3 蒼い叫び
なんとなく会話の弾まないまま、普段よりも長い20分を2人で歩く。
自宅前まで戻り、吉くんがぎこちなく私に視線を向けた。
「今日も、昨日の続きする?」
「うん、吉くんがいいなら、お願い」
いつものように一緒に勉強していたら、この得体のしれない不安も消えるかと期待して吉くんの部屋に向かう。少し、陰りのある笑顔で吉くんが私を迎えた。
数学のノートを広げ、シャーペンをカチカチと鳴らす。昨日教わった単元の続きに目をやり、早速拒否反応を示した自分の残念な脳にため息をついていると、頭の上から吉くんの声が聞こえてきた。
「由夏。最近飯尾と仲いいの?」
「えっ?」
「今日さ。あいつの言う通り、俺、邪魔したのかと思って……」
首筋を掻きながら、吉くんは気まずそうに少し目を逸らした。
「いやいやいやいや、ない!」
両手を広げ、首をぶんぶんと横に振る。
「飯尾君はね、ちょっと意地悪されてるだけだよ。吉くんが邪魔なんて、そんなことないから」
「………意地悪?」
「さっきは、吉くんのおかげで助かったよ。ありがとう」
「そっか」
にこりと笑ってみせたのに、吉くんの顔はなぜか晴れない。
「そういえば由夏。昨日も、飯尾に意地悪されたって言ってたよね」
「ん……、まあ、大したことじゃないけど」
「なにされたの……?」
吉くんが、心配そうに私を覗き込んだ。
昨日のは……半分くらい吉くんの悪口なんだよねえ……。
それはちょっと、言えない。
「平気平気。飯尾君、私の事気に入らないみたいでたまに絡んでくるけど、酷いことされるって訳じゃないから大丈夫だよ」
「そっか…。何あったらすぐ俺呼んでね。クラス違うのが悔しいけど…」
そう言って吉くんは目を伏せた。長いまつげに隠された瞳が妙に鋭く見え、ざわり、と胸のうちに不安がよぎる。私の曇り顔に何かを察したののか、吉くんが大きな手を伸ばし、私の頭を優しく撫でた。
昔とすっかり変わってしまったこの慰め方が、今は余計に悲しい。
「吉くん、ぎゅってして」
安心したくて。少し、わがままを言ってみる。
吉くんは、形のいい眉をピクリと上げた。
「…由夏?」
「昔はよく、してくれたでしょう? 少し不安なんだ」
「飯尾が怖いの……?」
軽く頷いた。嘘。
怖いのは、消えそうな吉くん。
私の知らない吉くん。
うつむいた私を暫くじっと見た後、吉くんが、躊躇いがちに私をふわりと抱きしめた。
瞬間。心臓が、大きく跳ねる。
あれ、昔と、違う。
期待していたものとは違う感覚に、私は愕然とした。優しく回された腕に、胸の高鳴りがおさまらない。私は変だ。こんなの、あの頃とまるで違うじゃないか。
昔をなぞりたくて抱きしめて貰ったはずなのに。
落ち着くはずの腕の中は、私の心をかき乱す。
「……ありがとう、もういいよ」
耐えきれなくなって、吉くんの身体から離れた。
懐かしいはずの抱擁も、もう昔とは違う。
呆然とする私に、吉くんが、懐かしい言葉を口にした。
「俺、由夏のこと好きだよ」
「…私も、吉くんは好きだよ?」
透き通るように綺麗な声で、幼い頃の吉くんは、私に好きだと言ってくれたっけ。
『由夏ちゃん、すきだよ』
真っ直ぐに私を見て、お決まりのようにそう言ったあと、天使のようににっこり笑ってくれた吉くん。私もすきだよ! と元気いっぱい答えると、もう一度優しく笑ってくれた。
懐かしい思い出。
「なんだか久しぶりだね。吉くんがそう言ってくれるのって」
ふふ、と笑う。
そういえば、あの頃は『由夏ちゃん』て呼ばれてたんだっけ。
このやり取りがなくなったのは、そう、吉くんが私を『由夏ちゃん』と呼ばなくなってからだ。
懐かしいやり取りは、でもやはり何かが違っていて。
私は昔のように笑ってみせたのに、吉くんは、昔のように笑ってはくれない。
「由夏の言う好きとは違うよ。俺の好きは、昔と同じじゃないんだ」
吉くんが、切なげな瞳で私を見つめた。
昔と同じじゃない、なんて。私はなんとなく耳を塞ぎたくなった。
「あ、忘れ物」
寝る前に持ち物を確認すると、足りないものがあることに気が付いた。
明後日から中間テストだ。
今日も私は、いつものように吉くんの部屋で数学を教わっていた。勉強の後、雑談をして部屋に戻ったのだけど、数学のノートを置き忘れてきたようだ。
時計を見る。もう23時。
玄関からお邪魔するのも、気が引ける時間……。
少しくらい、いいよね?
久し振りに窓に手をかける。がらりと開けると、夜の冷ややかな風が頬に当たり気持ちがいい。5月の気温は、昼間は暑いと感じる日もあるけれど、夜はやはりそれなりに冷える。
吉くんの部屋の明かりがカーテン越しに漏れている。まだ起きているようだ。
そろりと屋根に足をつけ、真正面の部屋へと向かう。足裏に当たる瓦のガタガタとした感触が懐かしくて、頬が緩む。
窓ガラスに手をかけると、抵抗なくするりと開いた。不用心だな、と苦笑しつつ、部屋の中に足を入れる。
瞬間、何かが微かに聞こえてきた。
女の人の声だ。
あれ、吉くん、誰か部屋に女の子いるの……?
顔をこわばらせ、周囲を見回した。
「吉くん……?」
いつものように吉くんの机の上に足を置き、そこから床に降りる。
ベッドの方を向くと、焦った様子の吉くんと目が合った。
「由夏…っ!」
私の存在に気づいた吉くんが、何故か慌てて私に背を向ける。弾みで、手にしていたスマホが床に落下し私の足元まで転がった。無意識にそれを拾い視線を向けると、画面には、裸の女の人が写っていた。
なに、これ。
「やだ……なに見てるの、吉くん…」
頭を、カナヅチで殴られたような、衝撃が走る。くらりとした私の耳に、飯尾君の嫌らしい笑い声が、響いてきた。
『あいつだって俺と変わんねーよ』
違う、吉くんは違う。違わない、これは何? ううん違う、何かの間違い。今目にしたものを認めたくなくて、私の頭の中で言葉がぐるぐる回る。
「勝手に入って来るなよ!」
「ごっ……ごめん……」
吉くんが、私の手からひったくるようにしてスマホを奪い、ベッドの上に放り投げた。
否定の言葉が欲しくて、狼狽えながら吉くんの方を向く。
「吉くん、今のは、なに……?」
「何って…なんでもないよ…」
「へ、へんなの見えた。吉くん、あんなもの、見るの…?」
「……そりゃ。あんなの、男なら誰でも見てるよ。由夏が知らないだけで」
バツの悪そうな顔をして、吉くんが私から視線を逸らす。
何かの間違いであって欲しかった私は、嘘でもそれを信じたのに、吉くんの口から私の求める言葉は出てこない。
男なら誰でも、って。
そんなの。
吉くんも、他の男の子達と、一緒みたいじゃない。
「変だよ吉くん、どうしたの…」
「変って…普通だよ。俺だけが特別変なわけじゃない」
ムッとした顔で吉くんが私を見た。
ふつう。フツウ。普通の男の子。飯尾君の笑い声がまた、聞こえてくる。だから言っただろ、て、馬鹿にしたように私を笑う。
違う、違う。吉くんは飯尾君とは違う。はず、だったのに。
「だって、こんなの。まるで……まるで男の子みたい…」
「男の子みたいってなんだよ」
「吉くんは違う……」
「由夏は俺をなんだと思ってるんだよ!」
取り乱す私を、吉くんが苛立たしげに見据えている。
「俺だって男だよ」
吉くんが荒々しく私の両肩を掴み、まるで怒りをぶつけるかのように、乱暴に唇を押し当ててきた。勢いに負け後ろに倒れた私の上に、吉くんが覆い被さってくる。
これは、誰?
呆然とする私の唇を、吉くんが再び塞いできた。
柔らかくて温かい感触は私を捉えて離さず、段々と息が詰まりそうになってくる。苦しくてもがくとようやく吉くんの唇は離れてくれた。うつむいたまま身体を起こし、私から距離を取る。
垂れ下がる前髪が、なぜだか少し悲しそうに見えた。
「由夏、帰って」
「え、あの、吉くん」
「今日はもう帰れ!」
私の知ってる吉くんは、私を怒鳴ったりしない。
目の前にいる人が誰なのか、さっぱり分からなくなった私は、無我夢中で吉くんの机によじ登る。怖くて後ろが振り向けない。震える指で窓を開け、屋根を伝う。
部屋に戻り、急いでベッドに潜り込んだ。さっきの出来事が頭にこびりついて、怖くて、安心出来るはずのベッドの中なのに、私は、なぜだか涙が止まらなかった。
吉くんの言うとおりだ。
窓から。勝手に部屋へ、入らなければ良かった。