結:貼り紙と半歩の終わり方
朝、窓の縁に残った水珠が光っていた。
フロント前の小さなビジネスコーナーで、桂一はA5の掲示とA4の是正メモを数十部プリントする。紙が吐き出されるたび、事務的な安心が少しずつ増えていく。
相沢はロビーのソファで封筒とクリップを数え、ファイルに分ける。肩に下げた細いカメラバッグは、今日はほとんど「書類入れ」の顔だ。
「掲示はA5で目線の高さ、三カ所ずつ。是正は“抄”を会長さんへ」
「了解。スタッフの相沢が掲示、雇い主の桂一が説明。役割分担はいつもどおり」
チェックアウト。財布の透明ポケットには、昨夜のうちに切ってもらった【市影譚】宛の領収書が二枚並んでいる。二泊三日。紙の重なりは、今回の背骨みたいなものだ。
外は薄い雲。路面はほとんど乾いたが、金具の継ぎ目にはまだ暗い色が残っている。
◇
商店会の事務所は、道の角を一つ入ったところにあった。木の看板に墨の文字、窓の外側に朝の花。
会長は昨日の夜も会った人だ。机の上には、町内の回覧板と、夜間巡回の蛍光ベスト。
「暫定掲示の件、ありがとうございます。今日は正式版を持ってきました。文言は短く、安全だけを先に置きます。原因は——急ぎません」
「ふむ。具体的には?」
「これです」
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来訪者向け掲示(正式版・A5)
この路地では、夜に小さな音が聞こえる日があります。
※この現象は心霊現象ではありません。周囲の音や設備・環境条件によって生じる“小さな音”として扱っています。
・驚いたら立ち止まらず、安全を優先してください。
・録音は短時間で。設備や接点には触れないでください。
・昼は周囲の音で聞こえにくく、夜は聞こえやすいことがあります。
掲出:市影譚(担当:相沢)/連絡:____
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「原因は“いま分かっている”ではなく、“いま分かっている範囲の扱い方”を書きました。仮説は紙に置いておきますが、断定はしません」
「助かるよ。貼る場所は?」
「目線の高さで、通路をふさがない位置。三カ所で十分です」
相沢が封筒を渡す。「掲示十枚、予備テープ、連絡先カード。——経費は市影譚で切ります」
「おう、領収書は宛名そのままで」
「はい」
続けて、A4一枚の**是正メモ(抄)**を机に広げる。
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是正提案(抄・A4/所有者向け)
現象:夜間に小さな音が聞こえる日があります(昼は周囲音で埋もれやすい)。
確認:近い/似ている/不一致で記録。断定はしていません。
当面の扱い:来訪者向け掲示・夜間の巡回時の声かけ・設備に触れない周知。
提案(所有者のみ実施可):
・接点の清掃(錆・酸化膜の除去)
・導通の統一(絶縁or導通のいずれかへ揃える)
・ボンド線の追加/接地の見直し(安全管理者の判断)
注意:第三者は設備に触れない。作業は所有者・管理者の責任で。
作成:市影譚(桂一)
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「“どう直すか”は、所有者側の判断で。外から触らない、が大前提です」
「理屈っぽくないのがいい。貼り紙でまず落ち着かせよう」
了解をもらい、相沢は裏道へ。テープを二度押し、人が自然に目をやる高さに掲示を据える。
桂一は、その少し後ろを歩き、人の流れを見て小さく位置を指さす。言葉は短く、手は金具に触れない。
◇
昼。
こみせの屋根の下は観光の声が戻って、はっきりと「昼の音」になっていた。
掲示の前で立ち止まった二人組に、商店の人が声をかける。「夜に驚いたら、立ち止まらないでね」
言葉が街のものになっていく感じがした。
「最後に、“起きないのを確認する散歩”をやろう」
「昼のマスキング、だね」
看板の根元、フェンスの角、屋根梁の継ぎ目。
肩口を撫でた“欠片”は、落ちてこない。かわりに、自転車のブレーキが鳴る。氷の入ったグラスが、店の奥で軽く触れ合う音がする。
紙に書く。
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音の観測記録シート(A4)
場所:こみせ裏・看板支柱(×再訪)
時刻:12:18/天候:薄晴/人通り:中
歩速:普通
聴取:耳 感じた音:周囲音(人・車・BGM)>>微小音(未検出)
備考:起きない=材料として記録
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「“起きない”を重ねると、“起きる”がはっきりする」
「うん。ワトソンがメモを増やすほど、ホームズの“おそらく”が細くなる」
相沢の冗談に、桂一は笑って肩をすくめた。「スカリーが横で削るから、助かるよ」
◇
夕方、商店会へ一礼に戻る。
会長は掲示の前で、小学生に話しかけていた。「ここ、音の出る日があるからね。驚いたら進んでね」
子どもは頷いて、手を振って走り去った。
「来訪者、増えてるよ。昨日から『貼り紙見た』って言う人が何人かいた。問い合わせは減っている気がする」
「よかった。怖がらせるための紙じゃなくて、動かし方を教える紙が置けたなら、成功です」
「ありがとう。冬はどうだと思う?」
「報告は少ないはずです。粉雪が金具に白い蓋をする日がある。厚着+速足で耳も閉じがち。夏は湿り気とゆっくり歩きで聞こえやすい。——**“いま言えるのは、ここまで”**です」
会長はうなずき、A4の**是正(抄)**を白いファイルに綴じ込んだ。「続きは、また紙で教えて」
「はい。紙で」
◇
駅へ向かう前に、もう一度だけ路地を歩く。
掲示は風にめくれない。テープの縁が小さな段を作り、午後の光を薄く跳ね返す。
寺の方向へ頭を下げ、こみせの屋根から外へ出る。
笑いは、降ってこない。
それでいい。“起きない”の地図も、この物語の一部だ。
◇
夕方のホテルロビー。
相沢が封筒を差し出す。「精算書、草案。交通・宿泊・消耗品・図版料で区分。帰ったらメールで正式版送るね」
「助かる。請求書は市影譚宛で。——そして、『ワトソン(記述)+スカリー(検証)』の二足のわらじ代、いつもの上乗せで」
「それと、ひとこと」
「うん?」
「同じ部屋に泊まれば、まだ——」
「雇い主とスタッフ。宿は別室、経費は透明、口論の前に紙」
「はいはい。ホームズは固い」
軽口の後、二人は自動ドアの外で立ち止まり、礼を分け合うみたいに小さく会釈した。
駅までの道で、桂一はメタルフレームをそっと外す。伊達の鏡は今日も役割を終えた。
相沢は肩がけのバッグの位置を直し、封筒の口をもう一度押さえた。
「まとめのタイトル、決めとく?」
「『笑う路地の受信機——貼り紙と半歩』。昼は聞こえにくい/夜は聞こえやすい、半歩で拾う。触れないで確かめる。近い/似ている/不一致で残す。……それだけでいい」
「うん。それだけで、十分に**“怖くない不思議”**になる」
ホームの風が、出発前の車両を冷やしていた。
紙の束はリュックの背で小さく音を立て、二人は改札へ向かう。
駅名標の白が夕焼けに薄く染まり、街はいつもの日暮れに戻っていく。
確かめて歩くための道が、背中の紙の重さだけ、ほんの少し、明るくなった。