6 紅い慟哭
「なにやってんだよ飯尾……」
教室に入ってきた吉くんの顔は、あの夜よりもずっと怖くて。
それなのに私は、ああ吉くんだと妙に納得してしまった。
「吉くん………」
吸い寄せられるように、吉くんの姿を見つめる。
「吉沢、邪魔すんなって言ったよな俺」
無意識に肘を動かし、掴まれている腕を振り払おうとする。飯尾君の手は離れてくれず、逆にもう片方の手首も掴まれてしまった。
吉くんが髪を揺らしながら、慌ててこちらへやってくる。周囲の机がガタガタと音を立てた。
飯尾君が大きな声をあげた。
「くんな!! ……来たら、紅野にキスするぞ」
吉くんの足が、ピタリと止まった。
飯尾君が、冷たい目を吉くんに向ける。
「吉沢。俺、お前嫌いなんだよ。殴らせろ」
ええっ!?
私を押さえつけながら、飯尾君がとんでもないことを言い出した。
びっくりして、目の前の人を見上げる。
「飯尾君!?」
「一発殴らせてくれたら、もうこいつに絡んだりしねーよ」
飯尾君がニヤリと笑う。
「嫌だっつーなら、遠慮なくこいつにキスしちゃうけど? どっちがいいよ。俺やさしーから、お前に選ばせてやるぜ?」
「ちょっと待ってよ、嫌いだからってどうしてそうなるの……」
「うるせぇな、黙ってろよ」
耳元に口を寄せ、凄まれた。かかる息が不快で眉を顰める。
吉くんはじろりと飯尾君を睨みつけ、唇を突き出しふうとため息をついた。顎を引き体の力をぶらりと抜き、棒立ちになる。
「分かったよ飯尾。こいよ」
「吉くん! 駄目だよ……」
「その代わり、約束は守れよ?」
「ちゃんと終わりにする」
吉くんは、鋭い目で飯尾君を凝視している。
飯尾君も、吉くんを静かに見返している。グレーの瞳は獰猛で、今にも吉くんに襲い掛かろうとしている。
「だ…ダメダメそんなの!」
取り敢えず飯尾君から離れなきゃ……。
必死にもがいてみたものの、押さえつける力は強くて、腕はびくともしない。
どうしよう。
こんなに強い力が吉くんに向かえば、吉くんは、どうなってしまうの?
飯尾君を止めるにはどうすれば……
………そんなの。
もう片方を選べばいいんだ。
軽く息を吸う。
勇気を出して、言葉にした。勇気。本当は、吉くんと一緒に帰る勇気を私が持てばよかったんだ。そうしたら今、こんな事になってはいなかった。
私のせいだ。
「……キスしよう、飯尾君」
言葉が少し、震える。
飯尾君は少し目を開いて私を見、すぐに冷ややかに笑い出した。
「俺の事好きじゃないのに出来んの?」
「1回も2回も同じだよきっと………好きじゃなくてもできる……」
「嫌だっつってた癖に」
精一杯の虚勢を張った私に冷たい目を向けた後、飯尾君が顔を逸らした。
吉くんが眉を寄せ、ムッとした顔で私を見る。
「由夏。あいつとしたいの?」
「そ、そんな事はないけど……」
「もう、俺と飯尾で話まとまってんだから、由夏は黙ってて」
飯尾君が私から離れ、吉くんに近づいた。
両手の拘束が解かれ、自由になる。急いで吉くんの側に向かい、制服の裾にしがみついた。
「吉くん! もう私大丈夫だから、逃げようよ……」
「由夏、邪魔。どいて」
吉くんがじろりと私を睨んだ。
なぜだか、吉くんは飯尾君に殴られる気のようだ。
さっぱりわからない………。
飯尾君にもじろりと睨まれ、2人から邪魔者扱いされた私は、なんだか居たたまれなくなり、そっと教室の端に寄った。
私、部外者のよう…。
飯尾君が、手のひらをぎゅっと握る。
「あーあ、嫌んなるよな。ほんと、俺、お前の事気に入らね」
「嫌になるのはこっちだよ。1回も2回も同じ、ってなんだよそれ」
「うるせ。ケチケチすんなってのそんくらい。それより歯ぁ食いしばれよ、そのお綺麗な顔に拳当ててやるからな」
「どうぞ」
なんだかすっかり2人の世界だ。
私には割り込めない空気の中、私には分からない会話を繰り広げながら、私には理解できない流れが出来上がりつつある。
2人を交互にキョロキョロ眺めていると、突然、飯尾君が拳を吉くんの頬に当てた。鈍い音がして、吉くんが綺麗に後ろへ飛んでいく。机と当たり派手な音が聞こえてきた。
「吉くん!」
慌てて吉くんのそばに駆け寄る。吉くんは少し痛そうに呻いた後半身を起こし、飯尾君の方を向いた。
青くなる私を余所に、飯尾君は舌打ちをする。
「逃げやがって」
「安心して、ちゃんと痛いよ」
「たりめーだろ。手加減なしでやったんだから」
「意外と優しいんだね。…もう、気は済んだ?」
「……ほんと、嫌な奴だぜ」
吉くんは、いつものように穏やかに微笑んでいた。
なぜだか、吉くんの頬は赤くてとても痛そうなのに、表情はとてもにこやかで。私には、この吉くんが全く分からない。
飯尾君が、むすっとしたまま教室の出口まで歩いていく。
「じゃあな、紅野。もうあんなことしねーから安心しろよ」
「あ、飯尾君……」
不意に、私は飯尾君に告白をされていたことを思い出した。
返事しなきゃ、と、焦って言葉を出そうとする。
「私、飯尾君の事……」
飯尾君が、そんな私をじろりと睨む。
「好きじゃないってさっき聞いたけど。もうなんも言うなよ、頼むからさ」
「………ごめん」
黙ってそのまま、飯尾君は教室から出ていった。
ばつの悪そうな顔をして、飯尾君の後ろ姿を眺めている私の後ろで、吉くんがくつくつと笑っている。頬は相変わらず真っ赤で、殴られておかしくなってしまったのかと、少し本気で心配した。
「どーしてそんなに笑ってるのよ……」
「だって、嬉しいからね」
「殴られて嬉しいの? ほんとに吉くんおかしいよ……」
「全然おかしくないって」
言いながらまた、優しげに笑う。懐かしい笑顔。
私の目の前にいるのは、やっぱり、吉くんだ。
知らない顔もいっぱい見せるけれど、変わらない顔もあって。どれもが全部、今の吉くん。
今、私の目の前にいるひとが、吉くん。
私の…幼馴染の、吉くん。
「由夏こそ、なんだか様子がおかしかったけど?」
天井を見上げ、さっきの告白を思い出した。
「……私、飯尾君に好きって言われちゃった」
「ふうん」
「吉くんは慣れてるかもしれないけど……私、ああいうの初めてだったから、ちょっと、動揺してるだけ……」
「初めて、ねえ。俺だって言ってるけどね」
「吉くんのは…」
視線を天井から、吉くんに移した。拗ねたような顔をして私の方を向いている。
教室の中に、雲が途切れたのか光が射す。
お日様に照らされ、吉くんの髪がほんのり茶色く見えた。
「吉くんの好きは、飯尾君と同じなの……?」
「………」
吉くんが、目を見開く。射抜くようにじっと私を見つめている。
「一緒だよ」
ぶわり、と。
花の咲く音が聞こえてきた。
かぁぁ、と、私の頬が真っ赤に染まる。心臓が大きく、跳ねて、跳ねて、抑えきれなくなって慌てて口元を両手で覆った。
そんな私を、吉くんは嬉しそうにじっと見つめている。
私は――
吉沢蒼くんに、好きだよと言われていた。
「どうしよう。ドキドキしてる、私……」
「やっと意味分かってくれたの? 由夏」
「どうしよう。私、もうずっと前から、吉くんに、ドキドキしていたの………」
吉くんの眼差しに。
ふわりと回された腕に。
ふとした拍子に。
高鳴り始めていた胸。
吉くんへの想いは、幼いあの頃とはまるで違っていて―――
「私の好きも、変わっちゃった」
涙が、ぽろりと零れた。
「私の好きも、吉くんの好きと一緒だ………」
吉くんが、手をかざし私の頭に乗せようとして止め、そのまま伸ばした腕を私の肩へと回す。
「なんで泣くんだよ」
困惑したように吉くんが呟く。
吉くんには分からない。さっきの飯尾君とのやり取りが、私には理解できなかったのと同じで。
私にも名前のつけられないこの感情は、きっと吉くんにはうまく伝わらない。
「由夏、俺、喜んでいいの? それともどうなの……」
変わることを恐れて、必死でせき止めていた感情が、解放される。言葉が、口から溢れていた。
「好き……私も好き………」
感情と共に涙も、ぼろぼろ止まらない。
さようなら、昔の私達。
幼いあの頃はもう戻れない。
もう止められないの。
吉くんだけじゃないの。
私もかわってしまったの。
あの頃が懐かしくてたまらなくて。私はずっと居心地の良いあそこに留まりたかったけれど、もうそれは無理で。前を向くしかなくて。
さようなら。さようなら。
相変わらずぽろぽろ泣き続ける私を、ギュッと抱きしめながら、吉くんは優しく頭を撫でる。その優しさに甘えて、私は好きなだけ泣いたままでいる。
吉くんの制服の端をキュッと掴む。
温もりだけは遠い昔と同じ。
ごめんね吉くん、大好きな吉くん。
今はただ、ただ泣きたくてたまらなくて。
もう少し。
このままこうして、なかせていて。
あと少しだけ。この懐かしい温もりの中で……。
時間も忘れてそうしていて、一通り落ち着いて私の涙が枯れた頃。
顔をようやく上げた私をじっとみて、吉くんが不機嫌そうな顔を見せた。
「そういや由夏、1回も2回も同じとか言ってたけど………あいつにされたの?」
「え、キス? あ、うん………」
不快な感触を思い出し、慌てて袖口で唇を拭った。
私のその動作に、吉くんがますます機嫌を悪くする。
「上書きさせて………」
返事はまだ何もしていないのに。
吉くんは、私の後頭部をそっと抱え込み、唇を落とした。
吉くんとのキスは、うっすらと鉄の味がした。