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となりの悪魔くん  作者: 冬野 暉
本編
5/9

悪魔くんと天使くん PART1〜ここで会ったが百年目

 天使が空から降ってきた。

 ……我ながらなんとも陳腐な表現だが、そうとしか言い様のない事実だ。

 天使が空から降ってきた。

 きらきらと光の粒を纏う金色の髪、陶器のように白く滑らかな肌、襞が流れる純白の衣装。うつ伏せの背中には――まぶしいほど白い大きな翼。

 玄関のドアを開けた姿勢のまま、わたしは凍りつくしかなかった。

 澄んだ朝の空気を肺に送りこみ、何げなく視線を上向けると、冬晴れの空に染みのような黒い影を見つけた。鳥だろうかと考えているうちにみるみる大きくなり、凄まじい衝撃音を道連れに我が家の門前へ落下した。

 常人だったら大惨事間違いなしだが、天使は五体満足のままだった。ちょっと遠目にも充分秀麗とわかる面に微かな苦悶の色を滲ませているが、それすら一枚の宗教画になりそうなくらいには余裕である。

「……うっ」

 小さく聞こえた呻き声に瞬間解凍されたわたしは、鞄を放り投げて慌てて天使に駆け寄った。気のせいか、天使が倒れているあたりが淡く輝いて見える。

「だっ、大丈夫ですか!?」

 やたらとリアルな翼にぎょっとしつつ肩を揺さぶると、金粉をはたいたような長い睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がる。現れたのは、天の高みの色に染まったような深いスカイブルーの瞳だった。

 青いまなざしはぼんやりと宙とさまよい、やがてハッとわたしを捉えた。バンジージャンプも真っ青な大落下を味わった直後とは思えぬ敏捷さで跳ね起きる。

「あ、あ、あな、あなあな、あなた」

 どうやら天使は男のようだった。外見的には二十歳をいくつか過ぎたあたり――メフィストフェレスよりも少し下か。しかしあの悪魔も実年齢はその五倍近くあるのだから、人外の見た目などあてにならないだろう。

「あなた、いったい、ここは」

「わたしは普通の女子高生です。ここは日本で、ちなみに我が家の真ん前です。これから学校に行こうと思って玄関を開けたらすごい音がして、あなたが空から」

 空を指差してみせると、天使は上を見、そしてまじまじと見つめてきた。

「ではここは……地上なのですか?」

「ええ、まあ。雲の上じゃないですね」

 美形に凝視されるというのは、なぜこんなにもむず痒いのだろう。居心地悪く頷くと、天使はふるふると震えて双眸を潤ませた。

「おお、主よ! 私は無事にあなたの大地に降り立ちましたぁ!」

「ひょあぁ!?」

 歓喜の声を上げ、なぜか天使は全力で抱きついてきた。思わず叫ぶ。

「ち、ちかーん! ちょ、放してください!」

「しかも地上で最初に出会ったのは心優しい可憐な乙女。ああ、私ってば超ラッキー!」

 小柄なわたしを子どものようにくるくる振り回していた長身の天使は、いっとう高くわたしを抱き上げると、うっとりと目を細めた。

「まるで小さな菫の花のようなお嬢さん。私、あなたに恋してしまいそうです……」

「変態だー!」

 わたしは無我夢中になって暴れた。天使は夢見るような微笑みを浮かべ、その優美な容姿に似合わぬ力強さでぎゅうぎゅう抱きしめてくる。

「どうか逃げないで。この汚れを知らぬ仔羊に、恋という名の罪を教えてください」

「いえいえいえ、慎んでご遠慮します!」

「あなたのその手で、私の翼をもいでください。そうすれば、もはや私はあなたの虜」

「セールスお断りー!」

 ばっちり目を閉じ、不気味に迫ってくる美貌を必死に押し留めていると――再び轟音が炸裂した。

 黒い稲妻が視界を駆け抜け、甲高い雷鳴が鼓膜を震わせる。

「ふぎゃっ!」

 翼に電撃を食らった天使はバシーンッと硬直し、その拍子に転げ落ちかけたわたしの体をよく知る腕が掬い上げた。

「……朝っぱらから、いったいなんの騒音かと思えば」

 首筋に落ちる声はぞっとするほど低く冷たい。それに反して、彼は優しくわたしを抱え直してくれた。

「べたべたべたべたうちの陶子に触りやがって……いい度胸してるじゃねぇか」

 蝙蝠のような漆黒の翼――久しぶりに見た悪魔の証に細い電光を帯びているのは、まぎれもなく我が家の居候、メフィストフェレスだった。

「メフィス、トォ!?」

 ほっとして見上げた途端、声がひっくり返った。うっすらと笑みを乗せたメフィストフェレスの糸目からは、凍りつくような赤光が爛々と溢れている。

 本気と書いてマジと読む。怒っている。脳内大出血だ!

「陶子、こいつに何かされなかったか?」

「えっと、うん、まだ……」

「まだ――まだ?」

 とろけるような甘い笑顔に反比例するどす声がおそろしい。

「え、その、なんていうか……一歩手前?」

「よしよし、そうか――死刑決定」

 ほげぇ!

 ぱりぱりと音を立てて渦巻く黒雷に、わたしはメフィストフェレスの腕を叩いた。

「落ち着け、メフィスト! さっきので充分だろ!」

「いやいや、灰も残さず蒸発させなきゃ足んないね。他人ひとのモンに手ぇ出したらどうなるか、体で覚えさせてやる」

「だからまだ出されてないってばー!」

 ああぁ、どうして悪魔も天使もひとの話を聞かないやつらばかりなのだ。いっそ気絶したいなか、ゆうらりと激しいオーラが立ち上る。

「ふっふっふ……まさかこのような場所で主の敵に出会うとは」

 ギラギラと焼けつくような黄金色の光を膨らんでいく。いつの間に復活していた天使が物騒極まりない笑みを覗かせた。

「主よ、私を地上に遣わされたのはこのためだったのですね。悪しき魔物の毒牙から清らかなる乙女を救い出せと!」

 絶対違う。

 勘違いも甚だしい天使は、これまた迷惑この上ないことに、すこぶるノリがいいようだった。金の炎が大きくうねり、鎌首をもたげて牙を剥く。

「はっ、独善を振りかざす神の走狗が。上等だ、ご自慢の翼をむしり取って地に叩き落としてやるよ」

 対するメフィストフェレスは、実に悪魔らしい酷薄な笑みを返す。闇色の雷電が凶暴に閃いた。

 冬は早朝つとめて――悪魔と天使の非常識合戦。

 早起きは三文の得など嘘だ。三文どころか千両の大損だ。

 明日は絶対二度寝しよう。遠い冬の空を見上げ、わたしは固く誓った。

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