2 はいいろの昼下がり
「おはよう、由夏!」
玄関の扉を開けると、日の光に照らされ眩しく笑う吉くんがいた。
子供の頃からずっと、毎日のように見てきた光景。
おはよう、と私も笑いながら吉くんに駆け寄る。
昔と変わらない日常は、私を安心させる。
「明後日から中間テストだね。テスト憂鬱だなぁ」
「由夏、数学以外はそこまで成績悪くないだろ」
「悪くないってだけで、良くはないから。余裕の吉くんには分かんないよ」
「俺も余裕って訳じゃないんだけどね」
「吉くん、そう言って毎回一番じゃない」
いつものように笑って、吉くんを見上げる。
見上げるようになったのは、いつからだろうとふと思った。
学校までの距離は、片道徒歩20分。
吉くんとお喋りしながら歩く道のりは、遠いようで近い。
なんでもない話をつらつらしているうちに、校門が見えてくる。クラスの違う吉くんとは、下駄箱で一旦お別れ。上靴に履き替え、また2年の廊下まで2人で向かう。
またね、と言い教室に入ろうとしたら、吉くんが思い出したように言った。
「あ、由夏。今日少し遅くなるから、先帰ってて」
「いいよ、待っとくよ?」
「いや、いつ終わるか分からないから、待たなくていいよ」
「ん、分かった」
改めて手を振り直し、笑顔の吉くんに見送られて香織の待つ教室へと入った。
―――なんて。
「言ったものの、やっぱり待とうかな…」
一人で歩く20分は、近いようで遠い。
授業が終わり、荷物をのろのろカバンに詰め込む。替わりに文庫本を取り出した。本でも読んでいたら、時間なんてすぐに経つんじゃないかな。
「由夏、またね!」
香織が手を振り、軽やかに席を立つ。バレー部に所属している香織とは、放課後はいつも別々だ。
教室から出て行く香織に手を振り返していると、丁度、目の前の廊下を通り過ぎる吉くんが見えた。
職員室の方向だ。遅くなるというのは、先生に頼まれ事でもされたのかな。それなら手伝いに行こう! と思った私はついていくことにした。
いつも勉強を教えてくれる、ささやかな恩返しだ。
廊下を通り、突き当りで左を向くと、職員室の手前にある階段を登る足音が聞こえる。
あれ、職員室じゃない。
この上にあるのは、屋上に続く扉だ。屋上に用事って――
妙にドキドキしながら、屋上に続く階段を登る。辿り着いた時には、バタリと音がして屋上の扉が閉まり切った。そろそろと、ノブに手を掛ける。
「何やってんの? 紅野」
「ひゃあ!」
振り向くと、飯尾君がへらへらとした笑みを浮かべ私を見下ろしていた。
「ここになにか面白いモンでもあんのー?」
「さ、さあ………」
「って、俺しってるよ? さっき、職員室から出ようとしたら吉沢見たんだよね。これ、アレだろ」
「あれって……なに?」
「馬鹿だろお前。こんなところに用なんて、女に決まってんだろ」
扉の前に佇む私の身体越しに、飯尾君が腕を伸ばし、扉を少し開けた。
外の風が入りこみ、私の前髪がふわりとなびく。
「お、あれ俺らのクラスのやつじゃん。バスケ部の巨乳ちゃん」
飯尾君が、私の耳元で楽しそうに囁いた。
同じクラスの杉田さんが、吉くんの正面に立ち、真っ赤な顔をしてうつむいている。
吉くんも、気まずそうな顔をしてうつむいていた。
「なにしてるんだろ」
ぽつりと呟くと、飯尾君はあきれた調子で喋りだした。
「見て分かんねえ? 吉沢が告られてんだよ」
「え――!」
「紅野、見た事なかったのかよ。あんだけ女に囲まれてんだぜ、こんなん、しょっちゅうだろ」
「初めて見た………」
そういえば、たまにこうして先に帰らされていたけれど…。
こういう事だったのか。
「吉くん、どうするんだろ」
不思議と、女の子達に囲まれている吉くんは、見かけても何も思わなかった。いつ見ても吉くんが、涼しい顔をしていたせいかも知れない。子供の頃と比べて、見慣れない光景として悲しく思うことはあったとしても、不安に駆られることは無かった。
けれど今、一人の女の子と向き合っている吉くんの姿は、私の心を曇らせる。
私の吉くんはもう消えて。
私は吉くんの過去なのだと、ひとり置いて行かれたような気分だ。
沈んでいると、飯尾君が小馬鹿にした口調で言った。
「それも分かんねーの? もったいねーことにお断りしてるよな、この雰囲気だと」
「飯尾君よく分かるね…」
「そりゃ、まあ」
言いかけて、飯尾君が背後から私の肩を抱き、もたれかかってきた。
お、重い……。
「俺、吉沢みたいなやつ、好かねーからな」
重みのある口調は、彼にしては珍しく真剣なもののように聞こえた。
なんだか落ち着かなくて、口を開く。
「ねえ、飯尾君。どいて」
「ふん」
「吉くんが嫌いなのはわかったよ。でも、私にまで意地悪する事ないじゃない」
「ちょっと黙ってろよ」
「もうっ――――」
身をよじり離れようとすると、突然目の前のドアが開いた。
吉くんが出てきた。目を見開いて、私達を見ている。
うわ、覗いてたのバレちゃった!
「由夏と………飯尾?」
虚ろな声で言い、吉くんが飯尾君の肩を掴んだ。
飯尾君は、吉くんを愉しそうに眺めている。
「何やってんだよ、飯尾!」
「なにって、見たらわかるだろ? 紅野と仲良くしてんだよ」
「離れろよ。由夏が……嫌がってるだろ」
「邪魔すんなよ吉沢」
吉くんが、力ずくで私から飯尾君を引き剥がした。
軽くなった体にホッとしつつ、吉くんの背中に回る。ちらりと見上げると、吉くんはとても怖い顔をしていた。
吉くんが怒っている。あんなに穏やかで優しくて、困った顔をする事はあっても怒ることのない吉くんが、飯尾君を睨みつけている。
見慣れない吉くんの姿に、心の中で、じわりと不安が滲む。
「飯尾、由夏に近づくなよ」
「んだよ吉沢。紅野ってお前のモンなわけ?」
「………」
吉くんが、唇の端を少し噛んだ。
無言で佇む吉くんの顔に、飯尾君が顔を近づけ、鋭い目を向けた。
「誰に近づこうと俺の勝手だろ。お前に指図されたかねーよ」
吐き捨てるように言い、飯尾君は階段の下に消えていく。立ち尽くす私の横を、杉田さんが気まずそうにちらりと見、足早に去っていった。
「吉くん、ごめん。なんか迷惑かけちゃった」
「由夏、どうして―――」
言いかけて、飲み込む。その様子が、なんだか吉くんではないように見えて怖くなり、思わず吉くんの袖口をキュッと掴んだ。それに気づいた吉くんが、私の頭をふわりと撫でた。
昔は、こういう時抱きしめてくれたな。
いつの頃からだろう。吉くんは、抱きしめる代わりに私の頭を撫でるようになった。
幼い吉くんの優しい抱擁は、まるで私を安心させる魔法のように、落ち着かせてくれたっけ。
少しずつ、少しずつ。
昔の名残は消えていく。
さっきの、杉田さんの姿がちらついた。
私の知っている私と吉くんの関係も、少しずつ消えていくのかと思うと、なんだか、ちくりちくりと胸が痛む。
「ごめんね。先、帰ろうとしたんだけど、……一緒に帰りたくなったの」
「ううん、いいよ。一緒に帰ろう」
そう言って吉くんが階段を下りた。吉くんの言葉はいつも通り優しかったけれど、頭は少し下を向いていて。足音が少し荒くて。
滲み出た不安は、なぜだか広がるばかりだった。