顔のない森
最後の問題の答えを書き終え、私はそっとノートを閉じた。
背筋を伸ばし大きく伸びをすると、口が開き、欠伸が漏れる。
その拍子に、視線が揺れた。
少し離れたテーブルに、私と同じくらいの年頃の女の子が座っている。
……可愛い。
まるで、女優さんみたい。
彼女は椅子に腰かけ、タブレットを前に画面を見つめていた。
ここは、私の通う学校から歩いてニ十分ほどの場所にある、ショッピングモールのフードコート。
放課後、私はここで、一週間後に控えた期末試験の勉強をしていた。
もう一度欠伸をして、涙でにじんだ目をこすりながら、改めて彼女を見る。
見覚えのない制服だった。
どこの学校だろう?
この町はそれほど大きくはない。見かける制服の数なんてたかが知れてる。
私が知らないはずがない。
部活の交流でよその町から来ているのだろうか。
でも、一人だけというのもなんだか妙だ。
アルバイトの帰り――にしては、様子が違う。
彼女はさっきから、私と同じように、いや、それ以上に、タブレットを食い入るように見つめている。
とてもそんな風には見えない。
あっ、塾かな?
いや、この町に、わざわざ遠くから通ってくるような有名なところはないし。
考えあぐねていると、彼女がほんの一瞬だけ笑ったように見えた。
面白い動画でも見ているのだろうか。
……まあ、いいか。
そんなこと。
スマホに目を落とすと、時刻はすでに午後六時を過ぎている。
そろそろ帰ろう。そう思って立ち上がろうとして、フードコートの一角にあるアイスクリーム店が視界に入った。
勉強、頑張ったし。
ご褒美くらい、いいよね。
疲れた脳には甘いものがいいって言うし。
そう思いかけて、私は小さく首を振った。
――そうだ。
ここへ来る途中、公園で退屈そうにしていた黒猫のことを思い出した。
あの猫ちゃん、まだいるだろうか。
猫の好きなおやつでも買っていってあげよう。
もしもういなかったら、クラスで猫を飼っている子にあげればいいし。
そう決めると、私はノートとタブレットを鞄にしまい、静かに席を立った。
* * *
チッ。
舌打ちと同時に、俺はマウスホイールを回し、画面を下へとスクロールさせた。
「……はずれか」
低く呟く。
画面いっぱいに並ぶ、たくさんの顔。
似ているが、違う。違うが、似ている。
誤検出で拾われた顔写真と、その中に混じる、目的の少女――デビューしたばかりの彼女の自撮りや、宣材用のグラビア写真。
いましがた俺は、そのアイドルの顔写真を自作の顔検索アプリに登録し、解析にかけていた。
だが、期待していた結果は、どこにも見当たらない。
写真の右下に表示される数字。
それを囲む枠の色。
どれを見ても、俺が望む結果は返ってきていない。
もう一度、軽く舌打ちをした。
どうやら、このアイドルの卵からは、何も出なかったらしい。
本当に存在しないのか。
事務所が徹底的に消したのか。
それとも――俺のアプリが甘いのか。
いや、そんなはずはない。
俺は高専で学び、大学でも情報工学を専攻した。
アプリの開発には自信がある。
これが見落とすはずがない。
俺が作ったこのアプリは、登録した顔写真を複数の顔検索サービスに投げ、ヒットした投稿を拾い上げる。
そこから、フォローした人間、シェアした人間、いいねを押した人間を辿って、表に出ていない“別の顔”を持つアカウントを炙り出す。
俺はそうやって、何人ものアイドルの“裏の顔”を見つけてきた。
そして、ばらまき、炎上させる。
当然、向こうからの反応もあった。
「情報が誤っている」と声明を出せと迫ってくる事務所。
金の話を、遠回しに持ち出してくる連中。
中には、本人が直接、思わせぶりなメッセージを送ってきたこともある。
だが、俺はそれを全て無視した。
接触すれば身元が割れ、身に危険が及ぶかもしれない。
それに――これは正義だ。金のためじゃない。
男と手も繋いだことがない、とでも言いたげな純情そうな顔で、男たちに笑顔を振りまき、金を吸い上げる。
その一方で、彼氏と抱き合った写真を平然とSNSに載せ、酒を飲んでいる様子まで投稿する。
そんな彼女たちを、俺は許せない。
私怨じゃない。これは社会を正すための行為なのだ。
そう自分に言い聞かせながら、再び検出結果をなぞる。
この新人アイドルには、そういった写真はないのだろう。
諦めて次のターゲットを探そうとした、その瞬間。
一枚の写真に、ふと目が留まり、俺の指の動きが止まった。
画面右下。
無数に並ぶカラー写真の中で、その一枚だけが白黒だった。
モノクロームというより、カラー写真が普及する以前に撮られた――そんな古い写真に見える。
写っている女性の顔は不鮮明だ。
だが、よく目を凝らすと――このアイドルに、どこか似ている。
俺は興味をそそられ、その写真をクリックした。
画面が切り替わり、写真が掲載されているページが表示される。
SNSではない。一目で個人が作ったとわかる、簡素なホームページ。
どうやら、制作者が暮らす地域の古い写真を集め、紹介しているらしい。
縦に並べられただけの写真。
その下に添えられた、短い説明文。
神社の祭りの様子。
村役場の完成を記念した一枚。
村人たちの集合写真。
炭焼きの作業風景。
峠を越えていく人々。
どれも、時間の重みを宿した白黒写真ばかりだ。
その中の一枚に、検出された女性が写っている写真があった。
大勢の男たちに囲まれるようにして、その女性が立っている。
説明文を読む。
――東亜帝国大学考古学術調査団、当地入域す。
おそらく、書かれている調査団がこの地を訪れた際、記念として撮られた一枚なのだろう。
だが――何十年も前と思われる写真だ。
このアイドルが、写り込んでいるはずがない。
顔検索サービスの誤検出だろう。
そう考え、ページを閉じようとして――俺は、手を止めた。
東亜帝国大学――。
たしか、高専時代、クラスで一番頭のいい奴が進学した大学の、昔の名称だったはずだ。
少しだけ、好奇心が疼いた。
どうせ、何も見つからない。
そう思いながらも、俺はその写真をPCに保存し解析させた。
アプリが写真の中の人物の顔を検出し、次々と枠で囲っていく。
やがて、結果が一覧に表示され始めた。
思った通り、件数は少ない。
検出される顔も、外国人だったりと、誤検出だとすぐにわかる。
ただ、その中に――あのアイドルの自撮り写真が、数枚、混じっていた。
「……ほう」
顔検索サービスの精度の高さに感心していた、そのとき。
俺の視線が、別の一点に釘付けになった。
検出結果の中に、男の顔が写った写真がある。
これも白黒だ。
そして、この顔――かすかに、見覚えがあった。
……こんな奴いたな。
そう思いながら、元の写真を拡大し、一人一人の顔を確認していく。
すると、周りと雰囲気の異なる男たちが、数名、紛れ込んでいた。
おそらく、彼らが東亜帝国大学考古学術調査団のメンバーなのだろう。
そして、その中の一人。
今しがた検出された男と、よく似た人物が――確かに、そこに立っていた。
俺は、すぐに検出された男の写真をクリックし、掲載されているページを開いた。
「裏国伝説について」
Wiki形式で作られたページのタイトルには、そう書かれてあった。
裏国伝説?
なんだそれ。聞いたこともない。
このページも、個人が作成したものに違いない。文章や構成からして明らかだ。
内容にざっと目を通す。
大昔、現在のN県T町付近に、大和の朝廷に従わず、独立国家のように振る舞っていた勢力が存在したという。
その国は鉱物資源に恵まれ、交易によって大いに繁栄した。
富は強力な軍を生み、朝廷は幾度となく討伐軍を差し向けたが、容易には制圧ができなかった。
だが、度重なる戦いの末、ついに彼らは敗れ、自分たちの都を捨て、山中へと逃れた。そして、そこに新たな都を築いた。
しかし、大和朝廷の影響力が強まると、次第に勢力は衰え、都もまた廃れて、歴史の表舞台から姿を消した――。
それでも彼らは、いつか再興する日を信じ、財宝を山中に隠したという。
この言い伝えが、後に「裏国伝説」と呼ばれるようになったとある。
以後、平家の落人や維新志士が軍資金を求めて山に入った――
そんな財宝伝説の断片が、近代に至るまで散発的に書かれてあった。
そしてページの最後に、一人の人物紹介があった。
椅子に座った白黒写真。
いまクリックした、あの男だ。
古文書を調査し、この伝説について論文を書いた人物。
――東亜帝国大学の教授。
学術調査当時と比べると、かなり年を重ねた印象だ。
次のページには、古文書の一部を写した写真が掲載されていた。
本文は、俺にはまったく読めない。
だが、古文書の左端に、俺でもわかる漢字が一文字ずつ並んでいた。
その配置は、北斗七星によく似ている。
さらに、北極星の位置にあたる所には、「龍」に似た、絵のような文字が描かれてあった。
いつの間にか俺は画面に身を乗り出していた。
思考はこの沼に深く沈み、脳裏では、連想の記憶が次々と掘り起こされていく。
古い日本には中国思想が流れ込み、北斗七星や北極星は特別な意味を持っていた――そんな話を、漫画で読んだ覚えがある。
昔見たバラエティ番組で、こういった図形が財宝の在処を示している、と言っていた気がする。
確認できる漢字は――
大、天、土、子、人、国、宮。
そして、龍。
となると、やはり怪しいのは、この「龍」の位置だ。
ここが、財宝が隠されている場所か。いや、山中の都があった所かもしれない。
――待てよ。
あの大学教授の顔が浮かぶ。
こいつ、論文を書いていただけなのか?
実は財宝を探していたんじゃないのか。
だとしたら、すでに発見されている?
だが、Wikiには、そんな記述はどこにもない。
「裏国伝説」で検索しても、ヒットはゼロ。
独立国があったとされるN県やT町で調べても、財宝どころか、遺跡の記録すら見当たらない。
何かが見つかっていれば、必ず痕跡は残る。
だが、何もない。
まだ発見されていないのか。
それとも、この国自体が、ただの伝説だったのか。
あるいは――
教授が見つけて、独り占めした?
いや、学者である以上、財宝をこっそり隠したとしても、遺跡の発見くらいは公表するはずだ。
だが、この教授の名前で検索しても、何も出てこない。
おそらく、何も残せず、学者人生を終えたのだろう。
となると――。
もし、この国が実在したのなら。
都の遺跡はまだ見つかっていない。
そして財宝は、その都の近く。そう考えてもおかしくない。
だが、どこだ?
地図で見るT町は範囲こそ広いが、町そのものはさほど大きくはない。
大半は人の立ち入らない山間部で、画面に映るのは、うっそうとした森ばかりだ。
ところどころに林道らしき線が走っているが、この中に、はるか昔の都が、誰にも気づかれず埋もれていたとしても――不思議ではない。
だが、それを見つけるのは至難の業だ。
――そうだ。
たしか、スサノオノミコトが草薙剣を得たヤマタノオロチの「八岐」は、実際には地名や豪族を象徴した表現だと聞いたことがある。
ならば、この北斗七星の形に配置された漢字も、地名や人名を指しているのではないか。
俺は、T町の中から、古文書にあった漢字を含む地名を洗い出した。
いくつかは見つかった。
だが、それらは町のあちこちに点在していて、北斗七星の形とは、まるで一致しない。
――この考えは間違っているのか。
それとも、長い年月の中で地名が変わってしまったのか。
そのとき、ふとあることを思いついた。
あの学術調査団の写真。
あれは、どこで撮られた?
俺は写真が載っていたホームページを開き直し、地名の手がかりを探す。
だが、説明文にも写真の中にも、場所を示す情報はない。
視線をずらし、同じページに並ぶ別の写真を見る。
村役場の完成を記念した一枚。
そこには、役場名が刻まれた銘板が写っている。
よく見ると、学術調査団の写真にも完成記念写真にも、同じ人物が何人か写っていた。
――同じ村だ。
調査団が調べていたのは、きっとこの村の近くだ。
俺は、銘板に刻まれている村名を検索した。
「霧岐石村」
……だが、一件もヒットしない。
N県はおろか、日本全国で見ても、この名前の村は存在しない。
たしか、平成のどこかで市町村合併があったはず。
消えた村も多い。
だが、いくらなんでも、痕跡がまったく残らないはずがない。
「霧岐石」で検索しても、何も出てこない。
一瞬、嫌な考えがよぎる。
――まさか、この写真、いや、このホームページ自体が、フェイクなのか?
だが、何のために?
理由が思いつかない。
一度、深く息をついた。
そして、これで最後だと自分に言い聞かせ、検索語句を二つ並べて入力した。
「T町」「霧岐石」
結果はゼロだろう――そう思った。
だが。
ヒット件数が、一つだけあった。
――無帰石の神隠し。
どこかの出版社の記事だった。
おそらく検索エンジンが、「霧岐石」を「無帰石」の漢字の誤変換だと判断し、修正した語句で拾ったのだろう。
記事の日付は、十年ほど前。
内容は、T町で起こった子供の行方不明事件だった。
近くの公園に家族で遊びに行き、帰り際、車に向かう途中。
ほんの一、二分、目を離した隙に、一番後ろを歩いていた末っ子の男の子が消えた。
すぐに二百人以上が動員され、捜索が行われた。
だが、一週間以上探しても、男の子は見つからなかった。
警察犬も投入されたが、どの犬も、同じ広場の中央まで来ると、そこで立ち止まってしまったという。
記事の最後には、こうあった。
――現代の神隠し。
この地域には、どこかの山に「無帰石」と呼ばれる巨石があり、そこに近づいた者は消える、という言い伝えがある、と。
俺はすぐに「T町」と「行方不明」で検索をかけた。
大量の検索結果が並ぶ。
多くはこの事件のものだが、過去の行方不明についてまとめた記事があった。
この町を中心に、半径三十キロ圏内。
戦後だけでも、十年から十五年おきに、少なくとも七人の子供が不可解な状況で消えているという。
掲載されている地図には、失踪地点も示されていた。
――その配置を見た瞬間、心臓が跳ねた。
北斗七星に、似ている。
もしかしたら――。
俺は、行方不明になった子供たちの名前を調べた。
古いものは見つけられなかったが、記事を掘り返し、いくつかは特定できた。
土、人、大、子――
古文書に記されていた漢字が、子供たちの名にも含まれていた。
もう、断言してもいい。
古文書の漢字を名前に持つ子供が、北斗七星に対応した位置で、行方をくらましている。
ならば。
頭の中で、失踪地点の地図と、古文書の北斗七星を重ね合わせる。
そして「龍」が示す場所――
そこが、財宝の眠る場所――あるいは、埋もれた都の跡。
俺は、T町の谷や沢の名が記された地図を探し出し、「龍」が示すと思われる地点を丹念に調べた。
すると、その近くに「霧伏沢」、さらに「岐塞谷」という名が見つかる。
間違いない。この近くに、霧岐石村がある。
……いや、昔、あった。
衛星写真で見ると、そこは人里からかなり離れた山奥。人工物は全く写っていない。
俺は後頭部で手を組み、目を閉じた。
かつて、俺は何人ものアイドルを炎上させ、SNSや動画チャンネルのフォロワー、登録者数は百万人を超えていた。
だが最近は、警戒されているのか、簡単に尻尾を出すアイドルはいない。
ネタがなければ、人は離れる。
数字は減り続け、広告収入も激減していた。
焦りは、常にあった。
でも、これは――。
もしかすると俺は、考古学上の大発見をしてしまったのかもしれない。
そして、自分の見識の正しさを世に知らしめる絶好の機会だ。
古文書のとおりに子供たちが消えた事実は、たしかに不気味だ。だが、消えたのは子供だけで、大人は消えていない。
現に、あの大学教授も無事だ。
Wikiの写真を見る限り、彼は天寿を全うしたのだろう。
そう結論づけると、通販サイトを開き、キャンプ道具と登山用具を注文した。
登山など、やったこともない。
だが地図によれば、山は深いものの、標高は千メートルにも満たない。
流行りの野営動画は、よく見ている。
あれを真似れば、初心者の俺でも「龍」の地点までは行けるに違いない。
仮に財宝が見つからなくてもいい。
伝説の都や消えた村――それだけでも、十分すぎるネタになる。
俺は画面に視線を戻す。
そこには、さっき見つけた、何十年も前に行方不明になった子供の顔写真が、まだ映っていた。
――生きていれば、今頃はおっさんか。
何気なく、その写真をアプリに登録し、解析をかける。
結果は、似た顔の子供ばかり。
誤検出だ。
だが、その中に――
中年男性の写真が、一枚だけ混じっていた。
まさか、と思い、俺はそれをクリックする。
開いたページは、どこかの芸能事務所の公式サイトだった。
写真の男は、その事務所の社長らしい。
頭の中が、薄い煙に包まれたように白くなる。
俺は、無意識のまま所属タレント一覧を開いていた。
そこには、見覚えのある顔がいくつかあった。
――俺が、かつてターゲットにしたアイドルたち。
一覧を追ううちに、言葉にできない違和感が、じわじわと胸に広がっていった。
気づけば、俺はそのページに載っているタレント全員をアプリに登録し、顔検索を走らせていた。
次々に表示される、自撮りやイベント写真。
だが――
その中に、あの霧岐石村の写真が混じっている。
「……嘘だろ」
何人ものタレントの顔が、その写真の中に存在すると、アプリは告げていた。
そんなはずはない。
あそこは、地図から消えた村だ。
人の住む場所ではない。
「絶対に、ありえない……」
強い吐き気が、込み上げてきた。
* * *
タブレットの画面を見た瞬間、思わず声を上げて笑いそうになり、私は慌てて喉の奥で押し殺した。
表示されているのは、ひとつのSNSのアカウント。
投稿は、三か月以上前で止まっている。
――これから、冒険の旅に出ます。詳しくは戻ってから。
そんな軽薄な言葉と一緒に、安物のキャンプセットを並べた写真が貼られている。それきり、更新はない。
私は画面を眺めながら、今度は胸の内で静かに笑った。
まさか、ここまでうまくいくとは思わなかった。
誰も知りたくない自分の食事写真を、来る日も来る日も投稿し続けていた人間だ。そんなやつが、三か月も沈黙するなんて、ありえない。
きっと今頃、山のどこかで――。
私は、ゆるキャラみたいな、ふざけた手書きのプロフィール画像を見つめながら思った。
こいつのせいで、私の家族は壊れた。
私には、二つ年上の姉がいる。
姉は小さいころから、とびきり可愛くて。そして誰からも好かれ、注目される存在だった。
幼い私は、そんな姉を妬んだこともあったけど、姉はいつも優しく私に接してくれた――いつしか、姉は私の憧れになっていた。
そんな姉が、ある日、家族の前で言った。
「私、アイドルになりたい」
不思議と、驚きはなかった。
テレビの中のアイドルより、姉のほうがずっと可愛かったし、歌もうまく、なにより人を惹きつける何かを持っていたからだ。
父も母も、「そうか」と言って頷いた。
姉は芸能事務所に入り、しばらくしてデビューが決まった。
グループではなく、ソロでだ。
順風満帆――そう思えた。
それを、こいつが壊した。
姉には長年付き合っている彼氏がいる。
そんな噂を、たった一枚の写真からでっち上げた。
写真に写っていたのは、確かに姉だった。けれど、隣にいた男は彼氏なんかじゃない。
三年間、ずっと好きだったとしつこく言い続け、何度も写真をねだった同級生。姉は断り続けた末に、「一枚だけ」という条件で応じただけだった。
それなのに、そいつはその写真を、自分のアカウントに投稿した。まるで恋人のように。
すぐに削除させた。でも、もう遅かった。
写真は加工され、二人の距離は不自然なほど近づけられ、噂は爆発的に広がった。
デビュー前から注目されていた分、崩れるのも早かった。
姉のデビューは、あっけなく消えた。
家族で応援していた空気は、一気に沈んだ。
姉は「仕方ないよ」と笑っていたけれど、その笑顔が無理をしていることくらい、私にも分かった。
父は家に帰らなくなった。
母は、テレビの前で独り言を繰り返すようになった。
全部、こいつのせいだ。
――こいつも消えてしまえばいいのに。
そう思ったとき、ふと、昔の記憶が蘇った。
小学生の頃、転校してきた男の子が言っていた。
「入ったら出られない山があるんだ」と。
調べてみると、その町では、確かに行方不明事件が何度も起きていた。
そこで、私は思いついた。
こいつをその山に誘い込めないだろうか。
裏国伝説。
存在しない伝説を、私は作った。霧岐石村という架空の村も。
祖父の家の土蔵には、古い写真が山ほどある。
それらを加工し、そこに私の顔を埋め込む。
そして、それらしい古文書を用意し、専用のサイトを立ち上げた。
あとは適当な芸能事務所を探して登録し、私は“新人アイドル”になった。
最後に、自撮りと、事務所が用意したスチール写真を数枚、SNSに投稿する。
それで、すべては整った。
正直、期待はしてなかった。
餌に喰らいついたとしても、せいぜい、数日、山を彷徨って終わりだろうと。
それなのに。
三か月。
私は、タブレットから視線を上げた。
向かいの席の女の子と目が合い、彼女は慌てて目を逸らす。
念のため家から何駅も離れたショッピングモールのWi-Fiを使ったけど、制服で来たのは失敗だったかもしれない。
見かけない制服がいたら目立つか。
……でも、まあ、いい。
誰も、私がこいつを消したなんて気づかない。
電車の時間を思い出し、私はタブレットを鞄にしまった。
静かに席を立つ。
帰りの電車は、三十分後だった。
* * *
刑事の一人が、鍵を開けてくれた大家に礼を言うと、靴を脱いで部屋に入った。
遅れてきた若い刑事は、玄関先で足音が遠ざかるのを確かめてから、先を行く年配の刑事に声をかける。
「どうして、殺人課の俺たちが、行方不明者の捜索なんですか」
「さあな」
年配の刑事はそう答え、室内を見回した。部屋の中には生活の痕跡はあるが、どこか薄い。
「今どき、殺人なんてそうそう起きないからな。お偉いさんが言っている、人材の有効活用ってやつだろ」
そう言いながら、キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
内部の明かりが点く。
「電気は来てる……が、ほとんど空だな」
奥から何かの総菜のパックを一つ取り出し、貼られたシールに目を落とす。
「……三か月前か」
他の容器も同じだった。
部屋を見回しながら若い刑事が、やや首をかしげる。
「金銭的に困ってた感じではなさそうですね」
「そうだな。大家の話じゃ、家賃は今も引き落とされてるらしい」
「行方不明者の年齢は?」
「三十二だ」
年配の刑事は部屋を歩き回り、クローゼットを開け、トイレと浴室を順に覗いた。
若い方は、壁際に積まれた通販会社のロゴ入りの空の段ボールに目を留める。
「仕事は何してたんですか?」
「ああ……行方不明届を出した両親の話だと、今、流行りの動画配信だそうだ。そういうの、なんて言うんだったか?」
若い刑事はそれには答えず、別のことを尋ねる。
「独身ですか?
交際相手は?」
「独身らしい。交際相手の方はわからん」
そのとき、若い刑事はリビングの机に置かれた電源の入ったままのPCに気づいた。
マウスに触れると、モニターが点灯する。
画面いっぱいに、顔の写真が並んでいた。
年齢も性別もばらばらだが、どれも無表情で、視線だけがこちらを向いている。
「あっ、そうだ」
背後から年配の刑事の声がした。
「郵便受けを見てきてくれ」
「……はい」
若い刑事は我に返り、玄関へ向かう。郵便受けを開ける音、紙が擦れる音。
「特に変わったものはありませんね。チラシと、電気やガスの請求書くらいです」
リビングに戻ると、年配の刑事はもう一度、部屋全体を見回していた。
「そうか。じゃあ、ここは、これでいいだろう」
「他にもあるんですか」
「ああ。高校生の女の子が、下校途中で行方不明になった」
「家出……ですか?」
「どうかな。半年前に、その子の姉も消えている」
「姉妹そろって……?」
「署じゃ、事件じゃないかって話になってる」
若い刑事の表情が引き締まる。
「すぐに行きましょう。絶対に、これ、何かおかしいですよ」
「これ?」
「いや、なんでもありません。さあ、行きましょう」
「ああ……。
そうだな」
玄関で靴を履き終えた若い刑事は、ふと振り返った。
年配の刑事が、部屋の中を見つめたまま動かない。
「どうしたんですか」
「いや……今、誰かいたような気がしてな」
若い刑事も部屋を覗き込む。
無人の室内。静寂だけが残っている。
「誰もいませんよ。気のせいですよ」
「……気のせいか」
二人は部屋を出た。
「エレベーター、遅いな」
「ええ。
あっ、上がってきましたよ」
ドアが開くと二人の刑事が乗り込む。
そのとき、誰もいなくなった部屋の中で、消えていたモニターが再び点いた。
(完)




