第一章 参・正“直”者の殺人鬼
十分程歩いただろうか。とある建物を前にし、直先輩がぴたりと止まった。慌てて僕も立ち止まる。
直先輩は何も言わない。あれ以来、一度も口を開いていない。けれど、ここが目的地なのだろう。終着点かどうかは別として。
旧図書館だった。
学園の南、大学のキャンパスの近くに新しい図書館が出来たおかげで、今は人気のない蔵書や処分待ちの本を置く倉庫となっている――はずの場所。二階建。大きさはこうして入口に立つだけでおおよそ測りしれないが、少なくとも体育館程度はゆうにあるだろう。一度に千人単位の人間を収容できる建物のと、同程度だ。
ふと、直先輩がこちらを見ていた。先程よりは和らいでいるが、それでも視線は鋭い。そこには殺意というより、敵意が大半に含まれているような気がした。僕の数少ない特技の一つ、自分に向けられた敵意に敏感。
……まあ、人に嫌われるのは慣れてるけれど。いやはや、殺人鬼――“鬼”にまで嫌われようとは、僕も案外まだまだ捨てたものじゃないのかもしれないな。
なんてくだらないこと考えてる内に、直先輩はさっさと旧図(書館)の中へ向かっていた。
初めて彼女が先行する形になる。「付いてこい」とは言わなかった。典型的な指示待ち世代であるところの僕は、もしかしたら脅迫でもされていた方が気が楽なのかもしれない。おかしな話かとは思だろうが、きっとそんなものだ。指示も脅迫も、僕からしたら何も変わらない。
「まあ、どうでもいいんだけどね」
そう嘯いて、僕は自分の意識で一歩踏み出した。
旧図の方へと。
――――
本の山というよりは、本の迷路だった。図書館という雰囲気に合わせたのであろう木の床や天井以外――つまりは壁という壁は全て本棚と収められた本に埋め尽くされていた。一文の隙間なく。一寸の余剰なく、である。
それは今しがた通過した階段にまで及ぶ徹底ぶりだった。わざわざ階段の形に調整された本棚。もはや壁が本なのか、本が壁なのか分からなくなってくる。
全く。ここが現役で使われていた光景なんか想像もできない。それこそ、本の中の世界にでも迷い込んでしまったかのようだった。
「おい」
……って、何だそのメルヘンチックな例え。ちょっと後悔。決して自己嫌悪とまではいかないけれど。そんなもの当たり前過ぎて、今更過ぎる。
「てい!」
がいん、と。いきなり視界が揺れた。遅れてじわじわと、後頭部から鈍痛が伝わってくる。蹴られた。そう理解したのは、衝撃が走ったその瞬間、視界の端に“白黒の縞々”が見えたからなのだが、敢えてそれは言わないでおこう。それがパンダ柄の縞パンなんてことは決してないし、ましてや、意外なんて思ったことは断じてないのだ。
というか、何で蹴り? 普通に殴ればいいじゃん。確かにおいしいけれども。美味しいけれども!
……いやいやそうじゃなくて。そもそもがそもそも。僕の身長は175センチだ。つい先日測ったばかりだから間違いない。対して直先輩の身長は、かがみちゃん情報で推定143センチ。実際そのくらいに見える。身長差、約30センチ。その差で、“後頭部に蹴り”……? 馬鹿げてる。むしろ、だからこそ手ではなく蹴りだったのだろうか、と何となく思い当たったところで、直先輩の声が飛んできた。
「……お前、私の声、聞こえてるか? 聞こえてないだろ。聞こえてないに決まってる。目は節穴というが耳は何だろうとずっと疑問だったが、今決めた、耳はお前だ。今度から耳つんぼを揶揄してお前の耳はお前かと言うことにする」
「ある意味的を射ているけれども!」
お前(対象)の耳はお前(僕)じゃ意味分かんないよ! 少なくとも僕以外の可哀想な誰かは!
「む。やっと口を開いたか」
と。直先輩が呆れたような顔で僕を見上げていた。
喋らない。殺人鬼。それらの情報から無表情で冷徹な人間を勝手に想像していたけれど――そして実際ここまでずっとそうだったのだけれど――どうやら、その限りでもないらしい。少なくとも、今は心底呆れられていた。
なるほど、と。勝手に納得する。あの時感じた無表情の違和感――あれは、作られたものだったからか。意図的なものであるが故の、偽物感。今の方がずっと、自然な感じがする。それが呆れ顔というのもどうかと思うけど。
「ごめん――いや、すいません。ちょっと考え事してたんです」
一応敬語。だって相手は先輩だし。僕だってそのくらいの常識ぐらい備えているのだ。決して殺人鬼相手にひよってるとかじゃなくて。
「ふん、まあいい。私は甲高いからな」
「……え、と。もしかして寛大ですか?」
「そう、それだ。寛大」
どんな間違いだ。本当に頭が良いのだろうか、この先輩は。
「私の心は砂漠化のように甚大だからな」
「ある意味正解だけど、砂漠のように広大……」
「――広大だからな。後輩の無礼を笑って許すくらい訳無い」
言って、胸を張る直先輩。洗濯板みたいな胸が強調されても、残念なだけだった。
「ありがとうございます」
お礼を言っておく。人付き合いが致命的に苦手な僕にとって、唯一の処世術はとりあえずよく分からなくてもお礼を言っておくことだった。
そんな。ある意味心無い、何となくもいいところであったお礼だったのだが、
「え、と――何ですか?」
ぱちくりと、ただでさえ大きめの瞳を見開いて、直先輩が凝視していたので、僕は思わずそう訊いてしまう。
「――いや、お前が素直にお礼を言える人間には見えなかったので驚いている」
滅茶苦茶正直だった。普通そういう事、本人に言うだろうか。
直先輩はそれに思い当たったのか、急に夏の朝の靄みたいにはかない笑顔で。
「すまない。……私はこういう人間なんだ。嘘が吐けない。お前の事は嫌いだが、悪いとは思う。許してくれなんて虫のいい事は言わんが、せめて存分に忌避してくれ」
人は笑っているときの方が寂しく見えることを、僕は知っている。
残念ながら、本当に遺憾ながら直先輩の言う通りにはできなかった。僕にとって、嫌われることと嫌うことは、馬鹿馬鹿しいくらいに掛け離れている。
「さて、随分話が逸れてしまったが、改めて訊こう。お前、部活は何か入っているのか?」
「部活?」
意外な単語が出てきたので、僕は反唱し首をかしげる。
「入って――ませんけど」
因みに、未塾学園の校則の一つに中等部から大学までの部活動参加必須がある。期限は二年生の四月、二週目の金曜日まで。僕は、帰宅部だ。来週までには必ずどこかの部へ入らなければならないのだが、社交性零の僕にとっては気の重い話でしかない。
「そうか、なるほど」
言って。話はそれで終わりと言わんばかりに直先輩はすたすたと歩みを速めてしまう。そんな彼女の後ろ姿を見ながら、僕は首をかしげるどころかひねって、それでもその後に続いた。
しばらくして。
「着いたぞ」
案内されてた先は、旧図の一角。奥まったところにぽつんとたたずむ、扉の前。古い材木に掛けられたプレートにはすっきりした文字で――
『帰宅部』
そんな冗談みたいな言葉が書かれていた。
――――
「やあ、久しぶりだね。直くん」
訳のわからないまま連れ込まれた部屋の中、直先輩の意図の片鱗すら掴めずに混乱する僕を迎えたのは、そんな声だった。いや、正確には僕に向けられたものではないが、とにかく廊下とあまり変わらないような部屋の中には、僕たちを除き、女の人が一人いるだけだった。
また先輩だ。
制服にある校章の色なんて見るまでもなく、直先輩のとは違って問答無用で年上と分かるような、大人びた容姿。敢えて言うならば、雰囲気的には調ちゃんに近いだろうか。少し色素の薄い髪を、後ろで一つにまとめたポニーテール。線の細い目鼻立ちに、まさに白魚のような肌という表現が似合う肌。フレームの細い藍色の眼鏡を装着し、本を片手に安楽椅子に座るその姿は知的そのものだった。
「久しぶりだな、初姫。惣菜か?」
「ふふ、それを言うなら息災か、だろ。相変わらずだね」
「喋り方をよく忘れるんだよ」
「なるほど、言い得て妙だ。しかし真実ではあっても事実ではない」
「何が言いたい」
「なに、もう少し愛しい親友からのTELコールに出てもくれてもいいんじゃないかなと思ってね」
「嫌だ。使い方が分からん」
「ふふふ、致命的だな」
……な、なんか随分親しげだ。
直先輩とあの人――確か初姫とか呼ばれていた――はどういう関係なんだろう。……親友、か。何て曖昧な言葉だろう。友達とか友人とか気の置けない仲とか気の合う仲といい勝負だ。
「おや? ああ、その子が前に言っていた――」
「そうだ。昨夜“現場”を見られた。たぶん、もう“発症”まで幾分とない」
幾分と言えば何分、僕だって人間である前にやっぱり人間であるわけで、自分の思慮外、訳のわからないところで話が進行していくのは不味い気がした。
「あのー」
だから――これは非常に希有なことだが――口を挟もうと遠慮がちに口を開く。
「ああ、すまないね。私とした事が久しぶりに再会した親友にかまけて、名乗っていなかった。私は若紫初姫。ここ、栄えある帰宅部の部長をしている。ふふ、よろしく頼むよ。“福井莉里”くん」
妖艶な笑み。また、僕の名前を――。
「何故、僕の名前を知っているのか、という顔だな。ふふふ、簡単だよ。その答えは実に単純にして明快だ。“私はここにいて全てをリアルタイムで識ることができる”――すなわち『安楽椅子探偵』だからね」
意味不明だった。あと、詳しくはないけれど、安楽椅子探偵はそういうことじゃないと思う。どうでもいいけど。
「奇怪な事を言ってないで、例の物をさっさと寄越せ。初姫」
あまりの事に突っ込めないでいると、直先輩が初姫先輩に向かって手を差し出した。
それを見た初姫先輩は、しばらくその小さな手を見つめて――やがて何かを思い付いたかのように手をぽんと叩く(古い)。
そして。
「んー」
キスした。
何が起こったのか分からないのは直先輩も同じだったのだろう。ばばっと手を引っ込め、目をぱちくりさせて初姫先輩を見る。
対して、初姫先輩は。
にへら。
そう、毒気のない笑みを浮かべるのだった。先ほどの妖艶な笑みが嘘であるかのような、笑みである。何だこの人。知的か妖艶か子供かどの人間だ。
なんて事を思っていると、直先輩が恐るべき速さで初姫先輩の後頭部を殴っていた。
衝撃でずれた眼鏡を直しながら初姫先輩。
「痛いな。何をするんだね」
「それはこっちの台詞だ! 何をする!」
「何だ何だ手にキスしたくらいで。あんなものは挨拶だろ。英国では日常茶飯事に行われていることだよ。まあ、ここは日本で、私は女で、ついでに言うと立派な犯罪なのだがね。ふふふ、しかしやはり若い女の子の手は美味しいな。何というか、そう、“秘蜜(秘密)”の味がする」
ただの変態キャラだった。いやはや、人は見かけによらないというが、あれ程真理な言葉はあるまい。
「っ~―――」
肝心の直先輩はというと、見事に耳まで真っ赤に染まって林檎のようだった。
――――
閑話休題。
あの後の直先輩と初姫先輩とのやり取りはとても言葉で言い表わせないので省略するとして、現在。
「ほら、これが頼まれていたものだよ。全く。君はもう少し女の子らしくした方がいいね。相手が私じゃなかったら死人が出ていたところだ」
言いながら、初姫先輩は直先輩へと書類のようなものを渡す。余談だが、女の子らしくというより、人間らしくの方が適している気がした。
「その言葉、そっくりそのまま返すよ。死ね」
そっくりも何も一刀両断だった。
でも、何ていうか、仲良いんだな、この二人。それは赤の他人であるところの僕、赤の他人であるからこその視点から見ても明らかだった。受け入れて、受け入れられて。信用して、信頼されて。いい事だと思う。羨ましいとは思わないけれど。
ていうか、そんないい話的なのは置いといて、何だかんだでまだ事情を聞いていない。何も。さすがにこのままでは色々と限界かと思うので、ここは敢えてKYに身をやつすことにする。
「あのー」
「ん、ああ、忘れていたな、お前のこと。心配するな。ちゃんと事情は説明するよ」
また遮られた。割と勇気を振り絞ったのに。何だこの扱い。
「さて、では行くか」
「たった今説明すると言ったばかりじゃないですか」
「行きながら、現実を踏まえながら説明する。何でも実体験を交えて身体にたたき込んだ方がいいに決まってるんだ」
そう言って一人で頷く直先輩に、僕は曖昧に頷くだけだった。元より、非力で平凡な僕には決定権はないのである。
「じゃあな、初姫。また、近い内に顔を見せるよ」
「君の近い内が一週間以内であった試しはないが、まあ、楽しみにしているよ」
初姫先輩はそう言って笑い、直先輩はきむすびを返して笑わなかった。けれど、さっさと僕の横を通り過ぎて部屋の出て行った直先輩が、優しい目をしていたのを僕だけが気付いていた。
「付いて行くのかい?」
自然と直先輩の後を追おうと足を踏み出した直後、呼び止められる。振り返ると、初姫先輩が優しく微笑んていた。
「私が言うのも何だが、無理して付いていく必要は無いと思うがね。教室から連れ出しておいて何をと君は言うかもしれないが、事実、彼女は一度も付いてこいとは言っていないだろう?」
僕は頷く。
「彼女が怖いか? 怖いから、付いて行く?」
どうだろう。僕は首を傾げた。
「では、何故君は彼女に付いて行こうとする? 不安がっているのなら、それは的外れだと言っておこう。ここで逃げても、直は君に対して何もしないよ。“君が、君である限りね”。それは私が保証しよう。そして――」
一転、初姫先輩のそれが優しい微笑みから妖艶な笑みに変わる。
「君が今抱いているありとあらゆる疑問に対しての答えは、“私が全て用意しよう”。手取り足取り、分かりやすく、まるで元来からある記憶の如く知識を、君に授けよう」
心地よい歌のように、誘惑するように言葉を紡ぎ、すっと、目を細める。
「結論を単的に言うなら、ここで君が直に付いていこうがいかまいが、“君の結末は何ら変わらない”ということだ」
「結末――」
「付いていく意味が、いや、理由もがないと言い換えてもいい。さあ、もう一度聞こう。君は、彼女に付いていくのかい?」
それは。
後に死の間際にあって、さながら走馬灯のように人生を振り返った際に、運命の分岐点であるかのような問い掛けに思えた。
実際、初姫先輩の言葉はもっともだったし、僕としてはこのまま全ての疑問を投げ出して日常に戻っても、何ら不満はなかった。あるはずも、なかった。全てを投げ出して、全てをなかったことにして、それで許されるというのなら、それを受け入れない理由はなかったはずだ。なのに。
僕は、頷いていた。
力強くも弱々しくもなく、直先輩に付いていくのが当たり前であるかのように、自然と、頷いていた。
「――理由を、訊いてもいいかい?」
対して。初姫先輩は妖艶な笑みをそのままに、口を開く。
――理由。そんなものは、僕が聞きたかった。正直、ほとんど無意識の内の問答だったからだ。
それでも。
それでも、敢えて答えるとしたら、それは――。
「そうですね、しいて言うなら"一目惚れでしょうか"」
「ほう」
眼鏡の奥にある初姫先輩の目が、更に細められた。
「僕という人間は――福井莉里という個人は、身代直という存在に"惚れてしまったんですよ"。どうしようもなく、どうする気にもなれないくらい盲目的に。だから付いていくんです。ほら、恋は盲目ってよく言うじゃないですか。僕はその言葉を"盲信している"んですよ」
言って、僕は笑っていた。口から出任せもいいところだったけれど、そしてその嘘にはこれっぽっちも意味は無かったけれど、おまけに何でそんな空言を並べたのか僕自身にも分からなかったけれど。
「ふふふ――あっはっはっはっはっは」
初姫先輩はそれすら見越すかのように、途端に声を出して笑いだすのだった。
そしてひとしきり笑った後、目頭に浮かんだ涙を拭おうともせずに「いやはや、やはり“聞いていた”通り、君は面白い人間だな。実に興味深い。自分というものがまるで無いようでいて、その実、自己を他人事のように突き放して捉えている。自己の客観視。自分は他人であって自己にあらず、客観視ならぬ『客観師』か。ふふふ。そんなことができる人間が、まさか本当にいるとはな」
いやはや、面白い。そうもう一度繰り返して初姫先輩は、改めて僕に向き直る。
「案外、直には君のような人間がふさわしいのかもしれないな」
「私ではなく、君のような人間が――」聞き取れないくらい、小さな呟き。――人は、笑っているときの方が寂しく見える。
茶化しているのか真面目なのかよくわからない初姫先輩の言葉に、肝心の僕はというと、
「まあ、"惚れてますから"」
やっぱり茶化しているのか真面目なのか曖昧に答えた。
さて。さすがにそろそろ追いかけないと直先輩を見失ってしまう。
会話が終わったような空気だったので、特に挨拶を掛けることなく部屋を出ていこうとした――のだが。
「莉里くん」
呼び止められる。二度目。振り返ると、初姫先輩は僕に向かって手を差し出していた。細くて色白な、綺麗な手。
「握手をしよう」
何故ですか。今度は僕がそう訊いた。
「何故かって? 君は面白いことを訊くね。友情の証に決まっているのだろう」
友情の証? 首を傾げる。誰と誰の。
「君と私の、だよ。他人の友達はただの他人だがね。友人の友達はまた友達だよ。だからほら、握手」
その理屈は露として理解できなかったけれど(そもそも友人は直先輩だとして、誰が友達だろう)、僕はあまり考えることなく初姫先輩の手をとった――その瞬間だった。
ぐいっ、と。身体を引っ張られる。驚くべきことに――あまり力がありそうに見えないのに――何の抵抗もできないくらい自然に、引き寄せられる。
あっという間に、初姫先輩の顔が眼前に。いつの間にか眼鏡が外されている。そう気付いたところで、何か柔らかいものが僕の唇に重ねられた。
「っ!? ――っ! な、なあ――!?」
永遠のような一瞬の後。解放されたかと思うと、僕は情けなくもすっとんきょうな声を上げていた。
何をされたか分からないと何でそんなことをされたか分からないという矛盾した思いが、頭の中をぐちゃぐちゃに駆け巡る。
「ふふふ、ご馳走様」
潤んだ自らの唇に人差し指を当てて初姫先輩は、妖しく、艶やかに微笑む。
「軽く嫉妬したからね。せめてもの八つ当たりとして、初めては奪わせてもらったよ。ふふふ。ふふふふふふ。しかしやはりいいね。初物は。品位も気位も何もかもが一級で特上だ」
どうして僕が初めてなんて知ってるんだよ。混乱した時ほどどうでもいい疑問が出てくるもので、けれどそんなことを訊く余裕なんてなくて。
だから。
「それでは、直のことをよろしく頼むよ。ああ、もちろん今の事は内緒だよ。直が知ったら、君はもちろん、私まで命の危険にさらされるからね」
そんな、悪戯の共用を持ちかけるような子どもっぽい笑みに、僕は、何も言えなかった。
別れ際。
「舌はまた今度だね」
そんな言葉もまた、冗談か冗句かは分からなかった。
――――
「この世界には、『ソピアー』と呼ばれる“忌能”がある」
旧図から大学校舎まで向かう道の途中。僕が追い付くなり直先輩は開口一番、そんなことを言った。何の前触れも脈絡も筋書きもなしに、である。どうやら“説明”するといったことに対する、説明に当たる言葉だったらしいが、いきなりそんなぶっ飛んだことを言われてもさっぱりだった。
「は、はあ……」
故に曖昧に頷くしかない僕には構わず、直先輩は続ける。
「存在するだけで忌みされ、存在を認識されるまでもなく忌避され、存在そのものが忌々しいくらいに馬鹿馬鹿しく荒唐無稽の力――それが忌能だ。まあ、口で言っても信じないだろうから、手っ取り早く示してやる」
直先輩が振り返り立ち止まる。そして、その大きな瞳でじっと僕を見上げて、
「お前、何でもいいから嘘を吐いてみろ」
唐突にそう言うのだった。
「嘘って……」
確か僕はそう遠くない昔、自分の名前を偽っただけでナイフを突き付けられた記憶があるのだが。
「心配するな。その……あの時はついカッとなったんだ。何の悪気もなく、そもそも意識すらなく無意識で嘘を吐くお前にですら悪いと思ってるよ。…………すまなかった」
最後の呟きはあまりにも小さ過ぎて聞き取れなかったけれど、どうやら今後は発言に気を遣う必要はないらしい。
それにしても嘘か……。趣旨が分からないにしろ、一応要望に応える気持ちになったのだが、いかんせん、いざ嘘を吐けと言われても困るものがある。"根が正直者の僕"だけに。
うーん……。
「"僕は天才である"」
「……お前な。それは嘘じゃなくてタチの悪い冗談だろう」
ひでえ。
「"僕の誕生日は三月九日だ"」
「『憶えていない』。――って、よりによって某電子歌姫の日を語るな。おこがましい」
某電子歌姫を知っていたのが驚きだった。
「"僕は小さい子が好きだ"」
「『初姫先輩みたいな色気たっぷりのお姉さん系が好きだ』。……死ね」
「"僕には友達がたくさんいる"」
「『友達と思っている人間は“一人もいない”』」
「"僕は自分が大好きだ"」
「『好きでも嫌いでもなく、無関心』」
次々と。直先輩は、僕の精一杯の嘘を見抜いていった。いや、それは最早言い当てていったと言っても過言ではないだろう。何せ、嘘の裏側にある本音みたいなものをことごとく、まさに言い当てていったのだ。わざと、例えそれが嘘であるとは分かっても、真実までは分からないような“もの”を並べてみたにも関わらず、だ。
なるほど、こいつはよろしくない。もしもそれが、“本人の自覚がない領域にも及ぶとしたら”――面白いことにはなるが。
「じゃあ最後。――"僕は直先輩の事が好きである"」
「『……――っ!?』」
ぽかん、と。頭頂部を殴られる。うーん残念。“今のところ僕が直先輩のことをどう思っている”か聞いてみたかったのに。
というか、何でわざわざジャンプしてまで頭を殴るんだろう。……プライド?
「こほん――とまあ、このように私には“相手の嘘を見抜く代わりに、自分は一切嘘を吐けない忌能”がある」
なるほど。確かに馬鹿馬鹿しいくらいに荒唐無稽な話だ。普通なら、そんなものを、信じろというのが無茶苦茶で滅茶苦茶な話だろう。そう、“普通なら”、だ。
「……信じられないだろうな。いきなりこんな事を言われても。事実、私が嘘を言えないなんてことを示すのは、“もう一人の私”でもいないかぎり不可能だ。だから、今すぐ信じろとは言わん。ただ、“そこにあるからそこにあるだけ”として受け入れてほしい。これも、大概無理矢理な話だが」
――“ただそこにあるからそこにあるだけ”。それは――僕が一番好きな言葉だった。
「いや、信じますよ」
「そうか。まあ仕方のない事だな。そう易々と信じ――る?」
「はい。信じます」
じっと。顔を覗き込まれる。どこまでも怪訝そうな、本来ならそれは僕がするのが正しいだろう疑わしい表情だった。
だから、僕はこんな言葉を続ける。
「僕は、嘘を吐いていますか?」
「いや――」
そう言われては分からざるを得ないのだろう。直先輩は押し黙ったように疑わしさを呑み込み、そして。
くるりと僕に背を向けて、
「“人を疑ったことなど久しぶりだな”。全く――お前は、不思議な人間だよ」
代わりに、そんなことを言った。
「平気で、正気で嘘を吐くくせに、人の言うことは簡単に信じる。本当に――不思議なやつだ」
繰り返す。
「お前のことは嫌いだが――」
また、繰り返す。
「悪くはない」
今直先輩はどんな表情をしているのだろうと、何故だか無性に気になった。もちろん気に掛けるだけで、確かめる勇気なんてものは僕にはないのだけれど。そこまで踏み込むエゴなんて、いらない。
「……世の中には二種類の人間がいてな」
直先輩が口を開く。何の脈絡もなしに哲学的なことを、言い始める。
「私と、それ以外の人間だ」
ただの自己チューだった。ある意味事実だけど。真実ではないにしろ。
「……間違えた。嘘が吐けない人間と、それ以外の人間だ」
言い方は違えど、意味は同じ。そしてニュアンスは違って聞こえた。
「お前は私ではないし、かと言ってそれ以外とまとめてしまうにはあまりにも――その、おかしい、気がする。お前は、私にとっていったい何なのだろうな……」
『他人だよ』。それ以下ではあっても、それ以外、ましてやそれ以上なんてあり得ない。
普段の僕だったら間違いなくそう言っていた。
けれど、何も言えない。それはもしかしたら、いつもの気まぐれだったかもしれないし、そしてそれ以上に、何かを言いたそうに僕の方を振り返り、けれど言葉をぐっと呑み込むように再び顔を背けた直先輩に何も言えなかったからだ。
これが……“嘘が吐けない”、か。
嘘が吐けないから、自分の気持ちを誤魔化せない。感情の整理がついていなくても、適当に取り繕うことができない。そして何より――“言いたくないことは口を閉ざすしかない”。
だからこその――『入学してから一度も口を開いたことない』――噂。だからこその沈黙、か。
正直、嘘が吐けない人間なんてのが社会に適応できるなんて、僕はそんな虫のいいことは例え命を脅されても思えない。思いたくもない。そんなものは信仰にすらなれない、それこそただの徒言だ。
その忌能とやらがいつのことからなんて僕は知らないけど。もしもそれが幼い、まだ社会なんてものを認識してすらいない時期からだとしたら? 直先輩がどんな人生を送ってきたか、想像もできない。想像すらできないからこそ、それが決して正常なものとは程遠いことが、容易に理解できた。
直先輩の小さな背中。
一体、そこにどれだけのものがのしかかっているというのだろうか。背負うのではなく、理不尽に、不条理に、のしかかった。
……ちょっとだけ、感情移入。“似たような境遇”なんてものは、それこそどこにでも転がっているものだ。僕は、同族ではなく“同属”にしか傾倒しない。つまりは、この無駄に広い世界の無駄にたくさんいる人達の中には、僕なんかでも仲良しになれる人間がいるというわけで。いやはや、夢の広がる話だった。
さて、そんな叶わないものの話はどうでもいいとして、残された問題は――残されたもなにもまだ何一つ問題は解決していないのだが――“昨日のあれ”と“何故僕を教室から連れ出したか”、だ。直先輩に忌能、ソピアーとやらがあったところで、人を殺す理由にはならないし、僕を連れ出す理由にはならない。
後者は僕の事だからどうでもいいとして、前者ははっきりさせておきたいな。何ていうか、今後の為にも。
…………。
べ、別に人を殺すのが好きで好きでたまらないとかじゃないんだからねっ! そこに理由はあっても理屈なんてないんだから! 勘違いしないでよねっ!
みたいな感じだったら、単純でいいんだけどなあ……。
それにしても、いいなあ、ツンデレ。可愛さ云々より素直じゃないとか語るに落ちるって点に共感が持てる。
もしこの先。
何かの間違いで直先輩と仲良くなるなんてことがあったら、あのツンツンした声でやってもらおうかな――ああでも彼女、嘘が吐けないから無理なのか……その場合だと、ナオデレ? ……それじゃあただのデレデレだ――なんて、何気なく思った、その時だった。
にゃあ。
そんな、可愛らしい鳴き声と共に、道の脇にある植木の中から猫が飛び出してきた。そのまま道を横切っていくかと思いきや、真ん中で立ち――座り込み、何かを伺うようにこちらを見てくる。じっと。つぶらな瞳を最大限に活用して、見つめてくる。何かを、貰えるとでも思っているのだろうか。
それは悪くない考えだと思うけど、あいにく今の僕には手持ちがない。本当に、何の掛け値も偽りもなく心の底から残念だった。
見たところ、猫はまだ小さい。さあ今から大きくなるぞ、みたいな感じ。白い体毛に、黒のラインが入った斑模様。どこかで見た事のあるその模様に、はて、僕はどこでそれを見たのだろうと首を傾げる。と、同時に。僕の前を歩いていた直先輩の姿がいつの間にか消えていることに気付いた。
「な、何してるんですか?」
直先輩の居場所はすぐに分かった。というより、伝わってきた。
背後。
腰より少し上辺りから伝わる、シャツを握られている二つ感触。それが直先輩のものであることは一目瞭然――二触瞭然なのだけれど、いやいや、問題はそんなことではなくて――震えて、いる? 僕のシャツを握る手が、まるで年頃の少女のように、かたかたと、わなわなと、震えて、いる、だと――?
「あ、あの! 直先輩……?」
再度呼び掛ける。何かの間違いを確認する為に、あるいは正す為に。
「――――」
返ってきた声は、あまりに小さくて、全然聞き取れなかった。
「え、と――」
困るなあ、こういうの。そうでなくても僕ほど人付き合いが苦手な人間もいないというのに。
「――――いんだ」
「え?」
「だから……猫が、その……怖いんだ」
「へ?」
今度は、聞こえていたからこその、聞き返しだった。
「何度も言わせるな……私は猫が怖いんだ……だから……」
ぎゅっと。より背中の感触がきつくなる。
「追い払え……」
それは命令にしてはあまりにも弱々しく、お願いにしては強さが足りず――もはや懇願だった。
そんなことをされては、僕がどんな人間なのかなんて完膚なきまでに関係なく、言う通りにするしかないだろう。いや、喜び勇んで従うべきだ。
16歳。性別雄。福井莉里。今だけは喜劇のヒーローよろしく、可愛い可愛い仔猫を追い払う憎まれ役を甘んじて買って出る――!
まあ、猫はもういなかったわけだけど。
「あのー、直先輩? もう猫、いませんよ」
恐る恐るといった具合に、声をかける。この場合何を恐れていたかは分からないけれど。
「……そうか」
ぱっと。背中の手が離されたのが分かる。
「では行こう」
すたすたと何事もなかっかのように歩き出す直先輩。なるほど、突っ込みはなしか。オーケー了解した。僕としてもあまり人の弱みにつけこむなんて、まるで詐欺師みたいな真似したくはない。……しないだけで、他人の弱点は絶対に忘れないけれども。
「ところで、僕達はいったいどこへ向かってるんですか?」
離れた距離を小走りに詰め、直先輩の背中に問い掛ける。
「言っただろ。何を教えるにしても、実体験を踏まえて身体に叩き込んだ方がいいに決まってるんだ。つまり――」
つまりは。
「“殺しに行くんだよ”。人間でも化物でも虚構でも鬼でもない問答無用の“忌常現象”――『イド』をな」
“イド狩り”だ。
そう言い捨てて、直先輩は更に足を速めた。