
ナイフが、滑らかにこすれる。
直先輩の右手一杯に広がる凶器が、初めて、五月雨に向けられた。
「さあ、ごたくはいいからさっさと来たらどうだ。手を休めたという事は、茶番は終わりなんだろう? 私は正直者らしく正々堂々正面から馬鹿正直にお前を叩き潰してやる」
「あははは。ならば俺は吊し者らしく、虚々実々背後から利口卑怯に君を吊し上げてやるよ」
瞬間。
直先輩の背後に“黒い塊が壁のようにそそり立った”。
「――っ! 直先輩!」
思わず叫ぶ。
叫ぶと同時、その黒い塊が直先輩に向かって襲い掛かった。鞭のようにしなりながら。まるで伸縮するように柔らかに。けれどそれは明らかに人の身体が耐え切れるような質量ではなくて。直先輩は。そんな暴虐を、まともに受けてぶっ飛んだ。
紙切れのように。人間の身体が。直先輩の小さな身体が、宙を裂くように滑り林の中に突っ込んでいく。
バキバキという嫌な音が聞こえた。聞こえて、その音が遠ざかっていく。
「――――」
僕はそれを見て、聞いて、そして何も言葉が出なかった。
あんな。あんな軽々しく、人間の身体が飛んでたまるか。命が、飛んでたまるか!
「正解だよ」
と。今は広場に一人残るところとなった五月雨が、誰にともなく、口を開く。ばしゃりと。黒い塊がシャボン玉のように弾け、再び血の液体になって地面に降り注いだ。
「俺の力は『血を操る』。そして血は液体だ。“地面を浸透する”」
――なるほど、それでか。
あんな規格外の攻撃を有していながらも、最初から使わなかった理由。直先輩と前哨戦をしている内に、あの木の下に溜まりに溜まった大量の血液を、地面を透して、通して、直先輩の背後に運んだ。確実に、攻撃を成功させる為に――!
そして、だからこそ、あの撃ち合いの時には五月雨の『血』が見えなかったんだ。足元の大量の血は使えなかったから。“最初に直先輩に負わされた致命傷の血だけ”を利用して、限られた量で、それこそ糸のような細さの血の鞭で、時間を稼ぐしかなかった。
『隠すつもりもなかったくせに』。それは直先輩の言葉。その通り、五月雨は“能力に関しては”隠すつもりなどなかった。ただ、本当の事を言っていなかっただけだ。偽るのではなく、とぼけて、戦略を隠ぺいした。
直先輩の力は、嘘を完璧に看破するが、黙秘と、転換には通用しない――。
「さて――まあ、あの様子じゃ子どもの君は後回しにしても問題ないとして、まずは君を吊すとしよう」
五月雨の濁った瞳がこちらを向く。向いて、僕の姿を捉える。
最早隠れている意味はないと判断し、素直に出ていく。
「見た感じ、子どもの君とは違って普通の子みたいだし、俺としては大人しく無抵抗に吊されてくれると好感が持てるね」
そんな諭すような五月雨の言葉にしかし、僕は恐怖も戦慄も抱くことなく、ただただ別の事を考えていた。すなわち。
「何故、僕は逃げなかったんでしょうかね」
「はあ?」
それはもちろん後悔などではなく、ただの純粋な疑問。
観戦している暇があったのなら、逃げるだけの時間も十分にあったはずだ。あの弾丸の雨の中、五月雨が僕に向かって血を回す余裕があったとも思えない。そんなことは今気付いたにしろ、もっと直感的に逃げていてもおかしくないはずなのに。そう、昨晩のように――。
「なのに、僕は逃げなかった。何でなんでしょうね」
それはたぶん、五月雨に呑まれていたという恐怖でも、直先輩を見捨てられないというありふれた正義感からでも――ない。ならば、何故。
僕は――
「いや――そうか」
いつの間にか、五月雨の背後に立っていた、小さな体躯。
なんて事はない。僕はあの時、あの人の話を信じたつもりでいて、その実、そんなものは副産物でしかなくて、ただ単純に、ただ純粋に――。
「直先輩を信じたからだ」
そしてやっぱり、そこに理由はなかった。
「――っ!?」
五月雨が振り返る。“まるでその時を待っていたかのように”、直先輩は、拳を振り上げ――。
五月雨の脳天に叩き込んだ。
ジャンプからの身体のバネを最大限に活用して、その小さな身体を余す所なく駆動させて、拳が振りぬかれる。
「っ!? ――っ!!」
五月雨の身体が地面に叩きつけられ、まるで芝生がトランポリンになったかのようにバウンドし空中へ跳ねる。
その間、直先輩は恐らく五月雨を殴った時の反動を利用して、更に空中へ。さながら曲芸のように極限に、くるくると身体を回転させ、大きく振りかぶった足を五月雨の首に振り下ろした。
ぐぎり、と。嫌な音がここまで響き、そして、一瞬遅れて重厚な振動が足元を介して伝わってくる。見ると、五月雨は見事に地にひれ伏していた。心無しか、少しだけ地面が芝生ごと陥没しているような……冗談だろ。
まあ、それはさておき。
「無事だったんですね、先輩」
「ん――まあな」
五月雨から少し離れたところに着地した直先輩が、何だか素っ気なく答える。ちゃんと反応してくれるかどうか不安だったけど、どうやら意志疎通は可能らしい。相変わらず直先輩の目は、無上に無情だけれども。
「ナイフが盾代わりになったおかげで、左腕だけで済んだよ」
ナイフがどうやって盾代わりになるのだろうとか、明らかに変な方向に曲がっている左腕とか、色々訊きたいことがあったが、直先輩が続けて口を開くので僕は何も言えなかった。
「それより、早く離れた方がいいぞ。こいつはまだ生きているし、何よりこれから私がやることは見ない方がいい――目に毒だからな」
「僕の目はもう腐ってますよ」
「死んでいるからといって腐敗してるとは限らんだろ。少なくとも、私にはそうは見えない」
「…………」
確かに、体感するという意味ではもう十分だった。すでに十分過ぎるほど僕は、イドに触れ、恐怖している。それでも、僕が動き出さないのを見て、直先輩は少し寂しそうな表情で。
「――いや、違うな。『見ない方がいい』んじゃない、『見てほしくない』んだ。これもおかしな話だし、私自身何故かは分からんが――頼むよ」
それは――やっぱり懇願だった。お願いでも、命令でもない。そんな顔をされては僕としては従わないわけにはいかず、何も言うことなくその場を離れた。
「どうせなら命令してくださいよ」
決して聞こえることのないよう呟きながら、元の位置に戻り、今度は木の幹に体重を預けるようにして座り込む。
少しして。
後ろから聞こえてくる様々な、音。雑音と表してしまうにはあまりにも生々しくて、けれどそれ以外には言葉を知らなくて――その音が鳴り止むまで、僕は、何も考えず何も思わず何気すらなく、ただ虚ろに、宙に伸ばした手のひらを眺めていた。