謝罪と小さな贈り物
駿作に「傲慢」だと指摘されて以来、遥は深く悩んでいた。恐怖に支配され、他人の善意すら拒絶してしまった自分。そして、彼の冷たい瞳の奥に見た、自分と同じ孤独な影。
翌朝、遥はいつもより早く出勤した。誰もいない経理フロアを抜け、会議室へ向かう。
彼女は、昨日駅前のコンビニで買ったミネラルウォーターを二本持っていた。一本は例の高級銘柄ではない、ごく普通の国産品。もう一本は、自分用だ。
会議室に入ると、まだ駿作の姿はない。彼女は、駿作がいつも座る席の、彼が荷物を置くであろう場所に、静かにそのペットボトルを置いた。蓋はしっかりと閉めてある。
(これで…これで許されるわけじゃないけど。ただの、仕事の差し入れとして…)
彼女は、それが彼へのささやかな謝罪と、「私はあなたを完全に憎んでいるわけではない」という、恐怖を乗り越えた上での初めてのコミュニケーションだった。
遥は自分の席に戻り、仕事に取り掛かった。数分後、駿作が会議室に入ってきた。
彼はいつものように、完璧なスーツに身を包み、周囲の空気を一瞬で彼の世界に変える。しかし、彼の目がテーブルの上のミネラルウォーターを捉えた瞬間、その冷徹な表情に微かな動揺が走った。
「これは…」
駿作は、その一本のペットボトルを、まるで爆弾でも見るかのように、疑いの目で見つめた。彼は、この数日で誰かを徹底的に遊んで捨て、女性不信という鎧を補強したばかりだった。その完璧な鎧に、この予想外の『善意』は、小さな亀裂を入れた。
彼は周りを見渡したが、遥は手元の資料に視線を落としたままだ。
「川北さん。これは、あなたが置いたものですか」
「…はい」
遥は顔を上げず、小さな声で答えた。
「これは、何ですか。…先日の、買収のつもりですか?」
彼の口から出たのは、最も冷たく、最も皮肉な言葉だった。
遥はカッとなり、顔を上げた。
「違います!違います!私は、ただ…先日は、ごめんなさい。あなたが親切でしてくださったことを、勝手に、勝手に私が勘違いして…」
そこまで言って、遥は言葉に詰まった。
駿作は静かに彼女を見つめていた。彼の優しさが、純粋な恐怖によって拒絶されたことに、彼はひどく傷ついていた。そして今、彼女はそれを「親切」と認め、「勘違い」だと謝罪している。
彼は、そのペットボトルを手に取り、蓋の閉まり具合を確認した。そして、遥に向かって、まるで心理戦を仕掛けるように、ニヤリと笑った。
「なるほど。あなたの『謝罪』ですか。親切は、謝罪に変えられる。ずいぶん都合がいい」
「そんなつもりじゃ…」
「ですが、私は裏表のある女性は嫌いです」
駿作は、そのままリモートバッグをテーブルに置き、そのペットボトルを躊躇なく開け、一口飲んだ。
ゴクッ。
その音は、静かな会議室に響き渡った。
遥は息を止めて、その光景を見ていた。彼は、自分が拒絶したものを、何の迷いもなく受け入れた。そして、彼女の心の奥底の恐怖(昏倒の可能性)を、その一口で完全に否定したのだ。
「私には、あなたの『善意』が、裏切りではないことの証明は必要ない。…仕事に移りましょう」
彼は冷たくそう告げたが、遥は知っていた。彼は今、遥の恐怖を乗り越えるために、敢えてその水を飲んでみせたのだ。その行動の裏にある、「お前の恐怖心など、私の前では無力だ」という傲慢さと同時に、「裏切らないなら、私も受け入れよう」という、彼なりの不器用な歩み寄りを感じた。




