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転:雨上がり、道が少し話し出す

 午後の窓硝子を指で叩くように、短い雨がきた。

 十分、二十分、ぽつぽつが面で押し寄せ、やがて引く。路面に薄い川が残り、こみせの屋根から最後の雫が落ち続ける。


〈ロビー集合、十九時ちょうど。服は撥水で〉

 相沢からメッセージ。文末に“スタッフ:相沢”の署名が付いているのは、ここ数ヶ月の決まりだ。

〈了解。紙はA5掲示、番組照合、触れない実験メモ。経費科目は交通・宿泊・図版・消耗品〉

〈OK。精算は月末締めで。——それと〉

〈なに〉

〈同じ部屋に泊まれば準備も片付けも半分で済むのに、って今日は二回目思った〉

〈ダメ。僕らの関係性は“雇い主とスタッフ”。そして比喩で言うならホームズとワトソン、モルダーとスカリー。君はワトソン(行動のメモ係)で、かつスカリー(検証の刃)〉

〈役割多くない? ギャラは図版料上乗せで〉

〈要検討〉


 十九時。ロビーの空気は雨上がりの匂いを薄く抱いていた。

 相沢は撥水のショートジャケットに黒のキャップ、足元は防水のローカット。肩がけのバッグからA5のクリップボードが半分のぞく。

 桂一は軽い撥水パーカーのフードを指で整え、ポケットに番組照合メモと来訪者掲示の素案、触れない実験メモを差し込む。メタルフレームは今日もそのまま。伊達だが、現場で妙な姿勢を取る自覚があるから、せめて見た目は柔らかく——“話を聞いてくれそうな人”に寄せておく。


「行こう。雨上がりは“結びつきが濃くなる夜”がある」

「了解。半歩で入って、私がメモと録音」


     ◇


 こみせの屋根の下は、落ちきらない雫が時々跳ねていた。

 看板の支柱やフェンスの根元には、水が薄い輪を作っている。湿り気は、今日の主役だ。


 昨夜の×印へ。歩幅は半歩。耳の周囲に“風の路”を作る歩き方で、角を折る。

 看板の根元。

 肩口で、男の笑いが二拍。昨夜より輪郭が濃い。

 相沢がうなずき、録音機のボタンを押す。


「メモ、入れる。雨上がり→輪郭強」

「ラジオは最小音量、針だけ回す。……一つ左の“谷”で笑いがわずかに転がる。近いにしておこう」


―――――

番組照合メモ(A5)

録音:19:11〜19:14/場所:看板支柱×

AM:局__kHz/番組:バラエティ(20時台)

一致ポイント:笑い(路地0:19/ラジオ0:20)→近い

季節:夏(雨上がり) 歩速:半歩

備考:昨夜より輪郭強

―――――


「次、女の笑いの×」

「フェンス角ね」


 濡れた継ぎ目で、柔らかい笑いが落ちて、すぐ消えた。ラジオの針は一つ右で迷い、雰囲気が違う。

「ここは不一致。——“全部が放送”じゃない方が、むしろ現場っぽい」


 相沢は素早く記す。彼女のA6メモには“ワトソン=行動の記述”と小さく書かれている。

「ホームズが推理。ワトソンが紙。スカリーが検証。三役やってるんだから、図版料はやっぱり上乗せで」

「後で経費に相談」


 短い「あっ」の×へ移る。

 ドラマ枠に合わせると、ラジオの中でも一拍の驚き。路地は0.1秒早い。

「似ている。断定はしない」


―――――

音の観測記録シート(A4)

場所:フェンス角(寺の参道から南へ一本)

時刻:19:37/天候:雨上がり/路面:濡

歩速:半歩

聴取:耳 感じた音:短い驚き(1拍)

備考:ラジオSEと似ている(路地先行)

―――――


「次、触れない実験」

「“設備に触れない”は太字で」


 桂一は名刺サイズに切ったアルミ箔を取り出し、看板の根元——金属同士が近い地点に触れず、1〜2cmまでそっと近づける。

 相沢は録音機のゲインを固定。自分の立ち位置と息の当て方を変えない。変えるのは**空中の“板”**の配置だけ。


 箔が近いと、肩口の笑いがわずかに濃くなる。

 離すと、薄い。

 もう一度、近づける。再現。

 手は触れていない。足も動かしていない。


「触れないで変わるは、電界の影響が関わるサイン。——ただし」

「決めつけない。紙は**『反応あり(要再試行)』**」


―――――

触れない実験メモ(A5)

対象:看板支柱 根元(継ぎ目・濡)

手順:アルミ箔を1〜2cmに近づけ→離す(3回)

結果:近=輪郭わずかに濃/遠=薄(再現)

条件:接触なし/立ち位置・息・ゲイン固定

扱い:反応あり(要再試行)

―――――


「来訪者掲示、今日のうちに暫定版を置きたい」

「文言は短く。“驚いたら立ち止まらず”を先頭に、“設備に触れない”。——スタッフの相沢名で貼る?」


「クレームの導線は市影譚に。僕が引き取る」


―――――

来訪者向け掲示・暫定(A5)

この路地では、夜に小さな音が聞こえる日があります。

・驚いたら立ち止まらず、安全を優先してください。

・録音は短時間で。設備や接点には触れないでください。

・昼は周囲の音で聞こえにくい/夜は聞こえやすいことがあります。

掲出:市影譚(担当:相沢/連絡:____)

―――――


 寺の外灯が順に点く。墓地は静かで、雨に薄められた線香の匂いがわずかに残る。

 相沢が肩越しに視線を寄越す。


「同じ部屋に泊まれば楽、はここで二度めの主張」

「雇い主とスタッフ。ホームズ×ワトソン、モルダー×スカリー。宿は別室、経費は透明、口論の前に紙。うちの三本柱」

「四つ言った。——でも、そういう線引きが“読者への信頼”になるのは理解。怖い夜に余計な想像、いらないから」

「うん。物語は現場に置かない。紙だけ置く」


 こみせの梁から落ちる雫が、路面に小さな輪を作った。

 その輪に合わせるみたいに、男の笑いが一度だけ落ちて、すぐ消えた。


     ◇


 ×印を増やしながら歩く。

 途中、通りがかりの高校生が声をかけてきた。「ここ、笑うんですよね」

 相沢が一歩前に出る。「スタッフの相沢です。安全のお願いだけ——設備には触れないで。録音は短く、通行の妨げなしで」

 桂一は少し引き、話の輪の外で状況を眺める。ワトソンが前に、ホームズは半歩後ろ。役割は、目配せひとつで入れ替わる。


 商店会の会長に会えたのは、店じまい前だった。

「暫定の掲示、目線の高さにA5一枚。文言は短く。設備に触れないは太字で」

 会長は頷いて、二、三の店に貼る承諾をくれた。

「是正提案は後日、紙で持ってきます。接点清掃とか、導通の統一とか。今日は“驚いたら立ち止まらない”だけ置かせてください」


 了承をもらい、掲示を数枚。テープの端を押さえる相沢の指先は小さいが、貼る位置は迷いがない。人が自然に見る高さを知っている指だ。


「ワトソンはホームズの行動をメモする係、って原作で言ってたよね」

「そしてスカリーはモルダーの“おそらく”を現場で削る」

「私は二足のわらじ」

「僕は**“おそらく”を紙に薄く置く役**。二人で断定を避ける」


 最後に、墓地に近い×で一度だけ照合。

 ラジオの針は浅い谷に落ち、拍手の粒が微かに乗った。路地のほうは拍手が判別できない。紙には書かない。書かない判断も、記録のうちだ。


「今日はここまで。“雨上がり=反応が濃い夜がある”は紙に残った。近い/似ている/不一致、それから反応ありも積み上がった」

「帰ったら図版、三種類作る。半歩の説明、触れない実験、昼夜の違い。ギャラは案件日当+図版料で」

「請求書、市影譚宛でね」


     ◇


 夜、各自の部屋。

 桂一は机を四つに分けた。観測/照合/説明/実験。

 付箋は青(近い)・黄(似ている)・灰(不一致)・赤(再試行)。

 メッセージが届く。〈図版ラフ、送る。A5掲示は**“触れない”太字に〉

〈OK。——それと明日、商店会に仮の是正案**。接点清掃/導通統一/ボンド線は“所有者のみ”と明記〉

〈了解。精算書は帰京後に出す。交通・宿泊・消耗品・図版で区分〉

〈助かる。雇い主とスタッフでやってる意味は、透明であることだから〉


 メタルフレームを外し、テーブルへ置く。伊達の鏡は、今日も現場でよく働いた。

 耳は少し疲れているが、紙は軽く増えた。

 答えは急がない。“近い”が増え、“不一致”が残り、“反応あり”が赤い付箋で積み上がる。それで十分だ。

 明日は結。掲示を正式に置き、紙を束ねる。

 怖がるための道は、確かめて歩くための道に、もう半歩だけ近づいた。

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