過去の影
その日の夕方。駿作と遥は、連日の経理監査の最終チェックを終え、社外の顧問弁護士との打ち合わせのため、二人で会社のエントランスを出た。
駿作は、遥の隣を一歩離れて歩いていたが、顔はいつもの冷徹なプロフェッショナルの仮面ではなく、どこか物思いに耽っているような、柔らかい表情をしていた。それは、遥が彼の「守る」という行為を拒否したことへの苛立ちと、初めて心を許したことへの戸惑いが混ざった、計算外の顔だった。
遥は、彼が隣にいることへの緊張から、俯き加減で歩いていた。
二人がエントランスを出た瞬間、近くのカフェテラスで待ち伏せをしていた佐伯由梨が、その光景を目撃した。
佐伯は、駿作がかつて遊んで捨てたターゲットの一人だった。彼女は、駿作の新しいターゲットを見定めるために、彼の周りを嗅ぎ回っていたのだ。
(あんな顔……)
佐伯は息を呑んだ。あの完璧なエスコートと冷徹な別れを繰り返す駿作が、「物思いに耽り、守りの姿勢を見せている」顔。そして、その隣には、ブランド物とは無縁の、大人しくて目立たない女性。
「あの片桐駿作が、本気になっている」わけがない。だが、彼のあの表情は、「手に入れたいという征服欲」とも、「心底惚れ込んでいる愛情」とも違う、佐伯が知る駿作の顔ではなかった。
佐伯は立ち上がり、慌てて二人の後を追った。そして、二人が顧問弁護士のオフィスが入るビルに入るのを見届けてから、遥が持っていた会社の資料からメモした遥の会社の名称を手に、遥が一人になった瞬間を狙うことを決めた。
翌日。佐伯は会社から出てきた遥を、駅前の人通りが少ない場所で待ち伏せ、呼び止めた。
佐伯は遥の会社の名刺を手に持ち、皮肉な笑みを浮かべた。
「あなた、片桐駿作の顧問会社の社員ね。昨日、彼と二人で出てきたのを見たわよ。あの片桐が、誰かにあんな顔を見せるなんて、珍しいことだわ」
遥は怯えたが、佐伯の目には、駿作への深い憎しみが宿っているのを感じた。
「彼は、人間じゃないわ。彼は女性の心を理解なんてしていない。彼はね、女を『裏切り者』としてしか見ていないの。浮気することで自分を捨てる女、という彼の母親のイメージを、私たちに重ねて復讐しているだけ」
遥は何も言い返せない。それは、遥自身が彼の冷たい瞳の奥に見た真実だったからだ。
「あなたは、真面目そうだから忠告してあげる。彼は、あなたを『裏切らない女』として選ぶかもしれない。でも、『裏切らない女』は、彼が最も飽きやすく、最も簡単に捨てられる女なのよ。なぜなら、彼の心は常に『裏切り』を探しているから。あなたが愛せば愛すほど、彼はあなたを憎むわ」
佐伯はそう言い捨てて去った。遥は、駿作の歪んだ愛の構造を突きつけられ、再び男性に対する根源的な恐怖が心を支配するのを感じた。




