4 しろい後悔
目を覚まして時計を見ると、普段より1時間も早かった。
どんよりとした胸の内とは裏腹に、ベッドには朝日が差し込んできて、くらりと眩しい。
自分の顔を鏡の前でよくよく見ると、瞼が少し腫れていた。
あれは夢じゃなかったんだ。昨日の出来事が現実なのだと思い知らされ、朝から1つ、大きくため息をつく。視線が瞼から下に降り、唇まで辿り着いた所で慌てて鏡から目を背けた。
昨日の感触が蘇り、顔が赤くなる。
吉くんは、腹を立てていた。
私のせいだ。
窓から部屋に入ることはもう止めにしようと言われていたのに、私は守らなかった。そして私は、恐らく、言ってはいけない事を口にしてしまったんだ。
指先を唇に当てる。
幼い頃だって一度もした事のなかったあれは、ファーストキス、なんて甘いものではまるでなくて。
私に向けられたあの眼差しは。
あの時の吉くんは。私に怒りを向けていた………。
顔を会わせたくなくて。
急いで支度をし、玄関の扉を少し開けた。
通りはがらんとしている。いつも私を待っている彼の姿はどこにも見あたらない。そりゃそうだ、1時間も早いんだもの。
速やかに外に出て、通りを歩く。
吉くんのいない朝。
昨夜は、あれから一晩雨が降っていたようで、地面が濡れて光っている。今朝はいいお天気で、日の光が反射して少し眩しい。黙々と一人歩く中、小鳥のさえずる音が時折、耳に入る。
怖いくらい静かだ。
吉くんを置いて、先に行ってしまった。こんな事は初めてだ。顔を合わせたくなかった筈なのに、いざこうして一人で学校まで歩いていると、それはそれで寂しくて悲しい。
吉くん、私がいなくて怒ってるかな。
吉くんも、私と会いたくないって、思ってるかな。
慌てて目を拭い、前を向いた。
吉くんのいない朝は、私の知らない風景だった。
「あれ、紅野泣いてんの?」
教室の窓から外を眺めていると、飯尾君が私の肩をつついてきた。
慌ててうつむき顔を手で覆う。
「泣いてないよ」
「昨日、吉沢になんかされたんだろ」
びくりとして肩が揺れた。
「違うよ…っ。飯尾君、おかしなことばかり言わないで」
「ふーん」
飯尾君が、私の髪を一房掴んで、後ろに引っ張った。
髪の毛と一緒に私の頭も引っ張られ、顎が上にあがる。露わになる私の顔を飯尾君が覗き込んだ。
「なんかまぶた腫れてっし」
どきりとする。昨日の痕跡を見破られ、内心狼狽えていると香織の声が聞こえてきた。
「何やってんの、飯尾!」
私が絡まれている事に気づいた香織が、勢いよく立ち上がり私の側へとやってきた。
「うるせーな。なんもやってねーよ」
「嘘つけ。髪引っ張ってたでしょ。由夏にちょっかい掛けないでよ」
「お前に関係ねーだろ」
「由夏にはねえ、アンタよりずっと素敵な王子様がいるんだから。ほら、あそこで見てるの吉沢君じゃない?」
「吉くん?」
振り向くと、教室の出入り口に立っている吉くんの姿が見えた。
ぞくりとした。
吉くんは、まったく笑っていない。冷ややかな瞳でこちらを静かに睨んでいる。
怖くなって顔を背けた。
「ほーら、飯尾が由夏にちょっかい掛けるから怒ってるよー?」
「はん! 知るかよ」
「あ、どこか行っちゃった。なんだろ吉沢君、由夏に用があったんじゃないのかな?」
吉くんは、私の事怒ってる。
今朝の置いてきぼりで、きっと余計に怒らせた。
吉くんは。
きっとまだ、私を許していない。
「あ………ノート」
明日からテストが始まる。
放課後、授業が終わると同時に素早く荷物をまとめ、教室を出た。昼間見た吉くんの冷たい表情が忘れられず、昨日のように直接怒りを向けられる事が怖くて、吉くんから逃げるように先に帰る。
部屋に入り、一人で試験勉強をしようと机に向かった所で、私はようやく忘れ物に気が付いた。
吉くんの部屋に数学のノートを置いてきたままだ。さすがに放置するわけにはいかない。それでも暫く行くかどうか迷った後、観念して立ち上がり、重い足取りで隣の家へと向かう事にした。
ノートを引き取るだけだし、すぐ終わるよね。
なんだか、お腹が痛くなってきた…。
ごくりとのどを鳴らし、チャイムを押す。
しばらくして扉が開き、制服姿の吉くんが現れた。
「由夏…」
吉くんの顔は、笑ってはいなかったけれど、予想したほど怖くもなかった。心持ち気まずそうな表情で、視線を私から斜め下の地面に向けている。
少しホッとして、吉くんを見上げた。
「あの、吉くん。数字のノート、部屋に忘れて来ちゃって…」
「ん、上がって」
そっけなく言い、吉くんは私に背を向けた。そのまま階段を登っていく。吉くんは黙ったままだ。私もかける言葉が見つからず、吉くんの後ろ姿を眺めながら一緒に2階へ上がる。
至近距離で見あげると、吉くんの背中はやけに広く感じて、なんだか私の知らない男の人のように見えた。
部屋に入ると、机の上にノートは置いてあった。
「由夏の忘れ物、昨日寝る前に気づいてさ。渡そうと思ったんだけど……タイミングがつかめなくて。ごめん」
「ううん。私の方こそ、昨日はごめんね」
吉くんの声はいつも通り穏やかだ。
もっと怒っているかと思っていたのに、拍子抜けした気分でノートを手に取る。
これで用事は終わり。ドキドキしながら背を向けた。
「じゃあ帰るね。もう2度と窓から入らないようにするから」
そのまま、そっと部屋から出ようとすると、吉くんが私を呼び止めた。
「待って!」
思わずびくりとした。怖くなり振り向けないでいると、吉くんがいつの間にか背後にやってきた。
「昨日は、……ごめん」
「ううん、もういいの……」
肩がキュッと縮こまる。うつむいてじっとしている私の耳元に、吉くんの顔が近づく。
「俺が怖い………?」
「………」
肯定したら吉くんを傷つけるような気がして。でも否定もできなくて、黙り込む。
「由夏、…昼間、飯尾に意地悪されてた?」
「………」
そういえば吉くん、見てたね。
髪を引っ張られたことを、思い出す。少し痛かったけれど、香織がすぐに撃退してくれた。
そういえばそんな事あったっけ、なんて今更のように思い出した。
だって。
吉くんの冷たい目の方が忘れられなくて。
相変わらず背を向ける私の腕を吉くんが掴み、自分の方へと向けた。
不機嫌そうな吉くんがそこにはいて、どきりと心臓が鳴る。
「昨日の俺と同じこと、されたの?」
「え………?」
「あいつ、由夏に顔近づけてたけど………キスでもされた?」
「さ、されてないよ…っ」
一緒にしないで!
なんて。この前まで私が飯尾君に言っていたのに。
逆だ。吉くんと飯尾君がなんだか逆だ。
「………離して!」
掴まれた腕を振り払う。
「吉くん、なんだかおかしいよ。どうしたの? 昨日もヘンだった。へんなことして……」
「おかしくないよ。俺はこんな奴だよ」
「昔の吉くんはあんな事しなかったよ。吉くん、なんだか変わっちゃったね」
「そりゃ変わるだろ」
吉くんが、まっすぐに私の方を向いた。
真剣な瞳にどきりとする。
「俺だって成長してるんだから、いつまでも昔のままじゃあないよ。そう言う由夏だって、変わったよ」
「うそ!」
私も、変わった?
吉くんがじっと私を見据えている。私も、吉くんの言葉に呆然として、吉くんの綺麗な瞳をぼんやりと見つめた。
「嘘じゃないよ。由夏だって、昔とは違うよ」
「うそ……」
吉くんの言葉に混乱した私は、弾かれるように部屋を飛び出した。もつれる足取りで階段を駆け降りようとして、転びそうになり、いつの間にか背後にいた吉くんに抱えられていた。
「危なっかしいところは昔のままだね」
かっちりとした、吉くんの腕。
私を掴む腕はもう、幼い子供の腕じゃない。
私の柔らかい腕とは違う。男の子の腕。
「吉くんは……別の人になっちゃったみたい」
「由夏は、昔の俺の方が良かった?」
「わかんない…」
吉くんの腕が離れる。
飯尾君の笑い声が、どこからか聞こえてくる気がした。
「今の吉くんが分からない。わかんないよ!」
私の好きだった、私の知ってる吉くん。
子供だった吉くんは、いつの間にか、男の人になっていた。
「俺、そんなに変っちゃったかな。まあ、変わったね。もう昔とは違う」
吉くんが柔らかそうな髪をかき上げ、取り乱す私を困惑するように見下ろした。
「でも、俺は俺だよ」
吉くんは、とても悲しそうな顔をしていた。