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となりの悪魔くん  作者: 冬野 暉
本編
2/9

悪魔くんの恋愛指南

旧サイトのリクエスト企画作品です。リクエストしてくださった梶原ちな様に捧げます。

 得てして、人にはだれしもとうてい克服しがたい苦手なものが存在する。

 わたしの場合、それはグリーンピースであったり、数学であったり、はたまた恋愛談義――いわゆる恋バナであったりする。

 人生とはうまくいかないものだ。

 小姑な居候によって週に一度は必ず食事にグリーンピースが紛れこんでいるし、日本の高校教育がひっくり返らぬ限り数学の授業がなくなることはないし、女に生まれた以上友達づき合いのなかで恋バナを避けて通ることは叶わない。

 そして今日も今日とて、わたしは手強い敵に立ち向かう。

「陶子ってさぁ、好きなひととかいないの?」

 ――来た。

 なぜ女の子はこうも恋バナが好きなのだろうか。顔も憶えていないような同級生の修羅場からはじまり、他人様の恋愛についてすでに三十分近く話しこんでいる。そろそろ矛先が身内に向く頃かと思うと、よりにもよってわたしが標的になるとは。今日は厄日だ。

「そういや陶子ってぜんぜんそういう話しないよね。ってか、この手の話題になると完全に沈黙しない?」

「うわ、めっちゃ気になるんですけどー!? ほらほらこの際白状しちゃえ、吐くまで帰さないぞ〜」

 ……ああ、どっと疲れが。ため息が重い。

 水を得た魚にたとえるべきか、友人たちは実にいきいきと表情を輝かせている。恋バナの何がいやって、この息苦しいほどのテンションの高さと、

「白状するも何も、別にそういうやつはいない」

「えぇ〜?」

 ――あからさまに向けられる失望と不満。

「つまんないなぁ。まさか隠してんじゃないでしょうねぇ?」

「隠すものなんてない。これまでいたこともないのは、れっきとした事実だ」

「彼氏欲しいとか思わないわけ?」

「必要ない」

 嘘をつくなと言っておきながら、友人たちはますます面白くなさそうな顔をする。胸の奥が詰まる居心地の悪さ。こんなときだけは、彼女たちから離れたくてたまらない。

「やっぱ陶子は変わってるねぇ」

「淡白っていうか、浮世離れしてるカンジ?」

「そうそう、なーんかひとりだけ違うもの見てるみたいな」

 無邪気な言葉に耳を塞ぎたくなる。悪意がないからこそ残酷な線引きに、わたしは放っておいてくれと内心で毒づいた。

 わたしはどこか異質であるということを、わたしが一番知っている。

 みんなが好きなものを好きになれない、同じものになれぬ疎外感。物心ついたときから、時が経るにつれて強まっていくもの。

 それでも、わたしが孤独を選べず、人の輪から外れられぬのは。

「陶子はさ、いろんなものに対する興味が薄いのかもね」

 怖いからだ。

 空っぽになってしまうのが怖いからだ。ひとりぼっちの寂しさを、虚ろな悲しみを味わいたくないからだ。

 どんなに苦痛でも、ぎりぎりのところで踏み留まっている。過剰分だとわかっていても手放せず、溺れる漂流者のようにしがみついている。

「もう少し積極的になってみたら? 恋をしたら、いろんなもんが変わると思うよ」

 痛くて優しい友人の忠告に、わたしは項垂れて目を伏せた。




「なあ、メフィスト。『好きなひと』ってどうすればできるんだ?」

「……は?」

 友人たちと別れたあと、わたしは帰り道で考えに考え抜いた。どうすれば好きなひとができるのか、どうすれば恋ができるのか。だが初恋すら未経験のわたしに名案が思いつくはずもなく、甚だしく悔しいが居候に知恵を借りることにした。

 この居候、齢百歳を超える悪魔である。名をメフィストフェレスといい、微妙に長ったらしいのでわたしはメフィストと呼んでいる。

 常々「俺はまだぴっちぴちの若者だ」と主張している彼だが、人間にすればギネスブックに世界最高齢として申請してもおかしくないお年頃だ。わたしの周辺ではだれよりも人生(悪魔生?)経験豊富なはずである。

「陶子……おまえなんて言った?」

「『好きなひと』はどうすればできるのか、と訊いている。あ、ちなみにこの『好きなひと』っていうのは恋愛対象のことで――」

「わかった、わかったからとりあえず黙れ」

 手にした包丁を落としそうな勢いで固まっていたメフィストフェレスは、呆れたような疲れたような、どことなく不機嫌そうに眉をしかめた。まな板の隅に積まれたニンジンやジャガイモを見ると、今晩のメニューはカレーライスらしい。

「どうしてそんな質問をするに至ったか、まずその理由を述べろ」

「今日、学校で友達に言われたんだ。好きなひともいないなんておかしい、恋をすればいろいろなものが変わるって」

「……最近のガキはずいぶん偉そうな口を叩くようになったもんだ」

 メフィストフェレスは薄く笑った。ひんやりとした声音には、なぜか怒気が籠っている。

 包丁を置いた彼はわたしの正面に向き直ると、結構ある身長差を埋めるように顔を覗きこんできた。ナイフで入れた切れこみのような目を細める仕種が、やけに悪魔じみている。

「いいか陶子、たかだか十何年生きたぐらいの小娘に語れるほど恋は簡単なものじゃない。だいたい恋っていうのは『する』モンじゃなくて、ある日突然『なる』もんだ」

「なる?」

「ああそうだ。よく『恋に落ちる』とか言うだろ。まさしくあれだな、唐突に落ちる……落とされるんだ。天から降ってくるみたいに、本当に、不意を衝いて現れる。思いがけない災難みたいなもんだ」

 わたしの頭に浮かんだのはびっくり箱だった。何げなく蓋を開けたらとんでもないものが飛び出してくるような、未知の存在。

 わかるような、わからないような。

「……やっぱりよくわからない」

「そりゃそうだ。実際に経験しなきゃ理解できないだろうよ」

 メフィストフェレスはちょっとまなざしをゆるめ、するりと頭を撫でてきた。

「それに、おまえは別に変わる必要はないだろ。人間ってのは多かれ少なかれ変わっていくもんなんだ。これから先、いやでも変わっていくさ」

「……そういうものなのか?」

「ああ。それが年を取る……大人になるっていうことだ」

 だからまだ、おまえはそのままでいい。背伸びなんかしなくていいんだよ。

 優しくささやかれる言葉は、まるで祈りのようにも聞こえた。わたしは強張っていた心から力が抜けていくのを感じながら、ふとメフィストフェレスの手が頬へ下りてきたことに気がついた。

 視界の翳りが濃くなり、見つめてくる視線が近く、強くなる。頬に触れる掌を妙に熱く思い、わたしは友人たちとの会話のときのものとはまた違った居心地の悪さを覚えた。

 なんだろう。首筋を羽根でくすぐられるような、このこそばゆい感覚は。ふわふわと足元が浮わついて落ち着かない。

「メ、メフィスト?」

 じわじわと顔が火照っていくなか、メフィストフェレスがふっと、ひどく切ない表情を見せた。胸の奥にキリリと痛みが走る。心臓につながる血管を締めつけられるような錯覚。

「いつか、おまえが大人になったら」

 悪魔の唇がやわらかな弧を描く。見慣れているはずの微笑みは、まるで知らない者のようで。

 喉が渇くほど甘く、膝の裏が震えるほど妖艶な。

「――俺が、恋を教えてやるよ」

 匂い立つような『男』を感じさせるものだった。

 めまいがした。

 ゆっくりと世界が反転する。回る回る世界のなかで、腰の抜けたわたしを悪魔の腕が抱き寄せたことだけがわかった。

 驚くほどゆるやかな、それは世界の変革のはじまりだった。

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