二
兄を事故で失ったひかりは、図書館の扉を越えて過去の世界へ。慣れない古代の世界で、悪戦苦闘しながら生きる術を一つ一つ身につけていく。小さな恋心も芽生える中、海の向こうから巨大な敵が攻めてくる。様々な体験を通して人間として成長していく少女の物語。
穏やかに晴れ渡ったある日、シンが息を切らしながらひかりのもとに駆け寄ってきた。
「ひかり!天気もしばらく良さそうだから一山越えて、谷の村に行ってみないか」
「シンが言ってた鷹を使って狩りをする人がいる所?」
「そうそう。それに、行ったついでに、そこでしか手に入らない物と、こっちの物とを交換するんだ」
ひかりは、行ったことのない谷の村に興味をそそられ、一も二もなく賛成した。ムチナの家の4人姉妹とムチナ家のおっ父も一緒に行くこととなった。
ムチナ4人姉妹は「素敵な人がいるかもよ」ときゃあきゃあ騒いでかまびすしいことこの上なかった。
一番上のアイは「相手が決まっているのにどうするの」と周りの姉妹に冷やかされながら全く気にもせず「素敵な人だったら、旦那さんが2人でも3人でも、私はいっこうにかまわないわよ」と、長い黒髪を結い上げて新しいヘアスタイルで決め、赤い漆塗りの櫛をさし、貝殻の腕輪を着けて精一杯のおしゃれに余念がなかった。
アイ達のおっ父は、以前自己紹介の時に「ムチナに尻尾しか食べさせてもらえない」と言われていたのが納得できるひょろひょろの痩せっぽっちだった。しかも、なまじ背が高いために余計に針のように細く見えるのだった。
でも、やせていてもひかりがびっくりするほど力持ちで、山のような荷物を背負い、へっちゃらな顔をして歩いて行った
めいめいも持てる荷物を背中に負い、一同は出発した。
「ねえ、ねえ。さっきシン、ここしばらく天気が続くって言ってたけど、そんな事わかるの?」ひかりはシンに尋ねた。
「わかるさ、当たり前だろ。わからなくっちゃ、山や海で長い狩りをする時に、急に天気が崩れちまったら危ないだろ」シンはさも当然の事のように言った。
「当たり前・・・以前も言われたけど、それが私の世界じゃあ、当たり前じゃないのよね。天候の変化が命に関わってくるような事は、雲よりも高い山に登ろうとするのでなければ、日常あまり起こる事じゃないし・・・」
「じゃあ、お前の世界では、その頭を何に使うんだい?」
シンに問われてひかりは答えにつまった。もしかしたら、知識においてはこの時代の誰よりも持っているかもしれない自分。しかし生きていく為の知恵は、全くと言ってよいほど自分の中には無かった。
私の世界では、生きる為の知恵を、お金を払って誰かに肩代わりしてもらい、その代わりに知識を学んでる。でも、この知識を私は何に使っているんだろう?
頭を悩ませつつ「そうね、より物事が素早く、効率よく出来るよう、みんなが自分の持っている知識を使っているんだと思うんだけど・・・」ひかりは歯切れ悪く答えた。
「オレ達だって、同じ事考えてるぜ。でも、お前とオレ。何かが決定的に違う気がするんだよな~」
ひかりはシンに、全く別の人種だと言われたような一抹の寂しさを覚えた。
知識だけでもなく、知恵だけでもなく両方が必要よね。今、私はそれを学んでる。ひかりはそう思い、沈みそうになった心を奮い立たせた。
しばらくの間険しい山道が続いた。息が上がり、のどが渇きで焼け付くようにヒリヒリと痛む。
突然、視界が開け、真っ白な絹糸を上から流したような美しい滝が現れた。滝から吹いてくる風はひんやりとさわやかで、ひかりの額の汗を気持ちよくなでていった。
「ここで休憩しようか」アイのおっ父が大きな荷物を降ろしながら言った。
ひかりは「疲れたぁ~」と、そばにあった大きな石の上にへたり込んだ。
しかし、先頭で山のように荷物を背負っていたおっ父は、息の一つも上がっておらず、自分よりもはるかに小さいムチナ家の末っ子カイでさえ、まだまだ元気に跳ね回っている。シンは、と見ると、もう何処かに消えてしまっていた。
「ほら、ひかりお水」アイがへたばっているひかりに水をくんできてくれた。器用にフキの葉っぱで柄杓のような形を作って水を入れている。「ありがとう」と一気に飲み干し、やっとひかりはひと息ついた。
それからみんなで、滝壺の所におりていった。近くに生えていたササの葉っぱで船を作って滝壺に浮かべた。
3女のシナは葉っぱを唇にあててメロディをかなではじめた。草笛の音に合わせて2女のイソがゆったりとした動作で踊りだした。しばらくの間、深い山の中に、滝の音と鳥たちの声、草笛の音が響き、深山の滝の女神がみんなの前に現れたかのような幽玄な時がゆったりと流れていった。
「グッ~」っと末っ子カイが腹の虫が鳴り、みんなは現実にひきもどされた。
すでに太陽も高くなり、昼食の準備をする事にした。
アイ達は火をおこし、ひかりとイソは、いなくなったシンとおっ父を探しに沢沿いに降りていった。沢の周りの木では、いろんな鳥たちが鳴き交わす声が聞こえた。
ピーピルリピーピロリ、ケレッケレッ、キョロロ、ヒュイッヒュイッヒュヒュヒュ・・・鳴き声はオーケストラのように重なりあい、辺り一帯に響きわたった。
少し離れた木のこずえでは、目も覚めるような青い鳥がさえずり、ひかり達が歩いていく沢の向こうでは、寝癖のついたような頭の鳥が魚をくわえて飛んでいった。
そして、しぶきがかかる岩の上には不思議な模様が刻まれていた。
「これって、なあに」ひかりがイソに聞くと「これはきっと沢の精霊が彫った模様なんだよ」ときっぱりとした答えが返ってきた。その答えに納得できないひかりはもう一度「イソ、それ想像で言ってるんでしょ」と問いかけた。
「人間の力で出来ないことは、精霊の力なんだよ」イソはゆるぎない自信を持って答えた。
ひかりは苦笑した。この世界にいると、ひかりにとってはあまりにも非科学的と思えることに時々ぶつかる。
今のイソの答えもそうだった。それが時としては良い結果を生むこともあるし、今回のように、ものたりなさを生むことも往々にしてある。
しばらく進むと、少し深く淵のようになった所でシン達が魚を捕っていた。淵は怖いほどに蒼く、昔話のカッパが出て来そうな雰囲気だった。
「ねえシン、私の世界ではこんな淵にカッパが住んで、人を深い淵に引っ張り込むというお話があるの。こっちでもそんなお話ある?」さっきイソの答えを非科学的と思ったばかりなのに、自分もそう変わったものではないなと思いつつひかりは聞いた。
「カッパ?なんだそりゃ?そんなのはここらにはいないな。でも深い淵には複雑な流れがあるから、人が引っ張り込まれて浮かび上がれない事もあるんだぜ。
以前川向こうの村で、いっしょに鮎漁をした時、淵の流れにおじさんが引っ張り込まれてしまった事があったんだ。しばらくたって、なんとか命からがら浮かび上がったおじさんが後で話してくれたんだけど、どんなにもがいても水の力がすごくて浮き上がれず、息ももう続かなくなって、もう駄目だと観念したんだって。
でもその時、沢山のカワウソがやってきておじさんの周りをぐるぐる回り出したんだってさ。おじさんは最後の力をふりしぼって、その中の一匹の足をぐいっとつかんだ。そしてその後の記憶はなくなったんだと言ってた。
カワウソがおじさんを助けてくれたのか、反対に淵に引っ張り込もうとしたのかはわからないけれど、まあとにかくおじさんは命拾いしたのさ。
カワウソは、川にも海にもたくさんいるし、あいつらすごく遊び好きなんだ。海にいるのはウミウソと呼ばれてるけれどな。
時々、他の動物をかまってはじゃれついていたりするぜ。猿とひっぱりっこしてるのを見かけた事もあるし、夕方、川っぺりにだれか子供が座ってると思ったら、カワウソだったりしたこともあるんだ。
お前の言うカッパってのはカワウソのことなんじゃないか?もしくはオオサンショウウオかな」シンはアマゴを次々と釣り上げながら答えた。
「そうか、私の住んでた世界では、もう近頃ではカッパもカワウソもだれも見た事がないのよね。オオサンショウウオだって絶滅寸前。ひいおばあちゃんの頃には、カッパを本当に見たっていう人もいたみたいだけど・・
いっしょに相撲をとったりもしたんだって。カッパ伝説が消えた時期とカワウソが絶滅した時期やオオサンショウウオがその数を減らしていった時期は重なるかも・・・」ひかりは、見た事もないカッパに思いをはせた。そして、絶滅してしまったと言われているカワウソの事も考えた。そして、便利で近代的な自分達の世から、いらないものだと切り捨てられていった様々な物事に思いを巡らせていった。
「さあて、だいぶ釣れたし戻って飯にしようか」アイのおっ父が腰を上げた。4人は滝壺に戻り、みんなで少し遅い昼食をとった。
昼食もおえて再び出発の時となった。
ひかりは、あわてて「ごめんなさい。ちょっと、しばらく待ってて」とみんなにことわり、トイレへと走った。
後ろから「しょんべんか~ヘビに噛まれないようにしろよ~」とシンの大声が追っかけてきた。そしてその直後に「いたた・・・なにすんだよ」と頭をアイに叩かれ「馬鹿っ!女の子にそんな事言ったら嫌われるわよ!」と二人の言い争う声が聞こえた。
ホント、デリカシーのかけらも無い奴!ひかりは顔を赤くしながら人目につかない所まで行って、まず、柔らかそうな葉っぱを探した。
何の因果で、お尻を葉っぱでふかなきゃいけないのか・・・
この時代に来てだいぶいろいろな事に慣れてきたものの、やはり苦手な事は残っていた。
まず、トイレがそうだった。村でのトイレでまずびっくりしたのが外にある事。壁など無いも同然で、スカスカで外から透けて見えそうな事。しかもトイレは、ただ単に穴を掘ったもので、いっぱいになると、埋められて場所が移動してしまうのだった。
もちろんトイレットペーパーなんてものはなく、柔らかそうな葉っぱを物色して自分で用意しなければいけなかった。
唯一の救いは、まめに虫殺しの草を振りまいているので虫がわかない事と、壁がスカスカなので臭いがあまり気にならないぐらいの事だった。
ため息をつきながら青空の下で用を足し、みんなの元に戻ろうと戻り始めた時、脇の茂みからガサガサと大きなものが近づいてくる物音がした。
まさか、クマ!ひかりが身を堅くした時、ぬうっと男の人が現れた。
ぼさぼさの髪・・・真っ黒に汚れた顔・・・すだれのようにぼろぼろになった衣服・・・
そして焦点の定まらない目つきでブツブツと独り言を言いながらひかりの方にどんどんと近づいてくる。
ひかりは声にならない叫び声を上げ、みんなの方に走った。
真っ先にシンが駆けてきてくれた。
「シン!シン!人が、人がいる!」ひかりは怯えきってシンに抱きついた。
「人?こんな所に?狩りの者か?ちょっと見てくるからお前はみんなと一緒にいろよ」シンはそう言うとアイにひかりを預け、続いてやってきたアイのおっ父と「お~い。お~い」と叫び声を上げながら歩いて行った。
ひかりは体の震えが止まらず、アイに抱きかかえられるようにして滝の所まで戻った。
アイ達も「こんな所に人がいるなんておかしいね」と話しながらおっ父達の帰りを待ったが、なかなかおっ父達は帰ってこない。
みんなの心配が頂点に達した時、やっと二人は戻ってきた。
そして、アイのおっ父は、さっきの男の人が追放者だと教えてくれた。どこの村だかわからないけれど、その村の重大な掟をやぶり村から追放された者だろう・・・と。
ただ、もう男の体には魂がいなくなっていたから、話をする事すらできなかったが、額の目立つ所に焼き印が押されていたし、たぶんそうであろうということだった。
「追放されることもあるんだ・・・」ひかりは怖くなってつぶやいた。
「めったにあることじゃないけどな・・・でも人は一人では生きていけないから、追放者の運命はたいがいがのたれ死にだ・・・」アイのおっ父はぼそりと言った。
追放者を見た後は、なんとなくみんな心が沈んで歩く足取りに元気がなかった。ひかりはシンに尋ねた。
「今までウタの村で、誰かが追放になった事がある?」
「オレが知っている限りではないな。でも、小さないさかいやケンカはあるさ。人間だからな。でもそんな時は距離をおくのさ。時には別の村に引っ越しちまう事もある。時間や距離をおけばそれがお互いにとって一番の薬になる事だってあるしな」
「別の村に引っ越しまでしちゃうんだ」
「だって、四方の村に親戚がいるから、別に困らないさ。誰かが助けてくれるし、ひとりぼっちになんてならないのさ。
お前は、血縁がこっちにはいないけど、今から作っていけばいい。さっきの追放者は森に魂を食われてしまったけど、帰る場所さえあれば人は強くなれるんだ。
オレだって森に一人でいる時、孤独や恐怖に魂を奪われそうになる事だってある。でもそんな時に支えになるのが自分の帰れる場所さ・・・」
少しの間、沈黙が続いた。そしてシンは思い切ったように言葉を続けた。
「そんな場所を、ひかりと・・・作っていきたいな・・・なんて、さ・・・」ぼそっと言った最後の言葉は本当に小さくて、聞き取るのもやっとだった。
ひかりはびっくりしながらシンの顔を見つめた。シンは照れくさそうに、傍らに生えていた白と黄のスイカズラの一枝を折り採り、ひかりに差し出した。
ひかりは頬を赤く染めながら、甘い香りの花の蜜を吸い、二人並んでただ黙って歩いた。
スイカズラの甘い香りが辺り一面に拡がっていた。
ヒグラシが鳴き始め、夕暮れも近くなると、おっ父は、今晩の泊まる場所を探し始めた。
「本当は、もう少し先に泊まれるような小さな小屋がかけてある所があるけれど、山では日が暮が暮れるのが早いから、ここらで泊まろう」
おっ父は小さな岩穴を見つけて、そこに夜の間の焚き火の為の枯れ枝を運び込んだ。
そこの場所はとても奇妙な場所だった。
にょきにょきとシロアリの塚のような山が天に向かって伸び、むきだしの白い岩肌にはぼこぼこと沢山の穴が開いていて、岩山の下には早い流れの川が流れていた。その岩山の穴の一つを今夜の宿として、火をおこし、さっき釣ったアマゴをもう一度暖め、持ってきていた木の実のクッキーをかじった。
まだ夕暮れまでは時間もあったので、子供達は岩穴を探検することにした。岩穴はかくれんぼに絶好の場所で子供達は時を忘れて遊びに夢中になった。
遊びに夢中になっていた子供達の上に夕闇が迫ってきた。
しかし、いくら呼んでも末っ子のカイが出てこない。みんなは青くなった。
急いでおっ父を呼び、木を合わせて松明を作った。そして、二人一組になり声を限りにカイを呼び、周辺を探しまわった。
ひかりは、シンと組になり岩山の裏の方を探した。
すぐに漆黒の闇が押し寄せ、それと共に小さな光が二人の周りにチカチカと瞬きはじめた。「ヒメボタルさ」と、シンはひかりに教えてくれた。
やがてその光は一面に広がり、森全体が淡く輝きだした。
ひかり達はその夢のような光景の中、声の限りにカイの名を呼んだ。そして耳を澄ませ、答える声を待ったが、聞こえてくるのは鈴を転がすように澄み切ったカジカガエルの鳴き声と、ヒョーヒョーともの悲しく鳴くトラツグミの声ばかりで二人の気持ちはだんだんと焦っていった。
そんな中、周りにある蛍の小さな光とは別の、大きな灯りが目の前の岩山に見えた。
「ん?他の誰かと行き当たったかな?」シンはつぶやいたが、その火は松明の灯りではなかった。
「おかしいな、用心して行こうぜ」シンはひかりを後ろにしてゆっくりと進んだ。
その灯りは、岩山の洞窟の一つから漏れてきていた。
そして、焚き火の前にはぱちぱちとはぜる火に照らされながら初老の男が一人座っていた。その焚き火の反対側にはカイが、草を編んだ菰にくるまりながら火にあたっていた。
「カイ!」シンの呼びかけに、カイは「いたた・・・」と顔をしかめながら立ち上がり、「シン、ひかり。ここだよ!このおじさんが助けてくれたんだ!」と、ほっとした様子で二人を呼んだ。
二人が洞窟までたどり着くと、初老の男は静かに微笑みを浮かべて言った。
「この子は岩山で足を滑らせ、下の川まで落ちたんじゃ。水を飲み、溺れる寸前じゃった。この山犬が、この子を川から引き上げて助けなかったら、死んでいたかもしれん。
足をくじいておったから、腫れ止めの草をまいておる。まだ痛みがあるが、骨には異常はなさそうじゃし二,三日後にはもう痛みはないじゃろうて」
そう話す初老の男の後ろには、犬とよく似ているが、顔が少し長めの獣が寝そべっていた。
「あ、ありがとうございます。仲間を助けていただいて。このお礼は後ほどさせていただきます」
シンは、どことなく不思議な雰囲気の男の前で、かしこまってお礼を言った。
「いいんじゃ、この子にはすでに言っておるが、ワシはお礼をされるような者ではない・・・
その昔、人を殺めてその罰として右腕を切り落とされ、村を追放された罪人じゃ。
意地汚くも今も命を長らえ、同じく群れを追放されたこいつと共に山をさすらっておる」
男は後ろの獣を指さした。
「どんなに償っても我が罪は消えぬ。本当は現世の民とは関わってはならぬのだ・・・
だから、忘れてくれ・・・
どうしてもお礼と言うならば、ワシと共に、殺された男の魂の為に祈ってくれ・・・
ワシには、ワシには、この命が尽きる日まで魂の平安が訪れる事は無いのだ・・・」男は苦しげに顔をゆがめた。
シンは深々と一礼をすると、カイを背負い洞窟を後にした。
洞窟の外には、先ほどよりもなおいっそうたくさんのヒメボタルが飛び交い、小さな光が森全体を包み、その中を、大きな蛍も柔らかな光を放しつつ、ふうわりふわりと飛んでいた。
「おじいさん、苦しんでた。でも、不思議な暖かさがあったよ」シンに背負われながら、カイはぽつりと言った。
「そうだね、私が滝の所で見た追放者とは違っていたね」ひかりは答えた。
今日、ひかりが見た二人の追放者。一人は魂を奪われ抜け殻のようになって山中をさまよい、もう一人は苦しみの中で自分の罪を見つめ続けていた。
そのどちらにも安らかな平安の時が来る事を、飛び交う蛍にひかりは願った。
朝が来た。あたりはうっすらと白い霧に覆われ霧のむこうからは眠たげな山鳩の声と、にぎやかな鳥たちのさえずりが聞こえてきた。朝日が登ってくるにつれ霧は晴れ、みんなの頭上にさわやかな青空が広がった。
アイのおっ父は、シンの案内でカイを助けてくれた追放者のもとにお礼の干し魚を持って行ったが、岩穴にはすでに人影はなく、火床の跡も冷たくなっていた。おっ父はそれでもと、海草を焼いた塩を草の葉に包むと、雨の当たらない洞窟の奥まった所に置いて手を合わせた。
昼も過ぎた頃、谷の村に着いた。
まずは村の人々に挨拶をして、長老に村に入る許可を求めた。
ひかりはこの村に、ウタの村とその周りを囲む村々とは全く違う雰囲気を感じた。髪型、入れ墨の文様。服のデザイン。そして一番違っていたのは言葉で、アイのおっ父も、谷の村の人々の強いなまり言葉に、何度も聞き返しながら話を進めていった。
その強いなまりを聞きながら、ひかりは自分の、もう一人のひいおばあちゃんを思い出していた。今は亡くなったが、もう一人のひいおばあちゃんは東北に住んでいた。
時折、母親に電話がかかって来たが、その電話をたまたま自分が取ってしまった時、ひかりはいつも慌てて母親を呼ぶ羽目になってしまうのだった。なぜならひいおばあちゃんの言葉は「ひかりちゃんかい?」の後からは、ひかりには何度聞き返しても一言も聞き取れない強い東北なまりそのもので、まったく会話にならなかったのだ。
でもそれはひいおばあちゃんだけの事で、同じく東北に住んでいるもっと年の若いおじさんやいとこ達は、ひかりにもわかる普通の言葉で話してくれるのだった。
世代がすすむにつれ、目に見えてなまりはどんどんなくなっていた。
今思えば、なくなっていっていたのは言葉だけじゃない。母世代、私世代で、昔からの古い習慣、慣習がものすごい勢いでなくなっていってた。私の世代は、もうひいおばあちゃんの頃とは全く別の異世界だ・・・
ひかりは、谷の村の強いなまり言葉を聞きながらそう思った。
アイのおっ父は、村から持ってきた土産の塩と乾し貝を渡して、長老にしばらくの宿と、この村に伝わる鷹狩りの技の教えを請うた。長老は申し出を快く受けてくれた。
それから、アイのおっ父は持ってきた交易品を村人の前で並べ、谷の村の品と交換を始めた。乾し貝と塩は人気で、あっという間になくなっていった。ウタの村でも作り始めたばかりの大根と蕪の種は、谷の村の人々にも物珍しいらしく、人々はおっ父から、カラッカラに干された大根の切れっ端をもらって噛みながら、ふむふむと熱心にアイのおっ父に作り方を聞いていた。
アイのおっ父はウタの森では採れないカモシカの皮などの珍しい品物と交換しながら、お互いの村の様々な技術についても、世間話をしながら教え合っていた。
アイ達は村の若者達に誘われ、一緒に川に遊びに行く事を楽しげに決めていた。ひかりもアイ達に一緒に行こうと誘われたのだが、鷹狩りを見たいからと断り、シンと共に鷹狩りのおじいさんの家に行く事にした。
その行く道の途中で、ひかりは小さな馬が囲いの中で飼われているのを見かけた。シンは生まれて始めてみる馬にびっくりして、しばらくの間穴が開くほどしげしげと見つめていた。
「今度は馬を飼うなんて言うんじゃないの?」と言うひかりの言葉に、シンは大まじめに「考えてる!」とすぐさま返事を返してきた。
ある家のわきでは、子供を連れたメス猪が白昼堂々と村に現れて、うり坊達にお乳をやっていた。
シンもひかりも飛び上がって逃げようとして、案内してくれた村人に笑われた。
ここの村では、メス猪は半野生で飼われていて、昼間は自由に山の中に行って餌を探したり、このようにうり坊達と一緒に安全な村の中で過ごし、夕方になると村人に餌をもらって、イノシシ小屋で寝るのだと教えてもらった。
二人は、所変われば品変わるという言葉を肌で感じた。
村の人々から「鳥飼いのタシロじい」と呼ばれている、鷹狩りを得意とするおじいさんの家には、家の中にも外にも大きな鳥小屋があった。そこには大小何羽もの鷹が止まり木に止まって、鋭い目つきであたりを睥睨していた。
シンはタシロじいから、手にゼンマイのワタを入れ厚ぼったくしたカモシカの皮を巻き、そこに鷹を止まらせ、合図を送って獲物を狙う技や、鷹を拳に据えて移動する折、人酔いさせないように歩く技。
鷹の巣子の採り方や、大人になった鷹を捕まえる技。捕った鷹をどうやって人に馴らし、獲物を狙う鷹に育てていくのかという様々な技を簡単にだが教えてもらう事ができた。
そして、鷹の寄生虫や病気の対処の仕方、季節ごとに気をつけていかなければならない事がらを、タシロじいから一つ一つ噛んで含めるように伝授してもらった。
それから「鷹は鷹としてしか生きれない」事をこんこんと言われた。そこにはタシロじいの鷹への深い愛情があった。本来ならば自然の中で生きるべき鷹を人間の都合で飼い慣らし、獲物を捕ってこさせる。 お互いの信頼関係が築けなければ、出来るものではなかった。
そして、鷹という生き物の本質を奥底まで知ろうとしなければなければ、鷹を飼う事など出来ないと言われた
。
シンは、飼う人間側の心構えを、とことん叩き込まれた。甘やかすのではなく、かといって厳しさだけで接するのでもなく、鷹そのものの生きる力を最大限に引き出す事を徹底的に説かれた。
シンはタシロじいの小屋に泊まり込んで、一日中鷹と寝食を共にした。そして毎日ウサギや山鳥を追って鷹と共に狩りをした。
その間ひかりはほったらかしで、拗ねたひかりは、アイや村の若者達と山や川に遊び出たが、心は何故だか晴れなかった。
毎日はあっという間に過ぎ、みんながウタの村に帰る日がやってきた。お別れの時にタシロじいはお土産にと、シンに竹筒に入った毒矢をくれた。
ウタの村あたりでは使われていないが、ここらの山あいの村々では使われているそうだった。これを使うと、なかなかとどめを刺せなくていつも命の危険と背中合わせの、イノシシやクマ猟の時にいいのだと教えてくれた。
そして最後に「くれぐれも矢毒を塗った矢を人に向けてはいけないぞ!」と念を押された。
一行は、親切な谷の村の人々に手を振り、別れを惜しみながらウタの村に帰っていった。
夏が来た。
子供達は毎日のように海で泳ぎ、真っ黒に日焼けした。どの子も体の内側からほとばしる生命力をみなぎらせて、真夏のお日様のようにきらきらと輝いていた。
午後になるとさっと夕立がやってきて、またすぐにからっと天気になった。そして夕立が上がると、空にびっくりするほど大きく鮮やかな虹の橋がかかった。みんなは虹が出るのは、天と人との約束を忘れない為の印なんだよと教えてくれた。
川では、太った鮎が瀬の所で、きらりきらりと身をひるがえしながら泳ぎ、鱒は水の冷たい淵で底が黒くなるほど沸き返っていた。
川面では黒と黄色の派手な縞のトンボたちが、広い縄張りをゆうゆうと見回り、時に水面に尾を差し込み卵を産みつけていた。川岸では小さな沢ガニが、小さな前掛けにあふれんばかりの子ガニを入れて、はさみで優しく冒険に出ようとする子ガニをつまんでは前掛けに戻し、子育てに一生懸命だった。
川の脇の柳の木には、蝉たちが鈴なりになってうるさいほど鳴き、山の木々には甘酸っぱい樹液がしみだし虫や蝶達がごちそうにありついていた。命はそこかしこからあふれでるほどの勢いで生み出され、母なる大地にはぐくまれていった。
みんは毎日鮎を追い、焼いては干した。そして干した物を家々の天井にびっしりと吊した。それから、穴の中に生のままの鮎と塩と小石を何段も層にして並べ、発酵させた保存食をつくった。独特の臭いとすっぱみがあり、ひかりには苦手な食べ物の一つだった。
おっ父達は、夏毛の美しい鹿の子模様の鹿を追い、山から草原へと走った。
ある日、おっ父達がワナを仕掛けるのにひかり達は一緒について行った。ひかりは、おっ父がまるで見てきたかのように「鹿は、ここをこう通って来て、ちょうどこの場所に足をおく!」と言いながら、ワナを仕掛けるのを半信半疑で見ていた。
その後、村人総出で鹿の追い出しにかかると、まさにおっ父が言ったその通りのその場所で、鹿はワナに掛かっているのだった。
おっ父はこっそりのぞいて見ていたのかしら?ひかりは本当に不思議に思った。
夕方になるとウナギを釣りに行った。大きなヤマミミズを糸に通し、いくつも丸く輪っかにした。それを川に投げ込み、ウナギがうまそうなミミズだとやってきて、餌を十分飲み込むまでじっと待つのだった。
みんなはウナギが釣れるたびに「あっリンズ!」「ジツキ大きい~」「ゴマだ!」「やった~クチボソ!」とか「ちぇっカニクイだ」とか、ひかりにはすべてうなぎでしかないのに、みんなは細かく見分けて名前を使い分けていた。
北欧に雪を表す言葉が、日本の東北よりも沢山あるように、この時代の人達の自然や動物達を表す言葉はびっくりするほど豊富だった。
豊かな言葉に感心することしきりだったひかりに男の子達の「ミミズにションベンかけるとチンチン腫れる~」と歌う声が聞こえてきた。あきれつつ「やめなさいよ、そんな歌・・・」とひかりが赤い顔をしながらいさめると、横で釣りをしていたシンのおっ父が真面目な顔で言った。
「いやいや、ひかり。ウソだと思ってるだろ。本当なんだ。ワシも子供の時ふざけてやってみて大変な事になった事がある。本当に痛かったぞ!」そう断言するおっ父に「ほらほら、本当だろ!オレ達ウソ言ってないもん!」と男の子達は勢いづいた。
「でも大人になって、恐るおそるもう一度試してみたけどその時は大丈夫だった。なんでだろうな、ふしぎだな?」髭面のいかついシンのおっ父が、まるでいたずらな少年のような事を言うのでひかりは笑いを抑えるのに必死だった。
その後は、釣りをしていたみんなのミミズ討議に花が咲き、笑いの絶えない中で釣りが続けられていった。
夏も盛りになった。村の子供達と一緒に、少し離れた干潟を歩いていたひかりは、浜辺一帯を埋め尽くすように、丸くトゲのあるおかしな形をしたものが、波打ち際にびっしりといるを見つけた。まるでエイリアンの襲撃のように、うぐいす色のそれは白い砂地を自分たちの色に染めていた。
その中の一匹を捕まえてみると、それはカブトガニで、まさにエイリアンのような体にとがった尻尾、沢山の足をわさわさと動かして鋭い尻尾を剣のように振り回して暴れた。
「わあ~珍しい!」そう言いながら、ひかりはカブトガニをそっと海の中に放してやった。
でもみんなは、別に珍しがるでもなく、今頃の季節になると、卵を産むために集まってくるのだと教えてくれた。ここらではあまり食べられる事はなく、薬に使われるぐらいだと言った。
「あと、カブトガニの夫婦は仲良くくっついているから、仲の悪い夫婦の所にこいつの干したのを持って行くと仲良くなるっていうまじないに使えるぐらいかな~」興味なさげにみんなは言った。
ひかりは、もしこれが私の住んでいる時代だったら、新聞やテレビがやってきてちょっとしたニュースなんだけどなぁ。と、みんなの興味なさそうな反応に少し拍子抜けだった。
その日の昼過ぎ、ひかりはシンにほうきを作ろうと誘われた。
何故ほうき?と少しいぶかしく思いつつ、タマボウキの枝を蔓でしばって、村の子供達と一緒に沢山のほうきを作った。
その日の夕食を食べ終えた頃、満月の光を浴びながら、山の方から赤いはさみを持つカニ達が降りてきた。後から後から湧き出るように、カニ達は村を通り抜け浜の方に降りていく。村のみんなはカブトガニの時と同じように、毎度の事、別にたいした事じゃないという自然な態度だった。ただ、ちょっと歩きにくいし、じっとしていると平気で足の上にも上がってくるので、みんなは時々ほうきでカニを払いながら、いつものように歌を歌ったりおしゃべりを楽しみながら、満月とカニの群れを眺め、ゆったりと時を過ごしていた。
「ひかり、見せたいものがあるから、一緒に浜へ行かないか?」シンはほうきを肩に、ひかりを誘った。
満月に照らされた白い砂浜には、ぞくぞくとカニ達が集まっていた。
寄せては返す波に洗われながら、カニ達は海に入っては小さく体を震わせた。おなかに抱えていた桜ねず色の卵が雲のように広がり、それを狙って小魚たちが集まっていた。小魚たちは素早い動きで身をひるがえしながら、生み出されたばかりの卵を食べてその身を養っていた。
そして産卵を終え、浜に上がった雌ガニを、一回り大きな雄ガニがはさみで優しく抱きかかえ、山の方へと戻っていく姿が月明かりに照らされて見えた。
「命はこうやって巡っていくんだね・・・」ひかりは連綿と紡がれてきた命の糸が、自分へとつながっていく様が、ありありと見えた気がした。そして悠久の時の中で、繰り返されてきた命の営みのまっただ中にいる自分を感じた。
二人は時折、ほうきで優しくカニを払いながら、満月の海を見つめ続けた。
収穫の秋が来た。実りの季節に、みんな毎日大忙しだった。
麻の収穫の終わった焼き畑では、実りの季節を迎え、鳥やイノシシ達の襲撃がやむことなく続いた。一時でも気を抜くとすべてをイノシシに食べられ、踏みつぶされてしまうので村のみんなは交代で、夜昼の区別なく木や貝殻でつくられた鳴子を鳴らしたり、「ほ~いほいっ」と、かけ声をかけて追い払わなくてはならなかった。
おっ父達は、作物を守る為と、みんなの食糧にする為に山を駆け回り、落とし穴や、くくりワナを仕掛けては、毎日狩りに追われた。おっ父達は鹿猟の時と同じように、イノシシの足跡を見るだけで、どのくらいの大きさか、いつ来たのか、どっちへ行ったのか、まるで見てきたかのようにひかりに教えてくれるのだった。
そんなある日、ひかりは秋桃の生えている場所で大きな穴ぼこを見つけた。それはクマが桃の木から落ちた尻もちの後だと教えてもらった。
まずはそのおしりの大きさにびっくりし、次はその光景を想像して、クマの災難に同情しながらも、ついつい笑ってしまった。「ユクみたいなあわてんぼうがいるんだね」そう言うひかりに、「ひかりだったらまず木に登れないじゃないか」とユクは反論した。
小さなケンカをしつつ、クマが甘いよと太鼓判を押してくれた、小さな秋桃をみんなで集めた。
別の日にはおっ母達や子供達で、池に群生しているヒシの実を集めた。ヒシの実の鋭いトゲが時々指に刺さって、子供達は「痛っ」と悲鳴を上げながらもせっせと集めた。湯がいて食べたヒシの実は、栗とレンコンを合わせたような不思議な味がした。
山では栗の実をたくさん拾い集めて、水につけておいてからその後お日様に干した。それから「甘くな~れ」と唱えながら砂に埋めて寒い冬に備えて保存していった。
クルミもどっさり拾ってきて、外皮を腐らせるために草をかけた。子供達は待ちきれずに、こっそりとまだ青いクルミの皮を手でむいては食べていたが、飛び散るクルミの皮の渋で手が真っ黒に染まり、結局は食べた事がみんなにわかってしまい「手の黒いネズミ」と笑われてしまうのだった。
ツヤツヤと光る大きなトチの実は、本物のネズミ達と競争しながら拾った。
一晩水につけてから、からっからになるまで干した。その後、家の中の火床の上や、貯蔵用の穴に葉っぱや木の皮と共に埋めて保存した。
すぐに食べる分は、さらに水につけて柔らかくしてから、石で皮をはぎ、白い泡が出なくなるまで再び流れる水につけられた。それからくつくつと長時間煮られた後に、ナラやブナ、クヌギを燃やした木灰を加えて一晩置いておいた。次の日になると、山から流れ出る水を引いた棚で水に打たせてから、おかゆにしたり、焼いて食べたりした。
水にさらして残ったトチは発酵させて焼いて食べた。でも、ひかりにはこれもちょっと苦手な味だった。
焼き畑では、キビを収穫して木の棒で叩き脱穀した。その中のくずキビを使って自然の菌をつけ、豆や塩と共に味噌のようなものもつくった。その香りはひかりに、ひいおばあちゃんの家の香りを思い出させた。
この時代にはすでに、いろいろな発酵食品が生み出されていたが、その癖の強い香りや味にひかりは、なかなかなじむことができなかった。おっ母達に「好き嫌いしないで、感謝してお食べ」と言われながらも、どうしても食指が伸びないのだった。
ワラビの根も堀りおこし、力のいるデンプン作りにみんなは大忙しだった。ひかりが欲張って太い根をとろうとすると、みんなは笑って、細い根の方が沢山デンプンが入っているのだと教えてくれた。ひかりは不思議に思ってその理由を聞いたが誰もその訳は知らなかった。ムチナは「あたしの夫みたいなもんだよ。細っこいほうが中身がギュッと詰まっているのさ」とカラカラ笑った。
デンプンとりで砕いた後に残った皮からは繊維もとれた。その繊維で丈夫な縄をつくっておっ父達が漁で使う網を作った。網には柿渋を塗り丈夫にしていった。柿渋の強烈な臭いに、ひかりはくらくらしながら手伝いをした。
山にあるアケビ、ヤマブドウ、ヤマボウシ、ケンポナシ、ガマズミ、サルナシ、マタタビ様々な果実も集めてきた。そして夏の間に集めて乾燥させたニワトコと一緒に発酵させ、秋の祭りのための果実酒もたっぷりと仕込まれていった。
朝晩の冷え込みが厳しくなり、山にはドングリが実りだした。今年はブナの生り年で山には来るべき冬に備え、クマもイノシシもせっせとお腹の中にブナを詰め込んでいた。
山のクマ達は、遠目にも脂肪がぷるんぷるんと揺れていた。
「ブナがよく実ったら、クマがよく肥える。ブナの実をたっぷり食べたクマの肉は柔らかいし、薬にするクマの油も透明でいつまでも固まらない。今度、四方の村総出で祭りのためのクマ狩りに行くから楽しみに待っておいで」そう、シンのおっ父はうれしそうに笑って言った。
ひかり達は、山の麓のカシの実を拾い集めた。水につけて中の虫を殺してから、河原に穴を掘り、水の染み出す所に埋めた。腐ってしまわないのかとひかりが聞くと、こうやっておくと暖かくなるまでもつのだと教えてくれた。
しかし、すべてを河原に埋めるのではなく、乾いた土の中に穴を掘り、木の皮や葉っぱと共に埋めていくこともした。ドングリは実る年と実らない年があるので、沢山実った時に貯めておく事を教えてもらった。
「何があるか、天と地のご機嫌次第だからね。いろいろ知恵をしぼって考えるのさ。いい時もあれば、悪い時もある。飢饉は本当に恐ろしいからね」そう言いながらも、おっ母達はからからと明るく太陽のように笑った。
「でも、まずは笑うのさ!明日には明日の風が吹く!きっと明日も楽しい事があるのさ!」おっ母達の笑顔は、この時代を生きぬく強さをもって、あたり一帯を照らしていた。
明日には明日の風が吹くと言っても、みんな、明日の事を考えてないわけじゃないんだ。ひかりは強くそう感じた
するべき事をした上で、それでも人の上に襲いかかる天と地の定めをすべて受け入れる。そんな心の強さなんだ。おっ母達の太陽のような笑顔にこの時代の力強さが現れていた。
豊かさや、命の安全さで言えば、ひかり達の時代の方がはるかに安心できる。しかし心の豊かさや満足感はどうなのか・・・ひかりは、そう思いながらせっせとドングリを地面に埋めていった。
秋の祭りがいよいよ迫ってきた。四方の村々が集まり、まず狩りに行く事となった。山の狩小屋のある奥の方まで行くので、おっ父達はしばらく帰ってこない。
そしてわざわざもうすぐ天気が崩れそうな時の直前を狙って行くのだと話してくれた。
「危ないのに、なぜよりにもよってその時を選ぶの?」
ひかりは不思議に思って聞いてみた。
「ひかり、お前も雨がざんざん降って大風が吹くような時はあまり出歩きたくないだろう。それにそんな時はあまり食べ物も見つからないし、体力も奪われる。だから、動物たちも天候が下り坂になる前に食べだめをしておこうと、せっせと餌を食べるんだ。動物たちが活発に動き回る時なんだよ」そう教えてくれた。
「私だけね、天気が読めないのは・・・」そうつまらなそうに言ったひかりに、おっ父達は今度ひかりにも天気の読み方を教えてくれると約束して、犬を呼び集め狩りに出発する準備をはじめた。
フチの大ばば様が、狩りの無事を祈る言葉と煙をおっ父達にかけていった。おっ母達は精霊にみんなの無事と、豊かな狩りの獲物を願い、歌を歌いながら肩を組み踊った。
アイは言い交わした青年に、お守りの木の皮で編んだ腕輪を着け、青年の姿が見えなくなるまで手を振りいつまでも見送っていた。
山の頂からは、妻恋いの鹿の声が切なく谷間に響き渡っていた。
おっ父達がいなくなってがらんとした村で、留守を守るおっ母達と子供達が毎日、祭りの準備に追われた。
ユクはその自慢の足を生かして、蜂の後を追っかけ、沢山の蜂の子を採ってきた。ミツバチの巣も探して甘い蜜を採ってきたが、大半は男の子達のお腹の中に入っている可能性が高いようだった。男の子達は「全部採ったらいけないから、半分は残してくるんだ」と口をとがらせて言っていたが、それにしてもと疑いをもたれてしまうほど、蜜の量はちょっぴりだったし、ユク達の口の周りのべたべたは誰の目にもはっきりと残っていた。
シンは、鷲をつれてウサギやキジを捕まえてきた。鷲はゆうゆうと高い空を舞いながら、その鋭い眼で、犬が追い出した獲物を逃さず力強い爪でつかみ取ってくるのだった。
河口には卵を抱いたもずくガニが続々と集まっていた。子供達はおいしいカニ汁をつくって、祭りの準備に忙しいおっ母達にふるまった。
日々、秋の気配が濃くなって来ていた。
川の流れの速い瀬には、落ち鮎達が集まってきていた。夏とは全く違う真っ黒な背をしたオス鮎たちが押し合いへし合いせめぎあっていた。オス鮎達は、時折小石がカラカラと流れる瀬で、メス鮎が降りてくるのをを今か今かと待ちわび、命の営みを繰り返していた。そして産卵の終わった鮎たちは、その一生を終え、白い腹をみせながら下流へと流れ、カニやウナギの餌となり、海から上がってきたスズキの腹も満たした。そして命の尽きたその身でもって、空飛ぶ鳥たちも養っていた。
川の支流では、冷たい淵から出て来た銀色の鱒たちが、河床を尾びれで掘り卵を産んでいた。そして卵を産み終えた鱒達は、鮎と同じくその命の火を燃やし尽くして静かに流れ、他の者の命へと置き換わっていった。命の輪は絶える事なくゆっくりと巡っていっていた。
一雨が来てまたぐっと気温が下がった。そして、雨が上がると、おっ父達が獲物をどっさり抱えて山から帰ってきた。イノシシに鹿。そして大きな黒いクマも。今回のクマ猟では、以前の山奥の谷の村でシンがもらった毒矢が使われた。おっ父達はその威力に敬意を示し、まだ残っている毒矢を祭りの祭壇に置き、精霊達にむかって感謝の言葉を捧げた。
子供達は獲物の周りではしゃぎまわり、おっ母達はみんなの無事な姿に胸をなで下ろした。
おっ父達はクマの毛皮をアイ達にあげようとみんなで話しあっていた。クマの毛皮にはノミがつかないから、赤ん坊が生まれた時に良いだろうと言われ、アイ達は頬を染めながらもうれしそうに寄り添っていた。
いよいよ、祭りが始まった。
村々の人々が一同に集まり、フチの大ばば様を先頭とするまじない師達が、精霊達に感謝と祈りの言葉を捧げた。そして祖先達にここに降りて来て、どうか我々と共に一時を過ごして下さいと魂迎えの儀式をはじめた。
中央にしつらえられた祭壇には青々とした緑の葉が敷き詰められ、海、山、川。そして焼き畑で採れたすべての恵みが並べらた。ひかりは並べられた一つ一つの命を見つめながら、この自然の大いなる力に生かされている自分の命をまざまざと感じた。
人々は、最初はゆっくりとしたリズムで歌い出した。それから弓の弦を鳴らし、土笛のメロディーにあわせながら輪になって踊った。
それから空洞になった木に皮を張った太鼓が鳴らされ、竹が激しく打ち鳴らされ、ひもに通された貝殻が振り鳴らされた。その音に合わせ人々の踊りも激しくなり、踏みならす足音は太鼓の音に合わせて大地を揺るがすかのようだった。
突然、すべての音が止まり人々は動きを止めた。
そして目の前の光景を信じられないように黙って見つめた。
そこには、輝く太陽の光を照り返しながら冷たく光る槍が林のように立ち並んでいた。
祭りの真っ最中の人々の前に、忽然と沢山の兵士が現れた。槍だけでなく、村のみんなにむかって、引き絞られた弓がずらりと狙いを定めていた。
特に先頭の男は、今まで誰も見た事がないほどの巨大な体にぎょろりとしたドングリ眼で、圧倒的な威圧感をもって人々の前に立ちはだかっていた。
その他の兵士は白っぽい服を着て、胸の周りを木を削って作られた簡単な胴衣のようなもので包み、長い木の盾を体の前に置き、人形のように突っ立っていた。その異様な光景に人々は水を打ったように静まりかえっていた。
やがて抑えきれないように、人々の間にざわめきが広がり、フチの大ばば様が前に進み出た。
「遠い所から来られたであろう者達よ。何の落ち度もない我々にむかい弓矢にて狙いをつけるとは何事ぞ!即刻、槍と弓を収め直ちに立ち去られよ!
今、我らの村々は祭りの真っ最中である。礼を失するにもほどがあろうぞ!しかし、無礼をわび、わが精霊や先祖をを敬うつもりがあるならば、我らもそなた達を歓迎しよう」
重々しく告げるばば様の声に応えるように「道をあけよ!」兵士達の後ろから凛とした声が響いた。さっと潮が引くように兵士達は左右に分かれた。
兵士達の間から姿を現した女性は、美しい黒髪を長くたらし、顔の横の髪を白い糸で結っていたいた。 輝くような純白の、袖の長いゆったりとした衣に、赤の細帯を締め、肩には霞のように透ける青い布を、ふわりと羽織っていた。
その姿は、まさに天から舞い降りた天女のようだった。
しかし、その白く整った顔からは、感情のかけらさえもうかがい知る事は出来ず、夜咲くカラスウリの花ように、皆に底知れぬ気味の悪さを感じさせた。
「我らは、客人ではない。我は海の向こうから王のお告げを伝えるために参った巫女じゃ。
我らはそなた達に二つの道を提案しに来た。
一つは、我が王の元にかしずき、忠誠を誓う道。もう一つは、我らに逆らい、天の雷にて滅ぼされる道じゃ。どちらが良いか。それはお前達で選ぶが良い!」
巫女は、その真っ白な雪を思わせる肌や衣のように、冷たく凍てついた言葉を、集まった人々の上に投げかけた。
ざわざわと波紋が広がっていった。
最近の海の向こうでのいさかいの話は、人々の知る所となっていた。
まだ見ぬ遠くの話と思っていた出来事は、今まさに悪霊のように人々の前に現れ二つの道を突きつけた。
フチの大ばば様は、重い口を開いた。
「先触れもなく他の村といさかいをするとは、非常に無礼であろう。しかも、我らが村では、誰か一人にて物事を決める事は出来ぬ。しばらくの間、皆にて協議する。弓を収めて待たれよ!」
しかし、その声を聞いても兵士達は身じろぎ一つせず、弓を収める気配も見られなかった。
巫女は、鳥が羽ばたくように袖を大きくひるがえすと兵士達の中央に戻り、兵士の一人がうやうやしく差し出した椅子に大仰な様子で座った。
「あの太陽が、ここまで来たら話は終わりじゃ」巫女はほんの一時間ほどの時を、天を仰いで指し示した。
村人達は、兵士達の凍り付くような威圧感のもと話し合いを始めた。
その時、兵士の中から一人の男が歩み寄ってきた。その男は明らかに、自分たちと違う部族ではあったが、兵士達と比べて、その顔立ちや、衣服などに自分たちと近いものを感じとる事ができた。
男はにこやかに笑いながら挨拶した。でもひかりにはその男の笑顔の中に、ウタの村の人々の笑顔とは全く異質のものを感じた。
「実りの季節の前に、こちらの村々にお世話になったクダです。覚えてますか?」人々が落ち着いてよくよく見ると、以前ここらの村を巡りながら、珍しい品々を交換してくれた男に違いなかった。
「あの時の品々どうでしたか。あの品々は偉大なる王の力にて生み出された物のほんの一部でしかありません。私達の村も、偉大なる王の元に集う事によって、以前よりもよい暮らしが出来るようになりました。日々の食べ物にも困る事はありません。実りの季節にはあの時お渡しした米が、この目の前の砂浜にある砂粒のごとく山のようにとれるのです。
それに咳の薬の効き目もすばらしかったでしょう。今までこの村になかったそのような優れた力がこの村の手に入るのです
そうやって、誰よりも早く王の力を手に入れたあなた方の村は、この地域の長として認められるようになるでしょう。王の威光の元で、あなた方の輝きも増すのですよ」
そして、クダは少し声を落として続けた。
「それにごらんなさい。あの兵士達を・・・彼らに逆らったとて、まるで赤子の手をひねるようにあなた達はひねり潰されるでしょう。たとえここにいる兵士達を、万に一つの奇跡にて滅ぼす事ができたとしても、王の元に集う兵士達は夜空の星のごとく数限りない。波が押し寄せるように、再び兵が押し寄せ、あなたたちはウサギよりもやすやすとくびり殺されるでしょう」ぞっとするような言葉を吐きながら、クダは最後にもう一度笑って言い添えた。
「よく考えてご覧なさい。どちらの道が自分たちに益をもたらすのか・・・王にかしずくと言ってもすべての自由が奪われるわけではないのです。少しの我慢さえすれば、未来永劫の豊かさが手に入るのですよ」そう言い終わるとクダはくるりと向きを変え、兵士達の方に戻っていった。
しばらく、あたりは水を打ったような静けさに包まれた。誰もが今まで体験した事のない出来事に考えがまとまらず混乱していた。
ただ、先ほどのクダの笑顔の中に、自分達にはない表面的な笑いを直感的に感じ、誰もが人ではないものに触れたかのような薄気味の悪さを味わっていた。
まず、男達が口火を切った。
「女子供もここにいる。この場で戦えば弱い者から犠牲となるじゃろう」
「かと言って、このままむざむざと奴隷となるのか?」
「さっきの男も言っていたが、すべての自由がなくなるわけではないと言っておったぞ」
「しかし、こちらに何の落ち度もないのに、勝手に攻められるなど、腑に落ちんわい」
男達は憤懣やるかたなしといった様子で膝を叩いた。女達も騒ぎ出した。
「なんで、何もしていない私らが、攻め込まれなきゃいけないんだい!」
「だいたい、今日は神聖な祭りの日だよ。何が何でも失礼じゃないか!」
皆の声がだんだんと高くなった。フチの大ばば様をはじめとした、まじない師達は重々しく口を開いた。
「ここで戦い、多くの者が死するか、生き延びる為に奴隷となるか。それ以外に道が見える者はおらぬか?」村の人々は言葉なくだまりこくった。
「奴らは今までも、いろいろな村々に攻め込み戦ってきたのじゃろうて・・・我らとていざ戦いとなれば勇壮な部族じゃが、どうひいき目に見ても我らに勝つ道はなかろう。
しかし、何人かは道連れとして我らと共に死出の旅路へと誘い込めるであろうがな・・・
しかし、その為に命を落とす事など何の意味もなさぬ。無駄死に以外の何物でもないわ」
「自由と引き替えに奴隷として生きるならば、先ほどのクダの言っておったような暮らしが出来るぞやも知れぬ・・・
しかし、あ奴の言葉のどこまでが本当かは解らぬがな。何か人として信用がおけぬわ」
「どちらにしても、今の暮らしは続けられぬということじゃ・・・」
ぽつりぽつりと意見が出たが、大人達の顔は曇ったままだった。
子供達はどうなる事かと固唾をのんだ。シンはその中からすくっと立ち上がって言った。
「どう考えてもこっちに非のない変な理屈じゃないか!こちらだけで話し合っても進まない。向こうとももう一度話し合おう!」
堂々巡りで行き詰まっていたみんなの心に一陣の風が吹き抜けた。
「そうじゃそうじゃ、まずは話し合いじゃ」
みんなも次々と立ち上がった。
皆が兵士達の前に歩きだそうとした時、雷のような声で先頭の男が皆を制した。
「止まれ!それ以上こちらに進んではならぬ!」
皆は、ざわざわと騒ぎ出した。
「そんな事言ったって、こっちは話し合いをしたいんだよ!」
「変じゃないか。こっちに何のやましい所もないのに、なんで攻め込まれなくちゃならないのさ!」女達は不満を口にした。
兵士達の中央に座る巫女は不快の表情をあらわにして、わずらわしそうに袖を払った。
「我らは、王より使わされた者じゃ。王の言葉は天よりの言葉。話し合う事など出来ぬ。お前達の道はどちらか一つなのじゃ。まだ選べと言われるだけでもありがたいと思え!だいたいお前達のような者が、我らと話し合おうなど恐れ多い事じゃ」
巫女は吐き捨てるように言い終えると「テヅチ」と先頭の巨大な男を呼びつけた。
「もう時が来た!この者どもの選択を聞き、その返答によって対処せよ」
テヅチと呼ばれた男は、かしずいて巫女の言葉を聞き、くるりと向きをかえると、皆にむかって「返答を聞こう!」と割れ鐘のような声で言い放った。
全く話し合いにもならないその態度に人々の怒りは頂点に達した。おっ父達が覚悟を決め、挑みかかろうとしたその時、一本の矢が巫女にむかって放たれた。
きらりと冷たい光がひるがえり、その矢はテヅチの持つ刃によって、やすやすと地面にたたき落とされた。
そして、矢を放った元には怒りに燃え、再び祭壇の上の毒矢を放とうとするシンの姿があった・・・
「愚かな・・・」巫女はつぶやいた。
テヅチは慌てる風でもなく、隣の兵士の弓をとりあげ矢を放った。
矢は空間を切り裂き、シンの胸のど真ん中に当たった。シンはゆっくりと崩れ落ちるように倒れた。
「シン!」ひかりはシンの所にかけよった。まっ赤な血はシンの服を染め、じわじわと広がっていく。ひかりは蒼白になりながらシンの胸に刺さった矢を抜き取り、祭壇に敷いてあったヨモギを取って血を抑えようとした。
「すべてが息絶えるまで、まだ戦うか?」
巫女は感情のない目で、皆を見つめた。村人達の周りぐるりを、何重にも矢を持った兵士が取り囲んでいた。このまま戦いを続ければ、雨のように矢が射かけられ、皆の命が絶える事は火を見るより明らかだった。
「ワシらの負けじゃ・・・」誰かがつぶやき、みんなは崩れ落ちるように地面に座り込んだ。
血のように赤黒い色を投げかけながら、急速に沈み行く夕日がみんなの心の中を表しているようだった。
巫女は立ち上がるとテヅチを引き連れ、シンのもとに歩を進めた。
「この者をあの岩穴に放り込み、生け贄とせよ!」巫女は傍らの、村のみんなが燻製を作るのに使う小さな洞窟を差し示して言った。
ひかりはその言葉を聞き、自分の体全体でシンをかばうように覆い被さると「シン!シン!」と必死で呼びかけた。
巫女はひかりの姿を冷たく見おろすと言葉を続けた。
「男だけでは祟り神となってもいかぬ。この娘も一緒に放り込め!夫婦神となってこの地を守るであろう」
テヅチはその丸太ん棒のような太い腕で、二人の体を易々と持ち上げると岩穴まで運び、奥の壁に当たるほどの勢いで投げ込んだ。ひかりは頭に強い衝撃を受け、そのまま気が遠くなり気を失ってしまった。
「痛っ、つつっ・・・」ひかりはずきずきする痛みの中で目がさめた。しかし目を開いてみてもそこは真っ暗闇の中だった。恐怖が渦を巻いてひかりを襲った。
「シン?シン?」ひかりは必死になって声を出し、四つん這いになって辺りを手探りしながら探した。
「ひ・・・かり・・・」すぐ近くでシンの声がした。声のした方向に進むとやわらかいものに触れた。「シン・・・」ひかりは一瞬安堵した。しかしすぐにシンの負った傷を思い出し蒼白となった。
「シン、まだ血が出てる?」そう言いながら、シンの胸元に手を触れてみた。しかし真っ暗で何も見えない。シンの服を濡らす、べたりとした血の感触だけが手に残る。
「翡翠が守ってくれたんだ・・・あいつの放った矢が、ちょうどそこに当たって砕けたんだ・・・じゃないと、このぐらいの傷ですまなかったさ・・・」
シンは時々苦しげに、咳き込みながら言った。ひかりは少しだけ安堵した。
「私達、燻製用の洞窟に閉じ込められたの。生け贄だってあの巫女が言ってたわ。どうにかしてここから逃げ出さなきゃ」心の中は不安で押しつぶされそうだったが、努めて明るくふるまいながら言った。
「こう、真っ暗じゃわからないな。痛てて・・」シンは上体を起こしたようだった。「ひかり、お前の櫛ちょっと貸してくれ」ひかりが髪に挿していた櫛を差し出すと、シンは手探りで石を探し、櫛の端を石で何度か叩いて潰した。
「祭りの儀礼のための火口を持ってて助かったぜ」次にシンは、ごそごそと腰に吊した入れ物の中から、エゴマ油で湿した火縄を取り出し、片端についている火を苦労しながら、毛羽立たせた櫛に移した。ぽわっと小さな灯りが灯った。
「さてと。どこかに抜け出そうな所・・・」二人は周りを見渡した。入り口は大きな石でしっかりと蓋がされていた。試しに、ひかりが押してみたが石はびくともしなかった。
灯りが、小さく揺らめいた。
「どこかから、空気が流れ込んで来てるみたい」ひかりは揺らめく灯りを見ながらシンに言った。シンは指を舐め中空にかざしてみた。洞窟の奥、どんずまりの壁の左天井からその風は吹いていた。
「この香りは外の香りだ」シンは力強く言った。二人は、洞窟の床に転がっていた燻製を干す時の棒を使いながら、交代でせっせと掘り進んだ。
頭の上に土が落ち、目の中にも何度も入った。ずっと上を見上げる首は頭の重みに引きつり、苦しくてたまらなかった。それでも、少しずつ床に積もる土が高くなり、二人はそれを踏み台にして掘っていった。
櫛の灯りが終わりに近づき、差し上げる腕にも血の気がなくなって、もう駄目だと弱音を吐きそうになった時、急にぼこっと手応えがなくなった。そして湿った夜の空気が流れ込んできた。穴の外では、秋の虫達の声が優しく響きわたっていた。
二人はなるべく物音を立てないように、小さな穴を苦労しながら抜け出した。村の方を見ると兵士達は広場の中央に集まり、大きな焚き火を囲みながら、みんなの用意した祭りのごちそうをを食べていた。
「ちぇっ!」シンは、小さくお腹を鳴らしながら舌打ちした。
村のみんなは、と見ると村の外れで男達は、後ろ手に縛られ、見張りが二人つけられていた。女や子供達は兵士達の食事の準備をさせられていた。
「どうやってみんなを助ける?」ひかりは小さな声でシンに尋ねた。シンは「う~ん」とうなったきり動かない。リーリーリーと澄み切った虫の音が辺りに響くばかりだった。
ひかりはいきなりひらめいた。
「シン、最初に私がウタの大ばば様の所に行った時の、人の心を映し出す薬。あれが何処にあるかわかる?」
「わかるけど、それをどうするんだ?」
「おっ母達や子供達が給仕をしているでしょ。その中になんとか紛れ込んで焚き火の中にあの薬をこっそり投げ込むのよ。兵士やみんなが自分の中の夢をみている間に、おっ父達を助け出すの。それから、おっ母達を夢から覚まさせるのよ」
「ひかり、お前すごいじゃないか。夢を覚まさせる葉をオレ達があらかじめ口に入れて噛んでいたら、夢にはかからないしな。それにこの風向きならおっ父達の方には煙は行かないさ。見張りの二人は、うまい事言って、焚き火の方におびき寄せようぜ」
「それなら、完璧よ」二人は顔を見合わせて声を出さずに笑った。
夜の闇の中、二人はフチの大ばば様の家に忍び込んだ。ありがたい事に家の真ん中の炉にはまだ火が残っており、ちらちらと揺れる灯りの中で、二人は夢を見る薬を懐に入れようとした。ひかりは突然気づいた。
「シン駄目よ。だってあなた、その服血だらけだもの。それに兵士の中には、もしかしたらあなたの顔を覚えている人がいるかもしれないわ」二人はまた考え込んだ。
ひかりの目に、きちんとたたまれたフチの大ばば様の普段の服が目に入った。今日は祭りの日なので、大ばば様は祭り用の特別な服を着ていたのだった。
「シン変装するのよ。これを着て!私も髪型を変えるわ」幸いシンのケガの血も止まっていたが、念には念を入れて大きな葉っぱで胸を覆い、その上から布でしばった。それからシンはフチの大ばば様の服を着込んだ。丈が短かったが、気にならないと言えば気にならないぐらいだった。それから、シンの髪を垂らしひもで巻きつけた。ひかりはシンが、少女と言えばまだ通るあどけなさを残している事を心の底から精霊達に感謝した。
それからひかりは、自分の結い上げていた髪を垂らして、お下げに編んだ。そして二人は口に夢を覚まさせる葉を噛み、懐に夢を見る薬を忍ばせ、夜の闇にまぎれながらみんなの方に忍び寄っていった。
まず、ひかりが落ち着いた様子で、忙しく立ち働くみんなの元に紛れ込んでいった。村人の何人かはひかりを見てはっとしたが、素知らぬふりで給仕を続けた。
ひかりは薪を、焚き火の所まで運びながら、こっそりと懐の塊を薪に潜り込ませ火にくべた。
「おい!」一人の兵士のとがめる声が響いた。
ひかりは背中にびっしょり汗をかきながら、平静を努め振り返った。
そこには、シンの腕をとり詰問する兵士の姿があった。
「お前、どこに行ってたんだ。今向こうの林から出て来たな」兵士はそう言って疑いの目でシンを眺めた。シンは憮然とした風で「しょんべん!」と一言言い放つと、兵士の腕を振り払いそのまま堂々と歩いて行った。
「これだから、辺境の女は嫌なんだ!言葉遣いも行動も粗野で!」兵士はあきれたように言って、それ以上追いかける事もしなかった。
その体が力なく崩れ落ちた。
ひかりは胸をなで下ろし、辺りを見回した。焚き火の近くから、夢はどんどんと広がっていった。
弓を向けられていた時には、感情のない人形の様に見えた兵士達は、夢の中ではただの父であり、息子であった。戦の悪夢を逃れて家に帰ると、そこには迎える人達がいて、暖かい食事をとりながら笑いあう家族の姿があった。
兵士達の武器は立派だが、身を守る物は何も無かった。家族は愛する人を少しでも守れるようにと、木を削り体を包む胴着を一心に作った。その家族の思いに守られながら帰れる日を指折り数え、兵士達は必死に戦った。
シンが近づいてきて、懐の薬を火の中に投げ込んだ。夢はますます深くなり、兵士達の頭上には殺された人々の断末魔の光景が繰り広げられた。兵士達は夢を見ながら苦しみ、もがいた。もがくと言ってもあくまで夢の中だったから、座っている体はほとんど動けず、指先をわずかに痙攣させるかのように動かすぐらいしか出来なかったが、一人一人の苦悶の表情は、頭上の悪夢を如実に語っていた。
自分達が誰かを殺めるだけでなく、敵に攻め込まれ、自分の愛する家族を奪われ、その憎しみの炎を胸に、阿修羅のごとく相手に立ち向かう姿もあった。だれもが傷つき血を流していた。
ひかりは、涙を流しながら頭上の悪夢を見つめた。憎しみはぐるぐると渦を巻き、始めも終わりもなかった。
シンは、おっ父達の見張りの兵士を連れて来た。二人は焚き火に近づくにつれ、崩れ落ちるように座り込み、終わりのない悪夢に巻き込まれていった。
「ひかり、早く!おっ父達を助けるんだ。夢を覚ます葉っぱを噛ませる事を忘れるな!」
「でも、シン!この人達、永遠にこの悪夢から覚めないの?」ひかりは泣きながら尋ねた。
「大丈夫だ!火が消えてしばらくしたら自然と夢は覚める!時間がない!急ぐんだ!」シンは叫びながら走った。
おっ父達を助け出した後、村の人々にも次々と夢を覚ます葉を口の中に注ぎこんだ。
時間のない中人々は集まり、これからの事を話し合った。他人の支配を受けながらもこの地に残る者、新しい地を探す者、二つの意見が出た。
意見の分かれた二つの村人は、最後の別れを述べ、お互いに涙を流しながら固く抱き合った。
どちらの道を選ぶも困難きわまりなかった。
これから、寒い死の季節を迎えるこの時期に、新天地を目指す事など自殺行為にも等しかった。
それでも、シンは新しい地に旅立つ側になった。もちろんひかりも一緒だった。みんなは、急いで最低限の荷物を丸木舟と筏に積み込み出発の用意を進めた。
チサは最初、病気のおっ母の事を思い、残る側にしていた。しかし、チサのおっ母自身が、途中で命は果てるともみんなと一緒に行きたいと願い、一緒に行く事となった。チサと仲の良いアトは涙を流して喜んだ。
すべての準備が整った。
「出発じゃ!」フチの大ばば様は、月にむかって杖を振り上げた。
月に照らされながら何艘もの船は滑るように静かな海にむかって漕ぎ出した。船の舳先にいるシンの拳の上には、鷲が静かに羽を休めていた。
突然、山の方からゴロゴロと腹に響くような音が聞こえてきた。フチの大ばば様は、山の不穏な気配に全神経を集中させた「山が荒れておる」ばば様は不安げにつぶやいた。
エカシは洞窟に閉じ込められ、事情を知らない二人に説明をしてくれた。「お前達がワシらを助けに来る前、日も暮れたというのに松明を焚き、巫女とテヅチが何人かの兵を連れてウタの木を見に行ったんじゃ。何ぞあったんじゃろうか?」
「なんでウタの木の所に行ったの?」ひかりは不思議に思いエカシに尋ねた。
「ウタの木は、海の向こうに住んでいる王の所からも、ように見えるんじゃと。
朝になってお日様が登っても、ウタの木が光をさえぎって王の住む場所が日陰になってしまうそうなんじゃ。そこで怒った王が『あの木を切り倒し、我が社の柱とせよ!』と命令を下したそうなんじゃ。
そして『この地にも王の力を示し、住んでいる者どもをひざまずかせてこい!』と巫女とテヅチをこの地に差し向けたそうじゃ。日陰になるから切ってこい!そのついでに征服してこい!などと、とんだ迷惑な話よな」エカシは、いつものほら話のような軽妙な調子で話した。
「ウタの木は切られてしまうのかしら・・・」ひかりは、ウタの木の行くすえを思って心配になった。
「あの大きさじゃ、そう簡単にはいかぬ。それに天と地をつなぐ最後の木じゃ。精霊がだまっておらぬて・・・」ばば様は自分に言い聞かせるように答えた。
みんなは心に一抹の不安をいだきながら、櫂を力いっぱいこいだ。しかし、ゴロゴロドロドロという低い雷のような音は、山の方からこちらの方へと、ぐんぐんと勢いを増して近づいてくる。
そして月の明かりに照らされながら、真っ黒な雲のような塊が、風車のように回りながら山をものすごい勢いで駆け下り、砂浜の所までやって来た。砂浜に、もうもうと霧と砂が入り交じったものが立ちこめる中、波打ち際まで駆け下ってくるとそれはぴたりと止まった。
そしてその霧が晴れ、現れたものは先ほどとは全く違う、異形の巫女とテヅチの姿だった。
月の光を浴びながら現れた巫女の姿は、長い黒髪を振り乱し、その白い顔は前方に長く突き出していた。口は耳の所までざっくりと裂けて血が滴るように赤かった。
一方テヅチは、その巨体がますます巨大になり雲を突くような体となっていた。衣服は引きちぎられ、体のあちこちに古い蜘蛛の巣のように引っかかって揺れていた。
こちらをぎょろりとねめつける目は、まるで火のようにらんらんと光る。
「お前達、我らの手を逃れられると思うのか!以前の恨み晴らさずにおられるものか!」巫女は大声で叫んだ。
「我らは、お前らに恨みを受けるような事はしておらぬ。訳をのべよ!」フチの大ばば様は船上で波に揺られながら毅然とした態度で答えた。
「我らは以前、その村の女の手助けをしてやったにもかかわらず、そこにいるこわっぱの邪魔立てのせいで、弓で射られ犬の子でも追い払うように追い散らされた者よ!」
巫女のその言葉を聞き、シンとチサははっとした。よくよく見ると、確かにあの時の白狐と、狐火の木の側にいた大入道に違いなかった。
「その事で、我らがなぜ恨まれなくてはならぬのだ」大ばば様は続けて尋ねた。
「そこの女の恨みを晴らす為、我らは手を貸してやったのだ。感謝されこそすれ、なぜ弓を射かけられねばならぬのじゃ!」その言葉を聞きながら、チサの母は真っ青に青ざめ、手を固く握りしめた。
「しかし、我が村への恨みなら、何故お前達は海の向こうの王の力なぞ借りて、その兵を率いやって来るのじゃ」大ばば様は問うた。
「ほほほ・・・あ奴の先祖は、海の向こうで我が夫と息子を殺した恨み重なる民。王はそいつの子孫よ。
我は何度でも蘇り、あ奴らを子々孫々に至るまで苦しめてやるわ。
我は今、あ奴のクニの巫女としての地位を手に入れ、あのクニを思い通りに動かせる力を手に入れたのじゃ。あ奴らの子々孫々の代まで取り憑いて、我の思い通りにあのクニを動かし、すべてを食い尽くしてやるわ!」そして、巫女はチサの母を指さして言った。
「我にはの。あの女の気持ちが痛いほどわかるのじゃ!我のようになれば、あの女も憎い相手に存分に恨みを晴らす事が出来る!それが何故悪いと言うのじゃ!」
「そなた、名はなんと申す・・・」大ばば様は優しく言った。
「そなたは、恨みを糧とし永遠に生きるのか・・・まるで尻尾をくわえたヘビのように、何処が始まりで、何処が終わりか解らぬ。恨みはまた別の恨みを呼び、悲しい運命は次々とたぐり寄せられ、沢山の嘆きの手によって太く太くなわれていく。そして恨みの網は、この世の隅々にまで張り巡らされて、平安に暮らす人々の日々の暮らしをすなどっていくのじゃぞ・・・」しばらくの沈黙の後、大ばば様は優しく問いかけた。
「そなた。すべてを、許さぬか・・・」
白狐は、まなじりをつり上げ、耳まで届くほどに大きくその口を開けた。
「なぜ、許さねばならぬ!我には何の落ち度もなかったのじゃ!夫と子供に囲まれ、豊かで幸せな日々を送っておったのじゃ!それなのに、あ奴らは勝手に我がクニに攻め入り、すべてを我が手から奪ったのじゃ!
我がクニの民も、力を失った我になど誰も力を貸してくれなんだ!
許さぬ!許さぬ!我だけでなく、この世のすべてに嘆きが満ちれば良いのじゃ!
貴様らも海の藻屑となって、我らの仲間となれば良い!覚悟せよ!」狂ったように叫びつつ、白狐はその長い髪を船の方に伸ばし、鋭い爪で皆を引き裂こうとした。
そしてテヅチは、スローモーションの様なゆっくりとした動きで弓に矢をかけ、船にむかって一本の矢をひゅんっと放った。
空間を切り裂きながら、一直線に矢はひかりの胸に飛んできた。どすっという衝撃と、焼けるような熱い痛みにひかりは一瞬息が詰まった。
そして、ひかりが胸を押さえた指の間から、まるでヒメボタルの大群が夜空に散らばっていくように、小さな光が夜空にむかって、後から後からあふれ出るように舞い上がっていった。
それから、村のみんなの見ている前で、ひかりの体は小さな光の粒となり星空に吸い込まれて消えていった。
「ひかり!」後には、シンの血を吐くような叫びだけが夜空にこだました。
みんなは、しばらくの間ぼうぜんとその光を見つめた。砂浜の巫女とテヅチですらその手を止め、魂が抜けたように小さな光が夜空の中に吸い込まれていく光景を見つめた・・・
山の方で雷がなった。
最初は小さく、次に耳をつんざくような大音響で。
そして空から地面まで貫き通す太い雷が一本の輝く道となってウタの木を貫いた。
大音響と共に、ウタの木は真っ二つに裂け、めらめらと燃え上がった。
その中から、まるで火山から吹き出す溶岩のように、輝く緋色の龍が夜空に舞い上がった。龍は炎をあげながら一直線に砂浜にやってくると、巫女とテヅチをその大きな口でふわりとくわえた。
そして龍はその次に、皆の船を海の中の大きな流れへといざなった。みんなを乗せた船は海の上を飛ぶように走り始めた。
龍はそれを見届けると、はるか上空を目指して登りはじめ、やがて星空の中へと消えていった。