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起:降ってくる笑いの方角

 扇風機の首が「いち、に」と頷くたび、デスクの端の付箋が微かに揺れた。

 事務所はワンルームより少し広いだけ。スチール棚には紙の背表紙が色ごとに並び、黒いマジックで「観測」「下書き」「公開前」と雑に書かれている。窓は東向き。薄いレース越しに午後の白っぽい光が落ち、観葉植物の葉脈だけがくっきり浮かんだ。床は古いフロアタイルで、ところどころ色が抜けている。


 画面の右上で、受信箱が青く光って止まった。


「また来たよ」

 相沢がキャスター椅子の背を押してこちらへ滑ってくる。髪は耳の後ろでゴムひと巻き。白いTシャツに薄灰のカーディガン、黒のワイドパンツは足首で軽く揺れて、ローテクスニーカーは真っ白。肩がけのカメラバッグは蓋が半分開いたままだ。


「件名、似てるな」

 桂一はメタルフレームの眼鏡を指で押し上げ、受信トレイを上から順に読む。洗いざらしのリネンシャツに薄い防水パンツ、靴は歩き潰したローカット。腕時計は黒の樹脂で、ベルト穴が一つ広がっている。


「『裏通りで笑い声が降る』『雨上がりだけ聞こえる』『男だったり女だったり、たまに短い悲鳴』」

「場所は?」

「青森、弘前。寺町——禅林街の近く。こみせ通りの裏だって」


 本文を開く。ひとつ、ふたつ、みっつ。どれも若い文体で、地図の赤丸は同じ通りに帯のように重なっている。男の乾いた笑い、女の含み笑い、ドラマの一コマみたいな短い叫び。夏の夜や雨上がりに多く、冬はほとんど聞こえない。理由は分からない。墓地と寺が近いから余計に怖い——そんな一文も混ざっていた。


「まずは噂そのままに受けよう。現場は“怪談”として歩く。耳だけ持ってく」

「紙はどうする?」

「“音”用の観測シート、現地安全。照合メモは、まだ白でいい」


 プリンターが目覚める音を立て、厚手のA4が数枚吐き出された。インクの匂いが淡く広がる。相沢はクリップボードを二枚抜き、角を揃えてコトンと置く。


―――――

音の観測記録シート(A4)

場所:____/方角:____/地物:看板裏・フェンス角・屋根梁の下 など

天候:___/時刻:__:__/人通り:少・中・多

風:無・弱・中・強/湿り気:低・中・高/路面:乾・濡・残雪

聴取:耳・骨伝導・録音(機種__)

感じた音:男笑い・女笑い・短い驚き・ノイズ

歩き方:ゆっくり・普通・速足(半歩指示可)

安全:立ち止まり30秒以内/車両注意/私有地立入なし(✔)

備考:寺・墓地の位置/照度/周囲の金属

―――――


―――――

現地安全メモ(A5・配布可)

・私有地・設備に触れない/通路をふさがない

・録音は短時間・人物の声は拾わない

・暗所では二人以上で行動/夜間の学校・寺院境内は立入不可

―――――


「宿は駅前で取るね」

「宛名、“市影譚”でもらう」

「はいはい」


 相沢は机の下からトートを引っ張り、常備のポーチを放り込む。モバイルバッテリー、小型ライト、ばんそうこう、飴。桂一は小さなノートを二冊、名刺サイズの案内カード束、折り畳み傘、薄手のウィンドブレーカーを鞄に入れた。財布の透明ポケットには、黒地に白字のロゴステッカー——“市影譚”。


     ◇


 新幹線の窓を流れる水田が光っている。夏の午後は雲が厚くても地面が明るい。岩木山はまだ遠い。弘前駅で降りると、熱気が足首のあたりで渦を巻いた。街路樹の葉は濃く、空気はわずかに湿っている。


 駅前のビジネスホテルは、すべてが標準化された顔をしていた。艶のある木目のカウンター、薄いミント色の壁紙、消毒ボトルの透明感。チェックインカードに氏名と連絡先を書き、ペンを置く。


「領収書、宛名は“市影譚”でお願いします」

 フロントの男性は一秒だけ目を瞬かせたあと、口角を上げてプリンターに打ち込む。

「なにか、調べものですか?」

「静かなほうの」

「……よいご滞在を。お部屋は十階でございます」


 紙が吐き出される。相沢はキーケースを指先で回しながら、ロビーの観光案内パネルを眺めた。禅林街——寺院が筋をつくる場所。こみせ通り——雪から人を守る連続の屋根。どちらも地図の中央から少し南西に寄っている。


 部屋は白い。ベッドのリネンは角が立ち、デスクの面は明るい木目で、壁の額には岩木山の写真。ユニットバスは狭いが清潔で、鏡の角に曇り止めの線が一本通っている。窓からはビルの屋上が見えて、風の向きでビニールシートが少しだけ鳴った。


「荷物を置いたらすぐ出よう。日が落ちる前に、場所の“高さ”だけ掴む」

「高さ?」

「音の生えてくる層。あごの位置か、耳より上か、胸の前か」


 ポケットに小さな録音機だけ入れ、紙の束を薄いファイルに挟む。”ラジオを持っていこうか悩んだ”が、今日は止めにした。原因を探すのは明日でいい。今夜は、言葉どおり“降ってくる笑い”を拾う夜にする。


     ◇


 禅林街の並びは整っていた。石の参道が夕方の光を飲み込んで、木の門が端正に影を落とす。境内の砂利は湿っていない。門の向こうに墓地へ続く小径が見える。白い花立てに線香の香りが薄い。足を止めて頭を下げる相沢の横顔に、光がきれいに回った。


 こみせ通りに入る。連続した屋根が歩道を守っている。雪国の知恵の形。屋根を支える梁や吊り金具、看板の支柱、雨樋の受け。金属の線と板が、真っ直ぐと曲がるを繰り返して続いている。裏へ折れる。表通りの気配が一段下がって、路地は小さな箱になった。


「ここからは半歩ね」

「了解」


 二人は横並びをやめ、半身ずつずらして進む。足音は合板の舞台で歩くみたいに小さく響き、すぐ消える。風は背中から入って、耳の後ろで抜けた。


 角をひとつ曲がったとき、袖の上を何かが擦った。言葉にするなら、笑いの欠片。乾いた。低い。ほんの二拍。


「……今の、聞こえた?」

「乾いた男の笑い。音量は小さい。角のここ、看板の裏」


 壁に手は触れない。地面の割れ目から半足ぶん下がる。耳の高さを少し上げる。もう一歩前。空気の層が変わる。欠片が肩口でほどけて、消えた。

「一人で歩いてて、突然聞こえたら怖いだろうね。今でもビックリした」

「確かに。前知識が無かったら驚いていただろうな」

 数メートル先、フェンスの曲がり角。今度は柔らかい。女の含み笑い。喉仏の気配がない丸い響き。持続は短い。ふっと来て、ふっと消える。

 その間に、短い「あっ」が挟まった。驚いたときの息の切れ。悲鳴と呼べなくもないが、塗り立ての言葉ほど強くはない。


「三種類、だね」

「順番は一定じゃない。分かれ角で増える気がする」


 相沢がスマホの地図に小さく×印を置く。×は看板の根元に寄る。フェンスの支柱の近く。屋根の梁の継ぎ目。印は帯のように続いて、ところどころで途切れる。寺の方角から風が回ると、×は少しずれて、戻った。


 路面は乾いている。けれど、建物の隙間から湿り気が立っているのが分かる。雨上がりには、ここが少し違って見えるだろう。雪の季節には、金具の上に白い蓋が載る。想像だけれど、音は眠るのかもしれない。——確かめるのは、いつか冬にまた来たときでいい。


 紙の束を取り出し、書く。


―――――

音の観測記録シート(A4)

場所:こみせ裏・看板支柱の奥(墓地から東へ二筋)

方角:北に背 地物:看板裏/屋根梁継ぎ目

天候:晴・湿り気中 時刻:19:17 人通り:少

風:弱(墓地側→市街地側)/路面:乾

聴取:耳 感じた音:男笑い(乾/短)・女笑い(柔/短)・短い驚き(1拍)

歩き方:半歩ゆっくり

安全:✔立ち止まり短時間 ✔車両注意 ✔私有地立入なし

備考:声の高さは頭より少し上/印×追加

―――――


 ペン先が紙を走る音だけが路地の箱の中で少し膨らみ、すぐ平らになった。遠くで風鈴。もう少し遠くでスクーターの排気。


「怖いって言うより、体のどこを通ってるのか分からない感じだね」

「耳の外側じゃなくて、耳の“周辺”を撫でる。言葉になりかけ、になる前」


 角をもう一つ。地面に小さな水たまりが丸い鏡を作っている。覗き込むと電線が揺れ、鏡の中で揺れて、戻る。相沢がしゃがんで、録音機を水たまりの上にそっとかざす。拾えたかどうかは、帰ってから確認すればいい。


 歩幅を普通に戻してみる。笑いはすり抜ける。足を速める。さらに薄くなる。半歩に戻す。欠片が肩へ戻ってくる。歩き方だけで、拾えるものが変わるのは確かだ。


「冬に報告が少ないの、なんとなく分かる気がする。厚着で耳がふさがるし、歩くのも早い」

「雪の粒は音には優しいけど、金具には厳しい。——なんてね。想像話は置いとこう」


 寺の外灯が点いた。白い光が砂利に落ちて、墓石の影が細く伸びる。風が一度止まって、再び動き出す。路地の上から、また短い笑いが降る。今度は男と女が重なったみたいな、混合の響き。


 相沢はスマホの画面に×印を増やし、その下に小さく「重なり」と書いた。紙の束の次のシートに同じ内容を書き写す。二重にしておけば、ひとつが汗でふやけても、どちらかは助かる。


―――――

音の観測記録シート(A4)

場所:こみせ裏・フェンス角(寺の参道から南へ一本)

天候:晴 時刻:19:34 人通り:少

風:弱→無 湿り気:中

聴取:耳 感じた音:男+女の笑いが重なり(短)

歩き方:半歩→普通→半歩(半歩で聴取)

備考:声の高さ=頭上10〜20cm/印×追加

―――――


 一本だけコンビニの袋を提げた人が通り、こちらを見て軽く会釈した。目が“分かる人”の目をしていた。声はかけない。こちらからも会釈だけ返す。ここは誰かの日常の通り道だ。調査はいつだって、道の端を借りてやる。


「今日はここまでにしよう。だいたいの帯は掴んだ」

「明日は?」

「紙をもう一種類増やす。……照合用の、ね」

「言葉を近づける手段、ということ」

「うん。握りしめない程度に」


 表通りへ戻ると、こみせの屋根から外れて風が温度を変えた。商店の灯りが通りを薄いオレンジに染める。寺の方向へ背を向けると、笑いはもう追ってこない。遠くの十字路で車が一台だけ曲がり、テールランプが赤を引いた。


     ◇


 ホテルに戻る。自動ドアの前に立つと、冷気が足の甲にまとわりついた。ロビーの革張りソファには旅行者が二人、観光パンフレットを広げている。エレベーターの鏡は新品みたいに曇りがなく、すれ違いざまに誰の表情も写さなかった。


 部屋の灯りを落とし、デスクスタンドだけにする。紙の束を横一列に広げ、地図を中央に置いた。×印は十ほど。帯になって、ところどころで細くなる。寺と墓地の方向に矢印だけ書き込む。


「今日の結論は?」

「無し。聞いた事実だけ書く」


 桂一はぺンで一行だけ、ノートの上段に記す。


 ——男の笑い、女の笑い、短い驚き。降ってくる。歩き方で拾える/拾えないが変わる。夏は濃い。冬は薄い(報告より)。理由はまだ書かない。


 相沢は先にシャワーを済ませ、髪をタオルで押さえながら窓を少しだけ開けた。夜気が入り、カーテンが胸の高さでふくらむ。外から、一度だけ救急車のサイレンが遠くを横切る。


「領収書、明日の朝にもう一枚もらっておこうか。二泊目の分」

「宛名は同じで」

「“市影譚”。覚えられそう」


 ベッドのサイドの小さなスイッチに指をかける。白い光が一段落ち、部屋は柔らかい闇に包まれた。枕は硬すぎず、天井は少し低い。外から笑いは聞こえない。代わりに空調の息だけが一定のリズムを刻む。


「明日はどうする?」

「昼は禅林街をもう一度歩く。夜は、少しだけ“道具”を足す。——紙で測って、紙で残す」


 眠りに落ちる前、まぶたの裏でさっきの路地が短く再生された。曲がり角、看板の裏、フェンスの継ぎ目。音は肩口で解け、上からときどき粒になって降ってくる。理由はまだ言わない。言葉は明日に回す。今夜は耳だけ休ませて、紙を重くする。


     ◇


 朝。カーテン越しに淡い光が広がる。窓の外では鳥が短く鳴き、遠くに通勤の車列が見えた。ロビーの匂いは昨夜と同じ。フロントに立ち寄り、追加の一泊分の領収書を受け取る。


「宛名、“市影譚”と書いてください」

「ありがとうございます。昨日の方ですね」

「はい。静かなほうの」

「またのお戻りを」


 紙は二枚になった。財布の透明ポケットに重ねると、ほんの少し厚みが増えた。厚みは、安心の重さに似ている。今日も歩く。笑いの方角を、もう少しだけ確かめるために。

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