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ゲブラさんのふんわり思索シリーズ

芥川龍之介の自死に関する考察。

作者: エンゲブラ

さて、芥川龍之介である。

この国に生まれて、その名を知らぬ者は、ほぼいないであろうスーパー有名人だ。


YouTubeをラジオのように流し聴きしていたら、或る芥川賞作家が、芥川龍之介の自死について言及。連れション自殺未遂芸人の太宰(心中4回、単身4回)に関しては、「何の冗談だ?」と思う。だが、そのきっかけとされている芥川の死に関しては、背景を何も知らない。例の「ぼんやりとした不安」というフレーズ以外は。ということで、ちょっと調べてみることにした。


まず当たったのは、遺書扱いである『或旧友へ送る手記』。青空文庫にあったので、開いてみた。ひょっとすると、筆者は芥川の書く文章を真面目に読むのは、これが初めてかもしれない。学生時代に教科書等で、その断片に出遭っている可能性は高いが、印象は何もない。なので、少しワクワク。


うん、面白い。

そして美意識の権化ともいえる。

自死の方法として、さまざまなパターンを想定し、ふざけてもいる。溺死は水泳が達者な自分には無理だといい、ピストルやナイフは手が震えるし、ビルからのダイブや電車にGO!は見苦しい。ほんとは吊るのが一番楽だが、これも美意識に合わないので、お薬にします。―― なんだこれ?(苦笑)


過去に、自死についてを、ありのままに記述したものがないようなので、俺が書いてやるよ、スタイルである。そもそも、この『或旧友へ送る手記』は、様々な説があるようだが、特定個人の宛名があるわけではない。筆者の読んだ感想からすれば、自身の死すら「物語化」してしまっている、きらいすら感じる。


家族に残す遺産にしても、家で自死すると家の不動産価値が落ちる。ブルジョアみたいに別荘とかあったらよかったのにな、とか、ありのまま過ぎる独白だ。


ひとつ問題があるとすれば、本文中における自死の連れションへの言及。結論としては、ひとりでできるもんとする芥川だが、これが太宰の迷惑さの引き金となった可能性は、けっこう高そう。「あこがれのあの人でも選べなかった方法で、俺は逝く」的な阿呆な発想が生まれたのかもしれない。


―― で、例の「ぼんやりとした不安」の正体について。これは芥川の「死亡した年齢」と終盤に述べられている「動物力の喪失感」によって、おおよそのあたりがつく。


34歳、60歳、78歳。

さて、これはいったい何の数字か?

人間の老化の推移は一定ではない。そして「老化の急加速」を示すのが、先の年齢である(スタンフォード大学の研究)。具体的には、血漿タンパク質のレベル測定で、これを見ているわけだが、芥川が自死したのが「35歳」である。要するに芥川が、ぼんやりと抱えた「動物力の喪失感」も、ここに原因があるのではないか?と。


この『或旧友へ送る手記』の中で出てくる詩人のマインレンダーも、やはり「身体が疲れた」と34歳で吊っている。(太宰は、20歳からチャレンジを開始しているが、けっきょくは38歳まで粘った)


美意識に溺れる不摂生な文士が、最初の加速的老化に失意し、「自分の美が崩れ去る前に自身を処した」と考えれば、少しばかり納得がいくが、共感はまったくしない。



一説には、芥川は、自身の「発狂」を恐れていたともされる。母親が精神的な疾患を持ち、自身も晩年には、不眠症、神経衰弱、幻覚などに悩まされ、遺伝的影響を危惧していたという話から。


しかしながら、ある種の精神疾患、神経過敏は「芸術的創作」との相性もよく、表現者にとっては、悩ましくも「天与の才」であるともいえる。当人が発症していなくとも、親族に発症者が多い、因子を持つであろうと推定されるアーティストは、数え切れぬほど存在する。突出やとがりが、社会性を喪失するまで行き過ぎると「疾患」と呼ばれてしまうだけで、鋭さは「境界面に直に触れる触覚」でもある。そのため、そのフィードバックの「解釈と処理」の仕方によっては、名声を得る「宝」となり得るというのが、筆者の理論だ。



『或旧友へ送る手記』の中で、芥川が述べているように、筆者も自死そのものを否定するつもりはない。自己の判断であり、権利でもあるからだ。周囲にいる人間からすれば、不愉快極まりない行為であっても、当の本人のとっては、それこそ「死活問題」である。


死を「より高次なる生への希求」との述べたのは、誰であったか。


「死にたい」という言葉は、往々にして「もっと、活き活きと生きたかった」という言葉の裏返しであることが大半であろう。だが、それが叶わないので、今回はあきらめてリセットボタンを押す。次のプレイがあるのかどうかは分からないが、さすがにこのゲームにはもう飽きた。とかなんとか。


生活苦や身体的な苦痛から逃れるために、死を選択するという行為を否定するつもりはない。それを否定するためには、その人間が抱えてくる「苦痛の肩代わり」をする責任も付きまとうからだ。手の届く範囲の相手なら「ふざけやがって」ともなるが、赤の他人の自死にまでケチをつけるのは、どうかしている ―― 自殺すると地獄に落ちるとか苦労人に生き地獄を味合わせる宗教も、どうかと思う。


しかしながら、大した苦痛もなさそうに見えるのに、漠然とした気分で自死に走る人間には、呆れも覚える。「ブルジョアの遊びとしての自死じゃないか」と。売れっ子文士の自死なんて、「不摂生の極みが招いた苦痛じゃねーの?」と冷めてもしまう。筆者の太宰に対する読まずぎらいも、このバイアスの影響が大きい。ひょっとしたら、食わず嫌いだった納豆と同様に、読んでみたら面白いかもしれない。だが、こちらは納豆とは違い、性根が筆者とは合うまいとも確信している。読まずにね(あいかわらず)。



ひとつ、もったいない部分を挙げるとすると「自殺者は紙幣の肖像にはなれない」という点か。


作家では、夏目漱石や紫式部、樋口一葉といったあたりが、すでに肖像として採用されている。格でいえば、芥川や川端あたりも、それに価すると考えられるが、おそらく永遠にその日は訪れないだろう。紙幣の肖像に選ばれるのは、なんせ「その国における道徳的規範」となりうる人物という暗黙の了解があるためだ。自死は、その大きなマイナスポイントとなる(不倫大王とかには甘い選定委員たちのようではあるが)。


蛇足)

ちなみに福沢諭吉の有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の一文。これたしか昔の教科書では、素晴らしい平等主義のように載せられていたと思うのだが、この認識は大きな誤りであったことを後に知った。


この一文には「されども今広くこの人間世界を見渡すに、賢き人あり、愚なる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其の有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。」という続きがあり、先の文も、キリスト教的な欧米思想を揶揄することを目的とした枕であり、実際の福沢の信条とは真逆ともいえる。福沢の本質は「啓蒙的エリート主義」であって、『脱亜論』では、中国や朝鮮を見下しまくっているのだから、分かり切ったことでもある。平等主義をミスリードさせる刷り込みは、何のプロパガンダ、歴史的認識の改竄だったのであろうか?


やっぱり、紙幣の肖像に使うために「道徳的規範」であったという、ありもしないキャラクターの付け足しなのかね。

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