表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
図書館の扉  作者: 月岡 あそぶ
1/3

兄を事故で失ったひかりは、図書館の扉を越えて過去の世界へ。慣れない古代の世界で、悪戦苦闘しながら生きる術を一つ一つ身につけていく。小さな恋心も芽生える中、海の向こうから巨大な敵が攻めてくる。様々な体験を通して人間として成長していく少女の物語。

「遅い!遅いぞ!図書委員・・・・・・」


 ひかりは、図書室の古びた木の椅子を引くと、勢いをつけてどさりと座った。

 憮然とした表情で背もたれに体を預ける。長い年月、子供達に使い込まれた木の椅子は角が取れ、深い飴色に変化して木の硬さを感じさせない。

 そのまま、後ろ向きに体を思いきりそらせた。逆さまになってのけぞった視線の先に、空っぽの貸し出しカウンターが見えた。


 カウンターの中に、自分の言葉を受け止める人影はない。


 目の前の机の上には、今日借りる予定の本がむなしく積み上げられている。ひかりは、海老ぞった姿勢から勢いをつけて起き上がった。

 いらついた仕草で、指で机をトントンと叩いてみる。小さなため息がもれた。


 時間を持て余して、視線を南側の窓に向かって走らせた。白に淡く藍を落とした白藍色で塗られた古い木の窓枠には、少しゆがんだ窓ガラスがはめ込まれている。外の景色がにじんで見えるガラスごしに、新校舎に続く渡り廊下が見えた。

 廊下の向こうからは、人の来る気配はまったく感じられない。


「やれやれ・・・」

 そう呟きながら、今度は視線を北側の窓のほうに目を移してみた。そこには、もえぎ色の若葉に覆われた小さな山。

 平坦な街の中心に、そこだけ椀を伏せたようにその山はあった。てっぺんに天守を戴くその山は、小さいながらもその存在を主張し、山の麓には、その周りを取り囲んでぐるりと堀が切り込まれ、深い緑の水を湛えていた。


 堀には、水彩絵の具のチューブからしぼり出したばかりのような緑の柳が垂れ下がり、水面にその姿を映していた。その枝々は無数の絹糸のように、光を纏いつつしなやかに風にそよいでいる。

 枝の下には、優雅に泳ぐ白鳥が一羽。

 その姿は、一音一音に想いを重ね、永遠の音色を探求しタクトを降る孤高の奏者のようにひかりには思えた。 

 水の碧に、芽吹いたばかりの柳の緑。そして純白な白鳥。それらの対比がまぶしいほど美しい。


 見上げると、澄み切った青い空が、サイダーのようにはじけながらどこまでも広がっていた。小山のてっぺんには、昔のお殿様の建てたお城がおもちゃのように小さく、それでも凛とした気品を忘れず木々の中に覗いて見えた。

 そして山の麓には、純和風のお城とは対照的に、洋風のどっしりとした石造りの県庁が、浅黄色のドーム型の屋根を頭に載せて、ぐいっと誇らしげにそびえ立っていた。


「いつ見ても絵のようにきれいな景色ね・・・」

 ひかりは、絵画教室の先生がするように指で四角く風景を切り取ってみた。


 ここからは見えないけれど、県庁の近くには、お殿様の子孫が大正時代に建てたハイカラな洋館があって、今ではしゃれた仏蘭西料理のお店となっている。

 そして、お城のある小山の周りには、古い蒸気機関車の形を、そっくりそのまま写し取った路面電車が走っていて、ポッポーと小さな汽笛を鳴らし、いっちょうまえに煙突から煙まではいて、観光客達の視線を集めていた。

 路面電車には、レトロな制服を着た車掌さんが乗っていて、登下校する子供達に対してもにこやかに手を振ってくれるので、地元の小学生達はこの電車が大好きだった

 この街は、そこかしこに古い時代の名残が残る、のんびりとしたいい街だった。


 しかし時代の流れの中、町の中心部も子供の数が減り、ひかりの通っている小学校も、年々生徒数が少なくなって、隣の地区の小学校との合併もささやかれていた。

 それでも、古くからの歴史ある学校なので残しておきたい。そう言って、地区の人達は様々な努力を重ねていた。


 そんな、街のみんなから愛されている小学校の南側には、今風の鉄筋コンクリートの新校舎が建っていたが、北側には、昔からある古い木造校舎がそのまま残されていた。


 もうずっと以前から、教室としては使われていなかったが、1階部分は図書室として使われ、2階部分は資料室として使われていた。

 2階の資料室には、郷土の歴史の類いや、地元で採取された植物や昆虫、海産物の標本、動物の剥製から大昔の化石までもが、ガラスケースの中に分類され、きっちりとおさめられていた。


 なにせ古い学校なだけに、いろいろな伝説話が伝わっていて、木造校舎の裏にある、古井戸の水を使うと皮膚がぼろぼろにむけるだの、

(コンクリートで蓋がされているのだから、水など汲めないことは、誰も承知の上なのだが)

 階段の踊り場の壁のシミが猫の形に変わると、ぞうきんをくわえて動くだの、

 旧校舎の2階の資料室にかけてある、はげあたまのおじさんの横顔の写真が、こっちを向いてにやりと笑うだの、

 図書室の奥にある扉の向こう側には、らせん階段があってそこは異次元に通じているだの、

 みんなどこから聞いてくるのか、まるで見てきたように噂をしていた。


 いたずら好きな男の子達は、のりを腕に塗って乾かし、それをぴりぴりと半分引きはがしてぼろぼろの皮膚のように見せ、その上ごていねいに井戸の側に生えているドクダミの葉をつぶして、その臭いを手にすりこんでは、「古井戸のたたりだ~」と大声で叫び、きゃあきゃあ逃げ惑う女の子達を追いかけまわしたりした。


 図書室にも、一番ドンづまりにある扉を開くと異次元空間に通じている。との伝説が伝わっていたから、ひかりの友人達は一人では近づきたがらなかったが、ひかりにとって、ここほど魅力のある場所は他にはなかった。


 そこには、美しい挿絵の挟まれたファンタジー物語が優しく手招きしている思えば、赤と黒の毒々しい装丁のホラー小説が、禍々しさ全開で周囲を牽制する。

 人々の哀しみと力強さを謳い上げる、涙と感動の大作が並ぶ横では、人生には笑いも必要でしょと、ナンセンス本がその存在をアピールする。

キュンと胸が締め付けられるような甘酸っぱい恋の話があると思えば、甘さとは無縁の、逆境を強く生き抜いた人々を描いた骨太の伝記本も。

 灰色の脳細胞を試される推理小説に、ご先祖様達が繰り広げてきた壮大な歴史絵巻。

 先人の知恵と教えの詰まった昔話に、深遠なる宇宙や科学の話も・・・

 政治、経済、社会のしくみ。図鑑に百科事典。知識に関するなら何でもござれ。


 図書室には、そんな本の数々が棚に所狭しと並んでいた。

 そして、伝説の扉近くにある古い書棚には、表紙が滑らかな布張りになっていて、思わず頬ずりしたくなるような美しい装丁の本や、セピア色に変色したページに美しい日本語が並ぶ、パラフィン紙で包まれた古い文庫本が数多く並んでいた。


 そこには、明らかに小学生には難しすぎて読めないだろうと思われる本もあった。

 それでも、ひかりはその文庫本の中の何冊かを読んでいて、解らない文字は、文章の前後の流れから勝手にパズルのように当てはめてみたり、推理してみたり、好きなように解釈して楽しんでいた。

 気分はターヘル・アナトミアを翻訳中の杉田玄白だったけれども、本当にそれで正しいのかは当の本人にもさっぱり解せてはいなかった。


それから、昔の探検家たちの話や、未確認生物の本もたくさん並んでいた。

 はるか大昔に未踏の地に分け入り、古代の財宝を発見した人々。失われた文明との遭遇。

 海岸に打ち上げられた様々な巨大生物の死骸に、人や家畜を襲う正体不明の怪物。宇宙人に海底人に猿人、吸血鬼に妖精達。

 眉唾と思える話もぎっしりとつまっていたが、ページをめくるたびに未知の世界を旅した探検家達の気持ちが味わえた。

(今の時代、未踏の世界なんてありえないよね。未確認生物はいるっちゃいるけど、実在の生物すら絶滅の危機に瀕している現代に本当に存在するのかな・・・それにネットを開ければ、どんな疑問もすぐ解決。つまらない退屈な世界になっちゃった・・・もっと昔に生まれてたら良かったのに・・・)

 そう思いつつも、あきらめ半分、強いあこがれ半分の気持を抑える事はできなかった。


 そして極めつけは、まるで魔術のようにこみいった器具を使った古い科学実験の本もあった。しかもこの本はどっしりとした皮の装丁で、背表紙には金色の流れるような書体で、どこか異国の文字が刻まれていた。

(まだ科学が、魔術にも似た魅力を持っていた時代・・・)

 その古びた本のページをめくっていくと、ひかりはまるで自分が中世の錬金術師になったかのような錯覚に落ちていくのだった。

 その他にも、ここの図書館には、他所の小学校には絶対にないであろう古い時代の本が混在していて、ひかりに向かって手招きをしていた。



 その日の放課後も、いつものようにひかりは図書室に寄っていた。

 しかし、待てど暮らせど図書委員はやって来ない。

 そんな訳で、ひかりはすっかり待ちくたびれ、椅子に腰掛け、ブツブツ文句を言い、窓の景色を眺めながら想いを巡らせていたというわけだった。


 ひかりは、今日借りる予定の、郷土の昔話のページをめくってみた。

(らせん階段をあがらなくっても、ここの本の世界は十分に異次元よ・・・・・・)

 文字を追いつつ、今度はうっとりとため息をついた。それから無人の貸し出しカウンターに視線を走らせ、もう一度ため息をついた。


「もうまったく、図書委員は今日も遅刻だし・・・」

 そうつぶやくと、チッと小さく舌打ちした。


(たしかに図書館は、利用する人も少ないから、図書委員もやりがいはないだろうけど、あまりにもルーズすぎる!)

 やり場のない怒りがふつふつと湧いてきた。

「6年生のくせに・・・6年生なんて、6年生なんて・・・やっぱりろくなもんじゃない!嫌い!嫌いよ!」

 苦い思い出が蘇り、それを振り切ろうとするかのように小さく頭を振って、ひかりは再び窓の方にむかって視線を走らせた。


 すると今度は、窓の向こうの新校舎から続く渡り廊下を、図書委員のお姉さんが友達とのんびりおしゃべりを交わしながら歩いてくる姿が見えた。


「やれやれ・・・」とひかりは席から立ち上がった。

 何かが、きらっとひかりの目を射った。


 いつもは気にした事もない、図書館のいちばん奥にある扉。

 その扉の上部にはめ込まれた長方形の小さなステンドガラス。その真ん中にある、濃い青色のガラスが日の光をきらきらと反射させていた。


 ひかりは目を細めた。

 まつげの隙間に虹が見えた。


(あのドアの向こうには、本当にらせん階段なんてあるのかな・・・・・・)

 ひかりは、図書館の奥にある扉の向こうにらせん階段があって、異次元に通じているとの学校の伝説を思い出しながら、重い木の椅子をドアのそばまで引きずっていった。

 そしてその上に乗り、まるで人の眼のような形の青いガラスに、鼻を押しつけるようにしながらのぞいてみた。濃い青いもやのようなガラスの向こうに、確かにらせん階段のようなものが、ぼんやりと見えた気がした。


 ひかりは興味をそそられ、古寂びた真鍮色のドアノブを回した。そして一呼吸おくと、そっと扉を押してみた。

 カギがかかっているとばかり思っていたドアは、いとも簡単にキイィーと小さな音を立てて開いた。


 扉の向こう側を、恐る恐るのぞいてみると、うす淡い光の中、ほこりが金色に輝きながら舞っていた。

 乾いた枯れ草のような香りが鼻腔をくすぐった。ひかりは鼻がむずむずして小さく「くしゅん」と、くしゃみをした。


 そこには、確かにらせん階段が存在した。

 まるで、中世のタペストリーに描かれた想像上の白い鯨のように、ぐるりと弧を描き、上に向かって伸びていた。


「伝説のとおり、らせん階段は本当にあったんだ…」

 ひかりは小さく独り言をつぶやきながら、おっかなびっくり、少しだけ首をドアの中に差し入れてみた。


 そこには、壁一面に美しいステンドガラスがはめ込まれ、色とりどりの光が差し込む別世界が拡がっていた。まるで西洋のゴシック様式の教会堂のように、その小さな空間に、荘厳な空気が漂っていた。


「なんてきれいなの・・・もしかしてこれが異次元なんて言われるゆえんなのかも・・・・・・」

 ひかりは、ドアの所からうっとりとステンドガラスを見つめた。


 そのステンドガラスの真ん中には、天まで届くような大きな木が描かれ、その木の周りを、様々な草花や動物たちが不思議な静けさと共に取り囲んでいた。

 そして、その木の横には透き通った泉がこんこんと湧き、魚たちがまるで生きているかのようにたわむれていた。そして空には明るい太陽が輝き、月ときらめく星々がめぐっていた。


 壮大な物語に引き込まれていくように、ひかりはおもわず二、三歩中へ入り込んだ。

 しかし、ドアは大きく開け放したままにしておいた。学校の伝説を信じる信じないは別としても、やっぱりちょっと怖かったからだった。

「こうやって開けておけばだいじょうぶ。図書委員のお姉さん達も、もう少しでここにくるし・・・・・・」


 ひかりは、ステンドガラスの全体をよく見ようと、らせん階段の中程まで上がっていった。そして、手すりにもたれかかって全体をじっくりと見つめた。見れば見るほどすばらしい光の芸術で、まるで魂が吸い込まれていくようだった。


 どれだけ時がたったのだろう・・・・・・

 いきなりバタン!と大きな音がした。  

 ひかりは、はじかれるように扉に駆けより、ドアノブをガチャガチャと乱暴に回した。しかし、重たい木の扉は開かない。

 ひかりの心臓はドクン・ドクンと早鐘を打つように鳴り響いた。全身に冷や汗がどっと噴き出してきた。

 不安と恐怖で、アリババに出てくる怪鳥ロックにわしづかみにされたように胸が苦しくなった。

「助けて!誰か助けて!閉じこめられたの!」

 ドンドンとドアをたたいて叫んでみたが、ぶあついドアはびくともしない。濃い青いガラス窓から、図書館の中をのぞこうと伸び上がってみても、ひかりの身長では届くわけもなかった。


 恐怖でふるえながらひかりは後ろを振り返った。

 やわらかなステンドガラスの光を受け、らせん階段は上に続いている・・・・・・

 金色の埃達が上に向かって昇っていくのが見えた。


(大丈夫・・・大丈夫よ!学校探検でこの上の資料室には何度も来たことあるもの!らせん階段を上がって、上の扉を開けて、二階の廊下を通り抜ける。そうして、突き当たりの階段を降りれば、また図書室の所に戻れる・・・・・・)

 素早く頭を巡らせ、震える声で「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせるようにつぶやいてみせた。


 それから、大きく息を吸うと、ひんやりとしたなめらかな白い石の手すりに手をのせ、重厚な石造りの階段に足をかけた。

 階段には少し色あせた赤い絨毯が敷いてあった。そして階段の中央部分は、たくさんの人たちが上り下りしてきたことを示すように、少しくぼんでいた。

(この階段、こんなにすり減ってるって事は、よく使われているって証拠よ。だからきっと大丈夫・・・)

 いつもの、ひかりお得意の推理を巡らせてみたものの、胸の鼓動はあいかわらず早鐘を打つようにドクン・ドクンと体中に響きわたっていたし、手すりを持つ手もじっとりと汗ばみ、階段を上っていく足も情けないほど震えていたが、とにかくここから一刻も早く出たかった。


(もしも、もしも・・・階段の上の扉も閉まっていたら・・・どうしよう・・・)

 不安でくらくらとめまいがするような感覚にさいなまれながら、らせん階段をやっとのことで上りきり、二階の扉に手をかけた。


(どうか・・・どうかお願い!開いて!)

 ひかりは必死の思いを込めドアノブを回した。

 扉はギィィ・・・と身の毛もよだつような音をたてながら開いた。


「ひ、開いた~」

 へなへなと二階の廊下の端で、ひかりは腰が抜けたようにその場にぺったりと座り込んだ。

「た、助かった・・・・・・」


 しかし、一時もたたないうちに、自分の心臓の鼓動が聞こえるほどのあまりの静けさに、再び不気味さがこみあげてきた。辺りは全てが死に絶えてしまったかのように静まりかえっている。

 普段はどこからともなく聞こえてくるはずの、生徒達の喧騒の声も、近くの大通りを走る車の音も何一つ聞こえない。

 まるで、異次元空間に来てしまったかのよう・・・


「大丈夫、大丈夫、もう怖くない…一階には、もう図書委員のお姉さん達が来てるはずだから」

 そう自分に聞こえる様に声に出してみる。それなのに言い聞かせれば言い聞かせるほど、ジワジワと恐怖が増してきた・・・・・・


 二階の廊下が、急にぐんっと延びたように見えた。


 思い出さないようにしても、学校の怪談話が頭をよぎっていく。ちょうど横にある資料室のガラス越しに、鹿の剥製の大きな眼がじっとひかりをみつめていた。そう言えばこの先には、はげ頭の俳人の写真が飾ってあるはずだ。


 ひかりはなるべく資料室側を見ないようにしながら、そろりそろりとあるいた。しかし、おんぼろの歴史ある木造の廊下は、ひかりが一歩を踏み出すたびにギシッギシッと無情に大きな音を響かせた。


 気のせいか、何か動物のようなものが自分のすぐそばをよぎったような気配を感じ・・・


 すぐ近くに水のせせらぎが聞こえたような空耳に襲われ・・・


 鼻腔を通り、湿り気をおびた濃密な空気が肺を満たし・・・


 そして、再び足を踏み出した廊下が、妙にやわらかく感じられた次の瞬間。

 ひかりは一人、森の中に立っていた。






「・・・・・・」

 ぽかんと一瞬何も考えられなくなった後、怒濤のように疑問符の嵐が襲ってきた。

「何なの・・・ここはどこなの?」

 おそるおそる周りを見わたすと、ひかりのすぐ近くに、生まれてこのかた一度も見たことがないほど巨大な木が立っていた。


 威厳に満ち、神秘ささえも備え、ただ静かにそびえている。

 首が痛いほど見上げてみても、その木のてっぺんを垣間見る事すら出来ない。幹も、まるでそこに壁がそそり立つかと見まごうほどに太く、まるで人の顔のように見えるこぶがこちらをじっと見つめているかのように思えた。


「なんて・・・なんて、大きな木・・・」

 一瞬、恐怖を忘れ、想像を絶する木の大きさに圧倒されながら吸い寄せられるように近づいていった。

 地面から盛り上がり、苔むして大蛇のようにうねる根っこを乗り越える。


 側に辿り着いたひかりは、木の幹にそっと手をふれてみた。

「いい香り・・・・・・」

 大人だって何人も手をつながなければ周りをかこめないほどの巨大な木・・・・・・

 ひかり一人の腕では、とても手が届かない事はわかりきっていた。それでも、幹に手をいっぱいに伸ばして抱きしめてみる。


 木の幹は意外にも、やわらかな人の肌のようなやさしい感触だった。何か暖かいものがじんわりとひかりの体の中に入ってきた。大きなものに包まれるような安心感がひかりの体を満たした。

 その時、不安と恐怖でいっぱいだったひかりの中に、一つの希望の光がともった気がした。しばらくの間ひかりは、ただじっと木を抱きしめていた。


 少し気持ちが落ち着くと、のどがからからに乾いている自分に気がついた。耳を澄ませると、木の脇の下の方で、水の流れる音がする。

 ひかりは水音を頼りに、再び大きな根っこを乗り越えながら下へ下へと降りていった。


 そこには、小さな泉が不思議な静寂さをたたえ、こんこんと湧き出てた。

 しばしの間、泉のあまりの美しさにひかりは息をのみ、我を忘れてたたずんだ。高い梢の上から、太陽がいくすじもの光の束となって泉のそこかしこに差し込み、まるで教会の中のような荘厳な雰囲気を醸し出していた。


 泉の水は透き通るような碧色で、宝石のように透けて見える泉の水底のそこかしこから、透明な水がまっ白い砂を吹き上げながらあふれ出て水草を優雅に揺らし、そのそばには魚たちが、まるで時が止まったかのようにじっとたたずんでいた。


 ひかりはそっと水に手をさしのべてみた。思った以上に、きりっと冷たい水が肌をさした。手にすくい一口飲んでみた。

「甘い・・・甘露ってこのことかも。昔話にもお酒の流れる川の話があるけれど、この水も命の水だわ」

 ふうっと大きく息がもれた。


「お前は何者だ!」

 矢を放つような鋭い声が、ひかりにむかって発せられた。


 人の気配など全く感じていなかったひかりは、あまりの驚きにあやうく水の中に落ちるところだった。しかし、なんとか踏みとどまり、視線を声の発せられた方角へと走らせる。


 そこには、年の頃はひかりほどの少年が、黒髪をきりりと一つに結び、少し浅黒い肌に緊張した面持ちを浮かべて立っていた。

 ほほには赤く二筋のペイントが描かれ、緑色がかった地に、ゼンマイの渦巻きのような大柄な模様の描かれた衣服を着て、首には淡い緑のペンダントをつけていた。そして、片手に真っ赤な弓を持ち、もう片方の手には、何か茶色の動物のようなものをぶらさげて立っていた。


「お前、名は?そしてどこの者だ?」

 少年は厳しい顔つきを崩さない。

「わ、わたし、一条ひかり。小学5年生。勝山の三番町に、父と母、弟と私の4人で住んでいるの。じ、自分でも全く訳がわからないんだけれど、さっきまでは学校にいたのよ。なのに、いきなりこの森に来てたの・・・・・・」

 少年の異様な風体に、益々頭が混乱してくる。


「おねがい!だれか大人の人がいるところに連れていって。本当に、自分でも何が何だかわからないの・・・お願いだから、助けて・・・」

 最後の方は、自分でも涙が出てくるのがおさえられなくなって、半べそ状態だった。


 少年は、いきなり泣き出したひかりにちょっとひるみ、害はないと判断したのか、今度は優しい声で言った。

「オレは、ウタ族のシン。村には、大年寄りのフチの大ばば様がいるから、なんでも相談してみたらいいと思うけど・・・お前、今まで見たこともないへんてこな部族だな。いったいどっからやってきたんだ?」

 シンは小首をかしげて、ひかりの事を珍しそうに見つめた。


「部族?・・・何の事を言ってるのかわからないわ・・・図書室のらせん階段を上がったら、いきなりこの森の中に立っていて・・・・・・」

 今まで忘れていた不安な気持ちが一挙にこみ上げてきた。


「ここは、いったいどこなの・・・私、私・・・か、帰れるの・・・・・・?」

 最後は、涙と鼻水で言葉になっていなかったし、シンにはその意味がさっぱりわからなかった。


 二人の困惑は、気まずい沈黙となって辺りを包んだ。


 シンは困った顔をしながらひかりに言った。

「オレじゃあ、お前が何を言っているのか、ちっともわからないから、まずは一緒にオレの住んでる村へ帰ろうか」


 しばらく二人はだまりこくったまま、細いけもの道のような山道を急ぎ足で下っていった。無言の重さに耐えられなくなったひかりはシンに声をかけた。

「ここは、どこなの?日本じゃないの?」

「日本ってなんだ?聞いたこともないな。お前の村の名前か?ここはウタの森。そしてこれから行く俺たちの村はウタの村。そして、お前がたたずんでいた泉もウタの泉。その横にある天まで届く大きな木もウタの木さ。ウタってのは天と地と人を結ぶ約束の場所なのさ。俺達にとってあの場所はとても神聖な場所なんだ」

 少年は初めてひかりに笑顔を見せた。


「お前の言う日本てのは、オレ達の村の前にある、海を渡った遠くの村のことか?海のむこうで、大きな力をもった長が人々を従えて、村をいくつもいくつも合わせたような、大きなクニってものをつくってるって、そしてクニ同士でどっちが強いか力比べをして、負けたクニは奴隷となっているって、オレ達が作った塩や乾し肉、乾し貝なんかを、いろんな珍しい物と交換するために、時々やって来るスマ族のハヤが言ってたからな」


「ウタ族・・・スマ族・・・?ねえシン、今って何年?」

 ひかりは、頭がこんがらかりそうになりながらも、冷静になろうと努めつつ尋ねた。


「はぁ?何年?今は今さ。暖かい風が吹き、草花が眠りから目覚め、すべてが芽吹き生まれ出る命の季節さ。その他には、熱い太陽の恵みで生き物が育つ季節。木の実がなり、穀物が実り、生き物たちが寒い季節に備える実りの季節。すべてが凍り付き、狩りをする死の季節。その四っつが一巡りするとまた次が繰り返される。その他に、俺の親の時、その親の時、そのまた親の時、そのまた親の時。そしてもっと前の…誰も、そんな時代のご先祖様になんて全く会ったこともないけれど、口伝でいろんな物語が伝わっている。もちろん、お前がいた泉の横のウタの木も口伝がある。聞きたいかい?」

「ええ、ぜひ聞きたいわ」

 もしかしたら、ここの地域を知る手がかりになるかもしれな。そう、ひかりは思った。


 シンは唄うように語り出した

「お前の親の、親の、そのまた親の・・・・・・

 まるで粟粒の穂のように太陽を重ねたその昔、その頃はまだ、森の中にたくさんのウタの木の仲間達がいた。

 その時すでに、ウタの木は大木だった。

 でもその頃の世界には、もっともっと大きな、天まで届くウタの木の仲間達が、あちらにもこちらにもいて人々を見守っていた。

 その頃の人々は、ウタの木と話すことができていた。

 ウタの木達は、天と地と人を結ぶ大事な約束の木だった。ウタの最初の人びとは自然を敬い、自然の中でつつましく生きていた。


 そのころの世界は、まるでウタの木達に負けないような大きな獣がそこかしこに住んでいた。一度狩りをすれば、村中の者が一つの月が生まれ、欠けてなくなるまで食べていけるほどだった。

 しかし人々は数が増えるにしたがい、まるで自分がこの世界の太陽であるかのようにふるまうようになった。


 やがて、その中から一人の屈強な若者が名乗りをあげた。

『私はこの村で誰よりも力が強く、賢い。落とし穴猟も私が考えた。この肉を切り裂く石も私が見つけた。

 だから、狩りの成功は私の力によるものだ。その働きに応じて、これからは捕らえた獲物の半分は私がもらう。そして、村のすべての決め事は、強く賢い私が決める事にする』

 村の長老は若者の前に歩み出た。

『このような大きな獲物の半分を一人でかかえ、乾し肉にしたとしても一人では食べきれまい。それに、働きに応じて分けるとすれば、年をとり狩りにいけなくなった我々や、今までの狩りで大けがをして歩けなくなった者。そして、その家族はどうするのだ。村の決めごとにしても、今までみんなで納得するまで話し合いをして、うまく世界はまわっていたではないか』

 しかし、優れた力を持った若者は、槍を振り上げ叫んだ、

『みんなで分け合うなんてまっぴらだ。力のあるものがそれだけもらうんだ!』

『獲物は皆に十分にある。天と地は我々に生きるすべてを与えてくれている。我が力のみにて生きていると思うは、人のおごりではないのか?』

 しかし若者がその言葉を聞き入れる事はなかった・・・


 そして、屈強な若者は、同じく力の強い若者達を従え、次々とウタの木の仲間を切り倒し高い高い社を作った。

 その場所から、人々を見おろし指図をした。食べるためだけでなく、その力を誇示するために山のような動物達が殺されていった。

 その牙が、毛皮が、若者の力の象徴として人々に示された。


 それから、若者は、大きな丸木舟をつくり、陸の上だけでなく、河の中でも大きな魚や動物達を狩り集めた。

 そのころ、今、我々の目の前にある海はなく、まるで海のような広いゝ河が流れ、たくさんの大きな魚と、水の中にすむ大きな動物達があふれるほどいたのだ。


 天と地をささえていたウタの木の仲間達は一本また一本と切り倒され、無残にも天と地は傾き、人々には精霊の声が届かなくなった。

 そして、精霊の言葉が届かなくなった人々の心は、すっかりすさみきってしまった。

 人々は、集いながらも、そねみ合い、妬みあい、背中を向け合い生きていくようになった。それとともに村の中に笑い声や歌声が響くことはなくなった・・・


 長い長い時は過ぎ、おごっていた若者も、もうすっかり年をとった。ありあまるほどの食料があった楽園のような世界もすっかり変わり、大きな動物たちは次々と姿を消していった。


 年をとり力をなくした若者は、たった一本残ったウタの木の根元で嘆いた。

『ウタの木よ!私に罰を与えるために大きな動物たちを隠してしまわれたのですか?』

 ウタの木は静かに答えた

『天と地と人の間に罰など何もない。しかし天と地の流れは誰にも止められぬ。それを受け入れ生きるだけである。しかし、人には知恵がある。力がある。お前はその力を何にそそいできたのか?』

『私は私の分を正しくもらっただけです。そして村の決まりを正しく作ってきました。しかし、私にはもう力はありません。力の無くなった私の言葉など、もはや誰も耳を傾けません。

 それに、大きな動物たちはこの地からいなくなり、年をとった私は、俊敏な小さな動物を追いかけることもできません。たった一人で老いさらばえ、なにひとつ動かす事もできません』

『村へ帰り、一番小さき者がどうしているか見てごらん』

 ウタの木は静かに答えた。


 答えが見えないまま、年老いた若者は杖をつき、足を引きずりながらとぼとぼと村へ帰っていった。


 帰る道の途中で、かさこそと落ち葉をかき分けながら、リスが冬に備えて木の実を土に埋めていた。

 村の近くまで来ると、小さな子供達が森の外れでせっせと何かを拾っていた。

『何を拾っているんだい?』

『食べられる木の実を拾っているんだよ。でも、森の中には熊や山犬がいて、力のない僕たち子供は、あまり奥には行けないんだ』

 年老いた若者は、小さな子供と籠の中の木の実を交互にしげしげと眺めた。

 突然、年老いた若者は叫んだ

『わかったぞ!お願いだ!村の広場にみんなを集めてくれ』

 広場に集まった村人を前に年老いた若者は叫んだ。

『みんな、大きな生き物たちは去り、我々は飢えの中、なんとか生き延びようと、一人ゝがばらばらに必死で毎日を過ごしている。ワシはこの木の実を村はずれに植えようと思う。あと食べられる草の実も芽吹きの季節になったら大地に植えてみようと思う』

 すると、一人の若者が馬鹿にしたように言った

『じいさん、この木の実を植えたって、あんたが生きている間は食べられるようになんてなりっこないよ。この木の実が芽を出し、大きく育ち、実をつける頃には、あんたは冷たい地面の下さ。しかもあんたには、家族も子供もいないじゃないか』

『いいんじゃよ。いまのワシのためでなく、ワシの命を継ぐ者だけのためでもなく。ただ先の命のために木の実を植えるんじゃよ』

 若者は言葉なく黙りこくった。

『ワシは天と地と人の約束の木を切り倒し、この世界のことわりを傾けてしまった。失ってしまったつながりを取り戻すために、残りの生をそそごうと思う』


 そうして、村の周りには、栗やカシ、トチやクルミの木が次々と植えられた。

 食べられる草の実も大地にまかれ、実りの季節には人々に恵みをもたらした。植えられた木々が大きくなりたくさんの実を実らせる頃には、とうの昔にその木を植えた老人は亡くなっていたが、村の人々は忘れなかった。

 いつの頃からか、木の実や草の実が採れる季節になると、村の広場に人々が集まり、大きな火をたき、祭りがおこなわれるようになった。

 そして、たった一本だけ残ったウタの木は、天と地と人の約束を忘れないための神聖な場所として奉られることとなった。」


 シンは一気に話し終えると、ふうっと大きく息をついた。そして立ち止まると、弓で前方の森の切れ目を指した。


「あれがウタの村。口伝に出てくる、一度は天と地の約束をないがしろにして滅びの道を歩み、そして、またよみがえった村だ」


 シンの赤い弓が指し示した先に、点々といくつもの島々がちらばり、日の光を反射して輝く海が広がっていた。そしてその海の手前には、三日月型の静かな湾が横たわり、山から流れ下った川が海に注ぎこみ、河口付近の砂の上には何艘もの丸木舟や筏が伏せてあった。

 湾から少し登った開けた場所には、中央にこぢんまりとした広場と、広場の周りにぐるっと、田舎の茅葺き屋根だけが切り取られ、地べたに置かれたような家が何件か建ちならんでいて、いくすじかの細い煙が立ちのぼっているのが見えた。


 ひかりは、全身の血がすうっと足元に降りていくような感覚におそわれた。

(これって、遠足で行った歴史民俗博物館に展示されていた古代の家にそっくりじゃない・・・シンの格好も展示されていた人形みたいだし・・・まさかね、古代にタイムスリップなんて映画じゃあるまいし、非科学的、非現実的すぎるわよ。冷静に冷静に、観察、観察!そして事実を導き出すのよ!)

 冷静になろうと努める心とは裏腹に、頭のてっぺんと足が逆さになってぐるぐるまわるような、手足の力が抜けて空中をふわふわ浮くような体の感覚にさいなまれ、訳がわからなくなり、叫びだしそうな自分の感情をなだめながら、ひかりはハアハア息をきらし、急ぎ足でシンの後について村に入っていった。


 村に入ると、村の人たちはびっくりした顔で次々に声をかけてきた。

「どうしたんだい、シン。その女の子はいったいどこの子だい?」

「ウタの泉の所に、一人立っていたんだ」

「ウタの泉だって!ならこの子は精霊かい?」

「いやいや、この子には影がちゃんとあるよ」

「でも、妙ちきりんな格好をしているじゃあないか」

「最近、海の向こうの村で大きないさかいがあるってうわさがあるけど、そこから逃れてきたのかい?」

 ひかりもシンも、人の良さそうなおばさん達や子供達に、あっという間に囲まれ、その足元を犬たちがワンワンほえまわり、たいへんな騒ぎになっていった。


「みんな、まずはこの子のことを、大ばば様に聞かなくちゃいけないから通してくれないか」と、人の輪をかき分けるようにして、シンは村のはずれの一件の家の中にひかりを招き入れた。

 そこには真ん中に火の燃える囲炉裏があり、その囲炉裏の前にしわくちゃで白髪頭のおばあさんが、まじないの言葉をつぶやきながら一人座っていた。


 おばあさんの後ろには祭壇のようなものがしつらえられていて、大きな緑色の石と、流れるような美しい線で飾られた土器が置いてあった。

(これってどう見ても古代の土器。まさかね…あり得ない、これはきっと夢よ・・・私、今夢を見てる?私が胡蝶か、それともこれは胡蝶の見ている夢なのか・・・・・・)

 ひかりはくらくらする頭で取り留めもない事を考えながら、シンに従い囲炉裏の前にぺたんと力なく座った。


 おばあさんの片ほうの目は、黒目の部分が白く濁り、顔や腕には様々な入れ墨が施されていた。

「フチの大ばば様、どうか精霊の声を聞かせて下さい。ウタの泉のところでこの娘を見つけました。でもこの娘は自分がどうやってここに来たのかもわからないと言っています」

 シンは囲炉裏の反対側にあぐらをかいて座ると、礼儀正しく大ばば様に向かって言った。

「山の精霊達が騒がしいと思ったら、この子に原因があるようだね、シンや・・・」


 大ばば様は、今度はひかりに向かって尋ねた。

「娘子、お前は何を聞きたい?」

 ひかりは緊張を隠しきれず、かしこまりながら答えた。

「私は、今、自分自身に起こった事が全く理解できていません。私は一条ひかりと言います。学校のらせん階段を上り、廊下を歩いていたら、いきなりこの地に・・・・・・シンが教えてくれた、ウタと呼ばれる木の根元に立っていたんです。私は、もといた場所に帰りたい。家に帰りたい。ただそれだけなんです」


 大ばば様は「ふ~む」とうなり、立ち上がると、家の奥に並べてあるいくつもの籠の一つから何かの植物を取りだし、囲炉裏の火の中に投げ込んだ。

 ぱっと青い炎があがり白い煙がゆらゆらと家の中に立ちのぼった。


 大ばば様の、低く地を這うように唄う声が、近くに遠くに聞こえたかと思うと、ぐらりと視界がゆがみ、極彩色の幾何学模様が辺りいちめんに見えた。それが急に集まったかと思うと図書室の中にいるひかりの映像が目の前に現れた。

 そして場面は次々に変わり、らせん階段をのぼり、この世界に至るまでの経過が無声映画のように流れていった。

 次に映像はぱっと切り替わり、なつかしい家族の映像が現れた。お父さん、お母さん、弟。

そして、兄がひかりの目の前に現れた・・・・・・

「お兄ちゃん?」

 ひかりの目が大きく見開かれた。

「お兄ちゃん!私、ひかりよ。生きていたの!お兄ちゃん!」

 声を限りに叫んでみたが、お兄ちゃんは友達らと楽しそうにふざけっこをしている。場所は、新校舎の階段の踊り場。楽しげな笑い声がそこらに反響して大きく響いた。

 ひかりは凍り付いた。

「この階段・・・・・・お兄ちゃんが事故に遭った所だ!お兄ちゃん!だめ!危ない!」

 ひかりの悲鳴を残し場面は暗転していった。


 次の場面も学校だった。

「見たくない・・・・・・」

 ひかりは闇の中ですすり泣いた。

 鼻から耳から血を流し、冷たくなったお兄ちゃんに取りすがり泣くお母さんと、急に先生に呼ばれ、この事態にただ呆然と立ちすくむひかり。まだ幼稚園児だった弟はおびえきってお父さんに抱きしめられていた。


「誰なの?誰がうちの子を殺したの!犯人を、犯人を・・・・・・ここに連れてきて!」

 お母さんは叫ぶような声で先生に問いただした。

 お兄ちゃんの担任の先生が苦しそうな表情で話をしようと口を開きかけたその時、お父さんが、絞り出すような声で、ぽつりと言った。


「みずえ・・・・・・犯人なんていないんだ・・・・・・」

 ひかりは我が耳を疑った。

 きっとお母さんもそうだったのだろう。お父さんに向けた、いつものお母さんとは別人の、まるで般若のような表情をひかりは忘れることができない。


「何を言っているんですか、あなたは!犯人は罪の償いもせずにのうのうと生きていくんですか!この子は、この子は、何の罪もないのに!もっともっと生きることができたのに!まだ小学生なのよ!この子が死んだのは、突き落としただれかのせいよ!償うことは当たり前じゃない!」

 お母さんの叫びは、割れたガラスの鋭い切っ先が突き刺さるように、あたり一面に飛び散りそこら中に突き刺さった。


「でもな、みずえ・・・・・・いじめや、悪意で起こったことではないと先生も説明してくれただろう。仲良しのお友達と階段の踊り場でふざけていて誤って転落したんだ。お前はこの子の仲良しのお友達に、人殺しの罪を一生背負わせてそれでこの子が満足すると思っているのか・・・」

 お父さんはとつとつと、言葉を絞り出すかのように話した。


 しかしその時ひかりは、お父さんの意気地なし!と、心の中で叫んでいた。

(お父さんは問題にするのが怖いだけなのよ!お父さんは別の学校だけど、先生だから・・・・・・先生という立場で、この事を事件にしたくないだけなのよ!大事にしたくないのよ!家族なのに!血を分けた家族なのに・・・・・・どうして敵を討っちゃ行けないのよ!お父さんは冷たい!鬼よ!)


 ひかりは真っ暗な闇の中で小さく丸まって泣いていた。

 ひかりの中で、憎しみの炎はどんどん大きくふくれあがり、ひかりの心をジリジリと焼き焦がしていった。


 急に、さわやかな香りがひかりの中に入ってきた。ふっと我に返ると元の小屋の中のままで、大ばば様が囲炉裏の前に座ていた。

 大ばば様は、ミントのようなシソのような良い香りの緑の葉をくべていた。


「受け入れ、許すことじゃ・・・・・・」

「えっ?」

「それでしか人は前には進めないのじゃ・・・・・・」

 そう大ばば様はひかりに向かって言うと、次はシンに向かって言った。

「シン、この子は精霊の落とし子じゃ。なりだけは大きいが赤ん坊と同じで何にもできん。お前の家族として今日から迎え、生きる術を一から教えておあげ」

「あ、あの・・・私、帰れますか・・・」

 全く見当違いの答えに不安になったひかりは焦りながら大ばば様に尋ねた。


「そんなことはわからん。今のお前の中にその答えはなかった」大ばば様はあっさりとそう言い切った。

「はぁ?それを占ってもらうためにここに来たんじゃないんですか?」

 ひかりは半ばあきれながらも、藁にもすがる思いで食い下がった。

「答えはの、自分の中にあるんじゃ。人に問うてわかるものではない。さあさあシン、早う連れて行け。ひかり、お前もここで暮らすなら、いろんな事をおぼえにゃいかんからの」

 大ばば様は、ふぉっふぉっと櫛の歯の抜けたような口で笑いながら、早く行けとばかりに犬の子でも追い払うような仕草で手をふった。


大ばば様の小屋の外には、おばさん達がびっしりと張り付いていて、ひかり達が出ると同時に、雪崩をうって中へ入っていった。


 それを横目で見ながら外に出たひかりは、ぷりぷりしながらシンに話しかけた。

「なんなの、あのおばあさん!だから非科学的な占いなんて信じられないのよ!」


「フチの大ばば様でも見えない事もあるさ。でもお前の心の中は、憎しみと不信でいっぱいだぜ。それしか見えないから、道が見つからないのかもな・・・」

 ひかりは立ち止まり、「えっ?」とシンを見つめた。


「あの夢をシンも見たの?」

「ああ、あの煙は人の心の中を写すのさ。オレの夢もあったけど、お前、自分の事だけで手一杯でオレの夢に全然気がついてなかっただろ。それに憎しみや恨みの念はものすごく強いのさ。他の想いを蹴散らしちまう。お前がなぜここに来たのかはわからないけれど、きっと何か理由があるんだろうよ・・・」


 シンはそう言うと、急にくだけた表情になって明るく言った。

「それにしても、お前、オレより背がでかいな~それでいて何にもできない赤ちゃんなんてな、可笑しいぜ!」

 シンは、自分の手でひかりと自分の背丈を比べてみせた。

「失礼ね!あたしは何にもできない赤ちゃんなんかじゃないわよ!成績だってスポーツだって優秀だし、来年度、中学受験するけど、塾の先生も君の実力なら、このまま努力していけば大丈夫だよって太鼓判押してくれてるんだから!ここで・・・・・・こんな所で、そんなこと言ったって無意味だって事、百も承知だけど・・・・・・」

 涙があふれそうになった。何で、あたしがこんな所に!理不尽さに胸が苦しくなった。

「だいたい何なのよ!人の夢に勝手に入ってくるなんて失礼よ!言語道断!男の風上にも置けない奴よ!」

 ひかりは、フチの大ばば様の見当外れな答えに心底がっかりして、そのイライラした気持ちをシンにぶつけた。


 シンはどこ吹く風と口笛を吹いている。

「お前、なに言ってんだか意味が全くわからねえよ。もっとわかりやすく言ってくれないとな。さあ、ここがオレの家だ。おっ母がほら、家の前で夕飯の準備してる」

 シンは弾んだ声で、おっ母と呼んだ女性に声を掛けた。


「おっ母~こいつひかりって言うんだ。ウタの泉の所で迷子になってたんだ。フチの大ばば様に相談して、今日からここで一緒に暮らすことになったから」

 家の前で大きなお腹を抱えしゃがみ込み、何か作業をしているシンの母親に、あわててひかりは笑顔を作って挨拶をした。


「こんにちは、初めまして。私、一条ひかりといいます。信じていただけるかどうかわからないのですが、私、今まで住んでいた場所から、急にこちらの世界に来てしまって、自分でも何が起きたのか、さっぱり訳がわからず途方に暮れていました。その時に、こちらの息子さんに助けていただき、本当に感謝しています。」

 そう言って、ひかりは丁寧に頭を下げた。

「そして、これからのことなんですが、大ばば様のご紹介で、今日からこちらのお家にご厄介になることになりました。何かと至らぬ私ですが、どうかよろしくお願いいたします」


 突然のことにシンのおっ母は本当にびっくりしたようだった。おろおろしながらシンに説明を求めたが、当のシンはひかりの挨拶がよほど可笑しかったのかゲラゲラ笑うばかりで話にならない。ひかりは心の中でシンに向かって(この大ばか者!)と悪態をつきながらも、

「あの、今日からお世話になることですし、まず、いまお母さんがしている夕食の準備のお手伝いをさせてください」

 とにっこり笑った。シンは、そんなひかりの気持など知ってか知らずか、邪鬼のない輝くような笑顔で、

「あっそうだ!おっ母、山でウサギを仕留めたんだぜ。ひかり、これうまいぜ!今日はひかりの歓迎の祝いだからな、さっそく皮をはいで料理しようぜ」

と、ひかりの目の前にウサギを突きつけた。


「む、無理・・・」ひかりは眼を白黒させて、大きく手を振りながら二、三歩後ずさった。


「何言ってんだよ。やっぱり赤ちゃんじゃないか、教えるから来いよ」

 ひかりは、さっきからのシンの態度にカチンときて言った。

「何なのよ、その上からの物言い!何から何まで腹立つわね!」

「料理することはすべての基本なんだぜ、それすらできないなら、赤ちゃんて呼ばれてもしょうがないだろ」シンはふふんと鼻をならしながら答えた。


 シンのおっ母は訳がわからないなりに二人のいさかいを止めようと大きなおなかをさすりながら間に入った。

「まあまあ、二人とも、おなかが減ると人間イライラするからね。シンもひかりをからかわないのよ。本当に強い人はそんな事しないものよ。ひかりはこっちで私と一緒に準備を手伝って。私は今、おなかが大きいから本当に助かるわ」


(しまった!猫をかぶっていたのがあっという間にぼろがでちゃった・・・シンの奴め~)ひかりは心の中で思いつつ、やつあたりでしかない事は百も承知でシンに向かってしかめっ面をしてみせた。


「おっ母、こいつは精霊の落とし子だから、この世界の人間じゃないのさ。だから一から教えないと駄目なんだぜ。おっきな赤ちゃんと同じだってフチの大ばば様も言ってたぜ」

 赤ちゃんを連呼するシンに文句の一つも言ってやろうと口を開きかけたひかりに、身をひるがえし、素早く横をすり抜けながら、

「無理して自分じゃない奴にならなくてもいいのさ」

 すれちがいざま、シンはひかりにむかって小さくつぶやいた。

「えっ」ひかりが振り返った時には、シンはもうウサギをぶら下げて川の方に向かって走っていっていた。


(無理してるか・・・あいつあたしのよい子仮面を見破ってるな・・・)


 小さい時からそれはひかりが身につけた処世術だった。長男や末っ子と比べて、真ん中の子供はどうしても親にかまわれない。だからよい子でいることはそんな両親に褒めてもらえる唯一の手段だった。しっかり者のよい子。だからいつも親にも先生にも受けが良かった。


 特に、母親には「この子は本当に手がかからなくてありがたいわぁ。女の子だからかしらねぇ?」とたびたび言われていたが、その言葉を言われるたびに、心の中を無性にむなしい風が吹きぬけていくのだった。そしてひかりから見て、自分らしく天真爛漫にふるまいながら、みんなに愛されているお兄ちゃんと弟が、うらやましくもあり、ねたましくも見えてくるのだった。

 最近は、「本当の私って何がしたいんだろう?」と思うことも多くなっていたが、人から褒められる事だけを意識してきた自分の中身は、恐ろしいほど空っぽだった。自分の中身が何もない事を認めることは、優等生を通してきたひかりには耐えがたかった。


「ひかり」

 シンのお母さんに呼ばれて振り向いたひかりはぎょっとした。そこにはいつ集まってきたのか、先ほどのおばさん達と子供達が、好奇心いっぱいの目で勢揃いしていた。


(おばさんと子供って苦手・・・・・・)

 ひかりは心の中でつぶやいた。

(おばさん連は愚にもつかないうわさ話で人の悪口ずっといって何が楽しいんだか・・・小さい子供も子供でわがままだしね・・・でも、しゃーない。処世術、処世術。はい笑顔、笑顔!)


 今さっきシンに指摘されたことも、今はとりあえず考えないことにして、ひかりは、にっこり笑顔をつくった。そして、

「こんにちは。これからシンのお宅にご厄介になります一条ひかりです。皆様から一生懸命学ばせていただきます。どうかよろしくお願いいたします。」

 と、優等生挨拶を決めて見せた。


 こんな挨拶を近所の人たちにすると、おばさん達は「まあまあ、ひかりちゃんはきちんとご挨拶ができて偉いわ~それに比べて家の子ときたら・・・」とひかりに対する社交辞令の褒め言葉半分、後はその家の子供の愚痴を延々と聞かされるのだった。


 しかし、ここは明らかに違っていた。そんな型にはまった社交辞令なんてだれも聞いていなかった。

「ひかり、フチの大ばば様から聞いたよ。この世界の外から来たんだってね。向こうの世界のめずらしい話を聞かせておくれよね。

 私は隣の家のカヤさ。もともとは隣のアッケ村の生まれでね。網漁がとっても盛んな所なんだよ。だから、あたしは網を作るのがとっても得意なのさ。網作りなら何でも聞いておくれよ」


「あたしはムチナ。皮のなめしは私にまかせておくれ。料理もいろんなのを考え出すよ。大好きなのさ」

「ムチナ、好きなのは料理を作ることだけじゃないだろう。その肉付きをみてごらん。冬ごもり前の熊じゃないんだから。あんたが皮をはがれちゃうよ」

 笑いながら一人がちゃちゃを入れた。周りがどっと笑った。

「な~に言ってんだい。好きなことはどんどん思いつくんだよ。作ることも、食べることも楽しいのさ。皮なめしだって力がいるしね。がちがち噛めるこの強いあごも、この太い足も腕も、皮を柔らかくするためには必要さ」


「はあ~やっぱり私のこの鹿のようなほっそりした手足じゃあ無理ね~」

 ひょろっとした体型の一人が大げさにため息をつくと、

「そうそう、だから皮が堅いまんまで、木の皮を着てきたのかいって言われるのさ。夫が食べる前にうばいとって、もりもり食べるぐらいでなきゃあ」

 ムチナは太い腕で力こぶをつくってみせた。


「ムチナ、あんたの夫が、いつも猟で最後を走ってるのがなぜなんだか、やっとわかったよ。あんたがぜ~んぶ先に食べちゃって、夫には尻尾しか残してなかったんだね。だからいつもおなかがペコペコで、ひょろひょろとしか走れなかったんだ」

 そう返されてムチナは口に手を当て、もう何も言いませんよとばかりに頭を振り、また周りはどっと笑った。


「わたしゃ、ムチナの母親のルテハじゃ。もうばばじゃが糸つむぎはまかしておくれ。お前も見た所、もう良い歳じゃ。婿をとるまでにわしがみっちり教えるからの」


「ルテハばば様。今時の若い者はこれが出来なきゃ所帯を持てないなんて通じないよ。好きなら好きで鳥みたいに飛んで行っちまうし、いやならいやであたしみたいに帰って来ちまうしね」

 そう豪快に笑った一人に、ルテハばばはむっつりと難しい顔で

「これだから今時の者は。年寄りの言うことは聞くもんじゃい」ブツブツと文句を言い、「そうそう、その通り。それをちゃんと聞かなかったから、帰って来ちまう事になったんだから。次はちゃんとまじめにするから、こりずにこれからもいろいろ教えておくれよ」と、出戻りさんは大げさに謝る素振りをして、また周りはどっと笑った。


「あたしはシンの妹のアトよ。歌を歌うことが大好きよ。歌の力は荒ぶる精霊を鎮めるわ。ひかり、向こうの世界にも歌がある?あったらぜひ教えてね」

 ひかりよりも小さいが、しっかりした雰囲気の少女が進み出て挨拶をした。


 続いて、ひかりの弟ぐらいの男の子が、元気いっぱいに跳びはねて出て来た。

「オレはシンの弟のユク。体はまだちっこいけど、ウサギみたいにすばしっこいぜ。蜂の巣を見つけるのは村一番さ。大人なら引っかかってしまうような藪でもオレはすいすいすり抜けて蜂を追っかけることができるぜ」


 続いて、はにかんだ風の少女がおずおずと挨拶をした。

「ひかり、あたしはチサ。あたしの踊りは山と海の精霊をなぐさめる力をもつわ」


 続いて、おしゃれな女の子4人組が出て来た。つややかな黒髪を編み込んで頭の上でお団子にし、真っ赤な櫛と象牙色のかんざしをさして、耳にはあかね色の大きなイヤリングをしていた。

「ひかり、あたし達はムチナ家の女姉妹4人組よ。村一番のおしゃべりなのよ。上からアイ、イソ、シナ、カイ。あたし達の得意はおしゃれに、食べること、寝ること、おしゃべりすること。何も私達の目をすり抜けられないわよ。この前なんかねえ・・・」延々と、そのおしゃべりが続きそうになった時、今まで、おばさんや子供達の後ろに押し出されて、全く見えていなかったおじいさんが、皆をかき分け前に出て来て挨拶をした。


「おしゃべりと食べることが達者な女御衆や、そろそろワシにもしゃべらせてくれ。お前らを待っておったら、わしゃ墓場に入らねばならんわ。ワシはエカシじゃ。毎日あっちへひょろひょろ、こっちへひょろひょろ、ひげを抜いては魚をくすぐり、おならをこいては狸を捕まえておるわ」

 まるで、煙でいぶされたビーフジャーキーのような風貌のエカシは、顔中のシワを、より深く刻み込みながらふぉっふぉっと楽しそうに笑った。


「もう、やだよ~じじ様のおならくさい狸なんてごめんだよ。そうでなくても狸は臭いんだから。捕まえるならムジナをお願いするよ。さあさあエカシは、夜の山で狸たちと一緒にプンップンッて爪で弓をはじきながら踊っておいでよ」

 女達が鼻をつまんでそう言うと、枯れ木のようなエカシは「オホン」と咳払いを一つして、もったいぶった調子で続けた。

「お前達、馬鹿にしちゃいかんぞ。ワシは若い時分に屁一発でな、、川向こうの草原の鹿を一度に十頭捕らえたんじゃ!」

「はいはい、そのほら話はまた夜のたき火の時にお願いしますよ」と、女達はエカシの話をけらけらと明るく笑いとばした。


「ほらほら、トリ、女の中の男はつまらんもんじゃのう。女どもの手のひらの上でコロコロ、コロコロ転がされてしまうわ。ほれ、お前も挨拶するか」

 トリと呼ばれた男の人は、恥ずかしそうな笑顔を浮かべると、ひかりにぴょこんと頭を下げて一礼し、足を引きずりながら後ろに隠れてしまった。


 次々とみんなはひかりに挨拶をしていった。その屈託のない笑顔と明るさにひかりはひきこまれていった。

 しかし、その一方で(私だったら、何をこんなに胸をはって言えるかな…?あたしって本当は何が好きなの?何が出来るの?)と自問自答せずにはいられなかった。明るく輝く太陽のように笑うみんなを見つめながら、自分の心の中の空虚さを感じずにはいられなかった。


 そんなひかりの気持とは対照的に、底抜けに明るいウタの村のおばさん達と子供達の紹介は続き、天まで届くような笑い声とおしゃべりに包まれながら、食事の準備が進んでいった。


 ひかりは、アトとチサに教わりながら、石のすり皿で木の実を押しつぶし、ぺたぺたとお団子を作って大きな葉っぱの上に並べていった。

「なんだか、幼稚園の頃のおままごと思い出すわ。なんだか楽しくなってきちゃった」

 遠い遠い記憶の奥底に埋もれていた、自分が幼稚園児だった頃。砂場で泥んこになって遊んでいた記憶をひかりは思い出していた。


(あの頃は、本当に好きな物を好きっていってたな・・・心の底から笑って、泣いて、本気で怒って、お友達ともケンカもいっぱいしたけど、それでもいつか仲直りできて・・・楽しかった・・・)


 いつの頃からか、周りの空気を敏感に読む事を一番に気にかけるようになっていた。自分の本心なんて怖くて人に言えなくなっていた。何か嫌なことがあっても冷静を装い、私は傷ついてなんかないよと、自分自身すらだまし続けていた。自分の感情を正直に出すことは格好悪く、クールなことが大人への道だと信じていた。


 でもその結果残ったのは、そつない優等生の仮面と、その下でむなしさを抱え、血を流し続ける自分の心だった。


(そういえば、去年、弟がまだ幼稚園だった頃、家の冷蔵庫に貼ってあった幼稚園の毎月の予定表のすみっこに、詩みたいな言葉が書いてあったっけ。

 えーっと確か・・・・・・

『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ。


 何でもみんなで分け合うこと。

 ずるをしないこと。

 人をぶたないこと。

 使った物はかならずもとのところにもどすこと。

 ちらかしたら自分で後片付けをすること。

 誰かを傷つけたら”ごめんなさい”ということ。

 食事の前には手を洗うこと。

 トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。

 焼きたてのクッキーと冷たいミルクは体にいい。

 釣り合いのとれた生活をすること。

 毎日、少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、遊び、そして少し働くこと。

 毎日必ず昼寝をすること。

 おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで。

 離ればなれにならないようにすること。

 不思議だな、と思う気持を大切にすること。

 発泡スチロールのカップにまいた小さな種のことを忘れないように。

 種から芽が出て、根が伸びて、草花が育つ。

 どうしてそんなことが起きるのか、本当のところは誰も知らない。

 でも、人間だっておんなじだ。

 金魚も、ハムスターも、はつかねずみも、

 発泡スチロールのカップにまいた小さな種さえもいつかは死ぬ。

 人間も死から逃れることはできない。

 ディックとジェーンを主人公にした子供の本で最初に覚えた言葉を思いだそう。

 何よりも大切な意味を持つ言葉。

 「見てごらん」

         ロバート・フルカム』


 今思えば、本当にそうだった・・・

 全部・・・人生にとって必要なことはぜーんぶ、幼稚園の砂場の中で学んでいたのかも・・・

 人間にとって本当に大事な事はとってもシンプルで、大きくなればなるほど、いらない物をどんどん自分でくっつけていって、馬鹿になってるのかも・・・)


 手を止め、ぼんやりと物思いにふけりだしたひかりにアトとチサは顔を見合わせ、

「ひかり、ひかり。魂が木の上を散歩してるよ。帰っておいで。ほらほら、合いの手歌を歌うから手動かしてよ!」

と、ひかりのほっぺを指でつついた。

 そして「ハイサァーヨイセッ」と合いの手を入れながら二人は歌い始めた。

 歌に合わせて、慌ててひかりも歌に合わせ石をごろんごろんとすりあわせ、せっせと木の実をすりつぶし続けた。


 たき火の上ではぐつぐつと土器の中のお湯が湯気をあげ、いつのまにか帰ってきたシンがその横の大きな石の上でウサギの骨をガンガンとたたきつぶし砕いていた。

「えっ、骨なんてたたいてどうするの」

 ひかりが不思議に思い、アト達に聞くと、「砕いたのを団子に入れるのよ。あたりまえじゃない」ときょとんとした顔をされた。


「いやいや、私の所では骨なんて食べないし。だいたい自分自身で食べる動物を捕まえてくることや、自分の家で動物を解体する事もないよ。今時、魚だってスーパーに切り身で売ってるから、魚ですらさばける人もそうそういないはず・・・」


 二人は不思議そうに顔を見合わせた。

「自分で捕まえもせず、切りもせずにどうやって動物や魚がひかりの所にやってきて、ばらばらになるの?ひかりは精霊の落とし子だから、ものを食べないの?」


「もちろんご飯は食べるわよ。ご飯食べさせないなんて言わないでよっ!お腹ペコペコなんだからっ!でも、えーっとね、私達の世界では、誰かが何処かで育ててくれたり、捕まえてくれた動物や魚を、また別の誰かがさばいて小さく切ってくれて、その上料理もしてくれたりするのよ。それらが、お店と呼ばれる場所に集められ、たくさん並べられるの。そしてその食べ物が欲しい人は、お金という物を支払うかわりに、それらを手に入れる事ができるのよ」


「ひかりはどんな人が捕まえてくれたのか、さばいてくれたのか、料理してくれたのか、そんなことも全然知らないの?」

 ますます不思議そうにアトが尋ねた。


「そうだね、顔も知らないな。その食べ物が何処から来たかも知らないし、そんなこと考えたことなんてなかった・・・いろんな食べ物がいつもお店にあることが当たり前って思ってたし」


「さっき言ってた、お金って何なの?」続けてアトが尋ねた。

「えーっと、えーっと、お父さんやお母さんが仕事をして、その働きに対してもらうの。それがあると食べ物だけでなく、いろんな物を手に入れることが出来るのよ」

「じゃあ、お父さんやお母さんが病気で働けない人や、いない家の子供はどうなるの?」

 チサが真剣なまなざしで聞いてきた。


「えっとー、みんなでそういう人達を守り支える仕組みがあるのよ・・・えーっと確か・・・そう・・・シャカイホショウセイド・・・だったかな・・・」ひかりは、自信なく、発音をうやむやにごまかしながら言った。


「そうなの。よくはわからないけれど、大丈夫なんだね」チサはほっとしたように言った。

「ひかりの所も、あたしたちの村と一緒だね」チサがそう言うと、アトも「大丈夫だよチサ。助け合うことは当たり前だよ。部族が違ったって本当に大事な根っこはそんなに変わらないよ。それに口伝でも、もともとみんな一つの村から分かれた兄弟だって伝えられてるじゃない」そう答えた。

「そうだよね、人間は時に喧嘩をしたり、愚かな過ちをおかすこともあるけど、でも最後には許し合えるんだよね」


 まだまだ幼いチサの大人びた言葉にひかりがとまどっていると、骨をたたき終わり、三人の近くに来たシンがその訳を語りだした。


「この前の実りの季節、チサのおっ父達が奥山にイノシシ狩りに行ったんだ。そこで同じく狩りに来ていた奥山の村の若者達と、『これは俺たちのほうが仕留めたイノシシだ』と両方が一歩も譲らない言い争いになってさ。

 確かに最初にイノシシを追っていたのは奥山の村だったらしいんだ。でも最後にイノシシにとどめを刺したのはこっちだったのさ。


 最初は言葉だけの言い争いだったんだけど、そのうち両方とも頭に血が上っちまって、殴り合いのケンカが始まったんだ。そして結局、ケンカに勝った奥山の村の若者達に、力ずくで獲物を奪われてしまったんだ。

 みんな、獲物を奪われた上に、ひどい怪我をして、やっとのことで村に帰ってきたんだけど、特にチサのおっ父は頭の傷が深くてさ。そのまま高い熱がでて次の日にとうとう亡くなってしまったのさ。

 しきたりに従って、チサのおっ父の埋葬をすませてから、村同士の話し合いが始まったけど、両方に言い分があるから、なかなか話し合いがつかなくてさ。でもこっちは人一人死んでしまうようなことになってるから余計にすっきりとはいかないわけさ。


 とうとう、村同士の名誉をかけた戦いになるかもしれない、という所まで来てしまったのさ。

 悪いことにフチの大ばば様や、向こうの村のまじない師の記憶をたどっても、お互いの村での嫁や、婿の行き来も無くてさ、村同士の血の交わりも耐えて久しい関係だったのさ。


 チサのおっ母は悲しみのあまり病気になって伏せっていたんだけれど、ある日チサが思い詰めた顔をしてオレん所へやってきたんだ。

『シン、お母さんの様子がおかしいの』

 こっちは病気の具合が悪くなったのかと、びっくりして尋ねたらどうもそうじゃない。

『真夜中にふと目が覚めてお母さんの方を見たら、いきなりお母さんが、寝床からむっくりと起き上がって、そのまま風に吹かれる木の葉のように外に出て行ったの。

 びっくりして、追いかけようとしてふと横を見たら、今外に出て行ったはずのお母さんがそのままそこに寝てるじゃない。

 あたし、寝ぼけて見まちがいでもしたんだろうと思って、床に戻ったんだけど、どうにも気になって寝付けなくって・・・・・・


 そうしたら、もうすぐ夜が明けるって頃、真っ青に青ざめたお母さんが、外からすうって入ってきたかと思うと、寝ているお母さんの体の中に折り重なるように入っていったの。

 あたし、飛び起きてお母さんを揺り動かしたわ。だけど、お母さん、一度はなんとか起きてくれたんだけど、もうどうにも体がだるくって起きていられないって、またすぐに眠りだしたの。


 そうこうしているうちになんだか血のような、腐った肉のような臭いがするから、おかしいなと思って、お母さんの体を調べたら、両方の乳房に切り裂いたような傷がたくさんできていて・・・・・・

 切り口がまるで腐ったような臭いを放つ、今まで見たこともない紫色の変な傷だったの。


 日が昇ってすぐに、フチの大ばば様の所に飛んで行って相談したら、ばば様がしばらく考えた後にシンを呼んでおいでって』


 そこで二人してあわててフチの大ばば様の所に行ったんだ。そしたらばば様が、

『これは魂が体から離れる病じゃ。アトの母親が、アトの父親を殺した相手への恨みの気持に魂を食われ、悪しき精霊どもにこの体を捧げ、自分自身も怪かしの仲間となりかけておる』そう言うんだ。


 『このままでは、そう遠くないうちにアトの父親を殺した相手は祟り殺されるじゃろう。でもそれと引き替えにアトの母親は悪しき精霊と成りはてるであろう。

 アトの母親の魂を人間界に引き戻すために、シン、力を貸しておくれ。


 本来は、大人でも手に余る仕事じゃが、悪しき精霊どもに気付かれぬ為に、体に塗りこめるこの粉が、アトに塗ってしまうと、残りはお前に塗るほどしか残らぬのじゃ。しかもお前の弓の腕は大人にも負けぬほど上手い事は村中の者が認めておる。シン、お前にしか出来ぬのじゃ』

 そこでアトとオレは、フチの大ばば様に言われた通りに、その夜、もらった粉を体にすり込んでアトの家で待ったんだ。


 フチの大ばば様と村の長老は、先に奥山の村に行って待つことにしたんだけど、二人が一日かけてむこうの村に着いたら、やっぱりアトの父親を殺した若者は病の床についていたそうだ。

 むこうのまじない師も、夜な夜な悪い精霊がアトの母親と共に、村の若者を苦しめている事はわかっていたから、なんとかアトの母親を鎮めようと手を尽くしていたけど、なにしろ呪いの力が強くってどうしようもなかったらしい。


 そして、その夜、もう真夜中をまわった頃、アトが言ったとおり、アトのおっ母がいきなり起き上がったかと思うと、ふらふらと外に出て行ったんだ。


 オレ達二人は、目配せするとそのままイタチのように、するりっと足音を忍ばせて後を追っかけていった。

 外は満月で昼間のように明るくって、アトのおっ母の魂は、月の光を受け青白く光っていて後を追いかけることは容易い事だった。


 そうやって、山をしばらく登って行くと、アトのおっ母の行く先に、不気味な真っ黒の森があらわれた。ギャーギャーと背筋が凍り付くような鳴き声や羽ばたきの音、聞いたこともない何かのうなり声も聞こえてきた。

 そしてその森の中の一本の木に、たくさんの青白い焔が、ちろちろと静かに燃えているのが見えたんだ。

『狐火だ』

 オレは、丹を漆で塗り固めたまじないの矢を強く握りしめて、後ろのチサの顔を振り返って見た。チサは、口を真一文字に引きしめ、強いまなざしをオレに返して、こくりとうなずいた。


 その木の近くまでたどり着いて、周りを見わたすと、いるわいるわ、今まで見たこともないような異形の者が勢ぞろいさ。

 そりゃあ、今までだって、深い山に入った時に、人でも獣でもない、何か別の者の気配を感じたことは何度かあったさ。でも、こんなにはっきりと大量に見たのは、これが初めてだった。


 木の周りの、少し広場のようになった隅っこに、おっそろしく大きな蝦蟇とも石ともつかないものがでんと座り込んでいた。

 そのすぐ隣には、顔が毛むくじゃらの人で、体はイタチのようなおかしな獣がせわしげに体を掻きむり続けている。

 あたり一面に、月の光を照り返しながらその毛が舞い散っていた。隣の蝦蟇石は迷惑げに時々長い舌を出して、顔に付いた毛を拭っては不機嫌そうなうなり声を上げていた。


 そして狐火の木の側には、雲を突くような背丈のぎょろ目の男がのっそりと突っ立ち、すぐ近くの大蜘蛛がはき出す糸をたぐり寄せては、太い縄をなっていた。


 他にも、普通の山犬の二、三倍はあろうかという大きさ。全身の毛が針のように鋭く尖り、血が滴るような赤い色をした山犬が二匹並んで座っている。


 辺りには一見すると、霞のように見え、次の瞬間には壁のように見える。目をこらして見ようとすればするほど見えなくなってしまうヘンテコな固まり。そんなものが、そこかしこにユラユラと漂うように蠢いていた。


 それらの化け物達の間を縫うようにして、ぬらぬらした巨大なまだら模様の塊が、ズズッ、ズズッとナメクジのような粘液を残しながら動き回っているのも見えた。


 そして狐火の木には、巨大なムカデが、体の三分の一をまだ地面に残したまま、太い幹に幾重にもまきついていた。

 数え切れないほどの足をカシャカシャと不気味にうごめかして、シュウシュウと毒の息をあたりの空間に吐きちらす。 そして、木の上の方に巻き付いている巨大なウワバミとにらみ合い、火花を散らしていた。


 二人とも、頭の毛が逆立つとはこの事かと思いつつも、息を殺し、木から少し離れた場所にじっとひそんで様子をうかがった。


 その化け物達のど真ん中、狐火の木の根元の所に、眼をらんらんとひからせ、尾っぽが9本もある真っ白な狐が座っていた。


 そして真っ赤な口をくわっとあけてチサのおっ母に向かって叫んだんだ。

『あの男を苦しめるのと引き替えに、今日は何を我らに捧げるかえ!』


 狐が言い終わるやいなや、木の上にいた真っ黒な鳥たちが、まるで待ちきれないかのようにギエッギエッとあざ笑うような鳴き声を上げながら、地面の上に舞い降りてきた。

 鋭いくちばしにはギザギザの歯が生え、広げた羽の先端には長いカギ爪が不気味にうごめいている。


 そして白狐は、今度はうってかわって優しい声でチサの母親に向かってこう言った。

『お前の気持ち、この我には痛いほどわかるのじゃ。人であったときの我は、お前と同じ苦しみを負うて、誰の助けもなく憤怒の中で朽ち果てたのじゃから・・・ここに集う者達もみな等しく、恨みや憎しみを寝床とする者達よ。お前の憎しみは我らが力!我らは、そなたの真の助けとなろうぞ!』


 まんまるの月の光は相変わらずあたりをこうこうと明るく照らしてくれているのに、この一角だけは恐ろしいほどに暗く寒々としていて、オレ達は体の芯まで冷え切った気がした。

 必死でこらえなければ、歯ががちがちと鳴りだしそうだった。


 チサのおっ母は、青白い腕を頭の上までかかげて狐に向かって叫んだ。

『我が血をあなた方に捧げます。どうかあなた方の力を私にお貸しいただけますよう。我が血が枯れ果てれば、我が肉を、腑を、骨をもってあなた方に捧げます。どうか、あの憎い男を呪い殺す力を、我に賜りますよう!』


 最後の岩を裂くほどの叫びとともに、そこら中の化け物達の咆哮が山を不気味に鳴らし、まるで地滑り前の山鳴りのようだった。


 山鳴りが止み、静寂が一瞬あたりを支配した時、白狐が鼻の所にしわを寄せ、くんくんとあたりの臭いをかいだ。そして真っ赤な口を開け、言い放った。

『人くさい!この中に人がいる!』

 あたりは騒然となって蜂の巣をひっくり返したような騒ぎになった。オレは覚悟を決め、いよいよに備えて弓を持つ手にぎゅっと力をこめた。


 すると、オレ達の少し前にひっそりと生えていたシキビの木が、めりめりと前後左右に揺れはじめたかと思うと、まるで泥沼の中から足を引き抜くように、根っこを引き抜き始めた。

 なんともおぞましいことに、根っこにからまるように、崩れかけた人の骸が現れた。

 きっとチサのおっ母のように、悪しき精霊にその身を捧げ、食い尽くされた人のなれの果ての姿だったのかもしれない。


 シキビの木は大声で言った。

『白狐、安心せい。ここで、まるで人のような臭いを放っているのは、キノコの精どもじゃ。こいつら、まだまだ羽もそろわぬほどのひよっ子のくせに、生意気に出て来よったんじゃわい』

 シキビは白狐に向かって言い終わると、今度はオレ達の方に向き直って言った。

『お前らは、まだおこぼれにあずかれるほどの、ひとかどの者にはなっておらぬわ!今はまだ隅っこで指でもくわえ、おとなしく見ておれ!』

 えらそうにシキビの木は言い放ち、ずるずると骸を引きずりながら白狐の方に歩いて行った。


 オレ達はほっと息をついて、白狐の方はと見ると、いつの間にか世にも美しい女の姿に変化していた。

 シキビの言葉に安心した様子で、ゆったりとうちくつろいだ風で、草を編んだ敷物の上に座り、どこから集めてきたのか欠けた器の類いが目の前に並んでいた。


『さあ、つくもらよ、血を受けてこよ。憎しみの盃じゃ。憎しみはとこしえにこの世を巡り、我らが力となるのじゃ』

 ぐぎゃぎゃっときしむような音を立てたかと思うと、毛だらけの足が器からにょっきり生え、ひょこりひょこりと危なっかしく木の方に向かって歩き出した。


 チサのおっ母はと見ると、哀れにも両腕をツタに縛られ木に吊されれている。


 女に化けた白狐は、ほほほ・・・と冷たい笑いを浮かべ、つり上がった目で地面に舞い降りた鳥たちに目配せした。


 鳥たちが黒い影のようにチサのおっ母に襲いかかろうとしたその時、オレは立ち上がり、フチの大ばば様に教えてもらったまじないの言葉を大声で唱え、白狐めがけて魔除けの矢を放った。


 ぐぎゃあ!とものすごい叫びが山を轟かしたかと思うと、ごおっと血なまぐさい風が吹き、狐火が一瞬で消えた。

 長い長い時間に思えたけど、きっと一瞬の事だったんだろう。暗闇が支配していた森に、再び月の光が戻ってきた。


 逃げ遅れた小さな化け物があわてて逃げていく姿が森の陰にちらほらと見え隠れした。そして、月の光に照らされて、チサのおっ母が木の根元に倒れ伏していた。


 あわててオレ達が駆け寄って助け起こそうとすると、チサのおっ母はむくっと起き上がり、オレ達の手を振り払った。

『なんとも、煩わしきこわっぱどもめ!許さぬ!この女は我の仲間ぞ!わたすものか!』

 こちらをキッと睨んだその顔は、目がぎゅっとつり上がり、チサのおっ母の顔とは全く別人だった。

『ほほほ・・・我を殺さば、チサの母親も死ぬ。こわっぱども、黙ってみておれ!』

 そう言い放つと、チサのおっ母に乗り移った白狐は、ものすごい勢いで奥山に向かって走り去っていった。


『シン、血の跡がある!』

 チサの言葉に落ち葉の上を見ると、確かに点々と血の跡が残っている。オレ達は急いでその後を追った。

『チサ、これは白狐の血だ。かなり深手だぞ。大丈夫、チサのおっ母は助けられるよ』

『でも、白狐とおっ母が一体の時は矢を放てないよね。どうすればいい?』

『どうにかして、おっ母を引き離さないとだめだよな。どうすれば離れるんだ・・・ええい、どうすれば・・・』


 二人とも良い答えはでないまま、チサは、泣きそうな顔で必死にオレの後について走った。


 思った通り、血の跡は奥山の村に続いていた。そしてそこでは今まさに、山の村のまじない師と、フチの大ばば様が必死になって、チサのおっ母との死闘を繰り広げているまっ最中だった。


 奥山の村は、あたり一面真っ黒の闇におおわれ、生臭い臭いが漂っていた。空いっぱいにチサのおっ母の黒髪が広がり、嵐の時の黒雲のように渦を巻き、千々にもつれ、乱れ飛んでいた。

『我が夫を殺した者よ!その償いをその身をもってはたせ!この爪にて、牙にて、その身を引き裂かん!そして、我と共に悪しき精霊どもの仲間と成り果てるがよい!』


『精霊よ。鎮まりたまえ。あなたの怒りはもっともである。我らは大きな過ちをおかした。しかし、どうかどうか許してほしい』

 地に体を投げ出し、山のまじない師と若者は許しを請うていた。フチの大ばば様も、チサの母親にむかって懸命に話しかけていた。

『チサの母よ、お前の怒りはもっともじゃ。でもどうか鎮まりたまえ。人を恨む気持は、そのまま我が身に跳ね返る。この者を食い殺した後には、お前もそのまま悪しき精霊に食い殺されよう。そしてその恨みは永遠にこの世を巡るのじゃ。どうかこの者達を許し、お前自身も解放されよ』

 チサのおっ母は怒りの形相も凄まじく、村を踏みつぶすような勢いで、地団駄を踏んだ。

 足を踏み下ろすたびに、不気味な地鳴りが響きわたった。

『愚かな!その者をかばい立てするなら、この村もろとも山津波にて飲み込まん!覚悟するがよい!』


『お母さん!』チサの悲痛な叫びが闇を切り裂いた。

『お母さん!この人を殺したって、お父さんは帰ってこないんだよ!それに、今お母さんがしようとしていることは、何の関係もない村の人々の命まで奪おうとしているんだよ!』

 チサは、その小さな体で若者をかばうように手を広げ立ちはだかった。


『何を言う!小娘!木の枝葉が一つの幹から分かれるように、この者を生み出したこの村すべての者で、その罪をつぐなわねばならぬということわりよ!』


『お母さん!いつものあったかい、太陽のようなお母さんに戻って・・・私は、私は、お母さんの笑顔が好き・・・私を一人にしないで!どうか、どうか私の所に帰ってきて・・・』

 チサは涙でくしゃくしゃになった顔でおっ母の方を仰ぎ見ると両腕を合わせ祈った。


『わずらわしき小娘!お前も、我が眷属とせん!まずは、その体を粉々に引き裂いてくれるわ!』

 チサのおっ母が長い爪でチサを引き寄せようとしたその時、いきなりチサのおっ母が胸をかきむしり地べたに転がりだした。そしてあれよあれよという間に、チサのおっ母が右と左に二人に分かれた・・・


 オレ達が眼を丸くしていると、二人はゆっくりと立ち上がり、チサに向かってそっくりの声で『チサ』って言ったんだ。

『あたしが本物よ』ってね。

 オレは慌てて弓を構えたけど、どっちが本当のチサのおっ母かわからなくて、狙いが定まらない。


 いきなりチサが『わかった!』と叫んだ。そのまま走って行こうとする。

すると一人は『チサ、こっちへおいで!』と、

 もう一人は『チサ、こっちへ来ちゃ行けない!』と叫んだ。


 そしたら、フチの大ばば様が叫んだ『シン、“こっちへおいで”と言った方があやかしじゃ!』


 オレは狙いを定めて矢を放った。

 でも一瞬、間違っていたら・・・と心の迷いがあったんだ。


 その一瞬をついて、正体がばれたと悟ったずるがしこい白狐は、危うい所で姿を消し、矢はむなしく空を切り木に突き刺さった。


 チサはまっすぐ『こっちへ来ちゃ行けない』と言ったおっ母の方に駆けて行っていた。本当におっ母の事がわかってたんだよな。


 でも、チサのおっ母の魂はもう精も根も尽き果てていて、ゆらゆらと揺らめいて今にも消え入りそうな様だった。


 フチの大ばば様は、急いで清い谷川の水を入れた器を、村のまじない師から借り受けた。そしてその器をチサのおっ母の足元に置いた。すると、砂が崩れるように、チサのおっ母の体が崩れ落ち、器の清水の中にさらさらと溶け込んでいった。チサは一瞬不安な表情を浮かべたが、フチの大ばば様は、

『大丈夫じゃ、その水をこの竹筒の中に入れ、竹皮でしっかり蓋をしてカズラで結わえ、村に持ち帰ってその水をおっ母に飲ませておあげ。ワシはもう、くたぶれはててしばらく動けん。しかしお前達だけで帰すのは心配じゃがな・・・』と、片目をおさえ、曲がった腰をさすりながらつぶやいた。


 すると山の村のまじない師は、村人の中から屈強な男を三人を選び出し、オレ達につけてくれたんだ。空が白み始めた山を飛ぶようにオレ達は走った。

 走っている途中でチサが何かにつまずいて転んだ。見回してみても何もない所だったんだけれど、何かに足をとられたように派手に転んだんだ。

 幸い、懐の竹筒はしっかり蓋がしてあったので大丈夫だったけれど、チサは足をくじいて走れなくなってしまった。そこでそこからは、奥山の村の一人がチサを背負って、軽々と山を駆け下りてくれた。


 途中、よく山犬が休んでいる犬待ち場に、一匹の山犬がいてオレ達を見ていた。


 山犬がついてきた時、走っちゃいけないって事は重々承知だったから、俺達は山犬に向かって誠心誠意祈った。

『お犬様、今度狩りで獲物が捕れましたら、供物を捧げます。どうか今日の所はお帰り下さい』すると山犬は、しばらくじっとオレ達を見ていたけれど、ついと横を向くと茂みの中へ消えていった。


 そしてもう、その後はただ一心にオレ達は駆けに駆けた。山犬の使いであるオクリスズメの鳴き声だけが、先になり後になりオレ達の後を見守るようにずっとついてきた。そして無事に村へ着いたんだ。


 チサは転がり込むように自分の家に飛び込み、おっ母に竹筒の水を飲ませた。

 氷のように冷たくなっていたチサのおっ母の体にぬくもりがかえってきた。

 オレ達も、ついてきた奥山の村の者も一安心して泣いて喜んだ。


 それから、奥山の村の3人には、腹一杯食べてもらってから、送ってもらったお礼の干し魚をカゴに山盛り3杯と、帰り道で山犬がついてきた時にと、お犬様への返礼の塩を持たせてから見送った。


 もちろんオレ達のほうでも、後からお犬様にお礼の鹿を送り届ける事は忘れなかったけどな。


 それから、6つの月が生まれて消えていったたけど、まだチサのおっ母は体が本調子じゃないのさ。それにフチの大ばば様も、あの時に片ほうの眼を失ったんだ。


 でも、村のみんながチサの家を支えているし、奥山の村からもその時々にチサの家にいろんな物をもってきてくれるのさ。


 狐も言ってたけど、争いはその者だけに関わる事じゃないんだ。この世の命すべてが、一つの幹のもとに茂る枝葉なのさ。

 たとえ、あの狐だってオレ達と同じさ。今回は、その魂の言い分を聞き届け、荒ぶる魂を鎮める所まではいかなかったけどな。

 いつかその根を聞ける日が来たらいいなと思うよ。


 その後、チサのおっ父を殺めた若者とも、村と村でとことん話し合ったさ。まだ正直、わだかまりが本当に解けたわけじゃない。でも人のことは人同士で話し合っていかなきゃないけないと思ってるのさ。

 お互いの村は、違う部族だから風習やしきたりも違うさ・・・・・・

 わかり合うことは本当に難しい。

けれど、その違いを乗り越えて相手の言い分もしっかり聞いて、こっちの言い分もきちんと伝えてお互いを理解しあい、真に解決していく道を両方で作って行くのさ・・・・・・」


 シンは、長い話を語り終えた。


 ひかりは苦しかった。チサの話として聞きながら、自分の胸がえぐられていくようだった。


「チサ、なんで私のお父さんが死ななきゃいけなかったのって思わない?」ひかりはチサに聞いた。

「思うよ」チサはうなずいた。


「それと同じ重さの償いを相手もしてよ!って・・・無理だとわかってても、全てを元に戻してよ!って、お前の命をもって償ってよ!って責めたくならない?」

 ひかりの目は、暗い光を灯していた。


「そうだね。相手が私達が受けた苦しみと同じだけ苦しんでいると思える時もあれば、とてもそうじゃない、私達だけが苦しんでるって思う時もあるよ。そんな時は、村同士の戦いになっても、何か人間を離れた力に頼ってでも復讐してやりたい!恨みを晴らしたい!と思ったりもしてしまう・・・・・・私のお母さんがそうだったように・・・

 あと、何度も夢に見るよ。お父さんが笑って『チサ、今帰ったよ』って家に帰ってくる夢。今でも夢に出てくる。でも、目が覚めるとお父さんがいない現実に心が引き裂かれる・・・・・・悲しくて悲しくて、涙が止まらなくなる・・・・・・

 どうして?どうして?何故いないの?何で私ばっかりって、ぐるぐる同じ所を頭が巡っていく・・・・・・」

チサの頬に涙が一粒すうっと流れた。


「でもね、私・・・・・・考え方を変えたんだ。自分で変えられない事に心を砕くんじゃなく、自分が出来る事、変えていける事に力を注いで行こうって・・・・・・以前とは違う道を、お母さんと一緒に探して行こうと決めたんだ。

 人と人として、とことん顔をつきあわせて。


 こじれた時は、自分達だけじゃなく、いろんな人にも加わってもらってお互いの気持を話し合っていくの。

 まだまだお互いわだかまりがあるよ。でも相手を変えようとか、罰を与えようじゃなく、自分でもまだよくわかってないけど、別の道を探していってるんだ!」

 チサはそう言って晴れ晴れとした顔で笑った。


 ひかりは、自分の心の中の闇を一人抱えたまま、何も言えずただ黙った。

 ヒリヒリと心が痛かった。


(でも・・・・・・でも・・・・・・そんな事言ったって、私の中のこの気持はどこにぶつければいいの・・・・・・!)

 ぐるぐるとやり切れない気持ちが大きく渦を巻く。


 それから、ひかりは耐えきれなくなって、海の方にむかって一人走りだした。

「ひかり!」と叫ぶチサをシンは黙って押しとどめた。


 どれぐらい時間がたっただろう、ひかりは一人砂浜に座っていた。


 目の前には、空気と水の境目がわからないほど透明な海が広がっていた。白い砂地に海草がゆれ、魚たちが泳いでいるのが手に取るように見える。

ザザッ、ザッザッーと規則正しく寄せては返す波の音をバックミュージックにして、真っ赤な夕日が海の向こうに沈み始めていた。そして、夕日の反対側に光の輪が虹のように空を囲んで見えた。


「きれい・・・・・・普段街の中で生活してたら、夕日が沈む所なんて見る事あまりないな・・・・・・それに何だろうこの虹。夕日と虹って一緒に出る事あるんだ・・・・・・」


 ザクザクと砂を踏む足音が聞こえ、シンがひかりの横に黙って座った。

 ばつが悪くて、思わずぷいと横をむくひかりに、

「今日の所は、食事のしたく勘弁してやるよ。明日からは、お客さんじゃないからな。覚悟しとけよ!」

 シンは、尊大な口ぶりで言った。


「えらそぶっちゃって、私よりチビのくせに」

ひかりが、すねた気持のまま憎まれ口をたたくと、シンは笑って立ち上がりお尻の砂を払った。

「ほらほら、いつもと比べて遅いから心配だったけど、おっ父達も船で帰ってきたぜ。魚採れてっかな?さあさあ、魚運ぶぜ、ひかり」


「なんなのよ、今日はお客さんでいさせてくれるんじゃあなかったの」


「働かざる者食うべからずさ。おっ父~!お帰り~!」

シンは近づいてくる船に向かって大きく手を振った。


 それからは、魚を運んだり、シンのおっ父達に今までのいきさつを話したり、食事の支度をしたりで、あっという間に時間は過ぎていった。


 日も暮れ、みんなでたき火を囲み、食事が始まった。「うまいだろ!」とにっこり笑う村人達に、ひかりは正直「土の味?・・・・・・」と眼を白黒させつつも

「お、おいしいです・・・」と無理矢理飲み込んでにっこりしてみせた。


「そうだろ、そうだろ!この村は山の幸、海の幸、両方恵まれるありがたい場所なのさ」

 シンのおっ父達は豪快に笑った。


 歌が始まり、踊りが始まった。みんなが笑顔だった。孤独なんて言葉はたき火の周りにみじんも感じられなかった。

 一人だけで食べるなんて事は考えもしない。そこには火の温もりと共に、人の間の温もりがあった。


 村の年寄りが、食事が終わると唄うような調子で昔語りを始めた。子供達は目を輝かせその話に聞き入っていた。

 きっと何度も何度も聞いている話なのだろう。獣の鳴き声や、合いの手を入れる場所など、みんなが声を合わせて見事なハーモニーを醸し出していた。


 しかし、ひかりは今日一日の出来事に頭も体も疲れ果て、上のまぶたと下のまぶたがくっつき、座ったままこっくりこっくり船をこぎだした。

 そして生まれて初めて見る、満天の降るような星空にいだかれながら、そのまま深い睡魔の世界にすべるようにすいこまれていった。


「きっと、これは夢・・・・・・目が覚めたら、またきっと、いつもの毎日・・・・・・」そう心の中で、つぶやきながら。





「ここ、どこ・・・」


 うるさいほどの鳥の鳴き声と、燻されたような煙の臭いにひかりは目を覚ました。

「か、からだ、痛っ・・・」

 一晩中、堅い床に寝ていた痛みに顔をしかめながら周りを見渡すと、小さな茅葺きの小屋の中、草を積んだ上に何かの毛皮が敷いてあり、その上にひかりは一人寝ていた。


(夢じゃなかったんだ・・・)


 ひかりは、しばし絶望の淵に立った気分で、おでこに手を当て、茅葺きの天井を見つめた。

(私、こんな所で暮らしていけるのかな・・・)

 急に足元の方で、何か暖かいモコモコした物が動いた。ぱっと上布団の毛皮をはがすと、茶色のネズミのような生き物が目に飛び込んできた。

「ネ、ネズミっ!」ひかりは悲鳴を上げた。


「お寝坊ひかり、太陽がでてるよ。水くみに行こ」

 ぴょこんと、入り口からアトが飛び込んできた。

「ア、アト・・・ネ、ネズミが・・・」

「ああ、それネズミじゃないよ。私が育ててるリス」

アトは慣れた手つきでリスを抱き上げて見せた。


「ああ、リスなの・・・ペットなんだ。良かった~かじられるかと思ったよ・・・おはようアト。早いね」

「ひかりが遅いんだよ。今日は何しよっか?ひかり何したい?」

「始めてづくしだから、わからないよ。赤ちゃんと一緒だから一から教えて」

「フフフ・・・おっきな赤ちゃん。でも、お兄ちゃんと生意気な弟にはさまれてたから、なんだかお姉さんになったみたいでうれしい」

アトはうれしそうに笑った。


「じゃあ、まず川で水くみね」

 ひかりはカチコチに固まった体をほぐすようにのびをして、アトと一緒に土器を持ち、家の外に出た。

 朝の空気はすがすがしく、もうすでに村の人達は起き出して夕べのたき火のオキをおこしたり、おしゃべりしたり、ごはんの支度をしたり、思い思いにのんびりと過ごしていた。


「普通、朝って時間に追われてるんだけどね。ここってすごくのんびりしてるね」

「ひかりの所は、なんで時間に追われるの?」

「だって、すべてにそれをするための時間が決まってるもの。その時間に遅れないようにしなくちゃ。それがルールだよ」


「私達だって毎日いろんな事してるよ。時にはイノシシが焼き畑に出て来たり、イルカが湾の中に入ってきたり、鳥の群れが大群でやってきた時なんかはあわてて追い込みに行くこともあるけど、毎日のべつまくなしに走り回るわけじゃないよ。

 朝、その日にする事をみんなで話し合って決めるんだ。やりたくない人は自分は別な事をするって言うときもあるけどね。

 ひかりに出会ったときのシンもそうよ。おっ父達は今日は潮目がいいから魚を捕りに行こうって言ったのに、シンは『今日は一人で山へ行きたいんだ』って。おっ父達は一人で山に入るのはどうかと言ったんだけど、結局は大人になるための冒険の一つかなって」


「え~、めいめいが好き勝手して本当にうまくまわっていくの?嫌なことや、つらいことする人がいなくなっちゃうんじゃないの?めちゃくちゃな世の中になってしまうんじゃないの?」

 ひかりは、もし小学校で先生から『今日から、自由にしていいぞ~!』と言われたとしたら・・・と想像し、みんなが好き勝手な振る舞いをする無法地帯のような光景を思い浮かべて、ぞっとしつつ言った。


「ひかりは、嫌なのにがまんしてする事があるの?」


「そうだね、そんなの毎日だよ。大人になって役に立つって言われて、教養だって言われて、常識だからって、好きかどうかもわからない事たくさんしてる・・・・・・でも大人になったら必要だったってわかるって、きっとありがたかったなって思うって・・・・・・」

 ひかりはもごもごと口ごもりながら、普段言えなかった不満を口にした。


「ひかりの世界がどんなのかよくわからないけれど、私達も体のあちこちが痛くなったり、寒くて冷たくて、お腹がぺこぺこで、つらくなって泣きたくなるような事もいっぱいあるよ。


 でもね、やってるとわかるんだ。そのおかげで食べ物がおいしくなったり、寒い死の季節も乗り越えられたり、おいしいもの、美しい物、便利な物、いろんな物が私の手足から生まれてくるよ。その時つらくなったとしても、それを乗り越えると、こんなに素敵な事、大事な事が待ってるんだってわかってくるんだ。


 そりゃあ、最初から上手になんて出来ないし、子供だから力も無いけど、そうやって、自分の手足を使って生み出していくうちに、やればやるほどどんどん上手になって、力もついてきて、どんどん楽しくなってくるんだ。

 そのうちに、古い知恵を人から教えてもらって、真似するだけじゃなく、自分でそこから新しいこと考えつくことも出来るようになってくるんだよ。そうやって、私が教わるだけじゃなく、今度は人に教えることも出来るようになってくる。


 それはこの世界が私達に、精霊の知恵や恵みをわけてくれてるって事なんだって。

 でも、この世界は一人だけのものじゃないから、どんなことでも、欲張って自分だけのものにして一つ所にとどめてしまうと、枯れてしおれて無くなってしまうんだって。

 知恵はみんなの間をぐるぐると巡って成長していくんだよ。


 あと、目に見える、役に立つことだけが大事なわけじゃないって事も知ってるよ。おなかがいっぱいにはならな事でも、心の中がいっぱいになるんだ。例えば、村のトリもそう。トリはもう体は大人なんだけど、子供の時の病気のせいで、心は子供のままなんだ。足も少し引きずらなくちゃ歩けない。


 でもね、トリは村の誰よりも美しい魂をもっているんだよ。だから、トリがそこにいるだけで、みんなが和やかになるんだ。トリの真っ正直な目で見つめられると、小っちゃなこだわりでケンカやいさかいをしている自分が恥ずかしくなっちゃうんだ。

 もちろん、トリには出来ないこともいっぱいあるよ。でもそこはみんなで助け合えば大丈夫なんだ。


 この世界、いろんな事で、みんなで助け助けられて、ぐるぐる輪が巡っていく。みんなが私で、私がみんななんだって事がわかってる。だから自分だけが良ければいいなんて思わないよ。


 それにさ、自分だけ良ければいいなんて、かっこわるいじゃない!」

 アトは明るく言い切った。


「アト・・・・・・私、こっちに来て、なんだか考えさせられる事ばかりだよ。チサの時も思ったけど、ここの子供達って、どこでそんな知恵を教えてもらうの?」

 ひかりは、自分が少し恥ずかしくなって言った。


「そう?誰でも知ってることだと思うよ。みんながそうしてるし。そうしなきゃ困ったこ事になるって嫌と言うほど体験してるし。シンやユクなんて、何べん痛い思いしても懲りてないけどね・・・あたしもだけど・・・・・・」

 アトはぺろりと舌を出してみせた。


「あと、たき火を囲みながら話してもらう口伝でもいろんな話が伝わっているよ。たとえば、欲張りな男が、足の沢山あるムカデになってしまう話や、自分の事ばかりにかまけていた娘が海に捕まって、塩を作り続ける話とか、いろんな先祖の話が伝わってる。

 それから海も山も川も、直接私に教えてくれるよ」


 ひかりは返す言葉がなかった。

 小さな世界、原始的な世界だからわかるんだと言ってしまう事は簡単だった。大きくて複雑な社会だからわからなくなるのだと言い切ってしまうにはあまりに悲しかった。


(文明が進んで幸せと思っていたけど、人の心は進んでるのかな?それとも後退してるのかな?)ひかりはそっと自分に問いかけてみた。


 川べりにつくとアトは「ひかり、まず水浴びしよ!」とさっさと服を脱ぎ捨て川に飛び込んだ。

「ええっ~まだ肌寒いよ~無理だよ~」と泣き言を言うひかりに

「水浴びしてきれいにしとかないと、シラミやノミがわくからね~夕べだってそのまんま寝ちゃって、寝床に運ばれちゃったじゃない。私はちゃんとおっ母にシラミ、櫛でとってもらったよ~」

 アトは気持ちよさそうに泳ぎながら言った。


「げげっ、前言撤回!やっぱり文明社会がいい!」青くなりながらひかりはバシャバシャと頭に水をかけ、ごしごしと乱暴にこすった。


 こざっぱりとすがすがしい顔になったアトとは対照的に、いまひとつの顔で髪の毛から水をぽたぽた落としながら、ひかりはブツブツ泣き言を言った。

「アト~早く帰ろ!風邪引きそう。火にあたって乾かしたい」

「この少し先に暖かい湯の沸く湯谷もあるけど」

「そんなのあるなら、早く言ってよ。そこなら風邪引かないじゃない」

「だって、結構距離あるし、歩いて帰る間に冷めちゃうからいっしょだよ」

「じゃあアト達は湯谷の湯を何に使ってるの?」

「歳をとった人の体の痛みや、ケガの治療に使う事が多いよ」

「今度は、そこでゆっくりお風呂につかりたいから連れて行ってね」

「ひかりってば、病人じゃないでしょ。変なひかり」

アトはそう言いながら、よいしょっと頭の上に水を入れた土器をのっけた。


「うそでしょ~これ頭にのせて運ぶの・・・出来るかな」

ひかりは、よろよろしながら頭に載せて2,3歩いてみた。腰の据わらないひかりの頭上からは、歩くたびにバシャンバシャンと水が無情に降り注ぐ。あっという間にぬれねずみになってますます情けない有り様になった。


「ありゃりゃ、ひかり腰も頭もふらふらだよ」

「わかってるけど、これけっこう重さあるし、言うこときかないのよ」

 そうやってほんの1メートルほど歩いたとき、足元の石につまずき、ひかりはばったりと地面に倒れ、頭の上の器はもろくも四方に砕け散った。


「大丈夫、ひかり!ケガしてない?」

 アトはひかりに駆け寄った。

「大丈夫・・・」ひかりはその場に倒れたまま身じろぎもせずつぶやいた。

「どうしたの?どっか痛いの?」

「ううん、違うの、そうじゃないの」


 ただもう情けなかった、普段、勉強もスポーツも得意とする優等生だけに悔しかった。格好良くない自分がもう情けなくて涙が出そうになった。


「かっこわる・・・こいつのせい、こいつが悪い」

 地面につっぷしたまま、格好悪い自分の原因をつまずいた石にぶつけ、何度も何度も足で石を蹴りつけた。


「ひかり~石はずっとず~っと前からここにいるんだよ。石が悪いわけじゃないけど・・・ごめんなさいね。場所を変わって下さいね」

 アトはよいしょっとひかりの足をずらしてそこらにあった木の棒で石を掘りかえし始めた。


 突然、おなかの底からおかしさがこみ上げてきた。

 ひっくりかえって仰向きになり、天を仰ぎながらゲラゲラ笑い出したひかりにアトはきょとんとした。

 ひかりの笑いは止まらない。


「ひかり、ひかり!どうしたの?頭打ったの?猿の脳みそ持ってこようか?」

 アトは、あせりながらひかりに問いかけた。


「大丈夫、大丈夫!今までの小っちゃなプライドが粉みじんに砕けただけだから」

「えっ?何が砕けた?何言ってるのか全然わかんないよっ!大変大変!ばば様に言って猿の脳みそもらってこなきゃ!」

 大慌てで走り出そうとするアトの足をひかりはあわててギュッとつかんだ。

「大丈夫!猿の脳みそなんていらないから、大丈夫!」

「ほんとに?」アトは心配そうにひかりの顔を眺めた。


 ひかりは、ぱんぱんとほこりを払い立ち上がると割れてしまった器を拾い集めた。

「ごめんね、アト。変わらない事を変えようとしてイライラするんじゃなくて、私のほうが変わっていかなきゃね・・・私、この器と同じ物また作れるかな?」

「大丈夫、大丈夫!今度私が教えてあげるから」

「頼りにしてますね。アト師匠!」

「えっへん!私に任せておきなさい!」


 二人は笑いながら、並んで歩いた。

「そういえばアト、さっき猿の脳みそ脳みそって連呼してたよね。私のお母さん、薬剤師してるんだよ。

 薬剤師って、この世界で言えば、フチの大ばば様みたいな役目なんだけどね。病気の人に、お医者さんから言われたいろんな薬を調合するの。


 以前、お母さんになぜその仕事をしたいと思ったのか聞いた時、昔まだお母さんが小さかった頃の話を聞かせてくれたんだ。

 その頃、お母さんが通う小学校の行き帰りの道に漢方薬のお店があって、そこのショーウインドウの中におっきなキノコやらヘビやらがいっぱい並んでてすっごく怖くって・・・・・・しかも看板にはおどろおどろしい猿の頭の絵が描かれていて・・・・・・これっていったい何にきくんだろう?って、通るたびに疑問に思ってたんだって。


そんなに怖かったのに、なんで薬の道に進もうと思ったののって聞いたら、その時はすごく怖くて不気味だったけど、印象が強かった分、子供なりにいろいろ考えたんだよって。


そしてたどりついた考えが『人は命を頂きながら生きている』って事だったんだって。

『昔から人は、大いなる自然を恐れつつも感謝をし、一木一草に至るまで何一つ無駄にせず、必死で生きのびてきたんだ。私達の感覚で見たら、グロテスクだ気持ち悪いだと、ゴミのように捨ててしまうような物にも、自分達と同じ命を感じ、おろそかには扱ってこなかったんだ』って。


 それに、まだ科学が発達していなかった頃に、どんな深い観察眼や洞察力をもって、これはこの病に効くって発見していったのか、とっても不思議だったし、私達の先祖はなんてすごい人達だったんたろうって思ったんだって言ってた。


 だから、私も昔から受け継がれてきた命の知恵を引き継いでいきたいと思ったんだよって、そう言ったんだ」


「そうなんだ、ひかりのお母さん、まじない師なんだね。まじない師は大いなる精霊の言葉を人間に伝えてくれて、この世は人だけのものじゃないこと。すべては同じ幹から生える兄弟だって事を教えてくれるんだよね」


「フフフ・・・私のお母さんが精霊の言葉を聞けるかどうかは疑問だけど、アト達の世界はどんなに小さな子供でもこの世界の真実を知っているんだね」

 ひかりは明るく笑った。


 家まで帰ると、昨夜の残りのスープを火にかけ、ドングリクッキーを石の上で焼きながらシンが焚き火の所で火にあたっていた。


「おはよ、シン」

「ありゃりゃ、ぬれネズミじゃないか」

「さんざんよ。石につまずいて土器を割っちゃった。寒っ、火にあたりたい」

 ひかりは暖かい火に手をかざした。


「へぼっ!」そう言い切るシンに、

「うるさいわね、だれだって最初は失敗だってするもんよ。男はだまって見守りなさいよ。あたし、自分が何も出来ない赤ちゃんだって事を受け入れたんだから」 

 開き直りとも言える態度で、ひかりはシンに向かってあっかんべーをして見せた。


「へ~やっと気がついたんだ。オレは最初から、そんな失敗はしなかったぜ」

「ごちゃごちゃうるさいわね。今にみてなさいよ」


 そんな口げんかをする2人の間に割って入りながら、弟のユクがにやにやしながら言った。

「ひかり、ひかり。兄ちゃんこんなこと言ってるけどさ、朝起きた時に言ってたぜ。ウタの泉で初めてひかりを見た時、泉の精だと思ったって。この世の者とは思えなかったって。今、ひかりがこの家に来て、一番喜んでるのは兄ちゃんだぜ・・・」

 最後まで言い終えないうちにユクは「痛った~!」と叫びながらおしりを押さえ、焚き火の上をひとっ飛びに飛び超えた。


 そのすぐ後ろをユクのおしりを再び蹴っ飛ばそうとシンが追いかけていた。

 そしてたき火の所には、笑い転げるアトと赤い顔のひかりが残された。





 朝の食事が終わり、夕べのたき火のまわりに村の人々がまるく集まり、今日することを話し合い始めた。そして、シンのおっ父達は、今日も漁に出ることに決め、おっ母達は浜で貝を採り、乾し貝にする事を決めて大人達はそれぞれ準備を始めた。


 子供達もまるくなり、話し合いを始めた。「オレら、山に行こっか?」

ユクが言うと、

「行こ行こ!イタドリ、ゼンマイ、コゴミ、ウド」

「ひりひり辛いノビルを抜いて」

「ギボウシはよおく見て」

「カタクリ、アマナにアケビの葉」

「アマドコロにミ~ズ、ウコギ!」

「イラクサ痛い、クサギはくさい」

「コシアブラにタラの芽、モミジガサ」

「日当たりよけりゃワラビあり」

「おやつにちょいとツバナつみ」

「忘れちゃだめだよ、ナンテンハギ」

「サンショウ、セリにワサビの葉」

「橘の花はまだかいな」

「フキにタケノコ、はよ食べたい」

「ヒラタケ、ナラタケ、シイタケやい」

「けもの道にはワナ仕掛け、途中の川ではシバ沈め、帰り道が楽しみだ」

 アトもチサも他の子供達も大きな声で歌いながら、シナノキの皮や、ヤマブドウの蔓で編まれたカゴを背中にしょって、足取りも軽く山道を進んで行った。


草で覆われた細い道の両脇には、色とりどりの小さな花がそこここに咲きみだれ、甘い蜜を求めて蝶や蜂たちがうれしげに舞っていた。山の木々は、目にまぶしい緑の葉や、色とりどりの花で飾られ、甘い香りが立ちこめていた。木の上では、鳥たちが恋の歌を鳴き交わし、森のすべてが、命の春の訪れを喜んでいるようだった。


そして、その中を元気よく歌を歌いながら子供達が跳びはねて歩き、その後からエカシが杖をつきつきトリと共に歩いてきた。


「ねえ、今歌ってた歌だけど、私、タケノコ、シイタケぐらいしかわからないよ。シイタケだって山で採れるって事、今初めて知ったし・・・

 春の七草で『セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロこれぞ七草』と春の七草の名前は知ってても、野でも山でも生えてる草は、どれもいっしょに見えるんだけど・・・」


「ひかりは、本当に不思議だね。自分の口に入る物を知らなくても、今まで生きてこれたなんて。人がみんな違うように、草にも一つひとつ顔があるんだよ。エカシに一つ一つ教えてもらったらいいよ。エカシはひょろひょろして、いつもおかしな事ばっかり言うけど、実はすごいんだ!何でも知ってるんだよ。おっ母達にいいように言われてるけど、ああ見えて長老なんだ」


「へえ、そうなんだエカシって偉い人なんだね」

「長老って、偉い人なわけじゃあないよ。尊敬はされてるけどね」

「えっ、いろんな事決めたり、命令したりするのが長老なんでしょ」ひかりは、漠然とした自分の中の指導者のイメージを想像しながら言った。


「決めるのは、村のみんなだよ。長老は、みんなの意見を取りまとめ役。一人ひとり考えがあるから大変なんだ。大きい声が真実とも限らないしね。そういうとき長老は昔の口伝をみんなに話すんだ。みんなが、自分の事だけとしてじゃなくて、前にも後ろにも続く、永いなが~い道として考えることができるように」


ひかりは、少し恥ずかしくなった。

「私の住んでる世界って、大人だってそこまで長い目を持って考えてないと思うな。今をどうするとか、どっちが得かとか・・・」


「ひかりの世界に口伝はないの?」

「う~ん、歴史や、昔話は沢山あるけど・・・」


 ひかりは、歴史が得意だった。でも、今考えてみればそれは血の通った先祖達の暮らしではなく、ただの知識でしかなかった。


 それを、自分の先祖達の生きてきた証とも、連綿と自分に続いてきた道としてとらえたこともなく、ましてや今、自分達が歩を進める先に、どんな子孫の道が続くのかなど想像もしたこともなかった。


「口伝があったら、それを私達にも聞かせてね」

 アトは、目をきらきらさせて言った。


「う、うん・・・また今度ね」

 ひかりは、どこまで話せばいいのか迷い、言葉をにごした。そして話を変えた。


「そういえば、だいたい私の所では、山に食べるもの採りにいったりしないし、普段、畑で人工的に作った野菜を食べるよ」

「私達だって、焼き畑でいろんなものを作ってるよ。でも、山にいっぱいある物は、ありがたく山の精霊に分けていただくんだ。それに今の季節だけ、そこでしか採れない物もいっぱいあるしね。その時に採れる物をその時に食べるのが一番おいしいよ!山の幸、海の幸、川の幸、自然の物を食べると精霊達に力を分けてもらえるから、力もりもり!元気になるんだよ!」


「はあ~そういうもんなんだ・・・その時って言われても、私の世界では一年中お店にトマトもキュウリも並んでるし・・・いつがその時なんだか・・・

 教科書では習うけど、いまいちぴんと来ないのよね」


 仙人が雲に乗って近づくようにエカシがひかり達のそばまでやってきた。

「クマはな、冬眠から覚めると、このえぐみのある草をまず食べるんじゃ」

と、かたわらの草を指さした。

「それでな、冬の間の腹に残った物を出してしまうんじゃ。だから、クマが冬眠から目覚める季節には、この草が生えている近くによくおるんじゃよ」


「えっ、てことはこの近くにいるかもしれないってことですか?」

 ひかりは青くなりながらエカシに尋ねた。

「ふぉっふぉっ、そうかもしれんなぁ。クマも人も、山の青物を食べて腹をきれいにせんとなあ」


「は、早く先に行きましょうよ!」

 ひかりは、笑い続けるエカシの背中を押した。

「大丈夫じゃよ、こやつらみたいに騒がしければ、ぬし様の方から逃げていくわい」

 エカシは白いひげをしごきながら笑い、周りの子供達も、天まで届けとばかりに笑って、歌を歌いつつ踊るような足取りで歩を進めた。


 途中の沢で、めいめいが持ってきた竹ずつやヒョウタンに水をくみ、まずはのどの乾きをうるおした。それから、近くでシバを取ってきて蔦で縛り、流れないように石の重しをして木の陰になる所に沈めた。

川の水はウタの泉ほどではないが、驚くほど澄み切っていた。魚たちがきらりきらりと身をひるがえし、水中を泳ぐ姿が手を伸ばせば届くほどに見えた。


「帰りにはいっぱい魚やエビがとれるよ。楽しみだね」 

「ウナギも来い来い。良いねぐらだぞ~」

「ウナギは暗くなりだしてから動くけど、今日は早めに起きてくださ~い!」

 一人が手を合わせてウナギにお願いした。


「こんな単純なので、魚が捕れるの?」

 ひかりは、あまりにあっけない仕掛けに拍子抜けだった。

「大丈夫、大丈夫。いつもこれで採れるから。もう少ししたら、鱒も鮎もいっぱい上がってくるよ。あれもうまいからね~」

 子供の一人は、待ちきれないとばかりに、よだれをぬぐう仕草をした。


 それから、子供達は食べられる山草をてんでに探し始めた。ひかりはため息が出て来た。「ただの草にしか見えないんだけどな・・・」


そこへ、エカシがまたひょろりとやって来るとひかりに言った。

「ひかり、ここに二つの草があるじゃろ。目をこらしてよ~く見て見るんじゃ。この二つは見た目、そっくりじゃが、一方は人にとって毒になり、もう一方は食べられる。どう違うかわかるか?」


 ひかりは、そっくりにみえる二つを見比べてみた。どう見てもそっくりに見えた。色を比べ、臭いをかぎ、それでもわからなくて、そっとまいている葉っぱをはがしてみた。


「ええと、こっちは葉脈がまっすぐで、こっちは、真ん中のおおきな脈から枝分かれする木の葉のような脈です。あと、こっちは葉っぱの裏がざらっとしてて、こっちはすべすべです」

 そう答えながら、まるで学校の先生の質問に答えているようで、ちょっと妙な感じだった。

(そういや、北欧の方に森の幼稚園があるって本で読んだことがあるけど、気分はそんな感じ。エカシは森の精みたいだし、緑のとんがり帽子とかかぶせたらきっと似合うわ)ちょっとふきだしそうになり、あわててもとの神妙な顔つきにとりつくろった。 


「そうじゃそうじゃ。違いがわかったな。もう少し大きくなればもっと違いがはっきりしてくる。こっちに大きくなったのがあったわい。葉っぱが開ききると、ほら、ここにあるように真ん中に茎があって枝のない葉が交互についてくる。こっちは真ん中の茎がなく、長い枝のついた葉が地面から生えておる。この大きくなったのはどっちがどっちかわかるか?」


「ええと、葉っぱの葉脈が変わらないのであれば、これがこっちで、こっちがこれ・・・だと思います」


「そうじゃそうじゃ。よく見ておるな。葉の筋がまっすぐな方は毒じゃから、取らんようにな。あと、はがさんでもわかる方法があるんじゃ。まいている葉の筋をよ~く見てごらん」


「まいている葉の筋・・・筋・・・わかった!まっすぐのほうは、くぼんでるし、葉っぱみたいなのは筋が浮き出ている!」


「ふぉっふぉっ。ようわかったのう。ならば筋が出ている方をよろしく頼むよ。この年寄りを殺さぬようにな。わしゃあ、もうちいっと生きておりたいんじゃ。あと、全部採ってしまうのじゃなく、考えて、次の季節に命が巡るようにしておくれ」

エカシはまたひょろひょろと歩いて行った。

 その後ろをトリが「命が巡る~世界を巡る~私も巡る~」

と、歌いながら歩いて行った。


 ひかりはうれしくなってせっせっと採った。しかし、エカシが言った事を自分なりに考えて、5本あったら、2本は残すように気をつけて採っていった。

(山に草取りに行って何が楽しいんだろうって思ってたけど、これはかなり楽しい!私にも古代の狩猟民族の血が確実に流れてるんだわ!)


 狩猟と呼ぶには語弊があったが、そんなことは気にもせず、ひかりはあちらにこちらに移動しながら背中のカゴに、教えてもらった一種類だけを探して集めていった。しばらく行くとシンがせっせと何かを仕掛けていた

「シン、何してるの」

「ウサギ罠さ。帰るまでに掛かればいいな。そうだひかり、おまえにこれ渡しておくから」

シンは二股に分かれた棒をひかりに差し出した。

「何、これでどうするの?」

「ヘビが出て来たら、これでとりあえず頭抑えて誰か呼べよ」

「ヘ、ヘビ~。そんなんどうするの?」

 ひかりは青くなった。


「薬になるのさ。まあ、お前に捕まえられるとは思ってないけどな。ヘビのほとんどは毒がないから大丈夫だけど、お前とろくさいから噛まれないように用心さ。

 ヤブに入ったりする時は叩いてから入れよ。そうすりゃヘビの方が先に逃げるから。あと、ワラビがあったらつぶして手足にすり込んだらヘビが噛まないって話もあるけどな、そいつはオレは試したことがないからホントかどうかわかんないけどな」

「ご、ご親切にど、どうも・・・」


「あと、あんな風に木の皮のはがれてる木」

 シンは、近くの半分近く木の皮がはがれて、つるつるになっている木を指さして言った。


「あんなのは、イノシシが近くのヌタ場で泥あびしてから木に体をこすりつけて、ダニとかを落としてる場所だから。そんな所や獣道とか通った後は、足にダニがくっついてないか調べといたほうがいいぜ」

 シンの言葉に、いきなりやる気満々だった気持がしゅうっ~と萎えた。

 それからは何か長い蔦や枝が地面に落ちているたびにビクッと跳ね上がりそうになり、虫が足を這ってないかたびたび気をつけながらこわごわ歩いていった。


 きょろきょろ見渡す視線の先、木々の間に明るい広場が開け、かわいらしい紫の花が一面に咲いているのが見え、そこにアトとチサがいるのが見えた。

「アト~、チサ~。良かった。何してるの?」「ひかり~おっ、すごいじゃない。籠の中にギボウシたくさん入ってるね」

「へへっ。エカシに教えてもらってね。馬鹿の一つ覚えみたいに一種類だけ。すごいね、ここ一面お花畑だ。きれいだ~初めてみたよ。山の中にこんなにたくさん花が咲くんだ。これってスミレ?」

「スミレはこっち、これはカタクリ。花が終わってから、根をさらして粉をとるんだ。薬になるんだよ。ほら、私ウドとコゴミ採ったよ」

「私は、モミジガサとミズ」

「わあ、いっぱい!でもやっぱりただの草に見えるな。これワラビ?」とコゴミを指さして尋ねたひかりに、二人はあきれた顔をした。

「ひかり~ワラビはわかるって言ってたじゃない。これはコゴミ。一つひとつ教えるから、こっちに来て」

 二人に、それぞれの特徴を教わりながら、あっという間に時間はたち、みんなのカゴはいっぱいになった。


「さあて、頭の上に太陽が来たからこれでおしまいっ」

 アトは立ち上がるとひかりに言った。

「お昼にしよっ」

 チサもにっこり笑って言った。


「えっ、ここで食べるの?ワイルドだ~」

 なんだか、変なことで感動してる気もしたが、どんなお昼なのかワクワクしてきた。さっきシバを沈めておいた沢に帰ってくると、もうすでにエカシやトリ、シン達が火をおこし、大きな葉っぱに包んだ何かを、熱い灰の中に埋めようとしている所だった。そして火の周りに細い枝に刺された魚がぐるっと並んでいた。


「うわ~いつの間にこんなの採ったの」

ひかりが感嘆の声を上げると、エカシが

「ふぉっふぉっ、ひげで釣ったんじゃよ」

と笑ってみせた。

「ホントに?」と、ひかりがシンに聞くと、

「ホント、ホント。エカシはなが~いひげを懐にかくし持ってんだよ」とシンはひゃっひゃっといたずらっぽそうに笑った。


「ひげを結わえて使うの?」不審げにひかりが再び聞くと、

「ウソ、ウソ!緑の蛾の繭から作った」トリが、生真面目な顔をしてきっぱりと答えた。

「なあんだ、やっぱりひげじゃあなかったんだ。でも私もやってみたい!」

「よし、じゃあやってみるかい」

 エカシは目を細めて笑った。


「この、両方とがった小さなトゲに川虫を刺す。そして魚のおりそうな所の少し上に投げ込む。そして流していって・・・魚がこりゃうまそうな餌じゃわいと思ったら・・・」

 糸がピンと張った。


「ほら飲んだ!」

エカシは器用に魚を釣り上げた。


「それで釣れるんだ」

ひかりは、また拍子抜けで聞いた。


「ふおっふおっ、これは遊びじゃからの。こうやって魚と話すんじゃ。ほれ、やってみるかい?」


ひかりは、言われたとおりにして投げ込んでみた。何度目か投げ込んだ時、ぐいっと魚の引く感触が手に伝わってきた。

「かかった!」

ひかりが、釣り上げようとすると、魚はポチャンと水の中に逃れてしまった。

「うまくいかないな」

ひかりは、がっかりした。


「釣り針ではないからの、うまく引っかけるのは難しいかの。次は、ウナギを狙ってやってみようか。でも今は腹ごしらえじゃ。さあさあ魚も焼けたし、食べるとするかい」


子供達も次々に帰ってきた。

「いいにおい。おなかぺっこぺこだよ」

「よ~し、もういいかな?ふんふん、良い焼き加減。みんな~食べるぞ~こっちのウドとタラの芽の蒸し焼きも出来てるぞ~」

シンがみんなを呼ぶと、トリは焼き加減を吟味して、みんなに魚を配った。


みんな、大喜びで川魚と山菜の蒸し焼きにかぶりついた。ひかりもさっそく一口食べてみた。

「塩味はないけど、おいしい」

「塩は貴重だからね。暑くなったら塩作りもしようね」

「ホントに何でも作るんだ」

「そんなこともないよ。真似することができない技術を持ってる部族もいるし、そこでしか採れない物もあるよ」


「例えば?」

「そうだね、このシンのつけている翡翠のペンダントはここらでは採れないよ。塩や、乾し貝、漆なんかと交換してもらうんだよ。行商が来たり、大きな市がたつ時にね。


 魔除けの赤い砂もここらでは採れないね。あれはとても大事だから、大切に使うんだよ。


 あと、米は畑で私達も作ってるけど、畑を沼みたいにして作ってる所もあるんだって。

 そしてそこには、石とは違う鉄っていう便利なものがあるんだってさ。きらきら光る大きな槍もあるんだって。あまりにも光るからびっくりするよってハヤが言ってた。


でもそんなにきれいなら何で槍なんてつくるんだろ?そんなにきらきらしたら獲物がびっくりして逃げて行ってしまうよね。どうせなら、美しいペンダントにでもすればいいのに。

 でもそんなのは、まだまだ私達の所には伝わって来てないんだ。行商のハヤは海の向こうでそれを見た事あるんだってさ。

黒曜石っていうきれいな鋭い石があるけど、そんな感じなのかな?」


ひかりは、答えるのを一瞬ためらった。そして、以前見たテレビ番組で、古代にタイムスリップした主人公が「歴史が変わってしまうから、過去に干渉しちゃいけない・・・」と言っているシーンを思い出しながら考えををめぐらせ、

「そうかもしれないね」

と、川魚にかぶりつきながら、そつなく言葉を返した。


 エカシも続けて話し始めた。

「ハヤの話ではな、海の向こうの米と鉄の村では、小さな村がたくさんあってな、その村々がまとまって一つとなり、大きいクニと呼ばれるものになっているのだそうじゃ。


 今、ハヤが知っているだけで5つのクニがあり、それぞれのクニの中心には、天の言葉を降ろす王と呼ばれる者がおるそうじゃ。

 そして、そのクニは部族の間の血縁などとは関係なく、近隣の村を力で従え、より強く、より大きくなろうと争いを繰り返しているそうじゃ。それぞれのクニは、独自の優れた技術を持っておるから、進んで仲間となる村もあるし、逆らったとしても強い力で攻め滅ぼされて、奴隷となるだけで、しょせんあらがうことは出来ぬのじゃと言っておった・・・


ハヤの村は大きなクニ達から離れておるからいさかいに巻き込まれてはおらぬが、そんなクニがいくつも出来てどんどん巨大に成長しておる。我らも海の向こうの話と思っておいて良いのかの・・・」

 エカシは物憂げに髭をしごいた。


シンや他の男の子達は、「エカシ、オレ達の部族は強いぜ。オレ達の血縁は隣の海の村もそうだし、草原の村も、川向こうの村もそうじゃないか。それにオレ達の部族の村は、世界を支えるウタの木を守ってるんだろ。負けるわけなんてないさ」と、魚を刺していた串をひゅんひゅんと振り回していきがって見せた。


「子供達、戦うは易く、話し合うは難しい。ワシは、大人としての道を歩みたいと思っておるがな・・・食べるための獣に弓を引くように、人に向かって弓を引くのはつらい事じゃ・・・憎しみは憎しみを生むだけじゃ」


 子供達も、いつもは軽妙なエカシの真剣な口調に、真面目な顔つきで言葉をうけとめていた。


「さあ、シバを上げて、村へ帰るか・・・」

そう言うとエカシは、ひかりには念仏のようにも聞こえる、まじないの言葉をつぶやきながら、たき火の始末をはじた。


 子供達はシバを水から上げた。小さなエビやカニ、小魚らが一緒にすくい上げられ、みんな「あっちへ行ったぞ!こっちにはねてる!」と、きゃあきゃあ言いあいながら、ピンピン跳ね回るエビたちを捕まえた。小さなエビたちは透き通るような体に命の輝きをいっぱいにあふれさせ、ひかり達の手のひらから逃れようと跳ね回り、何匹かはチャプンと水の中に逃れていった。


 燃やした跡もわからないほど、きれいに焚き火の始末を終えると、ウサギワナを見て回った。残念ながら、一羽のウサギもかかってはいなかったが、帰り道に、みんなは焼き畑の方にまわり、ワラビもカゴいっぱいにつんだ。


「ここら辺は、同じような小さな木しか生えていないのは、何故?」

 その周辺が、小さな木しか生えていないことに疑問を持ち、ひかりが尋ねると、エカシは答えた。


「ここは、焼き畑を何度もした後じゃからの。畑の次にはクリを植えてクリ林にするんじゃよ。

 木が小さい今はワラビがたんと生える。その後は葛も生える。ワラビや葛の根からは食べられる粉が採れる。繊維も採れる。

 そして木が大きくなったらクリの実が採れる。その実が採れなくなったら、次は良い柱となって我々の家を支えてくれる。

 そしてまた命の季節に火を放つと、すべてが灰となり、それが種を受け止め、作物を育ててくれる。我らの命が巡るように、この山も生まれ、育ち、死を迎え、またよみがえるんじゃ」


「命は巡る、世界を巡る、私も巡る・・・」

ひかりは小さなクリの木を見つめながらつぶやいた。


 帰りの道は、少し草丈が長かった。


「ヘビが出て来そう・・・」

 ひかりはシンのくれた棒で足元をたたきながらこわごわ進んだ。


 いきなり、前の方を進んでいたシンが息を切らしひかりの方に戻ってきた。シンの手を見ると長いものがブランとたれ下がっている。


「ぎゃ~近寄らないで~!」

 全身の毛穴が逆立ったような気がして、ひかりは後ずさりした。

 後ろには、エカシとトリが立っている。ひかりは横にあった一本の木の後ろに張り付いた。


 シンは息を切らしながらヘビをグイッとつきだした。

 ひかりは声も出せず、ますます木に貼りついた。

「ただ、説明しようと思っただけだから逃げんなよ。このヘビ、こいつは毒がある。マムシっていうんだ。

 体がヘビのくせにずんぐりしてて、太くて、短い。

 こんな丸っこい模様があって、色は茶色だったり黒っぽかったりいろいろなんだ。

 大きな石の影とかに隠れてることが多いから、石に腰を下ろす時とか、よ~く気をつけろよ。

 こいつには絶対近づいたらダメだからな。採ろうなんて考えるなよ」


「か、考えるわけないじゃないっ!」


「おとなしいヘビだから、こっちから攻撃しなけりゃ、ヘビの方から逃げていくからな」


「だって、シン。そう言いながら、捕まえてるじゃない」


「捕まえたのは、お前に見せるためだからさ。とにかく、この模様目に焼き付けとけよ」シンはそう言うとさっさと先頭に戻っていった。


 親切なのか、嫌がらせなのか、正直勘弁してほしいと思いつつ、ひかりは頭にヘビの姿を焼き付けた。

 きっとこんな事にならなければ、一生マムシなんて実際に見ることはなかっただろうと思いながら、ひかりが小さい時に亡くなったひいおばあちゃんの事を思い出していた。


 ひいおばあちゃんの家は郊外の田んぼの中にあった。ひかりがあまりに小さい頃で、もうほとんど記憶になかったけれど、1つだけ鮮明に覚えている事があった。庭の片隅に小さな祠があって、朝になるとひいおばあちゃんがお供え物を持って手を合わせていた。

 ひかりが「その小さいお家は何なの?」と聞くとひいおばあちゃんは笑いながら「白ヘビ様がいらっしゃるんだよ。この家を守って下さってるのさ」と答えた。


子供ながらにそんなの迷信だと半信半疑で聞いていたある日、ひかりはそれをお兄ちゃんと一緒に見たのだった。


祠の横には平たい石があって、ちょうどそこは日の光があたってぽかぽかと気持の良い場所だった。時々ひかりはそこに座って、隣にある池の鯉を眺めたりしていた。


春だったか、夏だったか記憶ははっきりしないが、ひいおばあちゃんの家に行った時、ひかりはお兄ちゃんと二人で、その石の上に小さな真っ白なヘビがお日様を浴びながら気持ちよさそうにとぐろを巻いているのを見た・・・二人は息をのみ、ただじっと黙って見ていた・・・


しばらくすると、白ヘビは音もなく石から降りて、祠の下の石垣に消えていった。二人は、もう大興奮でひいおばあちゃんの所に走っていった。ひいおばあちゃんは、ただ笑って、

「そうかいそうかい、やっぱりいらっしゃっただろう」

と、二人の頭をなでてくれた。


 それから、何年かしてひいおばあちゃんは亡くなった。

 そして、誰も住まなくなったその家は売りに出され、更地になって、だれか他の人が住むようになってしまった。


あの時の、何もない更地を見たむなしさは、ひかりの胸の中に今も残っていた。

おばあちゃんが住んでいた、独特の香りが漂う古い木の家も、ひかり達が一度も入った事のない白壁の倉も、庭にあった鯉の池も・・・もちろん祠も影も形もなかった。


(あの、白ヘビ様はどこにいってしまったんだろう・・・

 それとも、あれは実体じゃなく、人々の想いが形となって表れた幻だったのかな・・・

 昔の人々のような信仰がなくなった現代では、もう形をとどめていけなくなったのかもしれない・・・

 まだ、ひいおばあちゃんの時代には、生き物と人間の関わりがいろんな形で残っていたんだよね・・・

 でも、もう私の時代には影も形もない。

 これってもしかしてものすごい文化の喪失・・・なのかな?

 それとも、文明が進んだ現代には、いらない不必要なものでしかないのかな・・・)


 ひかりは、昨日からの原始的な生活と現代生活を比べて考えた。思ったよりも悪くないかも・・・と少し思ったが、でもやっぱり現代生活に早く帰りたいと心の底から願わずにはいられなかった。


 帰る途中、トリがにっこり笑って、かたわらに生えていた赤っぽい草を採り、猫じゃらしをもっと繊細にしたような穂をくるっとむいてひかりに渡してくれた。


「ありがとう、これは何?」とひかりが聞くと、トリはカシカシと穂を噛み、

「ツバナ、甘いよ」と笑った。


 ひかりはおそるおそる口に入れて噛んでみた。ほのかな甘さと草の香りがした。チョコレートや飴の甘いお菓子の味に慣れているひかりには、あまりに微かな甘さだった。


「甘いね」トリの目は本当に幸せそうな輝きを放っていた。




 村に帰りつくと、みんなは手慣れた様子で、土器に湯を沸かし山菜に灰をまぶして湯がき、草で編んだ菰の上に手早く並べていった。何種類かは一軒の小屋の、床にいくつもうがたれた穴の中に塩や葉っぱと一緒に詰めこまれていった。


「なんだか、この小屋の中、外よりひんやりする」

ひかりがそう言うと、エカシは

「この小屋は、貯蔵用の小屋じゃ。地面を粘土で塗って、その上に薪をのせ、火で焼いとるんじゃ。大きな大きな焼き物みたいなもんじゃよ。暑い時でもひんやりと涼しいんで、ワシは暑い時にはよくここに逃げ込んでは穴の中のタケノコやらをかじっては女達に怒られておる。狸のせいにするんじゃが、なぜか女どもにはわかってしまうんじゃよな・・・


  山の奥の奥、頂に近い所には、冷たい風がいつも吹き出す風穴があって、そこの民はその穴を食べ物の貯蔵に使ったりもするがな。残念ながら、ここらにはないんじゃ。この裏にも小さな穴が開いておるが、そこはとても小さい洞窟で、ワシらは、魚や肉の燻製を作る時に利用しておる。


 ワシは子供の時から肉や魚と一緒に燻されて、こんなにカラッカラに乾燥してしまったわい。じゃから虫もつかんわ」エカシはふぉっふぉっと楽しそうに笑った。


「誰が最初にそんなこと考えついたの?私だったらとても気がつかないわ!」ひかりは感心して言った。


「どうすれば良いかと、考えを巡らせながら自然を見つめていたら、答えは自ずと見えてくる。ひかり、もうすぐお前にも見えるようになる」エカシは目を細めて優しく笑った。


「お~い!ひかり、終わったから海行こうぜ」シンが小屋に飛び込んできた。他の子供達も口々に「今度は、う~み!」と歌いながらやってきた。

 エカシは、大きなあくびを一つして「ワシは、昼寝じゃ」と言いながら自分の小屋へと戻っていった。




 海に向かって、子供達は我先にと駆けていった。真っ白い砂浜は日に照らされまぶしく輝き、海は穏やかで青く、はるか遠くまで、透明なガラスのように透き通っていた。


「気持ちいい~」ひかりは潮の香りを胸一杯に吸い込んだ。

おっ母達は砂浜の少し上の林の縁で、採った貝をせっせと湯がき、竹で編んだざるにどんどん並べ干していった。


「おっ母、もらうよ!」子供達は手を伸ばし貝をおやつに囓った。ひかりも、一緒にもらって噛んでみた。濃厚な甘い味と海の香りがした。

「おいしい!」おもわず声に出た。


「おいしいだろ!止まらなくなるよね」ムチナが口をもぐもぐさせながら言い、

「ムチナ、あんたの口が止まる時は寝ている時かしゃべってる時だけだね!」と、だれかが笑いながら言った。

 子供達は、ひとしきり貝を食べると、

「今度は、向こうの岩場に行ってみようぜ」

と、また風のように走りだした。


「頭の黒いネズミたち。気をつけるんだよ!」

 おっ母達の声が、切れ切れに風に乗って伝わって来た。

 川を渡って対岸に着くと、そこは、さっきまでの、真っ白な砂浜と打って変わって、ひいおばあちゃんの家にあった洗濯板のような、でこぼこの岩場になっていた。そして、岩がへこんだ部分には、波に取り残された潮だまりがあちこちにできていた。


「わあ~水族館だ!」

 ひかりは歓声をあげた。潮だまりの中には、赤や緑の海草が揺れる間に、小さな魚達が群れになって泳ぎ、水底には大きな口を開け閉めしながら、愛嬌のあるどんこがついっついっと動いては止まる動きを繰り返していた。小さなウニの子供達は、トゲトゲした体を穴の中に押し込んでそっと隠れんぼをし、岩の割れ目では、小さなイソギンチャクがゆらゆらと水玉模様のついた触手を優雅に揺らし、魚たちをおいでおいでといざなっていた。石の隙間には小さなカニが隠れ、貝殻を背負ったヤドカリ達が、せわしなく餌を探して小さなはさみを動かし、何かをせっせと口元に運んでいた。そして、川と同じような小さなエビが、透き通った体に緑の縞模様を見せながら優雅に泳いでいった。


「神様の箱庭だ・・・」ひかりは上からのぞき込みながらつぶやいた。


「お~い、ひかり~」シンが波打ち際で、ひかりを呼んだ。ひかりが、シンの所まで行くと、シンは、

「よ~く見てろよ」と、水の中でそっと手を開いてみせた。

「わあっ!貝が泳いでる」

 小さな二枚貝が、貝殻を閉じたり開いたりしながら、ひらひらした触手のようなものを揺らしながら泳いでいた。なんだか、その一生懸命さがあまりにはかなげで切なく、いとおしささえも感じられた。

「みんな、一生懸命、生きてるんだね」

ひかりは、しみじみと言った。


「あたりまえだろ」そう言い放ったシンの言葉にひかりは何故だかカチンときた。


「もう、ほんっとにデリカシーのない奴!馬鹿、馬鹿、馬鹿シン!」ひかりは、捨て台詞を残し他の子供達の方に駆けていった。でも本当は、ちょっぴりロマンチックな展開を期待していた自分自身の心に戸惑いを感じて、心の中はドキドキと大きく波打っていた。




 磯遊びも終わり、日も傾きかけてきた。太陽は一日の終わりを惜しむかのように、虹色の光を投げかけ、雲はえもいわれぬ天上の色彩に染め上げられた。

「まだ、夕焼けでもないのにこの至上の光景・・・どんな絵画でも描ききれない」ひかりは感動しながらそこにたたずんでいた。

「世界は、こんなに美しいんだ・・・」


そこに、シンがやってきた。

「また、感動してんのか」


「悪かったわね、当たり前のことにいちいち感動してて!」ひかりは、シンに向かってあっかんべーをしてみせた。


「お前の世界には一生懸命生きる事や、当たり前の美しい風景がないのかい?」シンは不思議そうに尋ねた。ひかりは、ちょっと答えに詰まった。


「な、ないわけじゃないけど・・・普通に暮らしてる中には、あまりないかもしれない・・・テレビの中とか、特別な時ぐらいしか出合えないかも・・・」と、自分の今までの生活を振り返りながら答えた。


「そっか・・・じゃあ、今ここでいっぱい体験したらいいさ。

 どんどん自分の心の乾いた部分に水をあげて満たしていけば、いつかそれはあふれだし、今度はお前が誰かを満たしてあげれるようになるんじゃないかな・・・きっと・・・」


 ひかりは、ここに住む人達が、子供ですら、こんなにも穏やかで、深い洞察力をもっているのか、その一端が見えた気がした。その糸口をつなごうと一生懸命考えを巡らせ始めた時「ところで、テレビってなんだ~?」シンが間の抜けた声で聞いてきた。


「あ~もうっ!なんだかつかみかけてきた所だったのに!馬鹿~!」まとまるかに見えた考えは、一瞬にして霧のように何処かに散っていってしまった。


「なんだよ、馬鹿馬鹿ってさっきから!お前、ホントに人間ができてないな!かわいくないぜ!」


「あんたに、かわいいなんて言ってほしくないわよ!せっかく考えがまとまりそうだったのに!」


 派手にケンカを始めた二人に、周りの子供達がはやし歌を歌い始めた。

「夫婦けんくぁ、犬も食わね~。いさかいするはササガニか。けんくぁと思えばオス食われ~哀れ末路は糸巻きか~」

「うるさ~い!」シンは怒って子供達を追いかけていった。


 そこへにっこり笑って、ムチナ家の長女のアイが話しかけてきた。

「男って、いつまでも子供っぽいわよね」

 ひかりは、ちょっと大人の雰囲気のアイにどぎまぎしながら答えた。

「そうですよね、私の世界でも同い年の男の子はいつまでも子どもっぽくって困っちゃう。アイさんは、おいくつなんですか?」

「私は、15。次の祭りの時に大人の儀式をするのよ」

「えっ、15でもう大人なんですか」

「そう。そして村の外から相手を見つけるの。

同じ血族同士は一緒になれないのよ。お互いの血は入れ墨である程度はわかるし、私達も近い血はつきあいがあるからわかるわ。

 相手を探すのは、祭りの時や、村同士で共同の狩りや漁をする時。あとは時々、村々を男の子達が訪問して来る時があるから、その時に一緒におしゃべりするの。そして素敵な相手を見つけたら歌を送ったり、一緒に踊ったりしてお互いの気持を確かめ合うのよ。


 それから、お互いの村で認められて、婚姻の儀をとりおこなった後、どちらかの村で、新しい家を建てて住むの。うちの家は女ばっかり4人姉妹で、全員が村の外に出て行ったら、母さん達がさびしくなっちゃう。かと言ってみんなが村に残っても駄目なのよね。一つの村に家が15軒を超えてしまったら、村が潰れるという言葉があるの。食べていけなくなっちゃうのよ・・・

 その時は新しい村を自分たちでつくりあげていかなくちゃいけないの」


「新しい村をつくる・・・」ひかりには途方もない言葉のように聞こえた。


「でも大丈夫!自分たちだけでつくるわけじゃないから。元の村のみんなが手伝ってくれるわ。外の世界にたった二人で放り出されるわけじゃないのよ。心配なんてないわ!」アイは力強く答えた。


「それに、村の外の人としか結婚できないんだ・・・いつもは会えないんですね」ひかりは一年に一回しか会えない、七夕の織女と牽牛の伝説を思い出しながら言った。


「基本的にね。同じ血族同士で一緒になると、良くないことがおこるって口伝で伝わっているの。だから、他の村から探すのよ。

 大昔は山が火を噴いたり、地面がゆれ動いたり、疫病がはやって、人々がばたばた亡くなったり、津波で村がさらわれたり、極限まで人々が追い詰められて、私達の血が絶えてしまいそうになったことが何度もあったのよ。でも私達の先祖は、そこから何度でも立ち上がってきたわ。どんな事が起こっても、あきらめずに自分たちで生きる道を切り開いて来たのよ」


「アイさんも、もう相手を見つけているんですか」


「ふふ・・・今度の村同士の集まりの時に教えてあげるからね。でも、シンはいいわね」アイはひかりを見つめながらにっこり笑った。


「何故ですか?」


「だってひかりは、この村の誰とも血がつながってないし、同じ村に暮らしているから、シンはいつでもひかりと一緒にいられるもの」


 ひかりは、真っ赤になった。

「いやですよ!変なこと言っちゃ!からかわないで下さい!」


「シンはいい狩人になると思うわよ。考えてあげてね」

 アイは、優しく微笑んだ。




 おっ母達と合流して、乾し貝をぎっしり入れたカゴを背に、林の中のゆるやかな上り坂を上がって村についた。


 その日の夕食は、子供達が午前中に採った山菜と川魚に小エビ。おっ母達が砂浜で採った貝。それに磯遊びの時に採ったカニやタコ。帰る道々折り採ったツワブキ。おっ父達の採った鯛やサワラ、ハマチにヒラメ。イノシシから採った脂を入れた豆とヒエのおかゆがならんだ。


今日も、みんなでにぎやかに話をしながら火を囲みつどった。焼けた石の上で魚や貝がジュウジュウとおいしそうな香りをあたりに振りまき、みんながそれぞれ葉っぱのお皿に取りわけ、手づかみで食べた。自分の採ってきた命がそのまま自分の血に肉になっていくことを、ひかりは生まれて初めて実感し、少しのとまどいを覚えた。


目の前で、母親が小さな子供に魚の骨を取りのけて、フーフーと冷ましながら食べさせる姿は、時代が違っても変わらない家族の愛情を感じさせた。ひかりは家族を思い出し、寂しい気持になった。


「ほら、おかゆ」チサが木のお椀におかゆを入れ木のスプーンをつけて渡してくれた。

「わあ、すてきなスプーンだね」ひかりは、鮮やかな赤で塗られたスプーンを見ながら言った。

「これは、川向こうの村で作るの。漆細工はもうちょっと暑くなってからだけど、そこでは土器も作ってるんだよ。今度、共同で土器作りするから、ひかりも作ろうね!けっこう難しいよ。コツがいろいろあるんだよ。下手くそな土器を作ったら、いつまでもお湯が沸かない器になっちゃうんだ」


「お湯が沸かなかったら、お料理できないね」


「そうそう、だから、ちゃんと言うことを聞いて、目を皿のようにして教えてくれる人の一挙手一投足を見ておかなきゃいけないんだよ。まあ最初のうちはうまくできないから…へへっ、実を言うと、私のはまだ煮炊き用には使ってもらえないんだ」


「な~んだ、チサもまだできないなら、初心者の私はまだまだじゃない」


「わからないよ。ひかりに、その才能があるかもしれないじゃない」


「そうだね、やってみなくちゃわからない!可能性はゼロではない!ってね」他愛ない話をして笑いころげながら夜もふけていった。


 太陽が今日の最後の光を投げかけると、金色に輝きながら、雲が赤に紫に染められ、空の端から徐々に濃い藍色にと置き変わっていった。


そして、夕べは半分夢うつつで見ていた星空がひかりの頭上に広がった。

「うわ~星が降ってくる!」ひかりは感嘆の声を上げた。


それは、生まれて初めて見る光景だった。数え切れないほどの星々がそれぞれの色を放ちながら、空いっぱいに何重にも重なって散りばめられ、月明かりならぬ、星明かりで足元に影ができるほどだった。


「夢を見たかと思ったけど、本当に星雲が見える・・・」ひかりの目に涙がうかんだ。「天地創造の世界だ・・・」


 そして、その輝く星空の下でフチの大ばば様や、エカシの語る昔の物語が生き生きと語られ、天地創造の歌と踊りが繰り広げられていった。


「世界は、私達の住んでるこの世界は美しい・・・」ひかりはつぶやいた。





 ひかりは、それから毎日一つ一ついろんな事を学んでいった。もう、今では水くみもお手の物だった。いっぱい失敗もしたが「失敗する事が悪いんじゃないさ。失敗しない奴なんてこの世にいない。だから、何がいけなかったのか自分の頭でよ~く考えて、出来るようになっていく事が大事なんだ」と、自分を認めてくれるみんなの暖かい声に押されて、もう一度がんばろうとチャレンジする心になれるのだった。


 毎日、いろんな事をした。川向こうの村では土器を作り、彼岸花のデンプンも作った。川では、サザエの殻をつけたひもを引いてゴリを追い、こんがりと焼いて干した。春先に採っていた藤の皮からは繊維を取り糸にしていった。


アンギン編みをして、自分の服も作った。服を作り、自信をつけたひかりは、幼稚園の時に作った毛糸のポシェットを思い出しながら木の皮でポシェットも作ってみた。ひかりの作ったポシェットはウタの村の流行となって、ひかりはその作り方をみんなに教えてあげた。


海ではおっ母達と乾し貝を作り、わかめやアンロクを採り、めかぶを焼いて食べた。塩作りもはじまった。海草と海の水をつかって根気よく塩を作っていった。塩作りはまだまだ試行錯誤で、村の人達はいろいろ新しい方法を考えながら試していった。


気温が上がってくると、鮎がまるで小さな銀の矢を放つように続々と川に登ってきた。続いて、河口に鱒もやってきた。寄せては返す透明な波を通して、鱒たちは銀の体をひらめかせ波が輝いて見えるほど押し寄せていた。


川の滝の所では、まだ小さな透き通るような淡い灰色のウナギの稚魚たちが、川っぷちの水の勢いの少ない岩肌を選んでびっしりと張り付き、上流を目指して登って行くのが見られた。


みんなは、毎年繰り返される自然の恵みに感謝の気持を込めて歌い踊り、祈りを捧げた。


山でイノシシと競争しながらも、たっぷりと採ったタケノコや山菜は、塩漬けにしたり、干して保存していった。山でゼンマイを採って湯がき、柔らかく干す方法も教わった。


漆かきをして漆にかぶれ、サワガニをつぶした汁を薬にと、顔中に塗りたくられた事もあった。かゆいし生臭いし、いてもたってもいられないとはこの事かと心の底からひかりは思い、大変な目にもあった。

焼き畑では、蕎麦やアワの種まきをしたり、毎日が新しいことの連続だった。


 毎日をそんな風に過ごしていたある日、

「ひかり、今晩あたり赤ちゃんが生まれそうだよ」シンのおっ母がおなかをさすりながら言った。


「わあっ!私に何かお手伝い出来ますか?」ひかりは目を輝かせて尋ねた。

「そうね、アトと一緒に産屋の準備をお願いするわ」

「産屋?」

「そう、産屋。そこは今までどんな嵐や水害の時にも大丈夫だった場所に作られているの。この村の女達は、みんなそこで赤ちゃんを産むのよ」


 そこで、ひかりは、アトや他のおっ母達と連れだって準備を始めた。産屋は、普通の家よりも少し小さく、床には白い砂が敷き詰められていて、明るくからっとしていて気持の良い場所だった。


ルテハばばのてきぱきとした指示の元、みんなは、産屋を掃き清め、水をくんできた。そして、柔らかな草を刈って床を作り、その上に菰を敷いた。それからみんなの今晩の食べ物の準備もした。赤ちゃんの胎毒下しと言われる蕗の根も山から採ってきた。


準備がすべて終わると、フチの大ばば様が火床に火を入れ、手前に土で作った土偶を置くと、まじないの言葉を唱え始めた。


「出産は生と死との境目じゃから、精霊達におすがりするんじゃ」ルテハばばは神聖な火を見つめながら手を合わせた。


 やがて、陣痛が始まったシンのおっ母がおっ父に手を引かれ産屋の近くの岩の所まで来た。そこからルテハばばがシンのおっ母を引き受け産屋まで連れてきた。


 ひかりも、産屋の外に登るまるい月を見ながら、赤ちゃんが無事に生まれてくれることを祈った。産屋の中に入ると、いつものように明るいおしゃべりや歌が充ち満ちて、和やかな雰囲気の中、シンのおっ母は寄せては返す陣痛の波に揺られながら横になって時を待った。


夜が更けるにつれ、おっ母の陣痛の波はだんだんと高くなり、間隔が短くなってきた。女達の歌声はそれに合わせて高くなり、低くなり、ひかりやアトは、陣痛の波に合わせておっ母の腰をさすった。

「おっ母、苦しい?痛い?」アトが涙を浮かべて聞くと、おっ母はふうっと大きく息をつきながら、

「野の花が開くように、海の波が寄せるように、その流れを受け入れるだけなんだよ。逆らわず、あらがわず、力を抜いて息を吐き、その波に揺られていく。ただそれだけなんだよ・・・」と小さく笑って見せた。


いよいよ、陣痛の間隔が短くなり、産屋の屋根から下げられた麻縄にすがるようにしてアトのおっ母は大きく息をついた。そして、最初に頭がのぞき、受け取るルテハばばの手の中にまず頭が、そして肩が出てきて、つるんと赤ん坊が生み落とされた。

「おうおう!元気な男の子じゃ!」ルテハばばは大きな声で言った。周りのみんなも喜びの声を上げ、二人の無事を喜んだ。


 フチの大ばばさまが、後産のえなを壺に収めた。ひかりは、初めて見るえなにぎょっとしつつも不思議に思い、大ばば様にどうするのかと聞いてみた。

「これは、子供が健やかに育つよう、祈りを込めて、みんながよくまたぐ場所に埋めるのじゃ。シンのおっ父に渡し、無事に生まれたことを伝えておあげ」そう言うと、ひかりとアトにえな壺を渡した。


 ひかりとアトは昼間のように月が照らす中、村を通り、今日一日の出来事にどきどきしながらおっ父の待つ家に着いた。


 入り口からそっとのぞくと、シンのおっ父は囲炉裏の前で、一人縄をなっていた。シンとユクは待ちくたびれて囲炉裏の側で眠っていた。


 笑顔のひかり達を見ると、おっ父はほっとした様子で「両方とも無事だったかい?」とまだ不安を残しつつ尋ねた。ひかりが母子共に元気なこと、男の子だったことを伝えると初めて笑顔が浮かんだ。それからシンとユクを起こして、みんなで祈りを捧げながら、えな壺を出入り口の所に埋めた。


産屋に帰る道の途中、ひかりはアトに話しかけた。

「以前私のお母さんから、赤ちゃんが生まれる時は、とても苦しいものだと聞いてたから、すごく怖かったけど本当は違うんだね。出産の痛みは、命が新しい世界に生まれ出る扉を開ける為のもので・・・だからお母さんもそれを受け入れて、赤ちゃんと一緒に扉を開くんだね・・・」アトもうんうんとうなずきながら答えた。


「新しい世界に初めて生まれ出る時は、いろんな痛みがあるけど、それを受け入れ、乗り越えて人は強くなっていくんだよね・・・」

 二人は、赤ちゃんの無事な成長を心から祈りながら、足取りも軽く元来た道を帰っていった。




ここのところずっと雨が続いていた。毎日むしむしと蒸し暑く、家の中で過ごすことが多い子供達は、なんだか心の中までじんめりするようでイライラがつのっていた。シンやユクは、繊維を取るための藤の皮を木槌でドンドンと叩くことで、そのうっぷんをはらしているようにも見えた。


ただ、赤ん坊を世話するシンのおっ母は、どんなに雨が続こうが、そんなことを意にも介せず、毎日朗らかにくるくると働いていた。子供達が、ぐずぐずと文句を言うと

「ほらほら、お前達が笑わなくっちゃ、お天道様も出てこれないよ」と太陽のように笑うのだった。


 ひかりは(シンのお母さんは太陽だ!)と思いながら、お兄ちゃんが亡くなった後の自分の母親の事を思った。お兄ちゃんがいなくなった家は火が消えたようだった。もともと口数の少ないお父さんと、それまではおしゃべりだったお母さんが会話する光景も、ひかりたちの目の前ではめっきり見られなくなってしまった。

(私のお母さんは、今は冷たい月だ・・・)ひかりはそう思った。それから(私はどうなんだろう・・・)と自分自身の心に問いかけた。

 心の中はまだ晴れてはいないようだった・・・




 やっと、久しぶりの晴れ間が出て、子供達は家の外に飛び出した。


「イチゴ採りに行く人~」ユクが声を上げた。みんなは一も二もなく賛成し、駆け足で山道を上がりながら道の周りに生えている、中が空洞の赤いクサイチゴを摘んでは、口いっぱいにほおばった。甘酸っぱい味が口の中に広がり、初夏の訪れを感じさせた。


 道ばたの木には、山藤の蔦が巻き付き、薄紫の花房をいっぱいに垂らしていた。その周りを大きな蜂が、低い眠たげな羽音をたてながら飛んでいた。山の中には以前とは別の甘い香りが満ちていて、ひかりは久しぶりの山の空気を胸一杯に吸った。


それからひかりは、しばらくの間静かに、自分が木になったかのようにじっとそこに立ってみた。

すると、今まで隠れていた森の生き物たちが見えてきた。「ツツピーツツピー」と鳴き交わす声だけが聞こえていた小鳥たちの姿があちらの木の枝、こちらの木の枝に見受けられ、下の茂みでは、小さなネズミのような生き物がかさこそと動き回り、しっぽがちょろりと見えては忙しそうに消えていった。


すぐ後ろで、ピシッ、ボキッっと木の枝を踏むような音が聞こえた。ひかりが、誰か他の子供が近づいてきたのかと思って後ろを振り返ると、大きな耳に、真っ黒な大きな瞳、柔らかく濡れた鼻が目に飛び込んできた。

(シカ・・・!こんなに大きいの・・・?)声も出せずひかりが立ちすくんでいると、シカはしばらくの間、ひかりと目を合わせていたが、急に怯えたような鳴き声を一言残し、きびすを返すと白いふんわりとした尾っぽを見せて跳びはね、風のように走り去って行った。


 ひかりがほっとして息をつき前に向き直ると、すぐ目の前から脱兎のごとく、足の長い白いぽつぽつのある何かが走り去っていった。

 あっけにとられてその後ろ姿を見送ると、それは小さな子鹿で、走り去る向こうに、先ほどの母親らしき鹿が待っていた。親子は一緒になると連れだって木立の向こうに走り去っていった。


(子鹿が目の前にいたのに、ぜんぜんわからなかった・・・下手すれば、私踏んでたかもしれない)ひかりは子鹿のかくれんぼのうまさに舌を巻いた。


 周りの小鳥たちが、急に静かになったのでいぶかしく思っていると、上空を大きな鳥がゆうゆうと飛び去っていった。そしてそのすぐ後に、シンが息を切らし走ってきた。


「ひかり、こっちに鷲、飛んできたかい?」

「今、上を通り過ぎたのがそう?それなら、あっちに飛んで行ったよ」ひかりが答えると、シンは「よっしゃぁ!」と叫び声を上げながら走っていった。「何なの、あれ?」ひかりは少しあきれながらも、興味をそそられシンの後についていった。トゲのあるヤブに引っかかれ、石につまずきながら走り、途中ではイノシシの巣を踏みつけて、びっくりしたうり坊達が蜘蛛の子を散らすように四方に逃げていった。ひかりは母イノシシがいなかった事に心から感謝しながら走った。そして、もう走れないと根を上げそうになった頃、やっとシンが止まった。


「くやしいな!あんな崖の上だ!」悔しげなシンの声に、息を切らせながら見上げると、崖の中腹に枝を重ね、大きな巣が作られていた。

「巣なんて見つけてどうするの?」ひかりがハアハア息を切らせながら尋ねると、

「雛を飼い慣らしたいのさ」とシンは目をきらきらさせながら答えた。


 ひかりが住んでいるウタの村でも、そのほかの村でも、そこの子供達はいろんな動物を飼っていた。犬、ウサギ、アナグマ、狸、リス、モモンガ、イノシシの子供のうり坊・・・野生の動物は大きくなると山に逃げ帰ってしまう事も多かったが、小さい時から飼っている動物の中には子供達に慣れて、ペットのようになついているものもいた。


その中でも、鷲や鷹は男の子達に人気があった。子供だけでなく、おっ父達にも人気が高かった。鷲や鷹という生き物には、何か男心をくすぐるものがあるのかもしれなかった。


「一山越えた谷の村では、鷹を使って狩りをする所もあるんだってさ。今度、おっ父と一緒に行って、その方法を教えてもらいたいな」シンは夢見るような瞳で、うっとりとつぶやいた。


 それからというもの、シンはとりつかれたように山に通い詰めた。鷲の雛を手に入れる為にあの手この手で試しているようだった。シンのおっ父も時々は手伝ってくれているようだった。


二、三日たったある日。シンが意気揚々と家に帰ってきた。持っている袋が大きく膨らんでいる。

「捕まえたの?」ひかり達が聞くと、あちこち擦り傷だらけになったシンが、うれしげに袋を開き、まだ白っぽい羽が残る雛をそっと見せてくれた。雛と言うにはあまりに大きく猛禽類のすごみがあった。皆をにらみつけた眼光は鋭く、威嚇するように大きく嘴を開きシャアと叫び声を上げた。


「怖い!こんなのよく捕まえられたね」アトがおびえながら言うと、シンはうれしげに

「巣の中に二羽いたんだけど、こいつ羽ばたきの練習か、兄弟ゲンカかわからないけれど、巣から落ちたんだ。飛び去ってしまうかとどきどきしたけど、まだ上手には飛べなくて。なんとか取り押さえてやっとの事で捕まえたんだ!」と興奮冷めやらぬ調子でまくし立てた。


 おっ母は「あらあら、傷だらけになって、血止め草ぬっとかないと」と、シンの腕をとり傷口を心配げに眺めた。

「大丈夫、大丈夫。こんなの、かすり傷だから!」と気にも留めないシンに向かって、今度は強い調子でおっ母は言った。

「いつも、怪我をしたらすぐ、薬になる草を探して塗りなさいって言ってるでしょ!小さな傷から熱が出て、命に関わることもあるんだからね!まずは傷の手当て!鷲のことはその後だよ!」いつもは優しいおっ母の厳しい態度に、ひかりはびっくりした。その表情を察しておっ母は言った。

「今まで元気だった子供が、なんともないケガや病気でコロッと死んでしまうことはよくあるんだよ。元気な大人だってそうなる事もあるからね。用心するにこしたことはないんだよ。死はいつも私達のそばにいるんだよ」


 ひかりは、この時代の厳しさの一端を垣間見た気がした。(メメント・モリ・・・死を忘れるな・・・か・・・)明るい太陽の下、その言葉は今はどこにも見えなかった。





 シンはそれから、おっ父と一緒に鳥小屋を作った。毎日、寝ても覚めても「鷲、鷲!」だった。最初は餌を全く受け付けず、シンが捕まえてきた時に、兄弟ゲンカで負けたのかもしれないと言っていたのもうなずけるほど、やせこけていた体が、もっともっと骨と皮だけになり、羽もぼさぼさになって、目の輝きも失われ、一時期はもうみんなに駄目かと思われた。しかしシンはあきらめなかった。ある日雛は、根負けしたように初めて餌を一口飲み込んだ。そして、一度餌を食べ出すと野生の命はむくむくとよみがえり、今までの分を取り返すかのようにもりもりと食べだした。シンは鷲の餌探しに、割れ甕で作った野ねずみ用の落とし穴をあちこちに仕掛けたり、ウサギのくくりワナを仕掛けたり、弓矢を持って野山を毎日駆けずり回った。

そのかいあって、ぐんぐんと鷲の雛は成長し、もう空の王者の貫禄をそなえ他を圧倒する堂々たる体となり、止まり木を鋭い爪でつかみ、鋭い眼光であたりをにらみつけていた。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ