AIRPORT ONE SHOT : 『カップラーメン』
真夏の羽田空港。夜のフロアに残っているのは、山口真奈美と鈴木辰哉の二人だけだった。昼間から続いた業務が長引き、気づけば時計は午後十時を回っていた。窓の外には蒸し暑さを含んだ夜気が漂い、照明の白い光が書類の山を淡く照らしている。
鈴木が机の上のテレビを何気なくつける。画面に現れたアナウンサーが淡々とニュースを読み上げた。
「……ただいまの時刻は午後十時を回りました。本日8月4日、東京の代々木公園では――。」
鈴木の表情が一瞬固まる。隣で書類を片付けていた真奈美が首を傾げた。
「どうかしました?」
「いや……。」
鈴木は画面から目を逸らし、短く答える。ふと視線を空席に向けた。そこは片山の席だった。
「そういえば、片山さん今日は休みでしたね。」
「有給だよ。……あの人、毎年8月4日は必ず休むんだ。大分のときもそうだった。」
「え、そうなんですか? 何かあるんですか?」
「理由は聞いても教えてくれなかった。ただ、何があってもこの日は必ず休んでた。」
真奈美は首をかしげた。あの寡黙な片山が、毎年同じ日に必ず休む。その理由を知る者はいない。だが、言葉にできない重みを感じ、真奈美は小さくため息をついた。
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「なんか……腹減ったな。」
「私もです。」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。そして同じタイミングで立ち上がり、オフィスを出ることにする。管制部のドアを開けると、夜の廊下はひんやりとした空気に満ちていた。蛍光灯が規則正しく床を照らし、遠くで清掃機の低い音が響いている。二人はエレベーターに乗り込み、静かな駆動音に揺られながら下っていった。ドアが開くと湿気を帯びた空気が流れ込み、夜風がかすかに頬を撫でた。
地上の通路を歩いて第一ターミナルへ。深夜にもかかわらず、到着ロビーには数組の乗客がいた。長旅を終えてスーツケースを押す家族、ソファで仮眠を取る若者、スマホを食い入るように見つめるビジネスマン。人影はまばらだが、空港が止まらないことを実感させる光景だった。
「まだこんなに人がいるんですね。」
真奈美が驚いたように言う。
「羽田は24時間動いてるからな。俺たちが帰る頃でも、誰かは飛び立つし、誰かは着く。」
鈴木が肩をすくめる。
二人は到着ロビーの一角にあるコンビニへと足を踏み入れた。
「どれにします?」
真奈美が棚に並ぶカップを指差す。
「俺は定番のカップヌードルだな。こういうときはシンプルなのが一番いい。」
「じゃあ私は味噌にします。ちょっと冒険。」
「大げさだな。」
鈴木が笑う。
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レジを済ませ、休憩室に戻る二人。お湯を注いで机に置き、三分を待つ間、肘をついて語り合った。
「真奈美は、この仕事慣れてきたか?」
「慣れたとは言えないですね。毎日が必死で。今日だって、あの指示は正しかったのか不安で仕方ないです。」
「不安になるのはわかる。ただ、それに飲まれるのはよくない。誤った判断をしかねないからな。」
「……ですね。」
やがて秒針が三分を刻み、二人は同時にフタを剥がした。漂う香りに顔をほころばせ、麺をすする。
「うまい!」鈴木が声を張る。真奈美も笑いながら頷いた。
「……大分でも、片山さんと二人でこうして食べたことがあったな。」
「えっ、片山さんが? 信じられないです。」
「俺も最初は意外だった。でも普通に『熱っ!』って顔して食べてたよ。ちょっと面白かった。」
「想像したら笑っちゃいますね。」
二人は笑い合い、しばし麺をすする音だけが響いた。
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ラーメンを食べ終える頃、真奈美は箸を置き、表情を引き締める。
「鈴木さんは……どうしてずっと続けられるんですか? この仕事。」
鈴木は少し驚いた顔をして、やがて笑った。
「どうしてって聞かれると難しいな。俺だって失敗もするし、嫌になることもある。でも……普通に飛行機が飛んでるのを見ると、自分たちの仕事が役に立ってるんだって思える。」
「役に立つ……。」
「そう。俺たちが判断ひとつ誤れば、空を飛ぶ人たちの命が危うくなる。責任は重い。それに、この仕事はいつどんなことが起こるか分からない。去年の冬のサイバーテロもそうだし、それなりに経験を積んでる今でも驚かされることが多いよ。だからこそ、仲間の存在が大事なんだ。俺ひとりじゃ絶対に無理だ。」
真奈美は静かに息を吐き、頷いた。
「……私も、もっと頼っていいんですね。」
「当たり前だろ。俺たちはチームだ。片山さんだって、そう思ってる。」
少し間を置いて鈴木が問い返す。
「じゃあ真奈美、お前はどうなんだ? なんで続けてるんだ?」
真奈美は目を丸くし、少し考えてからゆっくり答えた。
「私……まだわからないです。でも、たまにパイロットから『ありがとう』って言われたとき、胸が熱くなるんです。その瞬間があるから、続けられてる気がします。」
「いいじゃないか。」
鈴木が微笑むと、真奈美もつられて笑った。
「でも、悩むことばっかりです。私の判断で誰かに迷惑をかけたらどうしようって……。」
「それはみんな同じだ。俺だって怖い。でもな、怖いからこそ気を張れるんだ。」
「……そうかもしれませんね。」
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二人は片付けをしながら、話題は休みの日の過ごし方についてになった。
「鈴木さん、明日の休みは何するんですか?」
「休みか……。多分寝てるな。あとは部屋の片付けくらいだ。」
「意外と普通なんですね。」
「普通でいいんだよ。非日常は仕事でたっぷり味わってる。」
二人は笑い合った。真奈美が少し考えてから問い返す。
「家族と過ごすこととかは?」
「たまに甥っ子と遊んだりするよ。けど基本は一人だな。」
「そうなんですか。私は……休みの日はだいたい家で映画見てます。」
「なんだ、真奈美も普通じゃないか。」
「悪かったですね。私も“普通”で! でもまあ、現実逃避ですよ。そうでもしないとやってられませんから。それに、この前は友達と映画館で『ヒロアカ』観に行きました。めっちゃ面白かったです。」
鈴木は目を丸くした。
「ヒロアカ? ああ、あの人気アニメの。真奈美、そういうのも観るんだな。」
「はい。意外ですか?」
「意外だな。でも、似合ってるよ。」
「鈴木さんも観てくださいよ。」
「たまにはアニメもいいかもな。」
鈴木は少し笑って首を傾げる。
「そういや俺が中学生のときに観た映画を思い出したよ。『アビエイター』って知ってるか?」
「レオナルド・ディカプリオが出てるやつですよね? 飛行機作った人の。」
「そうそう。あれ観て、飛行機ってすげぇなって思った。あの時の衝撃は今でも覚えてる。」
真奈美は感心したようにうなずいた。
「なるほど……鈴木さんの原点ってそこなんですね。」
「どうなんだろうな。でも、あれを観たから今も空港で働いてるのかもしれない。」
そんなやり取りの合間に、重い疲れが少しずつほどけていった。窓の外には夜の闇が広がり、時計の針はすでに深夜を指していた。
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「そろそろ戻りましょうか。」
真奈美がカップをゴミ箱に捨てながら呟く。
「ああ。もうちょっと頑張るか。」
鈴木が伸びをして立ち上がる。
二人は肩を並べて休憩室を出た。廊下には人気がなく、真夜中の静けさが羽田を包み込んでいた。
湯気の向こうで交わされた言葉は、何気ない会話のようでいて、
互いの胸に静かに刻まれていく。
それは、不安を抱えながらも前へ進もうとする若手と、
支えとなろうとする先輩の、ほんのひとときの記録。
空港は昼も夜も止まらない。
そして彼らもまた、止まることなく歩みを続けていく。




