38. 蜜月なのか 〜リーゼロッテ〜
殿下の熱い眼差しが、私に向けて一心に注がれている。このまま私が殿下の名前を呼ぶまでずっと見つめ続けているつもりなんだろうか。だとしたら大変だ。さっきまでとは違う意味で焼け死にそう。
私は意を決して口を開いた。
「ヴィンフリート……様……?」
「何故疑問形なんだ」
つい語尾が弱くなってしまい、すかさず殿下の突っ込みが入った。何とも楽しそうに声を上げて笑い出す殿下。いつもの威厳はどこかへ消え去り、年相応の青年に見えていつにも増してどきどき緊張してしまう。
「ヴィンで構わない。近しい者はそう呼ぶ」
「でも……私がそんな風にお呼びするのは」
「良いんだ。リゼにそう呼んで欲しい」
真っ直ぐな視線に射抜かれ、これ以上はないというほど心臓がばくばくと忙しなく動き出す。
と同時に、僅かに開いた扉の隙間からこちらを覗き込むアンナとユリウスが見えた。こちらに入ろうとするユリウスをアンナが頭から押さえつけながら、にやにや笑いを浮かべている。その口元はよく見れば、ごゆっくり、と言っているように見える。
(もう、何考えてるのよ。余計緊張するじゃない)
そのまま音も立てず静かに扉が閉められた。いつのまにかディルクも退出していて、部屋の中は完全に殿下と私の二人きり。
まだか、と殿下に目線で急かされ、私は覚悟を決めた。
「では……ヴィン様」
直前でやっぱり萎縮してしまい、ものすごく小さい声になってしまった。けれど殿下の耳にはちゃんと届いたみたいだ。
殿下は満足そうに柔らかく微笑み、私の手をいっそう強く握りしめた。
(え、何どうしたら良いの、私)
ぴしりと固まって動けないまま、心の中は大パニックだ。
こんな態度取られたらどうしたって勘違いしてしまう。私はまだ殿下のおそばにいても良いんでしょうか……。
「リゼ、クレマチスとはどんな国だ?」
私の動揺に気づいたのか、殿下は話題をさっと変えて下さった。内心ほっとしながら、気を取り直して私も問い返した。
「どんな、とは?」
「俺は何度か地上に行ったことはあるが、クレマチスには行ったことがない。リゼのような立派な王女が育つくらいだ、きっと良い国なんだろう」
「そう仰られましても」
私は全然役に立たない無能な婚約者だけれど、クレマチスはとても良い国だ。それは間違いないし、殿下がクレマチスに興味を持ってくれたことは素直に嬉しい。
何から話したら良いか迷いながら、たどたどしい口調で喋り始めた私の話を、殿下は嫌がることなく真剣な面持ちで耳を傾けてくれた。
自然に恵まれ資源も豊富なクレマチスは、そこに住む人々も温かく善意に溢れ優しい。徴収の時期でもないのに各地から特産物が送られてくる話をした時は、殿下も興味を惹かれたようで身を乗り出して聞いて下さった。
話題が姉のフローラにまで飛んだ時、私はふと大切な姉に想いを馳せた。
(フローラ……元気かしら)
リングエラに来る前、最後に見たフローラは随分とお腹が膨らんでいた。あれからもう一月以上経っているから、早ければもう産まれている頃かもしれない。
つわりやお腹の張りに苦しんでいたフローラ。病気ではないのだからオリバー様に心配はかけられないと、私以外誰にも弱音を吐かずひっそり寝込んだりしていた。大丈夫と微笑むフローラの綺麗な顔は時々びっくりするほど真っ白で、深夜に慌てて医師を呼んで、私とフローラしか知らない城の抜け道から招き入れたりもした。
「姉君とは仲が良いのか?」
穏やかな声で尋ねられ、私はこくりと頷いた。
「そうですね。たった二人の姉妹ですし歳も近いので、親友のような関係でした。フローラは優しくて可愛くて、私の自慢の姉です」
半分だけ血が繋がった、たった一人の姉。
王位が絡み複雑な間柄だったにも関わらずフローラは常に優しい姉であり、かけがえのない親友でもある。考えてみれば、フローラとこんなに長く離れているのはこれが初めてだった。
(リングエラに来た当初は、すぐに婚約解消して帰るつもりだったから……)
それがなかなか計画通りにいかず一月以上も費やした挙句、いつの間にか殿下のことをこんなにも大切に思ってしまっている。私はもう殿下のそばから離れられなくなっている。
私を魅了する温かな茶色い瞳が、私を捉えたまま意外なことを口にした。
「行くか、クレマチスに」
何を言われているかわからず、私は混乱して身動き一つ取れなくなった。
(それは……もう用済みの私はクレマチスに帰れってこと?)
リングエラに来た当初はあんなにも望んでいたことが、今は途方もなく絶望的なことに感じられた。
「父上の退位が完了してからになるだろうが、落ち着いたら共に行こう」
(共に……?)
「そろそろ恋しい頃ではないのか? ユリウスとアンナも連れて行くか。正式に結婚した後は、帰れないこともないが色々手続きが面倒になるからな。今のうちに一度里帰りした方が良かろう。俺としてもクレマチスには元々興味があったからちょうど良い」
苦笑しながら穏やかな口調で話し続ける殿下に、私もいくらか落ち着きを取り戻した。
殿下は私との婚約を継続するどころか、そのまま本当に結婚する前提で話を進めている。それがどれほど私を喜ばせる発言なのかも知らずに。
「そういうことでしたら、お言葉に甘えさせていただきます」
何一つ殿下のためになることをできていない私が、どうして殿下のそばにいることを許されるのか。
純粋に疑問に思うのと、気後れしてしまうのと、何もできないでいる罪悪感と。色んな感情が次々と湧き起こり混じり合う中で、ふわりと浮き上がってくるのはやっぱり嬉しい気持ちで。
(殿下とクレマチスに行けるなんて)
夢にも思わなかった一大イベントの到来に、頰が緩むのを抑えられない。
殿下は単にクレマチスに興味があるだけで、私のことは別に何とも思っていないかもしれない。それでも、殿下と一緒にクレマチスに帰ることを想像するだけで楽しみで仕方がない。
「では、事前学習ということでもっと話を聞かせてもらおうか。例えばリゼと姉君だけの秘密の話とかはないのか」
殿下がわざとおどけたような口調で訪ねてくるので、私も楽しくなって同じように応戦する。
「それはあっても申し上げられません。第一クレマチスとは関係ない個人的なお話です」
「ちっ、うまく引き出せるかと思ったが」
本気で悔しそうな殿下がおかしくて声を上げて笑ってしまった。
(殿下には少年のように無邪気な一面もあるのね)
まだまだ私の知らない殿下が沢山いるのかもしれない。そのどれもがきっと、私にとっては魅力的に見えるんだろう。新しい一面を知る度に殿下という人間に惹き込まれていく自分が想像つく。
「秘密というわけではありませんが、武勇伝を一つお聞かせ致しましょうか」
打ち解けた雰囲気で会話をして下さるのが嬉しくて私もつい口が軽くなり、今まで誰にも話したことのない話題が口をついて出る。
「武勇伝とは、王女らしくない言葉の響きだな」
「鉱山の視察について行った時に、フローラと宝探しをしたんです」
「興味深いな。詳しく聞かせてくれ」
ガラス玉のようにきらきらと輝く殿下の瞳に見つめられて、私の心臓はこれ以上ないくらい早鐘を打ちながらも喜びでいっぱいだった。
いつか殿下から突き放される日が来たとしても、今日殿下と二人で過ごしたこの時間だけは誰にも奪うことのできない、私の大切な宝物になる。この思い出の記憶さえあれば、私はこの先も大丈夫。婚約破棄されたとしても、地上に帰り二度と天空には来られないとしても、殿下を想ったまま生きていくことができる。
ずっと続いてほしい時間はあっという間に過ぎ、気づけば夜が明け始めていた。殿下がうっすら頬を赤く染め俯く。
「随分長居をしてしまったようだな。すまない」
「いえ、こちらこそお引き留めして申し訳ありませんでした」
次にお会いする時も、殿下は今夜のように屈託なく笑ってくれるだろうか。それとも、やっぱり威厳に満ちた王者らしい振る舞いで私を圧倒するのだろうか。
「……ではこれで失礼する」
去り際、扉に手をかけたまま一度振り返った殿下は、優しい眼差しで私を見つめた。カーテンから漏れる朝日に照らされた微笑が、彫刻のように端正で胸が締め付けられた。
殿下と入れ替わるように入ってきたアンナは、るんるんと楽しそうにスキップしていた。
「アンナありがとう。殿下のお役に立ってくれたみたいで。本当にありがとう」
「いえいえ。姫様からの初めてのご命令、身震いするほど嬉しかったですから。姫様もお身体には問題なさそうで何よりですね」
いつになく棘を感じる。
アンナにはわかっているのだ。
「アンナ……私、殿下……ヴィンフリート様、のことを本当に好きになっちゃったかもしれないわ」
「まあそうでしょうねえ。むしろ今更って感じですよ姫様」
ほらやっぱり。
アンナには隠し事はできない。




