駿作の監視
ミネラルウォーター事件以来、駿作は遥を遠ざけていたが、それは仕事の効率を上げるためというより、自分の計算が狂ったことへの感情的な苛立ちを落ち着かせるためだった。彼は遥を「遊んで捨てる」対象から、「自分という男を全く信用しない、異質な存在」へと認識を変えていた。
駿作は遥の経理部門へはもう直接顔を出さず、会議室で他の管理職とのみ打ち合わせを済ませるようになった。しかし、廊下や給湯室で遥を見かけると、冷たい視線を送る。その視線は、以前のような「獲物を定めるような目」ではなく、まるで「珍しい標本を観察するような目」に変わっていた。
遥は、駿作に距離を取られたことで、かえって心の余裕を取り戻していた。あの時のパニックを思い出し、謝罪するべきだとは思うものの、彼が近づいてこない状況に安堵していたのだ。
ある日の昼休み。遥が誰もいない休憩室で弁当を広げていると、雑誌を開いたままの駿作が、突然現れた。
「川北さん、失礼」
遥は反射的に肩を跳ね上がらせたが、駿作は遥から十分に距離を取り、窓際に立っている。その姿勢は、「私はあなたを警戒しているし、これ以上近づくつもりはない」と雄弁に語っていた。
「先日の件は、深く追求しないことにしました。あれは職務上での誤解ということで、お互いに忘れましょう」
駿作はそう淡々と言った。遥はホッとしたものの、彼の次の言葉に戸惑いを覚える。
「しかし、一つだけ確認したい」
彼は雑誌から目を離さず、訊ねた。
「なぜ、あなたは私をそこまで警戒する?私がペットボトルを渡しただけで、まるで凶行を企てたかのように」
遥は口ごもった。過去のトラウマを、この冷徹な男に話すことなどできなかった。
「それは…」
「この数日君を観察していたが、構造的に、私とあなたは同じはずだ」
駿作は遥をまっすぐに見つめた。彼の瞳は静かだが、深い闇を湛えていた。
「人を信じず、人との深い関わりを拒否する。私は女性の裏切りを憎み、あなたは男性の暴力を恐れる。私から見れば、あなたのその『恐怖』は、私の『憎しみ』と同じくらい、人を遠ざける鎧だ」
遥は驚愕した。彼は、自分の内面にある最も触れられたくない部分を、まるで計算式のように解き明かしたのだ。
「私を嫌うのは構わない。だが、理由もなく善意を叩き落とすのは、あなたのトラウマではなく、ただの傲慢だ。あなたは、自分の恐怖を他人の善意で上書きすることを拒否している」
言い切ると、駿作は雑誌を閉じ、会議室を出て行った。彼のスマートな指摘は、遥の心を深く抉った。
(傲慢…?私はただ、自分を守りたいだけなのに。でも…彼はなぜ、私の心の中をそこまで深く覗き込もうとするのだろう?そして、なぜ『私とあなたは同じ』などと言ったのだろう…)
遥は、彼が単なる「遊び人」や「危険な男」ではなく、自分と同じように孤独な壁の中にいるのではないか、という微かな戸惑いを初めて覚えた。




