こっちが弟子の宮代笙真
どう反応すべきか、一瞬逡巡し、俺は逃げることに決めた。
「やっ、やだもん。レベッカ、おばちゃんちなんて泊まりたくないもん! ママーッ!」
そう叫んで、俺は弾かれたように駆け出す。
このおばさんとちびっ子の間にある事情が穏やかならぬものであるのは間違いなさそうだし、ここは逃げの一手だろ!
……って、なんで追ってコナインデスカ?
つうか、なんでそんな可笑しそうなの、このおばちゃん!?
逃げ出すちびっ子を追うどころか、腰を折って笑い崩れてしまった相手に、俺は幼女らしく振る舞うのをやめて、心底怪訝な面持ちで聞くしかなかった。
「あのぅ、なんといいますか、よく状況がわからないんですけれど」
「〜ッ、ゴッ――――ああ、おかしかった。ごめんなさいね、何から説明しようかしら?」
たっぷり十五秒は使って、笑いを噛み殺したソバカスのおばさんは、腹筋が痙攣しすぎたために溢れた涙を拭って、改めて俺に視線を据える。
「でもね、その前に名前だけは変えたほうがいいのは本当のことよ。レベッカ・ルキーニシュナ・ペトロワさん、じゃない誰かさん。あなたはだあれ?」
「誰って言われましても……参ったな。名乗る前に、私にも聞きたいことが山程あるんですけど」
「その意見にはボクも同感です、師匠。お茶入りましたんで、取り敢えずこっちで自己紹介からにしませんかあ?」
おばちゃんの代わりに、突然割って入った声は俺より年下と思しき少年の声。
読みで俺等の会話を一切合切聞いていたのだろう、東京の宮代さんちが俺んちならさもありなん、だ。
「そうするわ。さ、貴方もどうぞ」
振り返って先程の少年に返事したおばさんに誘われ、俺は居間へ向かう。
◇
「改めまして、私は出水知恵といいます。こっちが弟子の――」
「宮代笙真です。はじめまして」
掘り炬燵から掛物の類を取り払った春夏仕様の座卓。その天板を挟んで俺の斜め前と真正面に座った二人が名乗ったのに続いて、俺も先ほど思いついたばかりの名前で名乗り返す。
「ポーリャです。レベッカ嬢について、教えていただけると幸いなのですが? 自己紹介を持ちかけてきたのはそちらですし、教えてくれますよね?」
昴が南の空の星だから、北の空の星の中で最初に思い浮かんだ北極星を縮めて、ロシア語風の響きをまぶしただけの仮初めの名を名乗ったあとに、持ちかけると、宮代笙真――俺の先生の過去の姿に違いない、中学生くらいの少年――は、拍子抜けするくらいあっさりとレベッカについて答えてくれた。
「レベッカ・ルキーニシュナ・ペトロワは、ロシア系アメリカ人の魔法使いです。生まれながらに《狐の鋏》に属していましたが、今は表向き宮代家で身柄を預かるカタチとなっています。とはいえ、日本語はほとんど理解していないため、日常的なやりとりはすべて英語で、ですけれど」
「そんな女の子が急に完璧な日本語でおウチ帰るモン!――でしょ? ふふっ、笙真から事前に教えられてたから心の準備はしてたけど、貴方のお芝居と今朝までの彼女の落差が予想以上だったもんで、知恵さん、我慢しきれなかったのよ。――ごめんなさい、私ね、昔から緊張すると笑っちゃう癖があって」
思い出すとまたおかしさに耐えられなくなったらしい。くっくと肩を震わせながら言い訳を始めた彼女に、気にしてないから大丈夫です、と俺は返し、早く笑い止んでと目で訴える。
「師匠、微妙に台詞回しが違ってますよ」
「あらそう?」
「泊まりたくないもんっ、ですよね? ポーリャさん」
「ポーリャちゃんで構いません。一応、私の方が宮代さんより年上ですけれど、今はまあこんな形だし、ちゃんづけにしちゃってくださいね」
苦笑交じりに首肯して、続ける。幼女の声真似する先生キモいと思ったことは、もちろん噯気にも出せるわけがないので、外見上は、真似されたことへの照れ隠しを装って、だけども。
「けど、おかしいな。先に日本語で話しかけてきたのって、出水さんからじゃなかったでしたっけ。そういや、事前に宮代さんから教わった、とも仰ってましたよね? それって」
「それについては、貴方のことをもっと教えていただいてからにしませんか、ポーリャさん。先程、ボクと顔を合わせた際、一瞬でしたけど驚かれたでしょう? 生憎ですが、初対面で驚かれるような覚えはないんですよね、今のところは」
「……」
「ショウ」
「師匠、悪いんですけれど、本家からそろそろ電話が来ますよ。ボクらは庭にいますから、電話が終わったら呼んでください。――大丈夫です、見えるところにはいますし、師匠の顔に泥を塗るようことには決してなりませんから、家の中でお待ち下さい。さ、ポーリャさんはこちらへ、雨上がりなので水溜りには気をつけてくださいね」




