6. 理想 〜ヴィンフリート〜
「一ヶ月だ。一ヶ月であいつをここから追い出してやる!」
婚約式が終わった夜、執務室に戻るなり不満を爆発させた俺に、侍従長ディルクはいつも通り無関心だった。
「なかなか下衆いお考えですね」
「そう思うなら少しは手を止めて俺の話を聞け」
「仕事が溜まっておりますので」
「嘘つけ。お前の仕事は父上が全部取り上げて他に回しただろう。主人の話に少しくらい興味を持ったらどうだ」
ディルクは生来のずば抜けた知能で、22歳という異例の若さで我がリングエラ国の宰相にまで昇り詰めたが、俺の婚姻を機にその任を解かれ、新たに侍従長となった。
国王に次いで全実権を握る立場から、王城内を取り仕切る裏方へ。表向きは左遷である。その内情は、王子である俺に仕え我が国の新体制を整えることが目的であり、国王はディルクにこの国の未来を託したとも言える。
ただ当のディルクは、この人事に少なからず不満を持っている。
一心不乱にペンを走らせていたディルクは、やれやれと筆を置き、デスクから離れると俺のすぐ隣に座り直した。
「では言わせていただきますが」
「何だ」
「あの王女の容姿は殿下の理想そのものでしょう」
「……は、お前は何を」
「私が気づいていないとでも?」
底知れぬ黒い瞳にじろりと見据えられ、俺は長椅子からベッドの端まで一気に後ずさった。
そう。
俺の婚約者になったクレマチス国の王女は、その容姿だけは俺が思い描く理想の女性そのものだった。
丸く大きな青い瞳に、影を落とすほど長い睫毛、小さく可愛らしい鼻に、丸みを帯びほんのり色づいた頬、そしてぷっくりと膨れた魅惑的な唇。傷一つない陶器のようにつるんとした肌は、思わず触れたくなるほど白く美しい。艶やかな金色の髪は緩やかなウェーブを描き、彼女の肩にさらさらと後光の如く流れ落ちていく。
顔合わせで初めて彼女と会った時、俺は衝撃を受けた。これほどまでに美しい女性が、まさか地上にいるとは。
婚約式で着飾った王女は、更に磨きがかかり眩しいほどだった。淡いグリーンのドレスは彼女の肌によく映え、妖精か女神か、どっちだって良いこりゃ本当に同じ人間かレベルだった。初めて隣に並びにっこりと微笑まれた時には、危うく卒倒するかと思ったくらいだ。
「お前何故それを」
「殿下のポーカーフェイスは私には通用しません」
「誰にも言うなよ」
「言いませんよ。何の利益にもなりませんので」
何事もなかったかのようにまたデスクに戻りペンを握り直したディルクを、俺は恨みがましく睨みつけた。
(こいつ……油断できない)
しかし彼女の容姿に惑わされてはならない。何と言っても相手は、地上から来た人間なのだ。
遥かなる昔、先に文明が築かれ、国家が建てられたのは天空の世界だ。以降、地上は天空の後を追うように発展してきているものの、その差が縮まることはない。
近年では多少の交流や物資の行き来はあるが、それも全部天空の飛行船を使用して成り立っている。地上人は風の乗り方を知らない。地上人だけで自力で天空に来ることはできない。
すべてにおいて遅れを取る地上から来た王女。どれだけ見目が良くとも、総合すればマイナスだ。
翌朝、クレマチス国王と共に食堂に現れた王女に、思わず息を呑んだ。
(これはまた……昨日とは雰囲気がだいぶ違う)
着飾ったり化粧などしていなくても、朝の光を浴びるだけで彼女は神々しいほど美しかった。そのまま俺の向かいの席に座り、食事を摂る彼女に見入った。
小さな手でナイフとフォークを持ち、サラダのハムを一口大に切って口に運ぶ。その口元に視線が吸い寄せられたところで、ふいに彼女がこちらを向いたので慌てて視線を外した。
(悪くないな……)
地上とは言えさすがは王室育ちといったところか。食事の作法はきちんと叩き込まれているようだ。音も立てず優雅な手つきで、難なく目の前の皿を空にしていく。カップの持ち方も美しい。
粗を見つけてさっそく指摘してやろうと思っていたのに、むしろ完璧ではないか。
「あまり進んでいないようだが、どうした?」
すぐ隣では、リングエラ国王である父上が意味ありげににやにやと笑っていた。その後ろでディルクが額に手を当て俯いている。
「……失礼する」
何ともいえない気分になり退出することにした。
父上は歴代の国王の中では珍しい親和派だ。地上世界に大層興味があり、地上との国交が開かれたのも父上が国王になってからのことだった。
リングエラが一括統治している天空とは違い、地上では絶え間なく争いが起き数多の国々が興っては滅んでいる。そんな中、クレマチスという国が台頭してきている、そこには年頃の王女が一人いてまだ決まった相手もいないらしい、という噂が父上の耳に入った。
地上との繋がりが欲しい父上には願ってもない話だ。
クレマチスとしても、天空と親戚になれば地上を統治する上で有利になることは間違いない。瞬く間に縁談の話はまとまった。そこに俺の意思が入る余地は全くなかった。
今朝の様子だと、父上は俺があの王女を気に入ったと思っているだろう。あの場で否定するのは憚られたが、いつか誤解を解かなければ。
俺は彼女に対して特別な感情を持ってはいない。好きでもなければ嫌いでもない。ただ、彼女の方が天空や俺という人間には到底釣り合わないと判断して去っていく、そういう筋書きだ。
朝食から戻ってきてしばらくしてから、クレマチス国王が部屋を訪ねてきた。緊急の用ができてすぐにでも帰国する予定だと言う。
「……内戦か何かか」
「お恥ずかしい話ですが」
へらへら苦笑を浮かべるクレマチス国王に、俺は顔を顰めた。
地上では見えない曖昧な国境線のために諍いごとが絶えない。そんなことしてる暇があるならもっと国を繁栄させるために頭と力を使えと言いたい。
「リゼはクレマチスをほとんど出たことがないので、世間知らずな面もありますが素直で良い子です。どうかよろしく頼みます」
やはり世間知らずな箱入り娘か。
あの容姿のせいで周りが誰も彼女に厳しく接してこなかったのか、あるいはあの容姿に胡座をかいて彼女自身が何の努力もしてこなかったのか。いずれにしても、地上では許された甘えがこの天空では通用しないことをやがて思い知ることだろう。
すっかり鼻白んだ俺は、しかし精一杯の愛想笑いを浮かべてクレマチス国王の手を握った。
「ええ、こちらでしっかり面倒を見させてもらいますよ」
「それを聞いて安心しました。リゼの相手が、貴殿のような立派な方で良かった。ではまた」
騎士出身だという屈強な体つきの王は屈託のない笑みを浮かべ、ずしんずしんと大きな音を立てて去って行った。
今日はやけに風が強い。この気流に乗ればすぐに地上に帰り着けるだろう。
(愚かしいことだな……)
地上の人間は風に乗る方法を知らない。そのため意思とは関係なく知らず知らずのうちに風の影響を被りやすい。この荒い風波が地上にどう吹き下ろしているのか。やり手だというクレマチス国王も苦戦を強いられるだろう。
(まあ俺には関係のないことだ)
俺には俺のやるべきことがある。
まずは、あの美しき厄介者をどうするかだ。