となりの悪魔くん
我が家には悪魔が住んでいる。
などと言うと、痛々しくてたまらないと言わんばかりの目で見られたり、「病院に行ったほうがいいんじゃない?」と優しく忠告されたりするのがオチだ。
だがこれは嘘でも冗談でも妄想でもなく、歴然たる事実だ。
もう一度言おう。我が家には悪魔が住んでいる。
彼の名前はメフィストフェレス。かの有名な『ファウスト』に登場する悪魔と同名だが、まったくの別人らしい。本人曰く、「俺あんなジジイじゃねぇし。まだぴちぴちの百十代よ?」とのこと。
一世紀以上も生きていてまだ『ぴちぴち』なんていう表現を使う悪魔の常識にひと言申したかったが、そもそも悪魔自体が非常識極まりない存在なので黙っておいた。
メフィストフェレスが我が家の居候となったのは、およそ一年前。とあるオカルトマニアに喚び出されたのだが、興味半分のお遊びが成功するとは思っていなかった召喚者に逃げられ、魔界に帰れなくなってしまったらしい。
行くあてのない悪魔は、なぜかまったく無関係なわたしの許に転がりこんだ。警察沙汰にまでなりかけた押し問答の末、家事一切を引き受けるという条件下、メフィストフェレスはめでたく我が家の家政夫の座に収まったのである。
最初の頃はいったいどうなることやらと不安で胃痛持ちになりそうだったが、まったく慣れとはおそろしいものだ。たとえ人外どころかこの世のものではないとしても、ひとつ屋根の下で暮らしているうちにどうでもよくなってくるらしい。当の本人がやたらと人間臭くて所帯じみていたせいもあるのだろうが。
「おいこら、陶子。さりげなくシチューからグリーンピース抜いてんじゃねぇよ」
「む」
いつもと同じふたりきりの夕食。向かいの席に座ったメフィストフェレスは、わたしが食器の隅に積み上げたグリーンピースの小山をスプーンで指した。
仕事人間の両親は今日も帰ってこない。ご苦労様なことである。
「高二にもなって好き嫌いすんな。小学生じゃねぇんだから」
「うるさい小姑」
「おーし、よく言った。デザートの焼きプリン没収決定〜」
「どうしてそうなる!」
悪魔とは概して、思春期の子どもを持つ母親のように口うるさいものなのだろうか。だとしたら魔界はおそろしく住みにくい場所に違いない。
メフィストフェレスの容貌は、悪魔でありながら至って平凡だ。眉間に皺を寄せようと少しも違和感がない。
「だったら残さず全部食え。それとも何か。俺が愛情こめて作った料理を食べられないと?」
「ぐ」
わたしは詰まった。メフィストフェレスの、ナイフで入れた切れこみのような目の奥を冷たい光が走る。
本性をちらつかせるなんて卑怯な。もはや脅迫だ。本能的な恐怖に命じられるまま、わたしはグリーンピースの小山にスプーンを差し入れる。一瞬のためらいののち、死地に赴く戦士のような気持ちで掬い取った分を口に含んだ。
すると、メフィストフェレスの顔にやわらかな微笑が浮かぶ。
「やればできるじゃねぇか」
……悪魔は飴と鞭の使い方にも長けているらしい。
グリーンピース独特の食感と微妙な苦味に耐え、涙目になりながら睨みつけると、ますます表情が優しくなった。
悔しいことに、どうやらメフィストフェレスのほうが一枚も二枚も上手のようだ。思えば、最初から負けっ放しである。どうしてわたしを宿主に選んだのか、彼は困ったような顔で言ったのだ。
(あんたが寂しそうだったから)
あんたのために飯作って、一緒に食べてやんなきゃって思った、という言葉に泣いてしまったのは、一生の不覚だ。
我が家には悪魔が住んでいる。
彼の名前はメフィストフェレス。なんとも悪魔らしくない悪魔だが、それが彼たる所以なのかもしれない。
メフィストフェレスの隣で過ごす日々は、問題は多々あれど、それが当たり前だと思えてしまえるぐらいには、幸せだ。




