承:昼の雑音、夜の余白
朝のロビーはコーヒーの香りが濃い。
昨夜のうちに二泊目の分も切ってもらってある。財布の透明ポケットには「市影譚」宛の領収書がすでに二枚。紙が重なると、仕事の輪郭が一段くっきりする。
自動ドアの外は薄曇り。路面は乾き、空気に少しだけ湿り気が残っている。
桂一はメタルフレームを指で整えた。これは伊達で、擬態の意味がある。現場では挙動が怪しく見える瞬間があるから、せめて見た目だけでも柔らかく——優男の気配を足しておく。鏡越しの自分は、少しだけ「事情を聞いてくれそうな人」に寄った。
「昼のうちに、昨日の×印を回ろう」
「“起きない時間”も紙に残す、だよね」
相沢は白Tに薄いベージュのシャツ、黒いキャップ。肩がけの小さなカメラバッグは、いつでも開く位置。
桂一は薄手の長袖にウィンドブレーカーを腰へ。ポケットには音の観測記録シートと昼夜メモ。道具はまだ出さない。
◇
こみせ通りの屋根の下は、昼の熱と声で満ちていた。観光客の笑い、子どものはしゃぎ、店先のBGM、遠くの工事のハンマー。大きい音が重なって、空気の表面がざわざわと揺れ続けている。
裏に折れ、昨夜の×印をなぞる。看板の支柱、フェンスの曲がり角、屋根梁の継ぎ目。肩口を撫でた欠片は落ちてこない。
「今日は普通の歩幅でいい。昼は“外の音”が主役で、耳の余白が埋まりやすい」
「半歩でも拾えない?」
「試す価値はあるけど、土台の音が強すぎる」
半歩→速足→普通、と切り替えてみても、笑いの形にはならなかった。紙に書く。
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音の観測記録シート(A4)
場所:こみせ裏・看板支柱(昨夜×再訪)
時刻:11:42/天候:薄曇/人通り:中
風:弱(市街地→寺)/湿り気:中
歩き方:普通/半歩/速足(順番に試行)
聴取:耳 感じた音:雑音(BGM・人声・車)>>微小音(不明瞭)
備考:昨夜の“欠片”は未検出(昼のマスキング強)
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「分かりやすい説明、先にまとめようか」
「短く、紙に落とす」
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昼と夜の違い(A5・説明用)
昼=人・車・BGMなど“音の主役”が多い→小さい音は隠れやすい
夜=主役が減る→小さい音が前に出やすい
歩速=半歩で耳の周辺に“風の路”ができる/速足は路が浅い
季節=夏は湿り気+ゆっくり歩きで聞こえやすい/冬は粉雪+厚着+速足で聞こえにくい(金具に白い蓋)
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寺町の端で一礼。墓地へ続く小径に白い花が揺れた。昼の光は縁取りをくっきりさせるが、音は輪郭を曖昧にする。
歩きながら、昨夜の呼吸を思い出す。男の乾いた笑い、女の含み笑い、間に挟まる短い「あっ」。どの声も、唐突ではあるのに、リズムが揃っていた。
「……ねえ。昨日の“笑い”、観客の波っぽくなかった?」
「“どっ”と来て“すっ”と引く間合い?」
「それと、ときどき拍手の粒。CM明けみたいな短い跳ね。路地の偶然にしては整いすぎてる」
「つまり?」
「可能性の話。夜だけ、男と女が交互に、ときどき短い驚き。墓地側からの風で場所が少しずれる。昼は埋もれる。
夜のAMは遠くから届きやすい。長い金属は空からの信号を拾いやすい。錆びた接点は“片側だけ通す”癖を持つことがある。
——もしこれらが重なれば、道そのものが“雑なラジオ”みたいになることがある」
「金属が、ラジオに?」
「完璧な受信機じゃない。雑な検波の真似事だ。長尺金属=アンテナ、酸化膜の非線形な接点=片側だけ通す、薄板の微振動=空気を少し動かす。
その結果、音声の山だけが抜ける。笑いは山が尖るから、抜けやすい」
「じゃあ“短い悲鳴”は?」
「ドラマの効果音の一拍かもしれない。尖りが強い」
「決めつけはしない?」
「しない。今夜、小さなラジオを最小音量で回して、“近い/似ている/不一致”の三段で記録する。同じ=確定にはしない」
ベンチで仮説メモを整える。
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仮説メモ(A5)
・夜に強い/昼に埋もれる(マスキング)
・笑い=山が尖る→“雑な検波”で抜けやすい
・濃い地点=金属の継ぎ目・曲がり角・看板の根元
・季節=夏(湿り気・ゆっくり歩く)/冬(粉雪・厚着・速足)
※扱いは「近い/似ている/不一致」。断定はしない。
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「一度ホテルに戻って、紙を増やす。照合用ね」
◇
午後、各自の部屋。
桂一はデスクスタンドだけ点け、番組照合メモを増刷。相沢にはメッセージで進行を送る。「20時台、バラエティ多。ドラマ再放送の枠もチェック」。すぐに「了解、番組表スクショ送る」と既読が灯る。
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番組照合メモ(A5)
録音:__:__〜__:__/場所:____
AM受信:局__kHz/番組__
一致ポイント:笑い(0:12, 0:35)/拍手(0:47)/短い驚き(1:02)
歩速:半歩/普通/速足 季節:夏/冬/雨上がり
扱い:近い/似ている/不一致(※いずれも断定しない)
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「夜は、最初に看板裏の×へ」
〈了解。半歩で入る〉
◇
日が落ちる。こみせの屋根は薄紫に、寺の影は細く長く。
路地に入る前、ラジオのボリュームを最小に落とし、ダイヤルだけ回す準備。録音機は時刻合わせ済み。
「看板裏から」
「半歩で」
看板の根元。半歩。肩口で男の笑いが二拍ほどける。
同時に、ラジオの針が一つ左で笑いを拾い、わずかに遅れて転がる。
「近いにしておこう」
―――――
番組照合メモ(A5)
録音:19:58〜20:01/場所:看板裏×1
AM:局__kHz/番組:バラエティ(20時台)
一致ポイント:笑い(0:19路地/0:20ラジオ)→近い
歩速:半歩
備考:拍手の粒は路地側で不明瞭
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「女の笑いの地点、移動」
「フェンス角だね」
柔らかい笑いが降り、すぐ消える。ラジオは一つ右で別の気配。
紙には「不一致」。
「不一致も材料。全部が放送起因じゃない可能性も置いておく」
「うん。“複数の要因が重なる”が現実的」
短い「あっ」の×へ。
ドラマ枠に合わせたラジオでも、一拍の驚き。
路地は0.1〜0.2秒早い。「似ている」で記録する。
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音の観測記録シート(A4)
場所:フェンス角(寺の参道から南へ一本)
時刻:20:37/天候:晴(乾き気味)/人通り:少
歩速:半歩
聴取:耳 感じた音:短い驚き(1拍)
備考:ラジオ側ドラマSE=似ている(0:11→0:12)
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「来訪者向けの掲示素案も、この場でラフを作っておこう」
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来訪者向け掲示・素案(A5)
この路地では、夜に小さな音が聞こえる日があります。
・驚いたら立ち止まらず、安全を優先してください。
・録音は短時間で。設備や接点には触れないでください。
・昼は周囲の音で聞こえにくい/夜は聞こえやすいことがあります。
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紙をファイルに戻し、こみせの屋根を抜ける。風が一段冷たくなった。寺の外灯は白く、砂利が淡く浮く。墓石の影は細く長い。
笑いは、今は降ってこない。代わりに、紙の上で記号が増える。
◇
夜、各自の部屋。
桂一はデスクを三つに分ける。観測、照合、説明。コピー用紙に三行だけ要点を書く。
——昼:主役多→小さい音が隠れる
——夜:主役減→小さい音が前へ
——半歩:耳の周辺に“風の路”/速足:路が浅い
同ホテル内の相沢からメッセージが届く。
〈図版、昼/夜/半歩の3枚にする。OK?〉
「OK。**“雑なラジオ”**の比喩は本文に一回だけ。用語は出し過ぎないで」
既読が灯り、〈了解〉の短い返事。
メタルフレームを外してテーブルに置く。伊達の鏡は、今日は充分に働いた。
“聞こえない”と“近い/似ている/不一致”が紙に残った。
結論は置く。おそらくの形だけ、静かに立てておく。
噂はゆっくり薄まり、紙はゆっくり厚くなる。
その速度で、ちょうどいい。




