第一話 転生死刑囚の困惑
目覚めたとき、実に寝心地の悪い場所に眠っているものだ、とおもった。コンクリートの上で眠っていたかのように全身がきしむ。それに、目をつぶっていてもわかるほど太陽が眩しい。刑務所の中のほうがよっぽど寝心地がよかった。こんなにも寝心地が悪いのは都市部でホームレスの真似事をした以来だ。
いらだち紛れにため息をついた。その時、ため息ができる自分に驚いた。
急いで上体を起こして、全身を確認する。服装は刑務所の時のままだったものの、目隠しも、手錠も、足縄だってなかった。首のあたりを触ったが、縄の跡など残っていなかった。立ち上がってみると、普通に全身は持ち上がる。
私にはどういうわけだか分らなかった。理解が全くできなかったので、とりあえず周囲を見渡した。
メルヘンチックな世界だった。夜明け直後の空は絵の具をこぼしたようにまばらなオレンジで、雲一つない。地上にはレンガが基礎の建物が私の周りを囲んでいて、中央に石像がある。私が寝ていたのは町の広場らしい。地面は石畳だ。技術が足りないのか、凹凸が激しい。
早朝だからか人通りはなかった。しかし、周辺の建物からは人々の寝息が聞こえてきそうなほどに生活感があふれている。
私はまだ混乱していた。ここがどこかもどうして生き延びたのかも分からない。テーマパークとは思えないほど周囲は生活感に満ち満ちているのだ。死後の世界か、と思ったがその時ちょうど腹が鳴った。どうやら現実らしく、頭を抱える羽目になった。
しょうがないので、私は石像にもたれかかりながら座った。石畳は固く、尻がチクチクしたが慣れればなんてことはない。
まったく不思議な気持ちだった。
生きていたことを喜ぶ気にもなれなかったし、死ななかったことを憂うほど私はペシミストではなかったので、混乱が頭をめぐるだけだった。
やがて空が青くなっていくと、人がぱらぱら通りに表れた。誰もかれも異国情緒ある服を着ていてサイケデリックだ。
ずっと座っているわけにもいくまい。私は立ち上がり、街を探訪することにした。
賑やかそうな通りをしばらく行くとひときわ活発な通りに行き着いた。店が立ち並ぶ市場であった。人の往来は目覚めてから初めて見るほど多い。客引きの声が響き渡る。私はずんずん人ごみの中へ入っていった。
市場には活気とよくわからない匂いが充満していた。肉汁の匂い、香水の匂い、香辛料のつんと来る匂い……。嗅いだことがある匂いもあれば、新体験な匂いもあった。日本を出たことがないからわからないが、どうにも異国のようである。
ふと、八百屋の出店が目に入った。どうしても死ぬ前に食いそびれたリンゴが食べたくなったので、出店の棚をのぞいた。
奇怪なことに、見覚えのある野菜がない。人参の形をしていても紫色だったり、きゅうりの形をしていてもオレンジ色だったり。私はあまりに珍しいのでリンゴを探すのを忘れ、見入っていた。
「いらっしゃい! 何をお探しで?」
突然、話しかけられ面食らった。声の主は愛想がよさそうな旦那だった。この店の店主なのだろう。
私はすっかりここを異国だと思っていたので、言葉が通じることが意外で仕方なかった。私の頭はさらに混乱したが、「大丈夫です」と苦し紛れに言うと、彼は人ごみに向かって客引きをし始めた。
耳をすませば、市場に満ちる客引きの声のそれぞれは確かに私に理解できる言語だった。私は考えるのを中断してリンゴを探した。
私は野菜の具合から半ば諦めていたが、もう半分でリンゴを探していた。すると驚いたことに、棚の右端に真っ赤で瑞々しいリンゴを発見した。私は先ほどの店主に声をかけた。
「これを恵んでくれないか」
店主は快活な声で
「75ゴールドです」と言った。お金の単位が違うことなど、もはや気にも止まらなかった。
「私は恵んでくれ、と言ったんだ。持ち合わせがない」
店主は困ったような顔をしたが、私の合成繊維でできた服に目を落とし、「いいですよ」と言った。私はありがたくリンゴを手にした。
私は将来に展望がなかった。乞食のような生活をしていくしかないのか、働き口を見つけられるのか、首を括って自らを再処刑するべきなのか……。
すべて、リンゴを食べてから考えることにした。
他の野菜が生前に見たものとあまりにかけ離れていたので一口目を躊躇したが、齧ってみれば何の変哲もないリンゴだった。しかも、死刑直前のものと比べて新鮮で、甘く、ハリがあった。すぐに食べ切ってしまった。
袖で口を拭い、別の八百屋で物乞いをするか、職を探しに行くか悩んでいると市場の向こうから、こわばった悲鳴が響いてきた。
「助けて! 魔物が出た!」
人々はその叫び声を聞くや否や、私がいるほうへ次々になだれ込んだ。
私は人だかりに紛れてリンゴの芯を捨てたのち、少々考えて、叫び声のほうへ向かった。魔物というものがいかなるものか見てみたかった。
人混みといっても生前のころのそれよりも密集率は高くなく、すいすいと人の流れに逆らうことができた。しばしばお節介な誰かが「危ないぞ!」と声をかけてきたが無視する。
途中、先ほど八百屋に差し掛かったので、厚かましいと思いながらも果物ナイフを要求すると、驚きながらも渡してくれた。店主はとても物分かりがよく、「気をつけろよ」と言ってから店の奥へと大わらわで引っ込んだ。
人の流れがまばらになったその奥に、果たして魔物はいた。二匹だ。肉屋の屋台の棚に頭を突っ込んでいる。時々顔を出しては、妙な鳴き声をあげた。
トカゲのような容姿だったが、二本の足で立っていた。腕には爪がついて、鋭い歯が肉を咀嚼している。私は幼いころに恐竜図鑑で見たラプトルを思い出していた。体の大きさはそれほどでもないようで、頭が私の腰のあたりにきそうである。
魔物はこちらには目もくれず肉を食い荒らしている。このまま引き返してもよかったが、後ろから声援が聞こえてきた。
「頑張れ!」「気をつけろ!」「やってやれ!」……。
私は声援に応えるのが嫌いではなかったので、応戦してみる気になった。
不思議と私の気持ちは落ち着いていた。一度死刑になった身なので、再度死んでもよいと思っているのかもしれない。しかし、一番理由は魔物の刺しごたえに興味が向いていた事だった。私は魔物の肉を果物ナイフで刺したとき、どう血が出るのか、どうナイフが食い込むのか、で頭がいっぱいだった。
手ごろな小石を拾い上げて、手前の魔物に投げつけた、肉を食べるのに懸命だった魔物は、歯に赤身を詰まらせたまま、口を大きく開けて突進してきた。かまれたら痛そうに思われる。
私は右手にナイフを持って左腕を差し出した。左腕を噛みつかれる直前に戻し、喉元にナイフを突き刺す算段である。
魔物は、眼前に迫っていた。その姿は小さいながらも迫力だった。らんらんとした目がまっすぐこちらを見ていた。
私は手を引っ込めようとした。しかし、魔物のほうが上手だった。私の左手は魔物の口の中にあった。首をぎりぎりと締め付ける鋭い歯は私の腕の肉をギリギリと食い破りつつあった。
非常に痛い。自分の体がえぐれ、骨まで歯の鋭さが伝わる感覚で、私の体から冷や汗が一気に噴き出した。しかし、その痛みが逆に私のナイフを持つ力を強めた。
力任せに、全力で、私はナイフを突き立てた。
魔物の全身がこわばった。あごの力が緩み、瞼がカッと開く。しかし、鱗に覆われた魔物にはどうやら致命傷にならなかったようだった。私はどんどんナイフに力を入れた。
ナイフは力を入れれば入れるほど鱗の奥へと沈んでいった。肉がだんだんと切れていく。そして、力を入れるほどに喉が渇いていった。冷や汗が興奮の汗に変わった。そして、脳裏には前世の懐かしむべき日々が映し出されていた。
物心ついたころには既に父子家庭で生きていた。酒癖が悪く暴力癖のある父はすぐ私を殴った。というわけで、最初に殺したのは父だった。
小学三年生の時だった。道徳の授業を受けた日だった。家に帰ると父親がサケの匂いをまき散らしながらうつぶせで寝ていた。当時父は夜勤の警備員をしていたので、昼間はいつもこうだった。しかし、その日は私の好奇心が暴走していた。私は洗面器に水を張り、父の日枕元に置いた。そして、寝息を立てている父の頭を洗面器の中に押し込んで、抑えつけた。父の体はばたばた動いたものの、酒が回っているからか私を引きはがすことはできなかった。やがて、私にかかる力も少なくなり、死んだ。警察には、父が熱っぽいので看病しようとしたら水が欲しいと騒ぎ洗面器に顔を突っ込んだ、と説明したら疑われることなく事故死と判断された。
それが、私の初めての成功体験になってしまった。私は人を殺した体験に興奮し、生きがいを覚えるようになってしまった。
私はその後施設に入れられた。転校もしたので、余所者扱いされ苛め抜かれる日々だった。殴られ、暴言を吐かれ、踏みつけられる度に、嫌な日常から逃げ出したいと願う度に、唯一の成功体験である殺人へ衝動は抑えがたいものとなっていた。
下校路で一人遊ぶ幼稚園児を側溝に叩きつけて殺したとき、私は完全に生きがいを殺人に見出していた。子供ながらに自分が矛盾した存在であることはわかっていた。しかし、衝動はとどまることを知らず、私の体を殺人へと駆り立て続けた。
小学生の時分は非力だったので、事故死に見せかけるような殺ししかできなかった。車道に人を押し込んだり、幼児を転ばせたり……。しかし、成功体験にすがるしかなかった私は下校路を変えてはいたるところで繰り返した。
ナイフで人を殺したのは中学二年生の時だった。しかし、最初はほんの事故のようなものだった。
当時、いじめの標的のままだった私は同学年の不良達から校舎裏に呼び出された。目的は金の無心だった。施設にいた私の持ち金などたかが知れているはずなのに不良は限度を超えて要求し、払えないことを理由に殴った。彼らにとって、ほんのお遊びのつもりだったのだろう。
私の首元にナイフをちらつかせたのも遊びの延長線上に過ぎなかったのだと思う。不良の一人は陳腐な脅し文句を吐きながらナイフを私に近づけた。しかし、私はナイフの魅力に取りつかれていた。首元にナイフが突きつけられ、あと数センチで私の喉の欠陥を破らんとするその時、ナイフで人を刺したらどのような感触なのだろうか、という激しい興味に取りつかれていた(ちょうど同じ感想を魔物に覚えたように)。
私はその誘惑に負けた。
ナイフを奪い取り、眼前の相手の首筋にそれを突き立ててしまったのだ。
突き刺した最初の感覚こそ不快だった。しかし、それはすぐに快感に変わった。私はナイフを人体の奥へ奥へと念入りに押し込んだ。私は、また、その時刺された不良が見せた驚きと絶望に満ちながらこちらを睨む目に大変な芸術性を覚えた。残されたわずかな生の中、全力で私を憎む目は私を興奮させてやまなかった。周囲の不良は慌てふためくばかりで何もできなかったのも、傑作だった。
私は捕まり、裁判にかけられることになった。また、少年の凶悪犯罪として報道され、大きな話題になった。最初こそ、世間は私を非難していたが、私が孤児であること、いじめられっ子であったこと、それと事件が正当防衛であったことから、徐々に同情の声が高まった。裁判も、私が涙ながらにいじめられた最中の恐怖と、殺してしまった不良への謝罪をつらつら述べていると、正当防衛が認められた。
二度目の転校を経て高校に上がり、自由な時間が増えてからはやりたい放題した。体も成熟したので、監視カメラのない裏路地でサラリーマンを絞殺したり、女子高生の首の骨を折ったりだとか、殺人衝動に忠実に動いた。服が汚れていると施設の人に怪しまれるので、もみ合いにならないよう手早く殺す方法を会得した。同一犯の線を消すため、手法もいろいろ身につけた。若さに身を任せることができた時期だった。
高校を卒業して施設を出ると、派遣会社に勤めた。自由な時間が一気に減ったので、趣向を凝らすことにした。派遣先では勤勉に働き、期間が切れたとき、職場で一番嫌な人間を殺すことにした。嫌な人間を探るために派遣先の人と実に多く会話したので、社交性が自然と身についた。その身に着けた社交性で、殺人も実にはかどった。
最後に殺したのは派遣会社の上司だった。23歳の時だった。殺したはいいが監視カメラを見落としていて、御用となった。それと同時にそれまでの殺人の証拠も再捜査で見つかった。
拘置所に入れられ、私は生きがいを失い絶望した。殺人のできない辛さに身もだえしながら警察や弁護士と応対する日々だった。
実際に立件された殺人事件は34件ほどだった。本当はもっとしたはずなのだが、証拠不十分で裁判にならなかった。判決は死刑だった。控訴はしなかった。
それからは刑務所でのつまらない暮らしだった。人を殺せない息苦しさも徐々に忘れ、植物のような生き方をしていた。死刑までの4,5年何も感じない日々だった。
そして、魔物にナイフを突き立てているとき、心の奥底で眠りについていた殺人衝動が噴き上がった。こんな魔物ではなく人を刺したいという願いが湧き出して止まらない。私は興奮の行き場を、ナイフにやるしかない。ずんずんと深くへと刺し込む。
その時、視界の端でもう一匹の魔物が仲間の異変に気付きこちらへと向かった。その魔物は手前で踏み切り、やはり口を大きく開けて跳びかかってきた。
しかし、空中にいるほど軌道が読みやすいものである。私はナイフを離しその魔物の鼻っ面をしたたかに殴った。魔物は驚き、転倒した。
転がった魔物の横っ腹が私の足元に来たので、私はそれを踏みつけた。小さい魔物だったのでその程度の力を加えただけで起き上がれなくなっていた。
気づけば、最初に襲い掛かってきた魔物の噛む力はすでに失われていた。絶命したらしい。私はナイフを引き抜き、死体を左手で払った。左手にほとんど力は入らなかったが、魔物の体はゆらりと倒れた。私はじたばたしている足元の魔物に目をむけた。
狙いを目に定めて、ナイフを突き立てた。瞼には鱗がなくすんなりと刺さる。力が入るままナイフを押し込むと、刃が完全に食い込んだ。魔物は叫び声をあげていたが、やがてその声も小さくなり、力尽きた。
私が目玉からナイフを抜くと背中から歓声が聞こえた。振り返れば市場にいた人々が私の活躍を祝福していた。皆、一様に笑顔だった。
しかし、私はと言えば頭痛がするほどに殺人衝動をくすぶらせていた。飢えていた。生きていることを実感したかった。私はそうした衝動をどうにか押さえつけるために歯を食いしばった。
高ぶる心をどうにか落ち着けて、私は市場の人々へ歩み寄った。そして、持ち合わせがなく恵んでほしい旨を伝えた。人々は皆笑顔で硬貨を差し出した。そして、ありがとう、と口々に言った。
次いで、私は果物ナイフを貸してくれた八百屋に行った。主人は私の顔を見るとすぐに、「よくやった!」と叫んだ。
「大した奴だ。魔物二匹を一人で倒しちまうなんてよ」と主人はつづけた。
私は「果物ナイフは使い物にならなくなってしまった」と言って先ほど恵んでもらった硬貨から五枚ほど渡した。
「俺からもお礼がしたい」とにこやかに主人は言った。
「じゃあ、リンゴをあと数個恵んでくれ。あと、職を探せる場所と左手を直してくれる場所も教えてくれたらうれしい」と私は言ってみた。
主人は意気揚々とリンゴを四つ紙袋に入れ、渡してくれた。差し出しながら
「酒場に行けばいい。魔物退治の仕事を紹介してくれるし僧侶がいる」と教えてくれた。
何もかも理解しがたいが、今更になって左手が激しく痛むので、私は酒場への道順を聞いて、歩き出そうと主人に背を向けた。
「待ってくれ」
八百屋の主人が呼び止めた。
「あんた、名前は?」
彼はとても笑顔だった。
「辻」私はぴしゃりと答えた。
「ツジか。覚えておく!」主人はそう言って手を振った。
私は左手に紙袋を持ち、右手にリンゴを取り出して、それをかじりながら歩いていた。今、名前を聞いた店主も、魔物との戦いのなかで声援を送った人々も、皆、私の血塗られた生前と殺人衝動を知らない。だから皆にこやかなのだ。だからお恵みをくれるのだ。
私は爆発しそうな衝動をリンゴとともに噛み砕いて飲み込んでいた。