誤算と過剰警戒
翌朝、七時二十五分。遥は緊張で一睡もできなかった顔で会議室に入った。駿作は既に到着しており、コーヒーの香りが漂っている。
「早いですね」駿作は軽く会釈した。
「川北さんは、真面目ですね。それとも、私の時間が恐ろしい?」
彼の言葉は、冗談めかしていたが、遥は真に受けた。
「いえ、恐ろしくなど…」遥が席に着くと、駿作はすぐに本題に入った。
「この領収書の山です。金額の整合性は取れているが、中身が不明瞭なものが多すぎる。特に、この…『会員制バー』の領収書。この時期、社長は出張中のはずだが?」
駿作は一枚の領収書を遥の前に滑らせた。遥はその字面を見た途端、全身が凍りついたように動けなくなった。
「これ、は…」
「社長の私的な流用か、それとも隠し口座か。税理士として見過ごすわけにはいかない」
その時、遥はひどい喉の渇きを感じた。緊張と、徹夜気味のせいだ。
それを見て、駿作はテーブルに置いていたペットボトルのミネラルウォーターを手に取った。それは彼がいつも飲んでいる、海外の高級銘柄だった。
「顔色が悪い。水を飲みなさい」
駿作はペットボトルの蓋を少しだけ緩め、遥の前に差し出した。
それは完璧な気遣いだった。しかし、遥の頭の中では、「早朝の会議室」「二人きり」「緩められた蓋」「水を飲むことで無防備になる自分」という要素が、危険信号として連結した。
(なぜ蓋を開ける?…飲ませて、気を失わせて、私を…)
高校時代の痴漢被害のフラッシュバックが、遥の視界を歪ませる。目の前の駿作が、突然危険な影を纏った男性に見えた。
彼女は反射的に、駿作の手を握っているペットボトルを叩き落とした。
「やめてください!」
バシャッ!
ペットボトルは床に落ち、水が静かな会議室の絨毯に吸い込まれていく。その水浸しになった床が、一線を越えてしまったことを物語っていた。
駿作は、自分の計算された親切が、まるで凶器のように扱われたことに、怒りよりも先に深い困惑を覚えた。
「……川北さん。今のは、どういうつもりですか?」
彼の声は低く、抑えられていたが、その眼差しには、遥が今まで見たことがない冷たい光が宿っていた。
遥は自分が何をしたのか理解し、顔から血の気が引いた。だが、トラウマからくるパニックは収まらず、全身の震えを抑えられない。
駿作は立ち上がり、遥と一定の距離を取った。
(ミネラルウォーターを渡しただけだ。蓋を緩めたのは、親切心からだ。しかし、この女は私を…本気でまるで犯罪者だと疑った)
彼の脳裏に浮かんだのは、自分を捨てた母が、新しい男と笑い合う姿だった。その時の「裏切られた」という痛みが、今、遥の純粋な恐怖によって再び呼び起こされた。
「分かった。もういい。あなたの仕事のことは、私が直接社長に聞く。あなたは、私から距離を取っていてくれ」
そう言い残し、駿作は冷たい視線を遥に向けたまま、会議室を後にした。彼は、「遊ぶ対象」としてアプローチする以前に、彼女が自分を「人間」として認識していないことに、過去に裏切られた以上の深い孤独を感じていた。




