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海と唯華

「海は巨大な知的生命体なの。海語を話すのよ。波の音は海の言語なんだ」と新藤唯華(しんどうゆいか)は言う。

 唯華は砂浜に座り、打ち寄せる波の音に耳を傾けている。

 あどけない顔をしたショートヘアの少女。高校の制服を着ているが、病気で休学している。

 この制服好きなんだ。伝統的なセーラー服、素敵よね、と言っていた。

 私はその隣で膝を抱えて、唯華の話を聞いている。

 白衣を着てドクターシューズを履く私は、2か月前まで総合病院に勤務する脳外科医だった。新進気鋭の神の手医師ともてはやされていたが、今は唯華ひとりのための医者だ。

 セーラー服と白衣というふたり組の女は、さぞかし海に似合わないと思うが、唯華も私もマイペースで他人の目なんて気にしていない。


「ざーん・ざざざ・ざ・ざばーん・ざぱん」

 海語を解読したと自称する唯華は、拡声器を持って海に話しかける。

 初めて聞いたときは大きな音量に驚いたものだが、今ではすっかり慣れてしまった。

 貝殻を拾っている母娘が大声に目を見張って、私たちから離れていく。

 沖で白波が生まれては砕け、生まれては砕け、また生まれて砂浜に届いて砕け、波飛沫が舞う。

 唯華は波の音を聴いている。

「魚・およぎ・クラゲ・ただよい・海虫・とぶ」

 海の言葉を翻訳してくれる。

「海虫ってなんなの?」と私は訊く。

「あたしにもわかんなーい。ざざん・ざっばーん・ざざ・どぱん?」

 波は繰り返し生まれては砕けるが、ひとつとして同じ形はなく、変転しつづける。どれだけ長く見ていても、見飽きることはない。

「ちいさい・海底・はねる・とぶだって。海虫、見てみたいね。潜水したら見られるかな?」

「もう海水浴のシーズンは終わったわよ」

「泳げるのは来年かあ。待ち遠しいね」

 唯華の余命は半年で、来年の夏まで生きていられる可能性はほとんどゼロだ。

 そのことを彼女も知っているが、悲愴感を面に出すことはめったにない。

「ざ・ざ・ざーん・ざざん・じゃらー・ざぱーん・ざぱん」

 海と会話しつづける唯華は不思議ちゃんと言ってもいいかもしれない。

 私には海語はわからない。

 海と話せるのは世界で彼女だけだ。


 ひとしきり海を眺めて、私たちは家に帰る。

 砂浜は草原に変わり、そこに細い小道が延びて唯華の家につづいている。

 草原にはヒヨドリバナの群落があって、白く可憐な花を咲かせている。

 海を渡ってきたアサギマダラがヒヨドリバナに舞い降りて、いっとき羽を休める。

 透明感のある水色の蝶。このところよく見かける。

 9月、アサギマダラは南へ南へと旅していく。

 

 唯華と私は海が見える平屋に住んでいる。

 赤煉瓦の屋根と白い壁を持つ瀟洒な建物だ。

 庭は薔薇の生け垣に囲まれ、百花咲き乱れている。

 庭師と家政婦を兼ねる朝霞(あさか)カナエさんという女性が毎日通ってきて、私たちと庭の面倒を見てくれている。

 唯華の祖父は複数の企業を経営する大富豪で、孫娘にめっぽう甘い。望むものをなんでも買い与える。

 海辺の住処と専任医師の私も買った。

 唯華の脳には切除が極めてむずかしい進行性の腫瘍ができている。主治医は私だった。神の手医師なんて言われたりすることがある私でも手を出したくないヒトデのような形の大きな病巣だった。

 4月、私は余命1年と宣告した。

「摘出手術をしなければ治ることはありませんが、腫瘍は脳の深い部分にあり、失敗すればそのまま命を失うことになるかもしれません。その可能性は高い……。緩和ケア治療をすれば、あまり苦しむことなく残りの時間を過ごすことができるはずです」  

 唯華と彼女の両親は緩和ケアを選択した。

 彼女の治療はいったん私の手から離れた。

 

 6月、唯華の祖父、新藤竜也(しんどうたつや)が病院にやってきて、私の前に一生かかっても使い切れないような札束を積んだ。

「孫は海のそばで暮らしたいと言っている。あの子のために家を建てた」

 それが私となんの関係があるのか最初はわからなかった。新藤竜也は唯華が私に懐いていて、一緒に暮らしたいと希望していると言った。

「センセー、あたし病院キラーイ」

 病室でそんなことを広言する気ままな患者だった。 

「私だってこんなところは嫌いよ。早く開業資金を貯めて出ていきたいわ」と答えると、唯華はあたしと一緒だと言って笑った。

 私は一匹狼的な気質で、大勢の医師が勤務し、院内派閥が明瞭に存在する総合病院は肌に合わなかった。

 唯華の残り少ない人生につきあうことにすれば、ここからすぐにおさらばできる。

「緩和ケアは専門ではありませんが」と私は大富豪に伝えた。

「できるだけのことをやってくれればいい」

 そういうなりゆきで、私は唯華ひとりのための医師になった。7月から彼女と同居して、緩和ケアを施している。

 私はクールな医師であろうと思っていた。

 残り寿命の乏しい不思議ちゃんと同居して、情が移るという計算をしていなかった。

 今では唯華を失うのが怖い。

 

 9月は台風が多いシーズンだ。

 非常に強い台風が接近してきた。

 窓から海を見ると、波は高く荒く逆巻いている。

「海が海が海が苦しんでる! 痛がってる! 海が海が呪ってる!」

 低気圧は唯華に激しい頭痛を生じさせる。

 錯乱するときもある。

「どっばーんざぁばーんさばさばさばだだーんざっぱぁーん!」

 彼女がベッドで騒いでいる。

 私は彼女の腕にアルコールを塗り、注射を打つ。

「海は海が叫んでる歌ってる喚いてる。ざざぁざばざばざぶん……」

 唯華の家に私は必要と思われるあらゆる薬剤を持ち込んでいる。その中には麻薬同然の痛み止めや麻酔薬もある。

「海は泣いてる……ざぁーん……」

 彼女を眠らせて、私はため息を吐く。

 1枚のレントゲン写真を見ながら考える。

 大脳基底核にあるヒトデ型の腫瘍を切除することは不可能なのか。

 唯華はまだ高校生だ。

 死ぬには早い。

 そして私は彼女を死なせたくないと強く願うようになっている。

 私は緩和ケア内科の医師ではない。私の本領は脳手術にある。


 台風一過、天は蒼く澄み切っていた。

 唯華は砂浜へ行き、私は後を追う。

 彼女は今日も拡声器を持っている。

「ざっぱーん・ざばん・ざばっ・ざばっ・じゃぱーん」

 唯華は彼女にしかわからない海語をしゃべり、波打ち際で海は高鳴る。

 台風は去ったが、余韻があって波はまだやや高い。

「ざざっ・ざざざっ・ざっぱん・ざぁばーん」

 海と話しているとき、彼女は楽しそうだ。

 この時間がいつまでもつづけばいい。

 もし時間が砂時計のようなものだとしたら、私はじっと監視して、砂が尽きる前に引っくり返す。砂はまたなくなろうとするだろうが、私は繰り返し引っくり返す。唯華の時間は先へ先へと延びるだろう。

 ヒヨドリバナの群生地からアサギマダラの群れが飛び立つ。羽を動かして、ひらりひらりと優雅に舞う。

 蝶の群れは海上へ移動し、南へ向かって飛んで、やがて見えなくなってしまう。

 蝶と花の楽園のような草原に囲まれた海辺の暮らしが私は気に入っている。

 できるだけ長く唯華と過ごしていたい。 


 私の雇い主である唯華の祖父と月に1回面会することになっている。

 9月末、私は都心の超高層ビルの最上階にある部屋に入った。

 新藤竜也は忙しくて、私に与えられた時間は5分しかない。

「唯華さんは小康を保っていますが、腫瘍は少しずつ拡大しています」

 私は端的に報告する。

「余命は確実に縮んでいます」

「余命が縮まない人間などいない。あらゆる生き物の寿命が刻一刻と減っている」

「そういうことではなく……」

 冷厳とした表情の老人から指摘を受けて、私は一瞬冷静さを失う。

「いえ、おっしゃるとおりです」

 こほんと咳払いして、私は提案する。

「腫瘍摘出手術をしてみてはいかがでしょうか」

「不可能だと言ったのはきみではなかったか」

「極めてむずかしいと言いましたが、成功の可能性はゼロではありません。手術しなければ唯華さんは半年以内に確実に死にます。助かるためには賭けなければなりません」

 大富豪は私を睨み据えている。

「成功の可能性は何割だ?」

 私はどう答えればいいか考える。新藤竜也は分刻みのスケジュールを持っていて、迷っている時間はない。結局、平凡な言葉を返す。

「脳を開いてみなければなんとも言えません」

 新藤竜也は私から目を逸らし、広い窓から大都会を見下ろす。

 その場では回答をもらえなかった。やってみろともだめだとも。

 しかし海辺の家に帰りついたとき、唯華が私に駆け寄ってきて言った。

「おじいちゃんから手術を受けてみろと勧められたよ。純花さん、あたしを助けてくれるの?」

 私の名前は伊藤純花(いとうすみか)という。唯華と少し似た名前を持っている。

 

 10月、生け垣の薔薇が紅い花を咲かせ、コスモスとダリア、リコリスも満開になり、庭は華やかに彩られている。

 薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込み、私たちは海へ行く。

 穏やかな波が白い砂浜に打ち寄せている。

「海が祈ってくれてる、手術の成功を」

 ありがとう……と唯華はつぶやく。

 そして拡声器を手に取り、「ざっぱあぁん、ざっぱあぁん、ざっぱあぁん」と叫ぶ。

「どういう意味なの?」

「海語でありがとう、だよ」

 私も叫ぶ。

「ざっぱあぁん、ざっぱあぁん、ざっぱあぁん」

 海よ、唯華を元気づけてくれて本当にありがとう。

「ざっぱあぁん、ざっぱあぁん、ざっぱあぁん」

 唯華と私の声が重なる。

 医師が患者と一緒に住んだりするものじゃない。

 唯華を亡くしたくない。

 明日、彼女は入院する。

 ふと足元を見ると、砂の上にアサギマダラの羽が落ちていた。南に行き損ねた個体だ。

 私は浜に蝶を埋めた。

「蝶のお墓だね」

 唯華はそう言って、生け垣の薔薇を1本手折り、砂に刺して手を合わせた。


 私は愚かだった。

 入院して精密検査をした結果、複雑な形に拡大した悪性腫瘍はあらためて切除不可能だという結論に至った。

 唯華にいったん希望を与えてから、絶望に突き落とす形になってしまった。

 新藤竜也からは怒鳴られた。

「おじいちゃん、純花さんを叱らないで」と唯華は言ってくれた。

 私がお金を全額返して海辺の家から去ると言うと、彼女は泣いた。

 どうしようもなくて、私はふたりの住処に戻った。

 草原にはアサギマダラはいなくなっていて、モンシロチョウやアオスジアゲハが飛んでいた。

 庭の赤い薔薇はまだ咲いていた。

 カナエさんが薔薇のジャムをつくってくれた。

 唯華の祖父が選んだ家政婦は多彩な技を持っていて、料理も上手だ。


 唯華の時間が減っていく。

 新藤竜也が言ったとおり、私の寿命だって少なくなっているのだが、それを体感することはない。

 私は若くて健康なのだ。

 唯華はさらに若いが、死病を患っている。

「ざっぱーん・ざざーん・ざざ・ざーん」

 彼女は海と話すが、私はそれが唯華の遊びもしくは脳の病変による妄想のようなものだと知っている。

 そんな無粋な指摘はしない。

 彼女は無垢な瞳で海を見つめている。

 死が近づけば近づくほど、唯華の瞳の透明度が増しているような気がする。


 11月、薔薇が散っていった。

 唯華が苦しむ時間が増え、それにともなってモルヒネの投与量も増えた。

 運動機能が低下して、私は彼女を車椅子に乗せて、砂浜へ連れていくようになった。

「ざざ・ざーん・さざ・ざーん……」

 声にも力がない。

 海は相変わらず千変万化し、力強く鳴りつづけている。

「海になりたい……」と唯華はつぶやいた。

「私が灰になったら、海に撒いてね」 

 

 唯華の余命は予想より少なかった。

 12月11日に彼女は亡くなった。

 緩和ケアの末、昏睡状態に陥り、静かに息を引き取った。

 病院に行くことなく、海辺の家のベッドで死んだ。

 死亡診断書は私が書いた。

「唯華さんは海洋散骨を希望していました」

 それが私が新藤竜也にした最後の報告だ。

 アサギマダラが消え、薔薇の花が消え、新藤唯華も消えた。

 海だけが変わらずに浜に打ち寄せつづけている。  

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