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となりの悪魔くん  作者: 冬野 暉
番外編
7/9

悪魔くんと五十歩百歩のバレンタイン

ブログのキャラクターアンケート企画のお礼作品です。ご回答くださった梶原ちな様に捧げます。

※特別編につき、メフィストフェレス視点でお送りします。

 この世には、何事にも不器用な人間が存在する。

 包丁を持たせれば指を切り、縫針を持たせれば指を刺す。つまり、刃物を持たせれば大なり小なり流血沙汰を引き起こしてしまう人間が。

 上村陶子という少女は、悲しいかな、その範疇に括られてしまう人物だった。彼女の不器用さは、ジャガイモの皮を剥くためにピーラーを持った十秒後に、キッチンを阿鼻叫喚地獄に変えたという伝説の域である。上村家の家事を預かることになったメフィストフェレスが、早々に陶子のキッチンへの出入りを禁じたのは言うまでもない。

 陶子は、いまどきの女子高生にしては珍しく、年上からの注意を素直に聞き入れられる娘だったので、渋々ではあるがメフィストフェレスの決定に従った。そして彼女は、ときに堅苦しいほどの真面目な性格でもあったので、以後一年ちょっとの同居生活のなかでその約束が破られることはなかった。

 だから、その日、その事件が起きたことは、メフィストフェレスにとってまったくの予想外だった。

 彼に落ち度があったとすれば、二月十四日という日付の持つ意味と、陶子も年頃の女の子だったということをすっかり失念していた点である。




 玄関のドアを開けた途端に押し寄せてきた異臭に、メフィストフェレスは「ただいま」の言葉を呑みこんだ。

「ちょっと、こんなところで突っ立っていないでくださ……」

 後ろでぶつぶつ文句をこぼしていたラファエロも、白皙の美貌を大いに引きつらせる。ひとりの少女を挟んで微妙な敵対関係にある悪魔と天使は、思わず顔を見合わせた。

「……なんですか、この臭い?」

「俺に訊くな」

 上村家に新たな居候が転がりこんだのは、ついひと月ほど前のことである。天界から文字どおり『落ちてきた』ラファエロが、すったもんだの末、陶子の守護天使の座に収まった。若紫を自分好みの美女に育て上げた光源氏よろしく、十七歳という年齢にしては幼い面のある陶子の成長を辛抱強く待ち続けていたメフィストフェレスにとって、厄介極まりないライバルの登場だった。

 もともと水と油のごとく相容れない存在であるうえに、陶子という互いのプライドにかけて譲れない存在が加わり、ふたりの間に散る火花は日に日に激しくなる一方だった。当の陶子が、人外同士の一触即発モードに頭痛や胃痛をもよおしていることなどおかまいなしだ。

 今日も、夕飯の買い出しにどちらが陶子と行くか揉めに揉め、結局「いいからふたりで行ってこい!」と彼女に蹴り出された始末である。

 買いものの最中も、夕飯のメニューで張り合い、おかずの具で張り合い、帰り道では荷物の押しつけ合いをしていたら、予定外に時間を食ってしまった。ようやく帰ってきてみると、何やら不穏な異臭が家中に充満している。

 吐き気がするほど甘ったるく、それでいて焦げくさい――煮詰めに煮詰めた砂糖を火にかけたような。

 臭いの発生源がキッチンであることに気づいたメフィストフェレスは、手に提げていたエコバックをラファエロに放り投げると、スニーカーを脱ぎ捨てて家に駆けこんだ。

「陶子!」

 キッチンにつながるダイニングのドアを開けると、いっそうきつい異臭が鼻腔を刺激する。思わず顔をしかめた彼の目に、キッチンの入り口でへたりこんでいる陶子の背中が飛びこんできた。

「おい、陶子!」

 余裕を忘れて駆け寄ると、少女はのろのろと振り向いた。茫然と見開かれていた双眸が悪魔の姿を認めた瞬間、一気に潤んだ。

「……メフィストぉ」

 いかにも頼りない涙声、信頼ゆえの安堵が滲む上目遣いに、メフィストフェレスはぐっと息を詰まらせた。おそらくキッチンに立っていたのであろう彼女が身につけているエプロンが自分の愛用しているものだと気づくと、更にくぐもった奇声が洩れた。

 ある意味、男にとってはたまらない光景だった。

 ぐらつく理性を鋼の意志で締め上げた彼は、陶子の傍らに膝をついた。顔を覗きこむと、気まずそうに視線を逸らす。

「で、何しでかしたんだ?」

 ちらりと横目に見やったキッチンの惨状は、筆舌し尽くしがたいものだった。今夜は出前を取るしかないかもなぁと現実逃避したくなる有り様だ。

 そっぽを向いたままの陶子にため息をつき、メフィストフェレスは彼女の両手を持ち上げた。血の臭いはしないので大事はないだろうが、念のための確認である。

 しかし、メフィストフェレスが傷の有無を確かめることはできなかった。なぜなら、陶子の手にはべったりと褐色の物質がこびりついていたのだ。

 異臭の元と同じ、こちらはひたすら甘いだけの香り。メフィストフェレスの体温にゆっくりと溶け出す感触。

「……チョコレート?」

 ぽつりとこぼれた呟きに、陶子がうぐぐと声を詰まらせる。

 ではこの異臭は、チョコレートを溶かそうとして失敗した末の産物か。

「なんでおまえ、こんなモン――」

 尋ねかけたメフィストフェレスは、ふと今日の日付を思い出した。

 二月十四日はバレンタインデー。昨今では『義理チョコ』や『友チョコ』が主流になっているが、日本における本来のバレンタインデーは、女性から好意を持つ男性にチョコレートを贈るイベントである。

「……そういえば去年のバレンタインデー、近所のコンビニで売ってたチロルチョコだったから、『どうせなら手作り持ってこい』って言ったんだっけ?」

 こみ上げてきたくすぐったさを、反射的に意地悪い笑みでごまかす。陶子の顔は面白いほど真っ赤に茹で上がっていた。

「べっ、別にだれもおまえのために作ったなんて言ってないだろ!」

「照れない照れない。だいたい、俺以外のだれがいるってんだよ?」

「それは……ラ、ラファエロとか!」

 天敵の名前に、メフィストフェレスはすっと笑みを消した。たとえ照れ隠しだとしても、陶子の口から自分以外の男の名前を聞かされるなど我慢ならない。

「陶子」

 熱をこめてささやくと、細い肩がびくっと跳ねた。大きな瞳が自分だけを映して揺らいでいる事実に、仄暗い喜びが滲み出す。

 ああ、そのすべてを喰らい尽くすことができたら――どんなに幸せだろう。

「おまえは、俺のことだけ考えてればいい」

 捕らえた両手にそっと唇を寄せると、陶子は小さな悲鳴を洩らした。やわらかな指先に舌を這わせ、丹念にチョコレートを舐め取っていく。

 舌先でとろける甘美な味が、はたしてチョコレートのものか、それとも少女自身のものなのか――その両方なのかもしれない、と悪魔は思った。

「……っ」

 震える吐息に、男の本能がぞくぞくする。最後のひと舐めを終えて顔を上げると、陶子は頬を上気させて喘いでいた。

「気持ちよかったか?」

「〜〜っ!」

 からかうように問うてみると涙目で睨まれる。メフィストフェレスは笑いながら少女の体を抱き寄せ、ふと表情を改めた。

「なあ、陶子」

「な、ん……」

「俺はいつだって、おまえのことだけ考えてるよ」

 額を合わせるように顔を寄せると、陶子は驚いたように目を瞬かせた。メフィストフェレスはひどく切ない心地で微笑む。

 近づいても近づいても届かない――焦がれるような甘い痛みの意味を、今こそ陶子に伝えたい。

 自分はもうとっくに、彼女に恋しているのだと。

「メフィ……」

 物言いたげな桜色の唇をそのまま封じこめようとして――。

「悪魔退散――ッ!」

「ぶはっ!?」

 勢いよく横っ面を直撃した重みに耐えきれず、床に倒れこんだ。

 ごろごろと顔の上から転がり落ちる野菜に、夕飯の材料が詰まったエコバックを投げつけられたのだと知る。

「ああああ、なんという破廉恥な! この不埒な悪魔め!」

 ダイニングの入り口で喚いているのは、他でもないラファエロである。どうにか起き上がったメフィストフェレスは、痛む頬を押さえて怒鳴った。

「てんめ、何しやがる!」

「陶子さんの守護天使として当たり前のことをしたまでです! あなたこそ、雰囲気に乗じて何をしようとしていたんですか!」

「何って、キ――」

「このセクハラ悪魔ぁっ!」

 次の衝撃は、予想外にも鳩尾だった。

「ぐふ……!?」

「馬鹿っ、馬鹿馬鹿、メフィストの変態!」

 容赦ない陶子の拳に呼吸が詰まる。彼女はこれ以上ないほど赤面しながら、叫んだ。

「そういうことは許可を取ってからにしろ!」




 調子を取り戻したメフィストフェレスが「つまり許可を取ればオッケーなんだな?」と陶子に詰め寄り、再びラファエロをぶちギレさせるのは、後日の話である。

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