第一章 弐・友達二人
翌日。
いつも通りにいつもの事をこなし、いつも変わらない朝の教室で、僕はいつもの予習をしていた。
科目は英語。数学。現国。古典。その他全般。到底終わる量ではないそれらも、一応形だけでもやっておくのが僕の日課だった。そもそもこの未塾学園は、毎回予習をこなす程の勤勉さは求められず、かと言って授業を聞き流すような惰性さは認められていない(もちろん個人差はあるけれども)。その程度のレベルなのだ。
では何故。そんな必要の無いことを毎日繰り返しているのか。それも、学校で。その理由は単に勉強しているふりをしていれば、周りの人間が話し掛けにくいだろうというものだったが、進学新クラスから一週間、既に『あまり喋らない人間』として認識されつつあるので、この行為にあまり意味は無かった。
さて。あまり意味が無いと自覚したところで、思考を先日の出来事――というより一方的に目撃した光景へと移行することにする。
と言っても特段考えられる事などあるわけはなく、焦点はもっぱら、“あれ”をどのようにして捉えるかどうかだ。実を言うと、あの時の事はよく覚えていない。放課後、これまたいつも通り病院へ妹を見舞いに行き、その帰り、公園に入ってから自宅に着くまでの間がどうもはっきりしないのだ。
ただ――何故か“あの光景”だけは頭に焼き付いている。まるで古くから頭に根付くある思い出のように遠く、それでいてデジカメで覗く写真よりも鮮明に。あの光景が、あの少女の姿が、ついさっき見たばかりのように思い出せる。
……何故だろう。
「………」
分からないをそのままに、考えるのがめんどくさくなってきた。
確認したけれど今朝のニュースでは何もやってなかった以上、あれは何かの間違いなのかもしれない。
なんて。思ってもいない結論を出したところで僕は、思考を投げ出した。
基本、僕は考え事に向いている人間ではないのである。頭のネジなんかさび切って回転悪いし、無理に回転させようとするとポッキリ折れてしまう可能性がある。
全く。即断即言、瞬時に思考という思考を回転させ、ありとあらゆる場面に言葉を対応させる、嘘吐き、ひいてはペテン師なんて人種には尊敬さえも覚えてしまう。僕にはとてもじゃないが真似できない。したいとも思わないけれども。
何気なく時計を見る。いつもの日常で、早寝早起き早登校を心掛けているかいもあって、ホームルームまではまだたっぷり時間があった。
眠ろう。
そう、思って、カバンの、中から、持ち運び用の、枕を、取り出そうと、した、その時である。
「おっはよー!」
後ろから聞こえた高い声。物凄い勢いで背中を叩かれたかと思うと、次の瞬間には空いている前の席に彼女が陣取っていた。
「もう一つついでにおはようなのだよ、『りり』君! 朝から元気ないねー、どしたの?」
「りり君言うな。後、普通は朝だから元気ないんだよ」
「えー、そんな事ないよお。朝は一日の始まり。始まりは元気に! 終わりはしおらしく! それが私! かがみちゃんの主義でありあいでんてぃてぃーだよ!」
「いや、自分で自分の主義だって言っちゃってるし、昔の人は主義を竜頭蛇尾と言って揶揄した」
「りゅ、りゅとおー……何? いきなり難しいこと言わないでよー」
「…………」
めんどくさくなってきた。
『あっちに行ってくれ』という思いと共に、視線を送るが、普通に笑顔で答えられた。諦めた。
一応説明しておくと、彼女は鏡味鏡。誰が呼んだか、かがみ、というのは彼女の愛称で、本人は気に入ってるっぽい。その元ネタはもちろん、某非国民的萌漫画に登場する人物だが、ただ単に苗字で呼ばれている事に、本人だけが気付いていない。
性格はお聞きというか見ての通り、よく言って頭の弱い、悪く言って頭の悪い、絶対に天真爛漫とは表したくない人間。
髪型はマニア向けツインテール(でも背が高いので全然ロリっぽくない。ガッデム)。ほんの少し、色抜き程度に染められた髪は逆に健康的で、鏡味鏡という人物を表すには一躍買っている。
そして何よりも――
「おい、かがみちゃん」
「んあ? 何なに? りり君の方から話し掛けてくるなんて頭大丈夫? 熱でもあるの? あっ、だから元気無いのか」
今日の彼女は何故か、学園指定のブラウスの下に、派手なTシャツを身に付けていた。墨で塗り潰したような下地に、悪ふざけのようにでかでかとプリントされた髑髏。他が普通なだけに余計目立つ。
「昨日は何観たんだ?」
「何か不良が一杯殺し合いするやつ」
「あー、なるほどなあ……」
だから髑髏か。かがみちゃんの目には不良さん達がそう見えたわけか……。
…………。
「謝れ! 不良という逆境的立場を誇りに変える勇者達に謝れ!」
「うわっ、いきなりどうしたのりり君」
鏡味鏡。所属、演劇部。趣味、影響を受けた人物の演技をすること。本来ならただの子ども、ただの馬鹿として下手したら隔離されないはずの性格もしかし、かがみちゃんの人物像の前ではむしろプラスになる。迫害ではなく隔離。性格ではなく人物像。結局、皆何だかんだで光が欲しいのだ。大なり小なり後ろ暗い自分を薄めてくれる、光が。最も客観的に達観してみたところで、それは僕も同じなのだろうけど。
「ところで、りり君。ホントに元気ないね。いつもは元気ないふりしてるだけなのに。昨日何かあったの?」
鋭い。不自然に。そしてそれを真面目な顔でも素ででもなくて、何でもないことのように聞いてくるから余計たちが悪い。
「"別に、いつも通りだったよ"。妹の見舞い行って、"その後は家でずっとゲームしてた。夜中まで。だから寝不足なんだ"」
「あははは、りり君。それじゃあ中学生だよ。――ん? 妹? あれ、りり君この前"弟"が入院してるって言ってなかったっけ?」
「えっ、そんなこと言った?」
「言ったよー」
「ああ、ごめん。じゃあそれ嘘だ。僕にいるのは妹だけだよ」
「ふうん」
言って。かがみちゃんは椅子の背もたれから身を乗り出して、僕の机に肘をつく。
「りり君てさー。あんまり取り繕わないよね」
「え?」
「何て言うかなー。すぐ嘘を認めちゃうって言うか、“嘘にこだわりが無い”と言うか」
「嘘にこだわりなんて持ち始めたらそいつはいいペテン師になれるよ」
「んー、そういうことじゃないんだけどなー…………。ま、いっか」
いいのかよ。お前はもうちょっと自分の言葉に責任を持て。
「それより、もうそろそろ向こうに行ってくれないかな。お前がそこにいると、愛すべき友人達が僕に話し掛けにくいだろ」
「またまたー、りり君友達なんて二人しかいないくせにー」
「……全く全然いっさいこれっぽっちも覚えがないから逆に訊きたいんだけど、誰? その『この人間はフィクションです。実際の人物とは一切関係ありません』みたいな二人は」
「私」
言い切りやがった。
「と、このわたしね」
タイミングよく横から割り込んできたその声に、既に誰であるかは予測できたものの、振り返る。
有象無象にごった返す教室の中において、明らかに別格とも言える存在がそこに立っていた。
それは例えば外見。毛先が綺麗に整った長髪。すらりと伸びる痩身。精巧な顔付きには化粧無し。例えば雰囲気。年相応に柔軟で、年以上に柔らかい。どんな人間が相手でも、瞬時にその人間に適した雰囲気へと適応する。例えば学力。例えば身体能力。普通に普通を下し、決して頂点には手を伸ばさない。
極端にどこかが飛び出ているのではない。普通に、全てが抜き出ている。他より。普通より。男も女もいっしょくたに掻き混ぜて、僕を含めた有象無象の全てより、人間一つ分先を行っている。だからこそできる“適応”。
――糸色調。
それが彼女。
畏れ多くも僕の友人に名乗りを挙げた、問答無用のノンフィクションだ。
「おっはー、しらちゃん」
「おっはー、かがみ」
と。普通に、僕の目の前で挨拶が交わされる。そして調ちゃんはそのまま右隣の席へ。因みに、僕の席は教室の一番後ろの一番隅、一番窓際。かがみちゃんが前、そして調ちゃんが僕の隣だ。
「それにしても酷い話ね。わたしはりり君のことを友達だと思っていたのに、それが一方的なものだったなんて……」
「その上フィクションときやしたぜ。どうしやす? 姉貴」
「そうね。では、恒例のアレをやりましょう」
「合点だ!」
その掛け声をきっかけに、二人は、素早く、一斉に、立ち上がった。
「まずは私! 演劇部今期エース! 大根役者とは言わせない! 誰が呼んだか《大根切りの役者》こと鏡味鏡!」
ばーん、という効果音がそれに続き(もちろんかがみちゃんが口で言った)、本人は調ちゃんの方へ片手を伸ばす。
「次点、未塾学園陸上部副主将。女のわたしを誰がそう呼んだ。《平走の貴公子》こと糸色調」
流れるような動作で調ちゃんの手が、かがみちゃんの手と重なる。
『二人揃って――』
声が重なる。まるでシンメトリーのモニュメントのように、同じ動きで二人は空いた手を僕へと向け、
『“自称”友達はいない福井莉里君のお友達だ!』
何かが、僕の中で崩れたような気がした。教室からはこの愚行に対し、ぱらぱらと拍手が起こる。かがみちゃんの突拍子のない奇行はもとより、彼女と付き合うようになってから始まった(色々な意味で)調ちゃんもクラス中の知るところだった。寛容過ぎる皆は、僕たちにとても暖かな視線を送ってくる。
……どうしよう。滅茶苦茶恥ずかしい。主に僕が。被害者であるはずの僕が! 何でいつもいつもこうなるんだ!
頭を抱えて悶える。なおも決めポーズのままの二人から目を逸らすようにして、何気なく視線を窓の外にやった。
と。
その時である。
視界に“とんでもないもの”が飛び込んできたのは。
高等部校舎に平行するようにして、東から西へ大きく伸びる道。始点は東門から終着は西門まで。総面積四キロ四方とい莫大な規模を誇る未塾学園においても、比較的大きな部類に入るであろうその道を、普通の生徒達に混じって一人の少女が歩いていた。当たり前のように。堂々と。けれど不遜に。そこが自分の居場所ではないと主張するかのように。実際、心無しかすれ違う教師や生徒は、どこか遠巻きだ。
目を疑う。同時に自分を疑い、頭を疑い、そしてようやく“あの光景”と現実を認識して、僕は、慌てて身を乗り出していた。
「――調ちゃん」
「!? りり君が、わたしに、話し、掛けて、きた……?」
大袈裟に驚愕する調ちゃんに構う余裕もなく、僕は少女から目を離せない。
「外――あそこを歩いてるあの娘、知ってる?」
それはほぼ無意識からだった。意識の混濁と言ってもいい。
調ちゃんが知っているはずはないと分かりつつも、訊かずにはいられなかった。
そう。あの少女は――あの光景の中に登場する彼女だ。血。血まみれ。ナイフ。何故――そんなやつが学園にいる? しかも、制服を着て。僕達と同じ、高等部の制服に身を包んでいるんだ――?
「ああ、あれ身代先輩じゃない」
「は――? 先、輩?」
「うん。身代直先輩。男の子みたいな名前よね。あ、それはりり――莉里君も一緒か。女の子みたいな名前」
「いやいや、そうじゃなくて――え――? 先輩?」
あんなに小さいのに? そういえば校章が赤い――じゃなくて、あの殺人鬼が、先輩、つまり僕達と同じ学園にいる……? 何の冗談、いや、フィクションだよ、それ。
「えー、ていうかりり君、身代先輩のこと知らないの?」
と、かがみちゃん。
まるで知らないことが非常識であるかのような口振りだ。まるでも何も実際そうなのだろうけど。
「未塾学園第二高等部三年十一組。スリーサイズ不明推定身長145センチ推定体重37.3キログラム。誕生日2月29日のAB型。見た目に反しかなり燃費が悪いらしく、昼食はいつも持参した大量の食糧を『雷桜』の下で食べている。容姿端麗、才色兼備、文武両道、沈魚落雁、閉月羞花。絶対的に絶大な、圧倒的に周囲を圧倒する“存在”にも関わらず、“入学してから一度も口を開いたことがない”――という噂」
「……詳しいな」
不自然――いや、不気味に。
「まあ導入は私の趣味だとしても、本筋は有名過ぎるからねー……ていうか、本当に知らなかったの?」
「人を天然記念物みたいな目で見るのは止めてほしい」
「そうよね。貴重で希少な天然記念物様に失礼だわ」
待ってましたとばかりに調ちゃんが割り込んできた。……本当に僕のこと友達と思ってんの?
それにしても。
本当に、存在したのか。こんな間近に。こんな身近に。日常の界隈に。という事はやっぱり――頭のどこかでは分かり切っていたことだが――昨日の出来事は現実だったということだろう。堅実で確実に、現実。そして、僕は“偶然”とはいえ、殺人現場を目撃してしまった。“犯人”を目撃してしまった。ということは近い先、必ずなんらかのアプローチがあるだろう。
と。何気なくそれが何でもないことのように気構えた――その時。
がらりと。
静かに、教室の扉が開いた。朝のホームルーム前という時間帯において、当たり前のその音が耳に、意識に入ってきたのは、たぶん、偶然じゃない。はたして、振り向いた僕の真正面、教室の後ろ入り口、そこには、ついさっきまで外を歩いていた――殺人鬼が立っていた。
――――
拉致られた。
今僕が置かれている状況を、酷く客観的に、他人事のように分析するとそうなる。
あの後。殺人鬼――身代先輩とやらは、遠慮なく教室に足を踏み入れ、そして迷うことなく僕の手を取って今来た道を真っ直ぐ引き返した。そのあまりにも迷いのない動きに、脈絡も何もない行動に、僕はもちろん、かがみちゃんと調ちゃんの二人も反応できなかった。そのまま、川の流れの如く動きで無理矢理歩かされ――そして今。外だ。第一高等部校舎から、メインストリートからニ、三脇道に逸れ、南へ。かつての旧校舎があった方面を、僕“たち”は歩いていた。
見栄えのする、赤レンガの道。右脇には背の高い広葉樹や電灯が立ち並び、左手には何らかの建物(未塾学園では常にあちこちで増改築が繰り返されているので、正直把握仕切れない)が続いている。
別に拘束されているわけでもないのだが、隣を殺人鬼が並んで歩いているとなると、それは縛られているのも同然の事だと思う。主に心が。心に基づく、肉体が。蛇に捕捉されたカエルのように。敵の存在に感付きながらも、何をされているわけでもないのに、本能的に逃げられない。そんな感じ。
少女の横顔からは一切の情報が読み取れない。無表情だ。でも何故だろう。僕にはその無表情が、とても偽物のように見えるのは――。
僕たちは歩き続ける。黙々と。淡々と。平行する形でありながら、小さな殺人鬼に連れられる形で、歩き続ける。向かう先は――考えたくもない。
だから別の事を考えることにした。
入学してから一度も喋ったことがない、か。
やはりかがみちゃんから得た情報の中で、唯一思考に値するといったらそれだろう。二校(第二高等部)ということは、編入生だろう。つまりは、純然たる学力があって、確固たる実力を伴って未塾学園の入学試験をクリアした猛者――とまあ、そんなものはかがみちゃんの情報から十分過ぎるくらい予測できるし、今は関係ない。本当のつまりは、高等部からの編入――少なくとも二年弱は口を開いたことがないということになる。
本当だろうか、と素直に疑っておく。どんなに無口でも、例えどれだけ他人との接触を拒んでも、ここは教育機関だ。端から、集団を意識されて作られた、集団。小さな小さな、けれど紛れもない社会。普段から“極めて意識的な無意識”の内に他人との接触を制限している僕でさえ、先の二人を例に出すまでもなく、喋らなくて過ごせることなどあり得ない。あるとすればそれは――隔離か。迫害でも虐待でも苛めでもなく、隔離。意識的にしろ無意識的にしろ、生徒はおろか教員に至るまで、他人に“関わりたくない”と思わせる何かが、この少女にはあるのだろうか。
と。そこまで思考したところで――
「お前、名前は?」
声が、聞こえた。
一瞬、それが誰のものか分からなくなる。だってそれは、僕が今まで頭の中で繰り広げていた情報を、一瞬にして消し飛ばすものだったのだから――。
「……聞こえなかったのか、聞こえなかったふりをしているのかどっちだ? いや、そんなことはどうでもいい。もう一度訊くぞ。お前、名前は?」
それは、少女の声だった。見た目通り綺麗な、それでいて割れたガラスの破片のように尖った声。
二年間、一度も喋ったことのないとされる少女はしかし、あっさりと、当然のように口を開いた。
驚き。驚愕とまではいかずとも、対応が遅れるくらいには驚く。
「…………"前蠣尚孝"」
少女の問いに答えられたのは、数秒を経てからだった。答えて、自分は何故嘘を吐いたのだろうと首を傾げることになる。
しかし。
「『福井莉里』、か。ふん――」
唐突。少女が振り返ったかと思うと、次の瞬間には手が伸びてきていた。迫りくるその手から逃れるようにして、ほぼ反射的に、後退る。といってもそれは咄嗟にとった行動としては最悪で、すぐに僕の身体はすぐ横にあった建物の外壁に受け止められてしまった。
まるでタイミングを合わせたかのように、わざとそうしたかのように、後からやってきた少女の“手が光る”。そして気が付くと、眼前、まさに目と鼻の先に“それ”は突き付けられていた。
ナイフだった。
昨日の夜見たあれらよりも、ずっと大振りな、ずっと毒々しいデザインの、ナイフ。ギザギザ。ザクザク。それは少女の体躯には明らかに不似合いで、だからこそ“そういった事”におよそ関わり合いの無い僕でも、彼女の圧倒的な敵意と殺意に、気付けた。
「何よりも先んじて教えてやるが、私の一番嫌いなものは『意味の無い嘘』だ。中身のない、くだらない戯言。虫酸が走って、反吐が出る」
少女の顔が、近づく。ナイフよりも尖った目付きで、僕を、睨みつける。竦み上がるような、眼光。
いや、それよりも。
何故この少女は僕の言った名前が、嘘だと分かったんだ。事前に調べていたのだろうか。昨日の今日で? 目立たないことこの上ない、そういう立ち振舞いを常日頃から心掛けている僕の名前を? もちろん、不可能ではないだろう。このご時世だ。人など介さなくても、情報を得る手段などいくらでもある。
でも、違う気がした。
理由も理屈も根拠もないただの勘だけれど、少女にはきっとそんなもの必要ない。そう、思った。
「死にたくなければ、“今後”私の前でくだらない嘘は吐かないことだ」
言って。少女はナイフを引っ込める。そして何事もなかったように、再び歩きだす。
僕は少女の小さな背中をしばらく眺めながら。
今後、ねえ……。
どうやらしばらくは口封じをするつもりは無いらしい。あくまで僕がくだらない嘘とやらを吐かなければ、という話だが。
「さて――」
どうやら僕の中で逃げ出すなんて事はとっくに諦められているらしく、大人しく少女に付いて行こうとして――そこでふと、思い当たる。
「名前――君の名前は、何?」
調ちゃんに聞いて知っていたが、僕は訊いた。何となく、彼女自身の口から聞いておきたかったのだ。
少女が立ち止まる。
そして、振り返ることなく、
「――身代直だ」
直先輩は、そう言った。