1 みどりの感情
吉くんは私の幼馴染だ。
私の家と吉くんの家は隣同士で、私と吉くんは、幼い頃からいつも一緒に過ごしている。
私の部屋と吉くんの部屋も、隣同士だ。
玄関を回らなくても、屋根伝いで部屋に入れる。子供の頃はそれが面白くて、お互い、屋根から屋根へと行き来を楽しんでいた。
私は吉くんが大好きで、いつも一緒に遊んでいた。
穏やかで優しくて綺麗な吉くんは、乱暴でガサツなクラスの男の子達とは違う。私は、女の子と一緒にいるような感覚で、吉くんとばかり遊んでいた。
だけど。中学生になり、吉くんは変わった。
背が高くなった。声が低くなった。相変わらず綺麗なのだけど、可愛さが取れ、代わりに、うんと格好良くなった。
入学式の後。帰り道に、窓から部屋に入るのはもう止めよう、と、私は吉くんに告げられた。
相変わらず私には優しい吉くん。頭が良くて、テストの前には勉強を教えてくれる吉くん。昨日も、吉くんの部屋で私は苦手な数学を教わった。私と吉くんは、傍から見れば距離はとても近いのだと思う。
でも、違うんだ。
私が一緒にいた昔の吉くんは、どんどん何処かへ消えていく。
穏やかで優しくて王子様のようにかっこいい吉くんは、学校ではいつも女の子達に囲まれている。
それでも、私を見つけると笑いかけてくれる吉くん。だけどやはり、何かが違うのだ。
私の知ってる吉くんは、私よりも背が低かった。
私の知ってる吉くんは、高くて澄んだ声をしていた。
私の知ってる吉くんは、可愛くて、女友達のように気楽な存在で。
私をドキドキさせる事なんて。決して、なかったんだ。
昼休み。親友の香織と一緒に廊下を歩いていると、遠くに人だかりが出来ているのを発見した。
吉くんが女の子達に囲まれている。
はしゃいでいる女子の群れとは対照的に、吉くんは涼しい顔をして無難な対応を繰り返していた。
いつもの光景。
「吉沢君、相変わらずすごい人気だね」
眉を顰める香織に苦笑しつつ、吉くんににこりと笑いかける。私に気付いた吉くんが笑顔を返し、声をかけてきた。
「由夏! 今日もうち寄りなよ。数学みてあげる」
「あ、うん! いく。ありがとう吉くん」
背後から「いいな―私も」なんて声が聞こえてきて、それを吉くんが適当にかわしている。吉くんは、モテる割に女の子に興味がないのか、誰に対してもそっけない。
「吉沢君、由夏には優しいよね」
香織が、肘で私の体をつついてきた。
「吉くん、私の数学悲惨なの知ってるからね。優しいから放っとけないんだよ」
「他の子にはそーゆーの、全部断ってるよね。吉沢君、由夏にだけ優しいよね」
「そうかな?」
「そうだよ! あんた達、ほんとに付き合ってないの? 昨日も、吉沢君の部屋で2人きりだったんでしょ」
「私と吉くんは幼馴染だよ」
仲の良い友達。
私と吉くんの関係は、今までずっと、そうだった。
最近、それが良く分からなくなっている。吉くんの全てが以前とは少しずつ違ってきていて、私には上手い言葉がみつからない。恋人ではないし友達とも微妙に違う。幼馴染、これが唯一はっきりと言い表せる今の私達の関係だ。
「紅野って吉沢と付き合ってんじゃねーの?」
吉くんの話をしながら香織と教室に入ろうとしたら、いつの間にか私の真後ろに飯尾君が立っていた。
私達の話を聞いていたようだ。薄目で私を見回している。
「飯尾! アンタは関係ないでしょ!」
香織が振り返り、飯尾君に威勢よく言い放つ。
飯尾君は苦手だ。
学ランはボタンを全て開け、だらしなく着崩している。脱色した髪といい、へらへらした表情といい、全体的に軽薄な印象を受けた。
容姿がそこそこ整っているせいか、飯尾君の柄の悪さをポジティブに変換し、好意を持つ子もそれなりにいるようだが、私はどうしても好きになれない。
飯尾君は、優等生の吉くんを嫌っているようだ。
恐らく一緒にいる私も気に入らないのだろう。中学2年になり、同じクラスになって以来、たまにこうして私に絡んでくる。
飯尾君は香織を忌々しそうに睨みつけながら、私の肩に手を掛けた。
「吉沢と部屋で2人きりとか、何やってんだよ」
「なにって……勉強だよ」
「何の勉強してんだよ、お前ら」
肩にのしかかる重みが不快で、体を逸らして振り払う。
飯尾君が軽く舌打ちをした。香織も飯尾君を睨みつける。
「あんたってほんと、サイテーね!」
「なんだよ。サイテーなのは吉沢なんじゃねえの? 俺は紅野が襲われんじゃねーかって心配してやってんだよ」
「余計なお世話ってやつだわ」
へらへら笑いながら、飯尾君が今度は私の肩に腕を乗せた。
私の知っている男子という生き物は、昔からいつもこうだ。乱暴で、口が悪くて、意地悪な事ばかり言ってくる。
吉くんだけが、他の子とは違う。
「よ……吉くんはそんなことしないもん……。飯尾君と一緒にしないで」
「なに夢みてんの? あいつだって俺と変わんねーよ」
私を馬鹿にするかのように鼻で笑いながら、飯尾君は教室に入っていく。私はもどかしい気持ちで、しばらく飯尾君のいた空間を見つめていた。
「気にすることないよ、由夏」
「うん……」
香織に手を取られ、重い足取りで教室へと入った。
放課後。いつものように、私は吉くんと家に帰った。
家の前で吉くんと一旦別れ、着替えて勉強道具をまとめた後、再び外に出て隣の家のチャイムを押す。
吉くんはすぐに扉を開けてくれた。昼間と同じ笑顔で私を出迎えてくれる。
「早かったね。飲み物持って行くから部屋で待ってて」
吉くんの笑顔が眩しくて、思わず目を細める。
2階へ続く階段をあがり吉くんの部屋に入る。見慣れた部屋の匂いは、少しずつ微妙に変化を遂げていて、この部屋の主が男の子だということを感じさせた。
胸がチクリと痛む。
「お待たせ。座ってよ。飲み物はここに置いとくから」
「ありがとう」
吉くんに促され、部屋の真ん中に置かれたローテーブルの端に腰掛ける。グラスの載ったお盆を窓沿いの机の上に置き、吉くんが私の向かいに腰を下ろした。
数学のノートを広げ、筆記用具を筆箱から取り出す。お気に入りのシャープペンシルを手にし、顔を上げた。目の前には穏やかに微笑む吉くんがいた。
「今日も数学で良かったよね」
「うん。お願い」
吉くんは賢い。私に勉強を教えている分、自分のことが出来ていない筈なのに、それでも毎回学年トップの成績を取り続けている。
勉強を人に教えるのも上手だ。学校で授業を聞いているよりも、吉くんの説明の方がスムーズに頭に入る。毎回、申し訳ないと思いつつ私は吉くんを頼っている。
「吉くん」
「なに? 由夏」
吉くんが顔をあげた。穏やかな表情は昔の面影を残していて、なんだか私を安心させる。
「いつもごめんね、教えてもらって」
「気にすることないよ。俺にできる事ならなんでもするから」
優しく笑って、吉くんが私の頭をくしゃりと撫でた。
大きいてのひらの感触に、ドキリとして目を伏せる。
「…吉くんは優しいね。飯尾君と全然違う」
「飯尾……?」
「あ、同じクラスの男の子」
昼間の出来事が心にしこりとして残っていたのか、ぽろりと飯尾君の名前が口から零れ出た。焦る私の顔を、吉くんが首を傾げ怪訝そうに見つめる。
「飯尾に何か言われたの?」
「え、なに」
「由夏、昼間あいつと話してただろ」
吉くんに見られてた……!
思い出して顔が真っ赤になったけれど、話の内容までは聞かれていないようでホッとする。あんな失礼な言葉を吉くんの耳に入れたくはない。
「ちょっと意地悪言われただけ。大した事じゃないよ」
務めて明るく答えてみたものの、吉くんの表情は晴れない。じっと見つめられて、吉くんの綺麗な瞳に少しドキリとして目を逸らす。
「意地悪って、なに?」
「なんでもないって」
飯尾君の言葉を思い出し、また顔が赤くなった。
襲うとか、吉くんは絶対そんなことしない。ほんと、飯尾君と一緒にしないで欲しい…。
飯尾君の言葉をかき消そうと、勢いよく首を横に振った。
ふう、と吐息を漏らし再び顔を上げると、相変わらず私をじっと見つめる吉くんがいて、どきりとした。もうすっかり、男の子の顔をした吉くんが私の目の前にいる。
昔は平気だったのに、最近の私はどこかおかしい。吉くんにじっと見つめられると、心臓が落ち着かなくなってしまうのだ。飯尾君が余計な事を言ったせいか、今日はいつもより酷い。
吉くんの綺麗な眉根が、きゅっと寄せられる。
「由夏、なんだかおかしいよ。もしかして飯尾が……」
「な……なんでもない!」
吉くんの言葉を塞ぐように言葉を被せ、慌ててノートに目を落とした。
「それよりここ、教えて」
心残りの表情のまま言葉を飲み込み、吉くんは数学の続きを教えてくれた。