唆散花(さざんか)
筆者は15歳高校生です。
「僕は、間も無く死ぬ」
その言葉は自分でも驚くほどすんなりと口をついて出てきた。
春が始まろうとして、少し背伸びをしたような気がした。
早咲きの河津桜の花弁が1枚、さっと空を舞いながら落ちていった。
桜は散り際まで美しい。
半年程前、ふと思った。
僕は数年前、大腸癌を患った。
幸い、早期発見となり命には関わるようなものではなかったが、その後の定期検診で転移が見つかった。
見つかっては手術、また見つかり、そして手術。
この繰り返しだった。
他界した妻の保険金で治療費を賄っていたが、まだ幼い娘の将来を考えると、高額な治療費を払い続ける事は難しかった。
そして、私は治療を継続しないことを選んだ。
即ちそれは、死を意味する。
しかし、娘のことを第一に考えた末の決断だった。
会社に復職し、同僚や上司には癌は完治したと伝えた。
誰にも心配をかけたくなかった。
「パパ〜あしょぼ?」
家に帰ると娘が話しかけてくる。
自分が入院している間にこんなに成長したのか…
背丈はどれほど伸びただろうか。
目は妻に似てきた。くしゃっと笑った顔をずっと側で見ていたい。
あぁ、駄目だ。
僕は娘に触れてはいけない…。
僕が死んだ時、娘が悲しまなくて良い様に。
只それだけ、これほど重い、簡単な、難しい理由で僕は娘と拒絶することを選んだ。
それから僕は休みもなく働いた。
娘のために少しでも財を残さなければならない。
あぁ、とても辛い。
娘と遊んでやりたい。
成長を側で見守りたい。
学校の友達のことを聞きたい。
点数が悪かったテストを見て君を叱りたい。
慌ててランドセルを背負って「行ってきます!」
と元気に出ていく姿を、見守りたい。
そんな単純な日常さえ、叶えられなかった。
いや、違う、それはただの自己満足だ。
娘の方こそ叶えてもらえなかったのだ。
辛いのは娘の方だろう。
辛くても、辛くても、そう自分に言い聞かせた。
「僕は『娘に嫌われなければならない』」
毎週、少しばかりの稼いだお金を封筒に入れて置いて行く。
極力、姿を気づかれない様、真夜中にそっと置いて行く。
封筒を置いた後、少しだけ襖を開け、娘の寝顔を覗きに行く。
そのまま何も言わずに帰り、次の日の朝早く、仕事に行く。
また一週間経つと家へ向かい、このサイクルを繰り返して行く。
そして、時々吐血をしたり、髪が抜け落ちたりする時、僕は病院へ行く。
次の日には、体を蝕む癌に抗い、歯を食い縛ってまた仕事に行く。
そんな生活を続ける内に妻の十周忌を迎えた。
そして朝、目覚めると、自然と呟いていた。
「僕は、間も無く死ぬ」
意外だった。何故、自分が今日死ぬと分かったのか。
しかも、妻の十周忌に。
自分の呟いた事がもし、何かの予言ならばやる事はただ一つだ。
急がなければ。
花を買ったり、線香を買ったりだの、あれこれ準備しているといつの間にか夕方になっていた。
職場には「定時で上がります」とだけ伝え、足早に墓へと向かった。
妻の好きだった百合の花を添え、線香に手を合わせた。
(僕ももうすぐそっちに行くかもしれない)
そんなことを考えながら、妻に挨拶をした。
墓前にいつもよりも少し分厚い封筒をそっと置いた。
屈んでいて重くなった腰を上げ、帰ろうとした時だった。
女の子だろうか、背丈に合わぬ大きなキャリーケースを引き摺って墓へと向かって歩いてくる。
数秒経って、僕は咄嗟に木の幹に隠れた。
あれは、僕の娘だった。
娘が墓前に座り、手を合わせる。
そして、何か異変に気づく。
「何で、もう花が…置いてあるの……?」
気づけば、木の裏から飛び出し娘の後ろに立っていた。
「何よ今更」
娘から冷たい言葉を浴びせられる。
(あぁ、違うんだ。すまなかった)
今まで自分のしてきた事を全部話してやりたい。
今、目の前にいる娘を抱きしめたい。
この墓から家まで、娘と手を繋いで帰りたい。
ゆっくりとお茶でも飲みながら、妻との思い出話をしたい。
あぁ、駄目だ。
僕はそんな事が許される人間ではない、
今、やりたい事、言いたいことを全て我慢して、ただ一つだけ言わなければならない。
これだけは今、言わなければならない。
「ごめんな、今まで黙ってて」
駄目だ、まともに娘の事を見れなかった。
体を蝕む癌のせいか?
いや、違う。
僕にはそんな資格などないのだ。
「僕は『娘に嫌われなければならない』」
だって、
「僕は、間も無く死ぬ」のだから。
その後、気づいた時には回れ右をして帰っていた。
涙か、死ぬからか、視界が良くない。
涼しげに吹く秋の風が、妙に寒く感じる。
自分のやるべき事は果たせた。
もう、心配は要らない。
酒も飲んでいないのに千鳥足になりながら歩き、やがて、草むらにバタリと倒れた。
周りでは黄金色になった芒が頭を垂れている。
そして、その頭に夕焼けが反射し、緑の草むらに少しだけ赤が混ざる。
あぁ、手が動かなくなってきた。
本当に僕は死ぬのだ。
すっと、目を閉じた後、懐かしい走馬灯を見た。
昔、僕の父が言っていた。
「桜は何故あんなにも美しく散っていくのだと思う?」
「んー、花びらが綺麗だから?」
子どもなりに一生懸命に考えた。
純粋な考え方に少しニコリと微笑みながら父は答えた。
「父さんは、それは少し違うと思うな。」
「えっ?何でー?」
「いいか、桜とか他の花っちゅーのは、どんなに美しくてもいつかは枯れてしまうんだ。でも、枯れたからと言って散ってしまう訳ではない。」
「じゃあ、何で散っちゃうの?」
「もう一度咲こうとするんだよ。」
「自分なりにもう一度踏ん張るんだ。でも、踏ん張ったところで散ってしまうだろ。」
「もう一度美しかった自分になる為に、咲こうとする。その為に最後の力を使う。その為に散って行く。」
「だから、散り際まで美しいんじゃないか?」
その時の父の話は少しポエミーで、当時の僕には理解が難しかった。
死に際にこんな事を思い出すのか。
てっきり、癌の事を思い出すのではないかとばかり思っていた。
自分でも分かる。
心臓の鼓動が段々と弱くなって行く。
吸い込む息の量もほんの少しで事足りる。
「僕は、間も無く死ぬ」
娘の為に尽くせただろうか。
財しか残せなかった。
愛情を注ぐことさえできなかった。
あぁ、もっと違う人生を歩んでいたら。
あぁ、もっと生きたかった。
あぁ、日が暮れる。
時間だけが過ぎて行く。
空には何もない。
なのに、空に手を伸ばした。
それも、必死に。
もう一度、もう一度だけ。娘といた美しい時間を。
もう一度でいいから、たった一度でいいから。
一瞬、空に何かが光った。
本能的にさっとそれを掴もうとする。
しかし、掴もうとして握ろうとした手には何も入っていない。
掴もうとした瞬間、身体中から力が抜けていった。
あぁ、咲けなかった。
翌々日、ある1人の男性の遺体が発見された。
スーツ姿のまま外傷もなく砂利道に倒れていたそうだ。
その遺体は片方の手だけ、強く握られていた。
その手には1枚の桜の花びらが強く握られていた。
その男には1人の娘がいて、その後も1人で暮らし続けた。
その男の貯めた財で、暮らしていけたそうだ。
その娘も今は結婚し、1人の女の子が生まれた。
そして、特別な思いを込めてこの名前をつけた。
『美咲』
終