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交差する傷  作者: 輝久実


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2/11

誤算と過剰警戒

翌朝、七時二十五分。遥は緊張で一睡もできなかった顔で会議室に入った。駿作は既に到着しており、コーヒーの香りが漂っている。

「早いですね」駿作は軽く会釈した。

「川北さんは、真面目ですね。それとも、私の時間が恐ろしい?」

彼の言葉は、冗談めかしていたが、遥は真に受けた。

「いえ、恐ろしくなど…」遥が席に着くと、駿作はすぐに本題に入った。

「この領収書の山です。金額の整合性は取れているが、中身が不明瞭なものが多すぎる。特に、この…『会員制バー』の領収書。この時期、社長は出張中のはずだが?」

駿作は一枚の領収書を遥の前に滑らせた。遥はその字面を見た途端、全身が凍りついたように動けなくなった。

「これ、は…」

「社長の私的な流用か、それとも隠し口座か。税理士として見過ごすわけにはいかない」

その時、遥はひどい喉の渇きを感じた。緊張と、徹夜気味のせいだ。

それを見て、駿作はテーブルに置いていたペットボトルのミネラルウォーターを手に取った。それは彼がいつも飲んでいる、海外の高級銘柄だった。

「顔色が悪い。水を飲みなさい」

駿作はペットボトルの蓋を少しだけ緩め、遥の前に差し出した。

それは完璧な気遣いだった。しかし、遥の頭の中では、「早朝の会議室」「二人きり」「緩められた蓋」「水を飲むことで無防備になる自分」という要素が、危険信号として連結した。

(なぜ蓋を開ける?…飲ませて、気を失わせて、私を…)

高校時代の痴漢被害のフラッシュバックが、遥の視界を歪ませる。目の前の駿作が、突然危険な影を纏った男性に見えた。

彼女は反射的に、駿作の手を握っているペットボトルを叩き落とした。

「やめてください!」

バシャッ!

ペットボトルは床に落ち、水が静かな会議室の絨毯に吸い込まれていく。その水浸しになった床が、一線を越えてしまったことを物語っていた。

駿作は、自分の計算された親切が、まるで凶器のように扱われたことに、怒りよりも先に深い困惑を覚えた。

「……川北さん。今のは、どういうつもりですか?」

彼の声は低く、抑えられていたが、その眼差しには、遥が今まで見たことがない冷たい光が宿っていた。

遥は自分が何をしたのか理解し、顔から血の気が引いた。だが、トラウマからくるパニックは収まらず、全身の震えを抑えられない。

駿作は立ち上がり、遥と一定の距離を取った。

(ミネラルウォーターを渡しただけだ。蓋を緩めたのは、親切心からだ。しかし、この女は私を…本気でまるで犯罪者だと疑った)

彼の脳裏に浮かんだのは、自分を捨てた母が、新しい男と笑い合う姿だった。その時の「裏切られた」という痛みが、今、遥の純粋な恐怖によって再び呼び起こされた。

「分かった。もういい。あなたの仕事のことは、私が直接社長に聞く。あなたは、私から距離を取っていてくれ」

そう言い残し、駿作は冷たい視線を遥に向けたまま、会議室を後にした。彼は、「遊ぶ対象」としてアプローチする以前に、彼女が自分を「人間」として認識していないことに、過去に裏切られた以上の深い孤独を感じていた。

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