表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

運命の番の成り立ちについてあれこれ考えてみたシリーズ

ネコの獣人令嬢が「運命の番」でひと騒動起こしてしまうお話

「私は『運命の番』として選ばれた! 子爵令嬢リセプティーナ! 大変心苦しいが、君との婚約は破棄させてもらう!」


 穏やかに執り行われていた夜会で突如奇妙な宣言が響き渡った。

 婚約破棄の宣言は、恋愛ものの小説や演劇を嗜む者にとって珍しくない文言だ。月に一度は婚約破棄を扱った小説が刊行されているし、どこかの劇場で婚約破棄の宣言が叫ばれている。

 『運命の番』とは、獣人に対して神が選んだ運命の相手のことを意味する。獣人は『運命の番』となった異種族の異性を深く情熱的に愛するという。これも恋愛小説では人気のある題目である。

 しかしいくら空想の世界で親しんできたからと言って、現実の夜会で聞くとなるとまるで意味合いが異なる。実際に夜会で婚約破棄を宣言する者などまずいない。それに獣人がほとんどいないこの王国で、『運命の番』とは実際に使う機会のない言葉だ。

 婚約破棄の宣言と『運命の番』。その取り合わせには、驚愕よりも困惑が先に立つ。

 夜会に参席した学園の生徒たちは、まず事態を把握しなければと、その騒動の中心に目を向けた。

 

 最初に生徒たちの視線を集めたのは子息の後ろに立つ令嬢だ。

 伯爵令嬢アムショーティア。学園で唯一の獣人の令嬢である。頭から突き出たかわいらしい耳にしなやかな尻尾を生やしたネコの獣人だ。

 ショートカットに切りそろえられた髪は、黒と白の二色。縞模様の髪は獣人特有のものだ。

 丸っこい鼻。貴族社会では筋の通った高い鼻がよいとされるが、彼女の愛嬌のある顔立ちはその欠点を補って余りある。瞳の色はヘーゼル。明るい場所では人のものより細くなる瞳孔は、ネコの獣人の特徴だ。

 背は学園の令嬢の中では低い方だ。身に纏うのは黒を基調に白の刺繍で彩られた清楚可憐なドレス。それは彼女のかわいらしさを見事に彩っていた。


 腰のあたりからは白く細長い尻尾が伸びており、その先端には令嬢の握りこぶしほどの大きさの鈴がついている。

 その鈴は彼女が歩くと「リンリン」と軽やかな音を奏でる。そしてカーテシーを披露する時は「チリン」と涼やかな音を響かせる。その鈴は獣人に伝わる特別なものだ。獣人の優れた五感と身体能力によって変幻自在な音を奏でる。鈴の音を乱さないのがネコの令嬢のたしなみとのことだ。

 だがその鈴は今は「からから」と空虚な不協和音を響かせていた。彼女は獣人の令嬢としての礼法を保つことができないほどに怯えているようだ。どうやらこれは、彼女が意図した状況ではないらしい。


 生徒たちはこの予想外の状況を緊張をもって注視した。なぜなら獣人の令嬢は、この学園にとって特別な存在だったからだ。

 このマナカンド王国と獣人の王国ビアスサグアは長らく国交がなかった。100年以上前のこと、王国は獣人たちを奴隷として使役していた。そこから逃げた奴隷たちが築いたのが獣人の王国ビアスサグアだ。

 そうした経緯のため両国の溝は根深く、これまで国同士の交流と呼べるものはなかった。しかし近年、獣人の王国ビアスサグアはかなりの力をつけてきた。大国であるマナカンド王国がこれを無視し続けるのは、周辺国家の緊張を招き、対応を誤れば戦争の火種にすらなりうる。無用な争いを嫌った両国の王は、国民の反発を抑えながら両国の関係を改善する方法を探っていた。

 

 そうした状況で留学してきたのが獣人の令嬢アムショーティアだ。貴族の学園に獣人を迎え入れることで両国の関係を緩和する目的だった。当初は獣人の王族を招くという案もあったが、万が一のことがあれば両国間に致命的な亀裂が生じることになる。様々な思惑から、伯爵令嬢アムショーティアが選ばれたのである。

 

 獣人がすっかりいなくなったマナカンド王国だが、それでも過去の経緯は伝えられている。そのため、かつて奴隷だった獣人への偏見が根付いてしまっている。貴族の学園に獣人が通うことに抵抗を覚える生徒も少なくなかった。

 しかし彼女は子猫のようにかわいらしく、明るくて気さくで話しやすかった。今では彼女を「下賤な獣人」と見下す者はいない。彼女の奏でるシッポの鈴の音を聞くのを日々の楽しみとしている生徒もいるほど親しまれている。

 

 そんな獣人の令嬢アムショーティアが、学園の生徒を『運命の番』とした。国を挟んだ貴族同士の婚姻は当事者だけで済むことではない。しかも、ただでさえ緊張状態にある国の貴族だ。学生と言えど貴族の立場にある者ならば、決して無視できない事件だった。

 

 次に目を引くのは婚約破棄を宣言した伯爵子息アールダルトだ。

 燃えるような赤髪に、晴天の空を思わせる澄んだ青の瞳。長身にスラリとした体形の美丈夫だ。身に纏うのは紅を基調とした式服。それは赤い髪をより映えさせ、その姿を立ち上る炎のように彩っていた。その整った容姿から、令嬢たちの口の端に上ることも多い子息だった。

 そんなアールダルトだが、浮いた噂のひとつもない。婚約者以外の令嬢と二人きりの姿を見せたことすらない。

 彼の隣に立てる令嬢は、その婚約者である子爵令嬢リセプティーナただ一人だ。事あるごとに婚約者への愛を口にするアールダルトは、将来は相当な愛妻家になると見られていた。そんな彼が婚約破棄の宣言する日が来るなど、誰も想像していなかった。

 恋愛ものにおける婚約破棄の多くは、自尊心の肥大化した子息の愚かな行動だ。しかしアールダルトは違うようだ。苦しみに歪んだ顔は、その内面で相当な葛藤があることをうかがわせる。

 『運命の番』とは神によって選ばれるという。あるいは彼にとって、神に選ばれたのは不本意なことなのかもしれない。しかし、どんな事情であれ、わざわざ夜会で婚約破棄を宣言する理由となると、会場の誰にも想像がつかなかった。

 

 そして最後に注目を集めるのが婚約破棄を宣言された悲劇の婚約者、子爵令嬢リセプティーナだ。

 腰まで届く美しい金の髪。整った顔立ちにやや切れ長な瞳。薄紅の瞳の輝きは、ガーネットに例えられる美しさだ。青を基調としたドレスは優雅かつ可憐で、彼女の清廉さを引き立てていた。

 品行方正にして成績優秀。学園における評価も高く、淑女のお手本とも言うべき令嬢だった。

 彼女の子爵家は外交を得意としている。獣人の令嬢アムショーティアを招き、学園生活を手助けしてきたのも彼女だ。アムショーティアとは姉妹のように仲良く過ごしていた。

 しかし『運命の番』に選ばれたことで、懇意にしていた令嬢に婚約者を取られたことになる。その心中は想像を絶するものがある。


 普段のリセプティーナは淑女らしい微笑みを絶やさない。そして今。婚約破棄を宣言されたにも関わらず、彼女はいつもの微笑みを保っていた。

 『運命の番』。婚約破棄の宣言。どれ一つを取っても並の令嬢なら平静を保つことなどできないことだ。その二つが組み合わさった異常事態を前に、しかし彼女は動揺すら見せない。

 可憐にして慎ましく、物おじせずに揺るがない。まさに淑女のあるべき姿。生徒たちはリセプティーナの気品ある佇まいに息を呑んだ。

 リセプティーナは落ち着いた声で婚約者に問いかけた。


「『運命の番』に選ばれたと言いますが、それは本当の事ですか?」

「ああ本当だ! この胸の高鳴りは、『運命の番』に選ばれること以外にありえない!」


 アールダルトは断言した。その苦しみに満ちた言葉はとても嘘や芝居とは思えない。直情的な彼は、そもそも人を騙すことが不得手だ。

 ちらりとリセプティーナが目を向けると、獣人の令嬢アムショーティアは頭から突き出た耳をたたんでぺこぺこと頭を下げた。

 リセプティーナはそれだけで何かを察したようだった。軽くため息を吐くと、話を続けた。


「……あなたが『運命の番』に選ばれたらしい、ということは承知しました。ですがなぜ、夜会の場で婚約破棄の宣言をなさったのですか? 婚約を破棄するという重大事、貴族ならば家に話を通してからしかるべき場で公表するべきしょう」


 一度決まった婚約を解消するというのは、あまり聞こえのいいことではない。家同士が秘密裏に調整すべきことだ。多くの場合、婚約破棄が知らされるのは関係者に限られる。夜会の場で噂として話題になることはあっても、わざわざ宣言するようなものではない。

 リセプティーナのもっともな問いかけを受け、アールダルトは苦悶に顔をゆがめた。


「私が『運命の番』に選ばれたのは、つい先ほどのことなのだ」

「それならひとまず夜会への参席を止めて、当事者同士で状況を確認すべきだったでしょう」

「それではダメなのだ!」


 アールダルトは激しく首を横に振ると、胸に手を当て懺悔するように語り始めた。


「『運命の番』となった者は、他の女性への愛を失うという。君を愛するこの気持ちも、時間と共に無くなってしまうのだろう! そうなれば……君への愛情を失った私が、冷たく別れを告げることになってしまう……!」


 アールダルトは言葉を止めると目元をぬぐった。リセプティーナへの愛を失う――その悲しい未来の想像に、涙をこらえきれなくなったようだった。

 彼は涙を振り払い、決然と言葉を続けた。


「君への愛を裏切るのだから、私自身も痛みを感じて離縁を告げねばならない! だが、君への思いを断ち切るなど、普通の場所ではできることではない……だから夜会で宣言するしかなかったんだ……!」


 婚約者を愛している。想いを断ち切るために、後戻りのできない場が必要だ。だからこそ、あえて夜会で婚約破棄を宣言したのだ。

 

 大半の生徒は冷めた目になった。夜会で婚約破棄を宣言するなど、貴族として恥になる。アールダルトの行動は立場を忘れた愚かなことだ。

 しかしそんな彼の姿に熱い視線を注ぐ生徒も少なくなかった。愛する想いを断ち切るためあえて困難を選択する。アールダルトの深く熱い愛の想いは尊いものだ。

 温度差の激しい視線がまじりあい、夜会の空気はより一層混沌としたものになった。

 

 アールダルトの切なる想いを受け、さすがにリセプティーナも普段の微笑みを続けられなかった。その目は潤み、頬に赤みが差した。純真可憐なその様は、恋する乙女のそれだった。

 しかしそれも一時の事。すぐさま顔を引き締めると、淑女の顔を取り戻した。


「まったくあなたと言う人は……」


 呆れたようにつぶやくと、リセプティーナはアールダルトに向けてゆっくりと歩を進めた。


「ダメだ、近づかないでくれ! 決心が鈍ってしまう!」


 制止の声を受けてもリセプティーナは止まらない。

 獣人の令嬢アムショーティアは、魅入られたように歩み寄る彼女を見つめている。


「バカみたいに熱くて、愚かなほど真っすぐで……本当に仕方のない人です」

「お願いだから止まってくれ……!」

「そんなあなたに残念なお知らせがあります」

「これ以上近づかれたら……って、お知らせ?」

「獣人には『運命の番』などありません。それは迷信なのです」


 アールダルトは予想外の言葉に眉をひそめた。その隙を突くかのように、リセプティーナは彼の顔の前で左右の手のひらを強く打ち合わせた。大きく鳴り響いた炸裂音は、単に手を打ち合わせたから出たものではない。その音には魔力がこもっていた。

 その魔法の名は『ねこだまし』。この王国で魔法を学ぶ貴族ならば誰もが知る、最も基本的な破邪の魔法だ。その効果は、手を打ち合わせた音の鳴り響く範囲を浄化するというものだ。

 魔力の高い者ならばこの『ねこだまし』一発で低級な呪いを解いたり、低級霊を祓ったりすることができる。

 

 至近距離で「ねこだまし」を受けたアールダルトはしばらく目を瞬かせた。

 そしてすぐに愕然とした顔となった。


「ど、どうしたことだ……アムショーティアへの愛情が感じられない。まさか、『運命の番』の絆が失われたというのか!?」


 動揺するアールダルトに背を向けると、リセプティーナは周囲に対して呼び掛けた。


「みなさん、お聞きください! 『運命の番』は、現在この世界には存在しません! 本来、『運命の番』とは伝説の種族、竜人にしか存在しないものなのです!」


 その言葉に多くの生徒が驚いたが、冷静に受け止める生徒も少なくはなかった。

 人よりもはるかに優れた力を持ったと伝えられる伝説の種族、竜人。竜人は神が見初めた他種族の異性と契りをかわす『運命の番』という習性を持っていたと言われている。

 『運命の番』とは竜人に対して神が与えた戒めだという説がある。竜人は強大な力を持つために尊大になり、他種族を軽んじるようになった。これを憂いた神が、竜人に他種族を慈しむ心を持たせるために課した縛りだというのだ。

 だがそれも、既にはるか遠い昔のおとぎ話だ。現在、この世界で竜人の存在は確認されていない。彼らの存在は書物やわずかな旧跡がほのめかすだけである。実在しなかったと主張する研究者もいるくらいだ。

 

「獣人族は魔力が低く、魔法を扱えないとされています! ですが一部の獣人族のみ、魅了の魔法を使うことができるのです! これが『獣人族に『運命の番』がある』という迷信の正体です!」


 この言葉にはおお、とどよめきが上がった。獣人の王国と関係を断っていた王国では、獣人に関する知識が十分にいきわたっていない。竜人固有の習性であるはずの『運命の番』が、獣人にもあると言われるようになる理由まで知っている者は少なかった。


「獣人の王国ビアスサグアとの国交が始まれば、この迷信を悪用する不心得者が現れるでしょう! 『運命の番』に選ばれたと言って獣人を不当に所有しようとする人間! あるいは『運命の番』と偽って資産家に取り入ろうとする獣人! 言わば『運命の番詐欺』とでも呼ぶべき犯罪が横行するかもしれません!」


 これから獣人の王国との交流が始まる。王国内に来た獣人がトラブルを巻き起こすことはあるだろう。あるいは獣人の王国に行った王国民が問題を起こすこともありうる。社会に大きく変化する時、それに乗じて悪事を働く者は必ず現れるのだ。

 まして獣人は魅了の魔法を使えるという。魅了の魔法は使い方によっては国家に混乱を招く危険なものだ。たとえ『ねこだまし』で無効化できるとしても、軽んじることはできない。


「我々貴族は、王族と共に国の未来を守らなければなりません! 注意喚起のために、私こと子爵令嬢リセプティーナは、婚約者アールダルトと伯爵令嬢アムショーティアに協力を願い、この夜会の場で一芝居打ってもらったのです。……さあ、ご挨拶を!」


 リセプティーナはアールダルトに向けてパチンとウインクすると、まるで舞台の女優のように大仰なお辞儀をした。

 アールダルトは戸惑っていた様子だったが、婚約者のウインクで何かを察したようだ。神妙な顔になると、これまた舞台の役者のように優雅な身振りで礼をした。

 アムショーティアは驚いた顔を見せたが、それでも二人が頭を下げるのを見て、それに続くようにカーテシーを披露した。

 「チリン」と鳴り響くシッポの先の鈴の音は、いつも彼女がカーテシーを披露する時に奏でる上品な音色だ。

 

 会場の生徒たちは拍手でもってこれに応えた。

 獣人の令嬢アムショーティアは生徒の皆から親しまれている。伯爵子息アールダルトは婚約者と仲睦まじく過ごしている。それが獣人の魅了にかかれば婚約破棄と言う愚行に至ることもある――これほど印象的に未来の脅威を伝える芝居はないだろう。

 獣人の王国との国交は縁遠いことではなく、真剣に考えなければならないことだ。これからどうすべきかを考えるいいきっかけになった。夜会の催しとしては素晴らしいものだった。

 

 だが当然、違和感を抱く者もいた。生徒たちに教訓を与えるためとは言え、夜会で婚約破棄を宣言するのはいくらなんでも型破りが過ぎる。それにアールダルトは直情的な性格で、嘘や演技のできる人間ではない。先ほどの彼の言動はどれも真に迫ったものだった。

 子爵令嬢リセプティーナは生徒に教訓を与えるためと言っていた、だが実際には何らかのトラブルがあったに違いない。

 しかし、そこまでわかっても、この場でリセプティーナに問いかける者はいなかった。

 ことは獣人の王国ビアスサグアの国交に関わることだ。下手に首を突っ込めば家の浮沈にかかわる大事になりかねない。そこまでして追求しようとする愚か者は、さいわいこの場にはいなかったのである。




「あれはいったいどういうことですかーっ!」


 婚約破棄の一幕のあと。子爵令嬢リセプティーナ、伯爵子息アールダルト、獣人の令嬢アムショーティアの三人は、夜会の会場の脇に設置された控室の一つに来ていた。

 控室に用意されたテーブルについて一息つくと、リセプティーナは眉を逆立て瞳に怒りの炎を揺らして叫んだ。

 普段は淑女の微笑みを絶やさないと評判のリセプティーナだが、それは努力によって作り上げた姿だ。人目のない場所で、それもあんなことがあった後で、淑女の仮面を被り続けることなんてできなかった。


「アムショーティアさん! どうして魅了の魔法を使ったりしたのですか!?」


 今夜、アムショーティアは初めて夜会に参席することになった。夜会に出る以上、男性にエスコートされるのが望ましい。だが最近だいぶ人気が出てきたアムショーティアをエスコートするとなると、相手は慎重に選ぶ必要がある。

 そこでリセプティーナは、婚約者のアールダルトに任せた。アールダルトは婚約者を愛していると公言してはばからず、「学園で最も浮気しない男」として認識されている。彼ならばエスコート役として問題ないはずだった。

 しかしアールダルトが魅了の魔法にかかったことにより、婚約破棄の宣言というとんでもない事態を巻き起こした。あの場でリセプティーナが機転を利かせ、「注意喚起の寸劇」ということにしなければどうなっていたかわからない。下手をすれば国際問題にまで発展していたかもしれない。

 問い詰められたアムショーティアは耳をたたんで申し訳なさそうに答えた。


「そ、それが……初めての夜会に不安な気持ちが高まって……気がついたら魅了の魔法が発動してしまったようなのです」

「発動してしまったよう、ですって……? 呪文の詠唱も体内の魔力の操作もなし、意図せず発動させたと言うのですか?」

「はい、獣人は魔法を扱えませんから、そういう手順はもともと無理なんです。追い詰められた気持ちになると自然と発動してしまうんです」

「なるほど。獣人の魅了の魔法とはそういうものなのですね……あなたたちの過去の歴史を思えば納得のいく話です……」


 謝るアムショーティアに、思案を巡らすリセプティーナ。

 それに置いてけぼりにされたアールダルトは思わず声を上げた。


「ちょっと待ってくれ! 先ほどは君に合わせたが、いったいどういうことだったんだ? 私は『運命の番』に選ばれたのではないのか? 獣人が魅了の魔法を使えると言うのは本当の事なのか?」


 戸惑いの声を上げる婚約者に対して、リセプティーナは深々とため息を吐いた。


「あなたは嘘のつけない方ですので、細かい事情は意図的に伏せていました。獣人に関しては、まだ王国に広めるべきではない事柄が多いのです。でもこんなことになるのなら、やはりきちんと話すべきでしたね……」


 そうして、リセプティーナはこのマナカンド王国と獣人との関係について語り始めた。

 

 

 

 今から100年以上前、魔物が跋扈していた時代。マナカンド王国の人々は獣人を奴隷として使役していた。獣人の扱いは実に過酷なものだった。魔物との戦いでは使い捨てるかのように最前線に送り出され、生活の場においては粗末な食事を対価に過酷な労働を強いられた。

 当時の王国の民にとって、獣人は「言葉が通じるだけの獣」という扱いだった。人に近い姿をしていながら人として扱わなくていい存在に対して、人間はどこまでも残酷になれてしまうものなのだ。

 

 獣人たちは人間よりはるかに優れた身体能力と鋭敏な五感を持つが、魔力は低く、魔法に対する抵抗力も低い。マナカンド王国は当時から魔法技術が発達していた。優秀な魔導士が多く有しており、魔力の低い平民であっても獣人を支配できる魔道具が広まっていた。魔法という強大な力を背景に支配を強める人間に対し、獣人たちが抗う術はなかった。

 

 危険な戦場、過酷な労働、粗末な扱い。そんな劣悪な状況で生き残るには、主人に気に入られるしかなかった。獣人たちは屈辱に耐え、こびへつらうことで命をつなごうとした。そんな彼らを神が憐れんだのか、ひとつの奇跡が与えられた。魔法の扱えない獣人が、たった一つの魔法を使えるようになった。それが魅了の魔法だったのだ。

 先ほどのアムショーティアの言葉からすると、それは通常の魔法とは異なり、自動的に発動するものらしい。


「そんなひどい時代があったのか……」

「ええ、王国の恥ずべき悪行です」


 アールダルトは信じられないといった様子で首を振った。アムショーティアは視線を落としている。

 リセプティーナもしばらく前までは獣人が奴隷だということしか知らなかった。獣人の令嬢を子爵家が受け入れることになった時、初めて知らされたことだった。

 王国では当時の記録は厳重に保管されており、一部の者しか知ることができない。王国の人々の大半が、おとぎ話として伝わる不正確な知識しか持っていない。

 リセプティーナが記録から知った獣人の扱いは酷いものだった。獣人たちは追い詰められていた。それこそ魅了の魔法を習得でもしなければ、種族そのものが使い潰されていたかもしれないほどだった。


「だが、それならどうして『運命の番』と結びついたんだ? 『運命の番』とはもともとは上位種族である竜人との結びつきを意味する言葉だったはずだ。それが奴隷扱いを受けていた獣人との関係に使われるのはおかしなことじゃないだろうか」


 アールダルトが口にしたのは当然の疑問だった。

 竜人という上位種族との婚姻は祝福されるものであったはずだ。しかし当時奴隷扱いだった獣人との結びつきに使うとなると適切とは言えない。普通なら別の言葉が割り当てられるはずだろう。

 そもそも奴隷に魅了された人間はどういう扱いになっていたのか。

 その疑問に対し、リセプティーナは暗い声で答えた。


「それは……当時、獣人に魅了された人間は、決まってこんな言い訳をしたんです。『『運命の番』に選ばれた。だから獣人を愛人にするのも仕方ない』と。そうしたことがおとぎ話として歪んだ形で伝わり、『獣人は『運命の番』となった人間と結ばれる』という迷信が生まれたのです」

「なんてことだ……!」


 アールダルトは怒りのあまりテーブルに拳を叩きつけた。アムショーティアなそんな彼の姿を驚いたような目で見ている。

 彼女が驚くのも無理はない。獣人は人間に虐げられた歴史を忘れてなどいない。それでも両国の平和の一助となるために彼女はこの学園にやってきたのだ。表面上は学園の生徒たちに愛想を振りまいていても、内心は人間を恐れていたのかもしれない。

 獣人のために本気で憤る人間を、彼女は初めて目にするのかもしれなかった。

 リセプティーナにとって婚約者のこの真っ直ぐなところは好ましい。だがそれでも、釘を刺しておかねばならなかった。

 

「このことは決して人に話さないでください。王国にとっては恥ずべき暗い歴史です。あなたに話したことを知られれば、私だけでなくあなたも何らかの処罰を受けることになります」

「いや、それは間違っている」


 アールダルトは頭を振った。


「今回、こうしたトラブルがあったからということじゃない。獣人の王国ビアスサグアとはこれから対等の国交を結ぶんだ。王国が犯した罪に背を向けて彼らと握手を交わすことなどできない。私たちは過去ときちんと向き合うべきだと思う」

「ですが……」


 リセプティーナはちらりと獣人の令嬢アムショーティアに目を向けた。

 獣人に過酷な生活を強いてきたと言うのは王国の恥だ。しかしそれは獣人にとっても広められたくはない暗い過去のはずだ。

 獣人の令嬢アムショーティアは、伏せていた視線を上げた。その目には強い意志が感じられた。


「構いません。わたしは獣人を知ってもらうために、この王国に来たのです」


 シッポの鈴が「リン!」と高く鋭い音を奏でた。

 決意に満ちた瞳だ。覚悟を決めた顔だった。彼女は獣人を知ってもらうためにこの学園にやってきた。きっと最初から無惨な過去について知らせる覚悟も決めていたのだろう。


「……わかりました。ですがわたしの一存で決められることではありません。アムショーティアさんに関することは王国に報告することになっています。報告の際に過去の歴史を明かすよう働きかけてみます」


 リセプティーナがそう言うと、アムショーティアは頷き微笑んだ。




 状況説明が済んで一段落ついたので、三人はお茶を口にして一息ついた。

 アムショーティアをエスコートしようとしたアールダルトが、不意に発動してしまった魅了の魔法にかかってしまった。そして巻き起こる婚約破棄の宣言。しかしリセプティーナが機転を利かせ、夜会の催しと周囲に思い込ませた。異常に気づく者もいたかもしれないが、わざわざ追求してくることはないだろう。

 事態は収まった。だがそれでも、リセプティーナにはこの一連の流れの中で確認すべきことが残っていた。


「魅了の魔法が意図せず発動したということはわかりました。それで、アールダルト様」


 リセプティーナはじろりと婚約者を睨んだ。

 

「どうして『運命の番』に選ばれたなんて思い込んだんですか?」


 アールダルトは『運命の番』に選ばれたと思い込んだ。リセプティーナへの愛が失われると思った彼は、その前に別れを告げるため、夜会での婚約破棄の宣言と言う方法を断行した。

 動機がおかしいし、そんなことを実行してしまう決断力もまともではない。しかしそれはリセプティーナにとって理解できないことではなかった。アールダルトは情熱的な男で、常日頃からリセプティーナへの愛を語る。その情熱で突っ走ることもしばしばだ。

 それでも、『運命の番』に選ばれたと思い込まなければ婚約破棄の宣言なんてしなかっただろう。魅了の魔法にかかっただけならあそこまで派手なことにはならなかったはずだ。

 問われたアールダルトは神妙な顔になり、リセプティーナをまっすぐ見つめて答えた。

 

「私が君以外にときめいてしまったからだ」


 まるで神の言葉を伝える聖職者のように厳かに言った。

 リセプティーナはその意図するところがよくわからず、小首を傾げた。魅了の魔法でときめく。それは当然のことだ。それが『運命の番』に行きつく理由がわからない。

 戸惑う婚約者をまっすぐに見つめながらアールダルトは言葉を続けた。


「君という最高の婚約者ができてから、他の女性に興味を引かれるということがなくなった。美しいと評判の令嬢を見ても、才色兼備で歴代最高と謳われる王女様のお姿を目にしても、まったく心乱されることはなかった。だがアムショーティア嬢をエスコートしようとした瞬間……強い恋慕の念が湧き上がった。この私が、君以外の女性にときめいてしまったのだ! そんな理不尽を説明するには、『運命の番』という神が定めた絶対的な呪縛しか考えられないだろう!」


 アールダルトの力強い言葉を受け、リセプティーナの顔が見る見る赤く染まった。

 彼の言うことを一言でまとめれば、「リセプティーナのことが好きだから他の女性など目に入らない」ということだ。そんなことを真正面から言われては、彼女も赤くなるほかない。

 しかし愛を告げたアールダルトの真剣な顔は、たちまち悲しみに満たされた。


「ああだがそれが、ただの魅了の魔法だったなんて……そんなことで揺らいでしまうなんて、私は婚約者失格だ!」


 そう言うとアールダルトはテーブルに突っ伏してしまった。

 しばらくどうしようもない沈黙が場を満たした。

 その静寂を破ったのは、リセプティーナの大きなため息だった。

 彼女は立ち上がると、机に突っ伏したままのアールダルトに語りかけた。


「アールダルト様、立ってください」


 アールダルトは動かなかった。リセプティーナは目を鋭く細めた。


「立ちなさい!」


 怒りのこもった鋭い声を受け、アールダルトはばね仕掛けの人形のように立ち上がった。

 リセプティーナの鋭い視線にさらされて、アールダルトはびくりと震えた。それに構わず、リセプティーナは語り始めた。


「貴族の婚約は家同士の契約です。婚約者として合格か失格かなんて、当人が決められることではありません。どれほどあなたが失格だと思っても、私がそう思わなければ問題ありません」

「だが私は魅了の魔法ごときに屈した……君は怒っていないのか? 普段あれほど愛を語っておきながら、こんな情けない姿をさらした私に……失望してているのではないか?」


 不安そうに問いかけてくるアールダルトに対し、リセプティーナは再び大きなため息を吐いた。


「確認すべきことはただひとつです。あなたは私のことが好きですか?」

「好きだ!」


 アールダルトは迷いなく答えた。あまりの即答ぶりにリセプティーナも目を見開いた。

 そして、すぐに微笑んだ。


「だったらしゃんとしてください。たかが一度の失敗で、資格がどうのと言わないでください。失敗したなら反省して、そのあとはしっかり立ち上がってください。そしてかっこいい姿を見せてくれればいいんです。あなたはそういう人でしょう?」


 アールダルトは怯えに丸めていた背を伸ばし、顔を引き締めた。


「ああ、やはり君は世界一の婚約者だ。リセプティーナ! 君のことを愛している!」

「はい……わかっていますよ……」

 

 アールダルトは両手を広げた。リセプティーナは身を寄せた。

 そして二人はぎゅっと抱きしめ合った。

 ずっとずっと、いつまでそうしているかと思われた。

 

 時間にして10分ほど過ぎたころ。不意に「カラン、コロン」と音が鳴り響いた。結婚式を祝福する鐘の音を思わせるその響きは、アムショーティアがシッポの先に着けた鈴が奏でたものだ。


 二人はぎょっとしてアムショーティアの方を見た。完全に二人の世界に入ってしまって、彼女の存在を忘れていた。

 アムショーティアは申し訳なさそうな顔をしていた。

 

「ああ、すみません。二人のお姿があまりにも素晴らしかったので、祝福の鈴を鳴らさずにはいられませんでした。どうかお気になさらず、続きをどうぞ」


 二人はぱっと離れた。アールダルトは情熱的な男性であり、リセプティーナは彼のことを好ましく思っている。それでも、他国の令嬢を蔑ろにすることは、貴族として許されることではなかった。





「なるほど、実に面白い報告でした」


 獣人の王国の王女はそんな感想を漏らした。

 婚約破棄未遂の夜会から2週間ほど過ぎた頃。獣人の王国の王宮にある、王女の部屋。

 獣人の令嬢アムショーティアは王女に対して今回の事件について報告をしていた。


 事情はどうあれ、貴族子息に魅了の魔法をかけて、そのまま無罪放免というわけにもいかない。マナカンド王国にとどまれば危険な状況になることもあり得た。リセプティーナに勧められ、アムショーティアは一旦獣人の王国に戻ることになったのだ。

 そして王女に請われ、こうして事情を報告していたのだ。

 

 王女は雪のように白い髪とルビーのように紅い瞳のネコの獣人だ。様々な獣人を受け入れてきた獣人の王国ビアスサグアだが、その王族は代々、白い髪のネコの獣人が務めている。

 獣人の王国ビアスサグアは、穢れ無き白の髪を象徴として興されたと伝えられている。


「それにしても、獣人の中でも強力と評価されていたあなたの魅了の魔法が、『ねこだまし』ひとつで解かれたというのは……正直なところ驚きました」

「はい。人間は獣人との歴史を隠したまま、その対抗法だけは基礎魔法として一般化させていました。やはりマナカンド王国の魔法技術はこの大陸で最強と言っていいでしょう。獣人にとって最も恐るべきは、やはり魔法なのだと実感しました」


 アムショーティアは表情もなく淡々と受け答えをしていた。そこには学園で見せた気さくな印象はない。

 アムショーティアは最初から人間の王国を探るために送り込まれた間者だった。シッポの鈴も偽装のひとつだ。王国を探ろうとする者が、鈴を鳴らしながら闊歩するはずがない……そうした先入観を逆手に取った偽装だ。獣人の令嬢は、身体に鈴をつけ、無害を装いしなやかに秘密に迫るのだ。

 

 今回の件についての報告書は、既に諜報機関に提出済みで、王女にも内容は伝わっているはずだ。その上で、現場の者から直に聞きたいという王女が望んだ。それでアムショーティアはこうして王女の部屋に招かれたのだ。

 

 リセプティーナには魅了の魔法は意図せず発動したと説明したが、それは嘘だ。アムショーティアは意図的にアールダルトを魅了したのだ。

 国交を進める過程で、魅了の魔法を使用しなければならい状況が出てくるだろう。現在のマナカンド王国の人間にどこまで魅了の魔法が通用するか。そして魅了が発覚した際、王国がどう対応するか。そうしたことについて、予め知っておかなければならない。だからアムショーティアは、夜会の会場という多くの目があり隠ぺいが困難な状況で、あえて魅了の魔法を使ったのである。

 しかしマナカンド王国は対策を怠っていなかった。獣人の魅了の魔法を容易く無効化する『ねこだまし』を広めていたのだ。


「それにしてもずいぶんと予想外のことが起きたのですね」

「申し訳ありません」

「いいえ、責めているのではありません。様々な状況を想定していましたが、まさか婚約破棄とは、あまりにも意外過ぎて……」


 王女は口元に手を当てるとくすくすと笑った。だがアムショーティアにとっては笑い事ではなかった。

 本来はアールダルトを魅了し、夜会でひと悶着を起こすだけのつもりだった。魅了の魔法を使った獣人を人間たちはどう糾弾するか。獣人に魅せられた貴族子息はどんな行動するか。周囲の貴族は彼と彼女をどう扱うか。婚約者であるリセプティーナはどんな反応を示すか……そうしたことを知るための策略だった。

 

 だが事態は想定外の方向に進んでしまった。アールダルトは『運命の番』に選ばれたと思い込み、こともあろうに婚約破棄の宣言をしてしまった。アムショーティアはあの時、本当に恐怖していた。過去の歴史を考えれば、貴族を誑かした獣人が許されるはずもない。その場で処刑されてもおかしくないと思ったのだ。

 もともと命の危険のある任務であると覚悟はしていた。魅了の魔法を使う以上、婚約破棄もありうると思ってはいた。それでもまさか、魅了の魔法を使った直後に夜会で婚約破棄を宣言するとは思わなかった。完全に不意打ちだった。

 しかし、事態はあっさりと解決した。魅了の魔法は『ねこだまし』で無効化され、リセプティーナの機転によって、婚約破棄の宣言は夜会の催しということになってしまった。

 本来の筋書きから大きく外れてしまった。しかしアムショーティアが任務に完全に失敗したかと言えば、そういうわけでもなかった。


「予想外のことばかりでしたが、魔法に優れたマナカンド王国の人間にも、『ねこかぶり』は有効なことはわかったのは収穫だと思います」


 獣人は生き残るために魅了の魔法を獲得した。それが世に知られている事実だ。

 しかし実は、魅了の魔法を使えるのは獣人の中でもごく一部に過ぎない。にも関わらず全ての獣人が魅了の魔法を使えると思われている。その理由は、獣人が『ねこかぶり』という技術を持っているからだ。

 

 獣人は人間よりはるかに優れた五感を持つ。

 聴覚で呼吸の乱れや鼓動の変化を聞き取ることができる。

 視覚で視線の動きや表情の微妙な変化を読み取ることができる。

 嗅覚で発汗や体内のアドレナリンなどの分泌物をかぎ取ることができる。

 それらの情報を統合し、相手の意志を推測し心の隙間に入り込む。その技術体系を『ねこかぶり』と呼ぶ。虐げられた獣人たちが苦難と屈辱の中、命がけで磨き上げた技術である。


 その技術はあまりに巧みであり、人間は「獣人は魅了の魔法だけは使える」という認識を持つに至った。

 獣人の王国ビアスサグアがマナカンド王国にも無視できないほどの力をつけたのは、『ねこかぶり』により対人関係を構築できたことが大きい。

 

 アムショーティアが学園内で短期間で人気を得ることができたのも、『ねこかぶり』を使っていたからだ。そして学園内の誰も、彼女がそんな特殊な技術を使っていたことに気づいていない。なんの違和感を抱かせず好感度を上げる……『ねこかぶり』はそれほどまでに洗練された技術なのだ。

 仮に『ねこかぶり』という技術が知られてしまっても何も問題ない。人の顔色を窺い相手の望むことをして気に入られるなど、人間でも当たり前にやっていることだ。『ねこかぶり』はそれを極めて高度に行えるに過ぎない。人間が真似することは不可能だ。相手に手の内を知られても、するりと隙に入りこむ。それが『ねこかぶり』の本当の恐ろしさだ。

 それでも、まだその存在を知られていないということは大きな強みになる。


「そうですね。『ねこかぶり』が有効だとわかったのは素晴らしいことです。それを踏まえた上で、現場を知ったあなたの意見を聞かせてください。マナカンド王国に対して、どのように対応すべきと思いますか?」


 一国の王女が間者が間者の意見一つで方針を変えたりするはずがない。ただ、検討材料の一つとして感想を聞きたいだけなのだろう。アムショーティアは何を言うべきか、ずっと前から決めていた。

 

「わたしは、『ねこかぶり』をマナカンド王国を攻略するためではなく、友好関係を築くために使うべきだと思います」


 『ねこかぶり』でいくら好まれようと、それは所詮見せかけの愛に過ぎない。少しでも状況が悪くなれば、人間は獣人をすぐに切り捨てる。それはマナカンド王国ばかりではない。人間という種族は、かつて奴隷だった獣人という種族を、心のどこかで下に見ているのだ。

 

 だが、あの二人は違った。

 獣人に魅了された人間の多くはそのことを隠そうとする。下賤な獣人を愛するなど恥になるからだ。だが伯爵子息アールダルトは隠そうとしなかった。それどころか夜会の真ん中で婚約破棄を宣言した。その暴走は彼の性格によるものだが、それでも獣人であるアムショーティアを軽く扱おうとはしなかった。『運命の番』として一生を共に過ごす覚悟で宣言したのだ。

 

 リセプティーナは婚約破棄の宣言をされながら、彼女のことを慮ってくれた。魅了を使ったアムショーティアのことを非難するどころか理解を示し、国に帰る手はずまで整えてくれた。

 

 それらのことは『ねこかぶり』で気に入られたからというだけでは説明がつかない。二人は正しい見識を持った優しい人だった。そんな人間が貴族の中にいるのなら、手を取り合いたい……それがアムショーティアの偽らざる想いだった。

 

「……わかりました。あなたの意見をとても参考になりました。ありがとうございます」


 アムショーティアは小さく息を吐いた。任務の報告のためとはいえ、王女との面談は相当な重圧を感じていたようだ。

 そんな彼女に、いたずらっぽく微笑みながら王女は語りかける。


「では早速ですが次の任務についてお話します。ほとぼりが冷めたら、あなたには再びマナカンド王国の学園に行ってもらいます」

「え? 諜報部からは国内待機と聞いていましたが……」


 アムショーティアは怪訝そうに問いを発した。彼女の任務はもともと、魅了の魔法と『ねこかぶり』の効果を試すことだ。糾弾を避けるという建前で帰国してきたが、既に目的は達せられた。諜報部はこのまま彼女を国にとどめる方針だった。人間の学園には二度と行かないものと思っていた。

 だが、王女の考えは違った。


「報告を受けた時から、伯爵子息アールダルトと子爵令嬢リセプティーナは見どころのある人間だと思っていました。あなたのお話で確信は深まりました。彼らは両国の友好関係を結ぶにあたってよい働きをしてくれるでしょう。せっかくできたつながりをこのまま断ってしまうのは惜しいことです」

「でも、わたしはあの方たちを騙しました。騙したままで、心をつかむようにすればいいのでしょうか……?」


 アムショーティアは声を落とした。彼女の言うことは『ねこかぶり』を活用すれば十分可能なことだ。だが、それには抵抗があった。このまま別れるのが、二人を傷つけずに済む方法だと思っていた。


「いえ、きちんと謝罪してください」

「しゃ、謝罪?」

「ええそうです。騙してしまってごめんなさい。王家に命令されてて仕方なく魅了の魔法を意図的に使ったんです……そう言って謝るのです。『ねこかぶり』についてはまだ秘密にしてください。事情を説明し、謝罪して許してもらえたら……彼らとお友達になってください」

「と、友達!? わたしなんかが、人間の貴族と友達に……!?」

「人間の貴族とお友達になり、信頼関係を築く……前のものとは違った意味で、非常に難しい任務です。その過程で何かしら問題が起きたらわたしが責任を取ります。心配しないでください」

 そう言って、王女は落ち着いた様子で紅茶を口にした。アムショーティアは突然告げられた新しい任務をどう受け取ったものかと眉の間に皺を作り悩んでいる。

 そんな彼女に、王女は優しく語りかける。

 

「……そうですね。あなたは既に十分な功績をあげてくれました。この任務は別に断っても構いません。あの二人が信頼に値せず、お友達になるのが無理だと思うなら、それも仕方ないことでしょう」

「いいえ! そんなことありません! やります! ぜひやらせてください!」


 アムショーティアはシッポの鈴を「リン!」と高く鋭い音を奏でて請け負った。その音色は獣人の王国において決意表明を意味するものだ。

 王女は顔をほころばせ頷いた。

 

 

 


 アムショーティアが報告を終え去ったあと。王女は護衛の騎士に退室を命じて一人となった。

 バルコニーに出て景色を眺めた。今日はよく晴れており、街が遠くまで見渡せた。そこに暮らす獣人たちのことを考える。

 

 100年以上過ぎたが、獣人の王国ビアスサグアの民は奴隷として過酷な扱いを受けた歴史を忘れていない。国内にはマナカンド王国を攻め滅ぼすべきだと主張する過激派が多い。戦うことを主張する家臣も少なくない。

 

 アムショーティアの留学は、そうしたなかで考えられたいくつもの策略のひとつだった。

 もし彼女が魅了の魔法を使ったことで厳しい処断を受けたなら、あるいは国の方針はマナカンド王国を攻める方に傾いていたかもしれない。

 だが、彼女はケガ一つ負うことなく帰ってきた。その上、知り合った人間のことを信頼している。

 

 マナカンド王国と戦うことになったらどうなるか。魔法技術に優れた大国に正面から挑めば敗北は免れない。だが『ねこかぶり』を駆使して王国を内部から突き崩し、他国の協力を得て攻めいれば、勝ち目は見えてくる。それでも犠牲なしに勝つことなどできない。多くの国民に血を流すことを強いることになるだろう。

 

 そうして苦難の果てに勝利を得たらどうなるか。獣人たちは何をするだろうか。きっと、マナカンド王国の人々を奴隷にしてしまうだろう。恨みと憎しみによって振り上げられた拳は、相手に同じ苦しみを与えるまで下ろすことができない。それでは立場が逆転しただけで、愚かな歴史を繰り返すだけだ。

 

 だが。もし、過去の悲しみを乗り越え、手を取り合うことができたのなら。それは新しい可能性を開くことになるはずだ。

 王女は自らの白い髪を撫でる。獣人の王国ビアスサグアはこの白を象徴に始まった。初代の王は、奴隷だった過去に引きずられず、まっさらなところから始めようと民に呼び掛けたという。

 白はどんな色にも染まりうる。だからこそ、王女は選びたい。この白を、過去の恨みで黒く染め上げるのではなく、未来につながる明るい色で彩りたい。

 それはきっと、『運命の番』や『魅了の魔法』といった強制的なつながりでは出せない色だ。『ねこかぶり』で頭を撫でらえるのではなく、対等な立場で手を取り合わなくては、きっと明るい色にはならない。

 アムショーティアの築いたつながりは、両国をつなぐ絆の一つとなるかもしれない。

 抜けるような青空の下、獣人の国の町並みを眺めながら、王女は獣人の神に祈った。彼女のこれからの学園生活が幸せであるように、と。



終わり

※本作の「獣人が『運命の番』を作るのは迷信」という設定は、本作の中だけで通用する設定です。

 大丈夫とは思いますが念のため。



「『運命の番』に選ばれたので婚約破棄をする」というネタを思いつきました。

選んだ側が婚約破棄を宣言するのではなく、選ばれた方がするというのが自分の中で珍しい気がしたのです。

それが成り立つようにあれこれ設定やキャラを詰めていったらこういう話になりました。


どうも『運命の番』をテーマにすると、「どうやったら『運命の番』が成り立つのか?」という方向に考えが行ってしまいます。

なんだか話の面白さより設定の面白さを優先してしまいます。

自分にとっては扱うのが難しい題材のようです。


2025/1/23

 誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
アールダルト、アムショーティアから「運命の番だ」と告げられてもなければ、両思いを確認しあった訳でもなく、一方的に惚れて自分が心変わりしたのを勝手に「運命の番に"選ばれた"」と転嫁しただけ 奴隷を愛人に…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ