伝説の始まるその前に
その男は、ただひたすらに鎚を振るっていた。燃える炎のその前で、真っ赤に熱されたそれと向き合ってどれほどの時間が経ったのかも分からず、朦朧とする意識に祈りだけを浮かべて。
それは男の一世一代の大仕事だった、炉の炎は鎮まる事を知らず、突き込まれたそれを舐め上げる、吹き出した汗は床に塩の塊を作り、齧っていた塩塊はいつ尽きたのかもわからない、ただ一打一打に祈りを込める、嗚呼何処かにおわしまする己が命と引き換えてでも、ここに至高の一振りを、己に剣は振れずとも、彼の者へこの剣を届ける事は出来る、一心不乱に振るう鎚が悲鳴を上げようとも省みる余裕もなく、或いはそもそも男に鎚の悲鳴など届いてすらいなかった、男の耳には剣の奏でる歌声しか聞こえていなかった、もっと、もっと、もっと、鋭く、美しく、強く、気高い剣を。
あのおぞましき悪鬼共を切り伏せる為の剣を、追い詰められた人類に希望の輝きを、託された願いを打ち込めて、男はただただ鎚を打つ、いつか現れる勇なる者に希望を繋ぐ為、人類のために死んでくれと希うに相応しき剣を、その使命だけが今の男を動かしていた。
熱され、冷やされ、叩きつけられ、鍛え上げに鍛え上げられた元はただの鋼であったそれは、最早鋼の性質など微塵も残してはいなかった、男の命と魂の祈りに応え変質したその物質を、人は神の与えた金属、オリハルコンと呼んだ、伝説と呼ばれるための大前提でもあった。
織り、重ね、打ち付けて、どれ程の時間が経ったのか。限界を越えた男に最早感覚はなく、ただ剣と己の世界にのみ浸っていた、自らの限界が近いことを悟りながらも鎚を止める訳にはいかなかった。この剣が、ただの鋼より己の血と汗と祈りと、命を注ぎ込んで鍛え上げたこの一振りの両手半剣が、愛しい家族を、妻を、娘を、国を守る刃になるから、己の命と引き換えてでもこの剣は鍛え上げねばならなかった。
されど無情なるかな男の限界はとうに尽きていた、頬は痩け目は落ち窪み、それでもいつまでも変わらぬ腕は異様に尽きた、まだ、未だこの剣は至っておらぬ、己一人では至らせるには足らぬかと男の脳裏に絶望がよぎる、これでは足らぬ、奴らの親玉を叩き切るにはまだ足りぬ、なれば己の命は無駄であったか、無為に捨てたのみの命であったかと。
否、希望はまだ尽きておらぬ、いつからか打ち合わされていた相槌が男の祈りを引き継いだ、その命を、祈りを使命を引き継いだ、絶対であった師の命を吸った剣を更に打つ、まだだ、まだ至らぬ、未だこの剣は成っておらぬ。息が詰まるほどの熱気の中、ただ剣は打ち付けられる、熱気は際限なく増し、剣の輝きは妖しく増す、まだ、まだ、あともう少し。
連綿と受け継がれた鎚はとうとうへし折れた、至った剣は最早そのような物で鍛え上げられるような物ではなかった、ようやく、ようやっと至った、幾人の命を祈りを吸ったのか、その剣は成ったのである。
初めの男が未だただの鋼であったそれに鎚を打ち下ろしてより、十年の月日が費やされていた。
人類の領域は一刻と侵され、残るは国一つのみである、あと少しあと少し遅ければ全ては無駄に終わっていただろう、然れども、間に合った、剣は成った、神に捧げられ、祝福と共に銘を賜ったその剣……聖剣の銘は、エクスカリバー、これより一月の後に現れた勇なる者に預けられ、共に人類領域を取り戻し、伝説と成った剣であった。
けして忘れるな、その剣は神より賜った物ではない、自らの命を、誇りをかけて鍛え上げた幾人もの鍛治師が居たことを。
決して伝説に語られることの無い、伝説の始まるその前の話、然れどそれなくば伝説は無く、ただ滅びだけがあっただろう。決して勇者ではなかった、だが、それでも、比類なき英雄の話。