悪魔くんとスイート・ハロウィン
「ただい……ま?」
いつものように帰ってみると、なぜか吸血鬼に出迎えられた。
後ろに流された黒髪、塗りこめたような白い肌。鮮やかな赤い唇からは鋭い牙が覗いている。襟の立った漆黒のマントをふわりと広げ、吸血鬼はうっとりするほど優しく微笑んだ。
「Trick or treat?」
甘い低音が流暢な英語をささやく。ドアを開けた姿勢のまま、わたしは腰砕けになりかけた。
「ちょ、ちょっと待って」
確かに我が家には居候がいるが、彼は吸血鬼ではなく悪魔のはずだ。
「……何やってるんだ、メフィスト」
「見てのとおり」
くらくらする頭を押さえながら尋ねると、そのメフィストフェレスはけろりと答えた。
「……吸血鬼?」
「正確にはドラキュラ伯爵。似合ってるだろ?」
得意げな笑顔でくるりと回ってみせる。マントの下は中世ヨーロッパの貴族を思わせる礼装という手のこみようだ。
「どこでそんな衣装買ったんだ……」
「ネット通販。いや〜、ホント便利で面白い世の中になったよなぁ。ハロウィン用の仮装っつってもいろいろ売ってるんだぜ? 狼男とかフランケンシュタインとかミイラ男とか。しかも全部手作り!」
それってコスプレってやつじゃないのか、と言いかけてやめた。とっくに知っていそうで怖い。
とりあえずドアを開けっ放しにしておくわけにもいかず、わたしは後ろ手に閉めると、その場にずるずるしゃがみこんだ。本気で頭痛がしてきた。
「おいおい、大丈夫か?」
「だれのせいだよっ」
覗きこんでくる吸血鬼の顔に思わず後退する。顔立ちを強調するメイクは舞台役者のようだ。
粉っぽい化粧品の匂いと、微かに混じる香水の甘い香り。本当にここにいるのはメフィストフェレスなのだろうか。
背中がドアに当たる。いつの間にか、ドアとメフィストフェレスに挟まれる形に追い詰められていた。
「……なぁ、陶子」
どうして両腕をドアについて囲う。どうしてそんな静かな声を出す!
スカートの下の固く冷たい感触に、早くどいてくれと切望する。三和土は座り心地が最悪なのだ。
必死に現実逃避を図っていると、
「おまえ――照れてるのか?」
悪魔は容赦なく直球を投げてきた。
「照れてなんか……」
「顔赤いし、視線泳いでるぞ」
近づいてくる唇に、反射的に顔を背けてしまう。メフィストフェレスは喉を鳴らして笑った。
「おまえ、この間からずいぶんいい反応するようになったよな」
嬉しげな口調に腹が立つ。自覚した途端、あっという間に耳まで熱くなった。
「俺が恋を教えてやるよ」などという意味深長な言葉をもらって以来、たびたびこうした目に遭わされている。からかっているのか本気なのか、初恋も未経験なわたしには判別不能だ。
「メフィスト、さっさとどいてくれ。そろそろお尻が痛くなってきた」
「お菓子くれたらな。ほら、trick or treat?」
押し返そうとした両手もやんわりと絡め取られ、いよいよ退路を失った。もう一度くり返された問いが吐息とともに首筋をくすぐり、わたしは叫びそうになった。
「ち、痴漢っ。変態、セクハラだ!」
「吸血鬼ってそんなもんだろ」
ほとんど抱き竦められるような格好で、ほらほらと促される。鼓膜を震わせる心臓の高鳴りに耐えきれなくなり、ぎゅっと目を閉じた。
「……おっ」
「お?」
「お菓子、持って、ない」
昼休みにチョコレートを食べてしまったことを激しく後悔した。だがもう遅い。すべてはあとの祭だ。
「ふーん。そうかそうか」
吸血鬼のにやにや笑いが目に浮かぶ。バサリという衣擦れとともに、わたしはマントに包まれた。
「じゃあしょうがない。お菓子の代わりに陶子をいただくか」
夜のような闇のなか、甘美な抱擁に捕らわれる。
――ああ、気絶寸前。




