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5 金の鼓動


「あれ、いつもと違う」


 体操服に着替えていると、不意に香織が声を上げた。


「そう?」

「うん。なんかつけた? 香水の匂いがする」 


 どきりとして下を向いた。


 お腹がキリキリと痛む。

 昨日から始まった生理のせいだ。特別に重い憂鬱の2日目。

 

「匂いきつい? 分かっちゃうかな…」

「んー、つけすぎって事はないと思う。近づかなかったら分からないよ」

「そう、良かった」

「由夏、今まで香水つけた事なかったよね。なにかあったの?」

「別に! ちょっと、気分転換だから」


 血の匂いを感じていたくなくて。


 今まで、なんとなく受け入れていたのに、意識しだすとそれはもう気になって仕方がない。昔とは違うんだよと何処からか笑う声が聞こえてきそうで、打ち消してみた。


 失敗したな。


 勝手に借りた母の香水は、逆に、大人に近づいてしまったような気さえする。



 曇り空は今にも雨が降りそうで、グラウンドを走りながら灰色の空を見上げていると、心までどんより重たくなってきた。

 

 自分の身体が、私の意志を無視して勝手に大人になろうとしている。私は、私の知っている昔の私にもう戻れない。

 私はまだここにいたいのに、後ろから見えない力で前へと無理やり進まされる。背中から、何かにぐりぐりと押しこまれているようだ。


 だるいお腹は、心まで気怠い気持ちにさせられる。


 吉くん。

 私も変わってしまったの? 吉くん。



 思い浮かべた吉くんの姿は、穏やかに微笑んでいる幼いあの頃のもので。

 私は都合のいい彼の姿を、ずっと追い求めているのだと気付かされた。


 

 ポツリと、小さな雨粒が頬に当たる。



 吉くんの姿を、もう一度思い浮かべてみた。


 私を落ち着かなくさせる綺麗な瞳を。部屋にこもる匂いを。杉田さんと向き合っていた時の浮かなげな顔を。飯尾君に向ける鋭い視線を。頭に乗せられた優しい手のひらを。広い背中を。私の心をかき乱す抱擁を。

 そして、あの夜の出来事を。


 …柔らかくて温かな感触を。



 幾度となく私に見せてくれた、穏やかな笑顔を――。


 


 水滴がまた、私の頬を落ちる。


 ああ。




 私たちはもう、昔のままでは居られない。







 


 それから暫く、朝も帰りも、吉くんからすり抜けるようにひとりで、私は家と学校を往復した。

 こんなにも顔を会わせない日々は初めてで、新しい。


 昼休み。廊下に出ると、女の子の群れを見かけ、ふらりと視線を向かわせると、やっぱりその中心には吉くんがいた。感情の読めない澄ました顔は、どこか寂しげにも見えた。

 そのままぼんやり見つめていると、ふと目が合った。


 吉くんが、いつかのように口を開く。


「由夏、今日は、一緒に帰ろう」


 穏やかで優しい口調は昔のまま変わらなくて、私の心が揺さぶられる。

 

「待ってるから」


 吉くんの言葉から逃げるように背を向け、教室の中へ戻った。

 

 





 放課後。

 いつものように香織にサヨナラと告げた後、席に座り途方に暮れた。


 昨日も、おとといも、その前も、私は一人で帰った。

 一人きりの登下校はひたすら静かで、落ち着かなくて。ふわふわと柔らかい道路を歩いているようで、自分で選んだ道のりなのにじわじわ心細くなってくる。


 その間。吉くんはずっと、どうしていたのだろうか。

 昼間の吉くんを思い浮かべ、チクリと胸が痛む。


 逃げるように先に帰る気にもなれず、かといって吉くんの元に向かう勇気も出ず、机の上に腕を組み頭を伏せた。私の長い髪が流れて落ち、肩を滑らせ顔をすべて覆い隠す。

 ざわつく教室の中は、足音が通り過ぎる度に静けさを増していく。


 声が、気配が、一つ一つ消えていく。私はじっと目を閉じて、ぼんやりと掠れていく音を耳にした。やがて静まり返った教室の中で、誰かの気配を私は感じた。

 

 吉くん?


 もう逃げられない。

 ドキドキしながらゆっくりと目を開け顔を上げると、私の目の前には飯尾君がいた。



「飯尾君………?」


 飯尾君は、私の一つ前の席に、背もたれを抱え込むようにして座り、こちらを見ている。

 教室の中にはもう他に誰もいない。


「どうしてここに?」

「紅野こそ、ずっと何やってんだよ。眠いなら家帰れよ」

「…ほっといて」


 顔を背け、カバンを手にし席を立つ。

 飯尾君も私の後に続いた。


「ついてこないでよ」

「俺も今から帰るところなんだよね」


 廊下はがらんとして、隣の教室も人はいない。

 窓からグラウンドを眺めると、運動部の子達の賑やかな声が聞こえてくる。

 あれから随分時間が経っているようだ。吉くんもきっと、諦めて先に帰ってしまっただろう。


 一歩一歩、周囲の人気のなさを確かめるように見渡しながら廊下を歩いていく。

 踊り場に辿り着き、一度立ち止まってから、階段を一段づつ丁寧に下りた。一階の廊下に出、下駄箱に向かう道を数歩移動し、足を止める。

 玄関先が見渡せる位置から下駄箱に目を遣ると、背の高い男子生徒が一人、佇んでいた。


 吉くんがいる。


 下駄箱の側面に背中を持たれかけ、吉くんはじっと立っていた。気怠そうに腕を組み顔を上げ、長い足を片方、所在なさげに突き出している。

 

「行かねーの?」


 飯尾君が私の背中をつついた。

 その声に気づいたのか、吉くんがこちらを向いた。澄んだ綺麗な目が、私の瞳とぶつかる。

 足が動かない。

 思考が止まりフリーズしていると、飯尾君が私の腕を掴み、逆方向へと走り出した。


「い、飯尾君、なにを……!」

「吉沢避けてんだろ。最近、一緒に居ねえよな」


 楽しそうにそう言って、飯尾君は階段を駆け上った。

 呆気に取られたものの、背後から吉くんの追ってくる足音が聞こえ、向き合う勇気の出ない私は引かれるまま飯尾君についていく。

 3階まで上がり、手前の教室の中に引っ張られるようにして入りこんだ。


「ケンカしてんの?」


 にやにやしながら飯尾君が私の顔を覗き込む。

 ぷいと横を向いた。掴まれたままの腕が少し痛い。


「別に、そんなんじゃないけど……」


 腕を振り払おうとしたら、飯尾君が私の身体を引き寄せ、頭を押さえつけた。


「や…っ、何するの……」

「しっ。しゃがめよ。来たぞ」

 

 咄嗟に黙って腰を下ろすと、すぐそばの階段を駆け上がる音が聞こえてきた。

 足音は、私達のいる3階まで勢い良く登り切った後、緩やかな歩調でこちらへと向かってくる。廊下側の壁の下に二人うずくまりながら、カツカツと響く靴の音を耳にした。


「由夏……どこ…っ」


 吉くんの声は、荒い息遣いの中に焦燥感が漂っていて、私の胸を締めつける。

 足音が一旦、私達のいる教室の前で立ち止まる。静寂にどきりとして身を固くしていると、再び足音が聞こえ次第に遠ざかっていった。

 私の耳元で、飯尾君がひっそりと囁く。


「おもしれー。吉沢の奴焦ってやんの」


 吉くんは今、何を思っているのだろうか。

 私はずっと逃げている。


『でも、俺は俺だよ』

 

 そう、吉くんは、吉くんなのに。

 私はずっと、昔に拘ってばかりいる。


「吉くん、私を探してる……」


 私は、向きあわないといけない。

 変わっていくことと。


「ほっとけばいーじゃんあんな奴」

「やっぱり私、吉くんのところに行く……。飯尾君、もう腕離して」


 じろりと睨んで、飯尾君は私の髪を一房手に取った。


「………ほんっと、気にいらねえな」


 そのまま一気に引っ張られるものと思い、身構えた私に、逆に飯尾君の方から顔を寄せてきた。

 妙に距離の近いそれは、吉くんの部屋で起きた出来事を瞬時に思い起こさせる。


「やだ……っ! 何するの……」

「なにって、嫌がらせ」

 

 後ろに少し逃げ、すぐに背中が壁とぶつかる。あ、と思った時には既に遅くて、飯尾君の荒れた唇がゆっくりと私の唇に当てられた。

 顔を横によじり、振り切るように飯尾君の唇を離す。軽く舌打ちをし、飯尾君が掴んでいた髪を離した。


 飯尾君の姿は、あの日の吉くんと似ている。どことなく苛立ちと怒りを感じる。

 どうして?

 

「どうしてこんな酷い嫌がらせするの…。飯尾君て、私の事も気に入らないの!?」


 飯尾君は、私の勢いに押されたのか、一瞬息を飲み、少し目を開いた。その後、急に真顔になって、呟いた。


「好きだよ」


 …………えっ?


 いつもの、へらへらとした彼の姿とはかけ離れたその様子が、言葉に一層、真実味を帯びていて。私は言葉を失って、まじまじと、初めて見せる飯尾君の真剣な表情を眺めてしまった。

 金色の髪の隙間から覗くグレーの瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「私……」


 呆然としている私の頬に、飯尾君の空いたばかりの手が添えられた。

 再び顔が近づいてくる。


 いやだ!


 あの夜とははっきりと違う感情が私の中を駆け巡る。


 いやだ。嫌だ嫌だ。

 飯尾君とのキスは、いやだ!


 こんなのいやだ。なにこれ。助けて。

 助けて……吉くん!


「いやだ、吉くん! ………吉くんどこ!」


 叫びながら私は気づいてしまった。

 私は、吉くんとのキスは、嫌ではなかった。



 私の大きな声が辺りに響く。飯尾君がはっきりと動きを止めた。


 悲し気に私を見つめるグレーの瞳から、なんとなく目が離せなくて、しばらくそのまま無言で見つめ返す。そうしている内に、力を込めた私の叫びが届いたのか派手な足音が近づいてきた。

 


「由夏………っ!」



 心地よい、吉くんの声。



「吉くん、ここだよ………」


 私の口がふわりとゆるむ。


 勢いよく教室のドアが開く。吉くんが白い頬を赤くして息をつき、柔らかな髪を乱れさせながら周囲を見回した。綺麗な瞳を鋭く光らせ、視界に私達を捉える。



 吉くんの顔は怒りに満ちていて。





 でも私は。もう怖くはなかった。










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