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比翼の鳥  作者: 葉月望
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いざ、ロープ作業に挑戦!

 ――ゴンドラの免許を取ってから一週間、特にルイさんとの仲が進展するでもなく、何事もないまま過ぎていった。仕事ではゴンドラに何度か乗せてもらったりして、多少トラウマを克服しつつはあった。

 そんな中、ぼくは六尺の脚立から足を踏み外して落ちた。不運なことに右足のふくらはぎを切り捻挫をしたのだった。


 「大丈夫か西嶋」


 近くにいたルイさんが、すぐに駆けつけてくれた。ルイさんにばかりミスしてるところを見られて本当に自分が嫌になる。


 「……大丈夫です!」


 すぐに立ち上がろうとしたが、痛みでよろけたぼくをルイさんが支えてくれた。


 「無理すんな、車にバンドエイドがあったはずやから連れてったる」


 ルイさんになるべくよりかからないように踏ん張って歩こうとしたが、それが余計に歩きにくくしてふらついた。


 「遠慮せんとこっちに体重かけや」


 ルイさんの方へ引き寄せられ、ぼくの顔がルイさんの髪に埋もれる。その時、とってもいい匂いがして、理性が羽根を生やして飛んでいきそうになった。


 「寄り掛かり過ぎや!」


 ルイさんは、頭でぼくの顔を押しのけようとした。


 「す、すみません……」


 そのお蔭で理性はぼくの心に留まることが出来た。それでもルイさんと密着している状態は変わりなく、服の上からでもルイさんの肌の柔らかさや温もりが伝わり、邪な気持ちが鎌首をもたげ始めた。――しかし、例えぼくがルイさんに襲い掛かったところで、ボコボコにされるのがオチだろう。一喜一憂しながらルイさんの肩を借りてハイエースに辿り着いた。荷台に座り傷口を綺麗なタオルで拭いている間にルイさんがバンドエイド探してきてくれた。


 「そんなに深く切ってない見たいやから良かったな」


 傷口を見ながらルイさんはぼくの顔を見て微笑を浮かべてくれた。


 「……こんなドジで、この仕事やっていけますかねぇ」


 自分の不甲斐なさに嫌気がさして、つい、ルイさんに愚痴ってしまった。


 「男がウジウジすんな!」


 落ち込んでいるぼくを励ますように傷口を思いっきり叩きハッパをかけてくれた。――ルイさんの励ましはかなり痛くケツが少し浮いた。


 「……ウジウジするのはみっともないと思うんですが、それでも自分が情けないですよ」


 好きな女の人の前では恰好良くしたいし、頼られるぐらいはしっかりしたいと思う。それだけに理想と現実がかけ離れずぎて落ち込んでしまう。そんなぼくを見かねたようにルイさんは立ち上がり、自販機でジュースを買ってきてくれた。


 「……うちなんかもこの性格やからよく怪我したもんやで」


 「ルイさんが!?」


 「うちだけやなくて、この会社にいる全員が大小の違いはあってもケガの経験はしてるんやで……千石さんなんて三尺の脚立から落ちてアゴに怪我したことあるんやから」


 含み笑いを浮かべながらルイさんが話してくれた。


 「アゴって痛そうですね」


 つられてぼくも含み笑いを浮かべた。


 「他の会社の人なんか、ビルとかにある間仕切りの透明なガラスあるやろ、それに全速力でぶつかって割った人もいるんやで」


 笑い声を殺しながらお腹を抱え笑うルイさんにぼくも同じように笑っていた。


 「――で、その人の股間にガラス片が刺さったんやて!」


 ここで大爆笑するルイさん。男としては、その出来事は笑い事では済まず、自分のまで痛くなった気がした。


 「いろいろあるんですね……」


 「他にもいろいろあるでぇ……時間があるときにゆっくり話たるわ――そんな訳で、みんな失敗やドジな事はやってるんや気に病むことないからな」


 涙を浮かべる程笑った後、ルイさんは慰めるように締めてくれた。そう言われてもやっぱり落ち込んでしまう。


 「――ルイさんは、どうやって怪我したり失敗した時立ち直っているんですか?」


 「……うちは帰って酒飲んで寝るとか、他には……これは誰にも言ってないねんけどな、夢を話してくれた西嶋やから教えたるけど、誰にも言ったらあかんで」


 口元に人差し指をたて、微笑を浮かべ話してくれた。


 「――中学卒業して高校も行かずパチンコ屋でバイトしていた時、そこで出会った男と付き合って一緒に住んだんやけど、ケンカばっかりで上手くいかず半年ぐらいで別れて、その時は自分でも驚くほど落ち込んだんや」


 ルイさんから前の男の話をされると胸の奥が焼けつくような感じで嫌だったが、昔の話だと何度も自分に言い聞かせ黙って話を聞いた。


 「――そんな落ち込んでた時に商業ビルをプラプラしていて、気がついたらビルの最上階から街を見下ろしてたんや……そしたら、目の前にゴンドラが現れてめっちゃビックリしてな――」


 微笑を浮かべながら話すルイさんは、今まで見たことがないほど素敵な笑顔を浮かべていたので、ぼくも微笑を浮かべながら聞いていた。


 「元々高い所が好きやったからゴンドラ見た時にはいっぺんに惹かれてな――んで、この仕事はじめてん」


 語り終えたルイさんは、まるでやんちゃな男の子のような笑顔を浮かべていた。その笑顔に今日の失敗や自分の不甲斐なさが消し去られるようなそんな気持ちを味わえた。こういう気持ちを癒されるというのだろうと思った。そして、ルイさんもぼくと同じような体験でこの仕事を始めたと知り嬉しかった。


 「それ以来、この仕事をしていても嫌なことがあったら、時々高層ビルの最上階から景色を見に行ってる」


 「――ぼくも行ってみたいな、その場所」


 自然と口をついて出た言葉に自分でも驚いた。


 「――そのうちな!」


 ルイさんはぼくの膝を叩き、仕事に戻る合図をして立ち上がる。少し休んだおかげで痛みは治まり、激しくは動けないが普通に動く分には問題がなかった。前を歩くルイさんの背中を見ながら、ルイさんが

「そのうちな」と言ってくれた言葉を心で反芻してニヤけていた。


 ――家に帰りルイさんの話を思い返してみた。すると、何かが降りてきたようにインスピレーションが湧き、それを思いつく限りノートに書き留める。そこからより鮮明に形づける為にキャラクターデザインをする。思うままに描いたヒロインはルイさんに似ていた。――でも、これでいいのだと思った。今までこれほどしっかりとイメージできたキャラクターはいなかったのだから、その思いがきっと読者に伝わるんじゃないかと思えた。とにかく今は思いのまま描き、それを井上に見てもらって感想を聞けばいいと思いながら描き進めた。

 ――ルイさんが思い出話をしてくれた日から、自分の中でルイさんとの距離が近づいたような気がして気分がよく、嫌味な警備の人の対応や内部に入ってブラインドを開けて文句を言われたり、仕事でミスして玉部さんに怒られたりしてもすべて聞き流せるほど心に余裕があった。プライベートのマンガの方も順調にストーリーが浮かび、怖いぐらいすべてが順風満帆だった。

 そんなある日、社長がいつもの「近くの中華やでメシでも食う?」ぐらいの軽いノリでぼくに聞いてきた。


 「西嶋くん、今度ルイちゃんとロープ講習いくかい?」


 「……ぼ、ぼくなんか行っていいんですか?」


 「今年からロープ作業するのに免許がいるようになったんやけど、今まで日程が合わず、うちだけまだ取れてなかってな。どうせやったらあんたもどうかってうちが言ったんよ」


 ルイさんがぼくを誘ってくれたと聞いて舞い上がり、二つ返事で了承した。

 ――それから二週間後ロープ講習当日、ぼくとルイさんは講習が行われる駅前で待ち合わせをした。こんな風に駅前で待ち合わせなんて、まるでデートをするような錯覚にとらわれ落ち着かない気分でいた。


 「早いな西嶋……」


 「いえ、今来たところです」


 女の人に一度言ってみたかったセリフが言えて、心でガッツポーズをとる。


 「西嶋……頑張ってお洒落してきたのは分かるけど――それ場違いやで」


 黒いシャツにグレーのベストを着てカーゴパンツとこの日の為に揃えた服装だったが、明らかに場違いな格好にルイさんは笑いを堪えていた。ルイさんはいつもの作業着だったので、顔から火が出るほど恥ずかしかった。更に会場に着くと講習を受けに来た人たちも全員が作業着であった。周りからヒソヒソと忍び笑いが聞こえ、穴があったら入りたい気分だった。ひとしきり笑った後のルイさんは、周りの様子を気にするそぶりも見せずにぼくの傍らにいてくれた。


 ――ロープ講習とは、ロープ高所作業特別教育のことを言い、その概要は高さが二メートル以上で作業床を設けることが困難な箇所において、労働者が昇降器具を用いて、当該昇降器具により身体を保持しつつ行う「ロープ高所作業」。その危険防止を図るため、労働安全衛生規則が一部改正され、平成二十八年七月一日からロープ作業をする者はロープ高所作業特別教育を受けることが義務付けられたのだった。学科四時間と実技三時間の計七時間の講習を受ける。学科はゴンドラの時と同じで眠たくなり寝そうになったが、なんとか起きていた。その要因は、隣でルイさんが熟睡していたからだ。学科でテストがあったらぼくの答案を見るつもりで、誘ったのではないだろうかと少し疑ってしまった。午後からは実技で、メインロープ等の点検、ロープ高所作業の方法、墜落による労働災害の防止のための措置並びに安全帯保護帽の取扱いについて学んだが、実際に足場を組んだところから一人ずつロープを降りた。ルイさんはもちろん経験者なので流れる様な段取りでスムーズに降りていたが、ぼくはモタモタとしてしまい教官から何度か注意を受け、ようやく降りることが出来た。


 ――すべての講習を終えた頃には、仕事をしている時よりも疲れた。


 「終わった終わった」


 大きく伸びをするルイさんの横で、ぼくは鉛を背負っているような足取りで歩いていた。


 「講習は受けたけど、実際にロープを降りるのは、まだまだ不安ですよ」


 「大丈夫やって、昔はこんな講習なくて先輩に教えてもらいながら覚えていったもんなんやから」


 弱音を吐くぼくにルイさんは励ましの言葉をかけてくれた。このままじゃ、ただのかまってちゃんのような男になってしまいそうな自分を否定する為に、高層ビルからゴンドラに乗り込むぐらいの覚悟で、ルイさんを食事に誘おうとした。


 「――あ、あ、あのルイさん」


 「ん?」


 ルイさんは立ち止まり、正面からぼくと向かい合った。まっすぐルイさんの目を見るのが恥ずかしくなり目を逸らしそうになったが、ここで逃げたら一生後悔しそうだった。


 「あのですねルイさん……」


 「だからなんやの?」


 「そのですね……」


 たかだか食事に誘うだけで、こんなに勇気がいるものかと自分のチキンぶりに内心苛立ちを感じた。


 「用事ないんやったら帰るで!」


 しびれを切らしたルイさんが、足早に駅へと向かう。その後姿を見て、このままルイさんが遠くに行ってしまうような不安な気持ちが心を覆い腕を伸ばした。


 「待ってくださいルイさん」


 「用事あるんやったらさっさと言いや」


 「よ、よければお食事でもどうですか!」


 ついに言えた。全身の毛が逆立つような、ひりついた感覚が奥底から湧き上がった。後はルイさんが応えてくれるかだが――その答えを聞くまでの時間がとても長く、とても息苦しかった。


 「――メシ食べるだけで大袈裟なやっちゃなぁ」


 ルイさんは呆れ顔でぼくを見つめる。


 「ぼく、ルイさんみたいに慣れてないですから――いてッ」


 聞き終える前にルイさんは、不機嫌な顔でぼくの頭を叩いた。


 「うちかってそんなに慣れてないわ!」


 「す、すみません……」


 気まずい沈黙が二人の間に横たわる。フォローしようと焦れば焦る程なにも思い浮かばなかった。


 「……で、どこに連れて行ってくれるの?」


 「あっ!? ルイさんが行きたいところならどこでも」


 「じゃ、フランス料理が食べたいわ」


 「フ、フランス料理ですか……」


 フランス料理っていくらぐらいするんやろ――今持っている所持金を思い出して、それで足りるかどうか考えた。それからフランス料理ってどこで食べれるか検索して、お店を決めてから予約をしなければならないんだよなぁ――など色々な事を考えた。


 「……冗談や……どれだけ真面目なんや、本当に大阪人か?」


 ルイさんは呆れた表情を浮かべ、大きくため息を吐いた。その後は、小動物を見る様な目つきでぼくを見つめ微笑みを浮かべた。


 「……それじゃ、何にしましょう?」


 「それぐらい男やったらビシッっと決めたり」


 ルイさんにハッキリ言われ、目が醒めたおもいで決心する。


 「じゃ、焼き肉でもどうですか!」


 「お! いいねぇ、それにしよう」


 一発でOKがもらえて嬉しくなり小躍りしたい気分になった。


 「どこの焼肉屋にします?」


 「だから自分で考えろってゆったやろ!」


 またまたルイさんに叩かれた。本当に学習能力のない男だと自分でも殴ってみた。

 ――どこの焼肉屋に入るかは三十分ほど時間をかけ決めたが、お店に入ってからはルイさんのイラ立ちが頂点に達していたのだろう、イニシアチブを取って注文をした。それからルイさんとロープ講習での話で盛り上がり、焼き肉を食べてビールを飲んで楽しい時間を過ごせた。ルイさんも上機嫌そうに焼き肉を食べ、いつもより饒舌じょうぜつにしゃべっていた。――思ったより焼肉屋で長居をしてしまい帰りが少し遅くなった。このままルイさんと別れるのは、心にポッカリ穴が空くような気持ちになりそうだった。それに、ここは送っていくのが男だろうと思い、ルイさんにその旨を伝えると意外なほど素直に受け入れてくれた。帰り道も仕事の話をしながら歩いていると、時間を忘れるほど楽しく濃密なものに感じられた。


 ――最寄駅を降りてからルイさんの家は歩いて十分ほどの距離であった。


 「ここがうちの家や」


 ルイさんが指し示した家は、三階建てのハイツであった。そこの二階に家族と住んでいるそうだ。家族は両親と弟の四人らしい。お母さんは長距離ドライバーで時々しか家にいないみたいで、お父さんは土木関係の仕事をしていて、二つ下の弟は夜勤のバイトをしているそうだ。


 「……それじゃぼくは」


 後ろ髪を目一杯引かれながら帰ろうとした。


 「――ちょっとよっていきや」


 まさかルイさんから誘われるとは思わず、かなり複雑な顔をしていたんだろうルイさんがぼくの顔を見て笑った。最近は心臓の鼓動が速く打つことにも慣れたと思っていたが、この予想外のお誘いは、また違った鼓動の速さで戸惑った。ルイさんの後をついて階段を上がっていると目の前にルイさんのお尻が飛び込んできて、頭は邪な妄想を展開させ心臓が下半身に大量の血液を流す。

 ――気が早い! 落ち着け、収まれ!! と何度も何度も念じた。そして、ルイさんの部屋の扉が開くと中は真っ暗だった。もう家族は寝ているのだろうかと思い静かにお邪魔した。部屋は2LDKでタンスとテレビと本棚があるぐらいで、後は意外なほど散らかっていて驚いた。


 「誰もおらんみたいやな……その辺適当に座っててな」


 ルイさんの言葉にぼくの心臓はうるさい程脈打ち緊張のあまり大量の汗があふれ出てきた。この部屋に二人っきり――これは邪な考えを起こすなという方が無理な相談であろう。ぼくはここでドーテーから卒業するのかと思うと卒業する場所がどういう所か見たいという欲求で、見てはいけないと思いつつ色々な物を見てしまう。


 「ビールしかないけど飲む?」


 リビングの方から声が聞こえた。


 「いえ、結構です」


 これ以上飲むと初めてを覚えていないことになりそうだし、しっかりデキなかったら困ると思い断った。


 「散らかっててごめんな」


 ビールを片手にルイさんが戻ってきた。


 「そんなことないですよ」


 「みんなあんまり家にいないんや」


 そういった時のルイさんの顔には、少し寂しさが浮かんでいたように見えた。


 「ぼくの部屋より片付いていますよ」


 「意外やな、西嶋の部屋って片付いてそうなイメージやったわ」


 笑いながら美味しそうに缶ビールを二口ほど飲む。部屋が片付いているとか片付いていないとか、今はそんなことなどどうでもよかった。掃除屋の仕事を初めてした時よりもゴンドラに初めて乗った時よりもどんな経験よりも今が最高に緊張していた。


 「ようやくロープの免許も取れたし一安心やわ」


 その言葉にルイさんの独立話を思い出した。このままルイさんが独立したらこうやって食事する機会や一緒に話す機会がぐんと減ってしまうと思うと臍の下から熱いものが込み上げ、ぼくを衝き動かそうとしていた。


 「あ、あのルイさん……ぼ、ぼく――」


 「入って入って」


 玄関の方から男性の声が聞こえた。


 「おじゃましま~す」


 男の声に続いて、甘い女性の声も聞こえた。


 「またか……」


 ルイさんの声のトーンと表情は、今までみたことがないほど険しく恐ろしいものだった。


 「――なんや、ルイおったんか」


 ぼくたちのいる部屋に、日焼けした屈強なガタイの男性といかにも水商売風の着飾った女性が現れた。


 「あんたも珍しく帰ってきたんやな」


 親子の会話とは思えないほどギスギスした空気が漂っていた。ルイさんの親父さんが何かを言いかけた時、ぼくの存在に気づき、三日月形に口を開いて泥酔した濁った眼でぼくを見る。


 「お前、珍しく男連れ込んでいいことしようとしてたんか?」


 親父さんは、下卑た笑顔を浮かべ、ぼくとルイさんを交互に見た。


 「お嬢ちゃんのお楽しみ邪魔したら悪いからどこかいこうよぉ」


 「気にせんでええわ、どうせこいつらもはじめよるんやろうからな」


 お父さんは水商売風の女性に抱きつき首筋にキスをする。それに少し抵抗を見せながらもまんざらでもなさそうな声を出す。


 「一緒にすんなボケ!」


 ルイさんは落ちていたライターを親父さんに投げつけた。


 「父親に向かって何さらしとんじゃ!」


 親父さんが声を荒げルイさんの胸倉をつかむ。


 「親父らしいことなんてしたことないくせに偉そうに言うなボケェ!」


 「誰にボケとかいっとんじゃ!」


 お互いの胸倉をつかみながら、激しくののしり合うルイさんと親父さんにぼくと水商売風の女の人はなす術なく見守っていた。


 「オカンが仕事でおらんからっていろんな女連れ込んでええ加減にせいよ!」


 ルイさんが親父さんを蹴り飛ばすと、テーブルに激しくぶつかり、いろんなものが散らばった。心配した水商売風の女性が親父さんに駆け寄る。


 「このガキ親に手あげてどうなるか分かってんのか!」


 駆け寄った女性を突き飛ばして親父さんが立ち上がり、右手を大きく振りかぶった。それを見たぼくは、ルイさんが殴られると思って自然と体が動いた。

 鼓膜に骨が軋む音と肉が叩かれる乾いた音が聞こえて、今まで味わったことがないほどの痛みが顔中に広がった。咄嗟にルイさんをかばって殴られたが、勢いが強くそのままルイさにぶつかり一緒に倒れた。


 「なんじゃいおどれ邪魔すんな!」


 倒れたぼくとルイさんに罵声を浴びせる親父さん。


 「お前なにしてんじゃあああ!!」


 荒れ狂う大型犬のような勢いで、親父さんに向かおうとするルイさんをしがみつき止めた。


 「ダメですよルイさん、よしましょう!」


 「こいつお前殴ったんやぞ、放せや!」


 「ぼくは平気ですから!」


 止めるぼくを振り払って、親父さんに襲い掛かろうとするルイさんを必死に止めた。ケンカしてルイさんが怪我するのを見たくなかった。その気持ちだけで、ぼくはルイさんを止め続けた。


 「ケンカするんやったらあたし帰るで」


 水商売風の女性が立ち上がると親父さんは腕を引っ張り引き倒した。


 「怒んなって……早くこっちで楽しもうか」


 娘の前だというのに他の女と平気でイチャつくこの神経はどこかおかしいと思った。


 「クソが!」


 ルイさんは吐き捨てると家を出た。急いで後を追った。あまりに衝撃が大きすぎて理解が追い付かないまま一階にある自転車置き場にきていた。ルイさんはそこにあるスクーター型のバイクにまたがる。


 「はよ乗り」


 ヘルメットを渡され、その流れでバイクの後ろにまたがった。バイクの振動をお尻に感じながらルイさんの後姿を見つめた。もし自分の父親があんな風だと思うとブルーな気分になった。ルイさんはそれをずっと見て育ったんだと思うと、何かしてあげれることはないかとルイさんの後頭部を見つめながら真剣に悩んだ。

 ルイさんはバイクを走らせている間一言もしゃべらず、ぼくもなんて言っていいか分からず、黙ったままバイクの後ろに乗っていた。夜の街の風は冷たく、どことなく切なく感じた。深夜の道は車の数も少なく三十分ほどで家に着いた。


 「――あんた、殴られたトコ大丈夫か?」


 心配そうに殴られた頬を見てくれた。


 「たぶん大丈夫です」


 「そうか」と言うとルイさんは俯き黙り込んだ。こんな時なんて声をかければいいか分からず、一緒に黙ってしまっていた。――すると、ルイさんは突然噴き出す。


 「普段は頼りないのに時々無茶するよな西嶋は――」


 ルイさんは思い出したように笑い出す。そんなルイさんを見て少し安堵した。


 「無茶の度合いではルイさんには負けますよ」


 「うちのは無茶というよりめちゃくちゃなだけや」


 笑いを収め、どこか寂しそうに微笑んでいた。


 「最後はこんなんになってワルかったな……でも、楽しかったわ。ほなお休み」


 ルイさんがヘルメットをかぶり直す。


 「ルイさんはどうするんですか? 家に帰るんですか?」


 聞いてどうするんだと思いつつも聞かずにはいられなかった。


 「うちか……うちはマンガ喫茶でも入って時間潰すわ」


 微笑を浮かべるルイさんになんて声をかけていいか分からず、この時ほど独り暮らししていたら呼べたのにと思えたが、そんなことで男の家に上がるルイさんではないとも思えた。今、ぼくにできることはルイさんの傍にいてあげる事だと思い、おもいきって口にした。


 「……ぼくもマンガ喫茶付き合いますよ」


 「そんなんええわ」


 「でも、ぼく……」


 「そんなんに付き合わせて、寝不足のあんたが怪我せんともわからんからな」


 「す、すみません」


 自分の信用のなさに心がポッキリ折れた思いだった。


 「……冗談や、マジでとるなや」


 ルイさんは軽くぼくの胸を叩いた。そんなセリフがでるってことは、どこかでそう思っているんだと全面的にルイさんの言葉を信じれなかった。


 「――あの、ぼく、頼りないかもしれないけど、その、た、頼って下さいルイさん!」


 なけなしの勇気を総動員して、どもりながらもなんとか伝えることが出来た――と思う。


 「ありがとうな……でも、しっかりロープ降りれるようになってからやな」


 少しいつもの笑顔が戻ったようにみえた。

 ルイさんはエンジン音を響かせ、颯爽とバイクを走らせていった。その後姿を見守りながら、ぼくは一人暮らしをする決心をした。



 ――プライベートを垣間見た次の日から、ルイさんはいつも通り仕事をこなしていた。そんなわけだからぼくも何事もなかったように努めた。


 そんなある日――ついにロープデビューする日が決まった。心の準備はしていたつもりだが、実際にロープを降りる日を宣告されると、前日から晩御飯が喉を通らず緊張して眠れなかった。


 ――朝、現場に向かう道中もキリキリと胃が痛み吐きそうな程気持ち悪く逃げ出したい気分だったが、ゴンドラに続いて今回もルイさんからロープを教わることになったので逃げ出すわけにはいかなかった。

 現場に着き作業前にルイさんから色々な注意事項を聞いた。そして、今日からぼくが使うロープ一式を渡された――それはめちゃくちゃ重く、その重みと重圧で押し潰されそうになった。前にロープ三本は持ったことがあったが、その上にベンチとバケツを持つと更に重さが増した。これだけの量をいつも平気な顔で担ぎ、屋上まで行っていたのかと思うと、ルイさんと肩を並べる職人になるためには、筋トレからだと思った。

 今日はロープデビュー戦なので、六階ほどの高さのビルで行われる。まずはロープセット一式を担いで、エレベーターに乗って最上階の六階まで行く。そこから非常階段で屋上まで昇るのだが、このワンフロア分の階段をロープセトを担いだ状態で昇るのはかなりの苦行だった。


 「重たぁ~」


 息を切らせ、なんとか屋上まで辿り着いた。屋上は室外機以外の物は柵だけしかなくとても見晴らしがよかった。ルイさんの案内でロープの降りる位置まで行くと、そこに丸環と呼ばれるビルの屋上に突き刺さった金属製の輪があった。この丸環の使用用途としては、外壁や窓の清掃・補修を作業員が行う際に、命綱として使用するロープを固定するために結び付けて利用するものである。


 「この丸環がうちらの命綱やから足で蹴ったり、手で引っ張りしてグラついていないか確認するように」


 そういうと、ルイさんは何か丸環に恨みでもあるのかというほど思いっきり蹴り飛ばしていた。安全を確認したらあとは講習で習ったように結ぶだけだが……。


 「上から覗いて自分が降りる場所の確認をする」


 実際にルイさんがビルの屋上から上体を出して覗く。ぼくも習って覗こうとしたが、なにもない状態でビルの屋上から下を覗くと、まるで下に引き込まれるような感覚となり、とても恐ろしかった。ルイさんを見ると体の半分は外に出ていて、どの位置かしっかり把握しようとしていた。ぼくももう一度見ようとした。


 「場所分かったか?」


 ルイさんの声に驚きバランスを崩しそうになった。それを後ろから安全帯を握り支えてくれた。


 「あ、ありがとうございます」


 自分の降りる場所を確認したら、次にロープを降ろしていく。


 「この時も下を気にしながら降ろすんやで、どこかにひっかるかもしれんし、少し風が強いとそれだけでロープが持っていかれて、バリケードの外にはみ出て通行人に当たる危険もからな」


 ルイさんに言われ慎重にロープを降ろしていく。そして確認の為に下を覗く。するとロープの重みで身体が持っていかれそうになり、ヒヤリとした。心臓が警鐘を鳴らすように激しく脈打つ。ロープを垂らすだけでも危険と恐怖が伴い、まるで五十メートルを全力で走ったほどの疲労感を味わった。


 「こんなところなんて安全な方やで、キャットウォークぐらいの狭い場所からロープを降ろして乗り込むような現場もあるからな」


 キャットウォークとは、劇場や工場施設の上部、ダムや橋梁などの高所などに設置される簡素な造りで、人一人がギリギリ通れるほどの狭い通路の総称をいう。それほど狭い場所でロープのセットをするなんて想像しただけで震えてくる。


 「最後にちゃんとロープが地面に届いているかを確認する。これを怠って地面まで届いてないこともたまにあったりするからな」


 「そんな時どうするんですか?」


 イメージができなさすぎて素朴に尋ねみた。


 「届いていない長さによるけど、脚立で助けてもらうか、二階の部屋に入れてもらうしかないけど、めっちゃ恰好悪いで」


 意地悪な笑い方をする時のルイさんは、そんな現場を目撃したことのある場合が多い。


 「千石さんが一回やってな、二階のテナントに入ってうちが助けてたんや」


 最近はルイさんの笑い方で、どれだけ格好悪いことなのか分かるようにもなった。ぼくは慎重にロープが届いているか確認をした。

 メインロープを降ろした後、万が一メインが切れたりほどけたり、何かアクシデントがあっても大丈夫なように補助のロープを垂らす。


 「この補助は絶対にメインと同じ所で結んだらあかんからな」


 それは、メインと補助を同じ丸環で結んでしまうとその丸環に問題があった時には補助の意味をなさない。だから、補助はメインと違う所で結ぶ。


 「それじゃ、ベンチを吊ろうか」


 一度ルイさんが手本を見せてくれた。ぼくにもわかるようにゆっくりとやってくれた。そしてぼくの番だが、わずかにロープを引き上げるだけでも重く、上手くベンチを引っ掛けることができなかった。


 「そんな時は、足でロープを踏んでやるんや」


 ルイさんに言われロープを踏むと引っ張られる感じがなくなり楽に作業が出来た。間違いなく下降機にロープを通しベンチを吊るすことが出来た。


 「ベンチを外に出す時、落ちないかドキドキしますね」


 「そやろう、こんなの落ちたら大変なことになるからな」


 こうしてベンチが宙を浮いている事自体不思議な感覚だった。ルイさんの話ではロープの重みでベンチが落ちないらしい。


 「じゃ、乗り込もうか。安心し見といたるから!」


 胸を逸らしてルイさんが言い放つ。ぼくも覚悟を決めて行くことにした。まず、乗り込みに失敗した時に落ちないよう補助ロープにロリップをとりつける。このロリップというものは昇降中の墜落防止に使用するもので最終安全装置である。ルイさん曰く「これを使うような場面にあったら引退考えるわ」というほど活躍の場面はないらしいが、それでもないよりはあるほうが気分的に全然違うそうだ。そして、いよいよビルの外にあるベンチに乗り込むのだが、これはかなりの勇気がいる。なんといっても身体をビルの外に出して宙ぶらりんのベンチに座るのだから、一歩間違えればまっさかさまに落ちる。下手なジェットコースターやバンジージャンプなんかより恐ろしい。


 「大丈夫や、補助もとってるから万が一にも落ちることはない」


 真剣な顔だが、どこか楽しんでいる様子のルイさんに少しの不安を覚えた。


 「ぼくが死んだらお葬式来てくださいね」


 「行ったる行ったる! めっちゃ線香焚いたるわ」


 「ルイさん楽しんでるでしょ!?」


 「楽しんでる訳ないやろ!」


 思いっきり背中を叩かれ落ちるかと思った。


 「マジでこんな所でやめてくださいよ!!」


 半分泣きそうに抗議をした。それを見たルイさんは、笑いを堪えるのに必死そうにしていた。そんなルイさんを少し睨みながらビルの縁に座った。よくビルの屋上から飛び降り自殺を図るとかいうのを聞いたりするが、実際にビルの縁に立って分かった――飛び降り自殺ってめっちゃ怖い。この高さは普通に怖気づくと心の底から思った。もし、自殺しようと思うことがあっても飛び降りは選択しないと断定できた。


 「――いつまで固まってんや!?」


 ルイさんの言葉で我に返る。そして意を決して右足をベンチに伸ばした。右足がベンチに届いたのを確認すると次に左足を伸ばしてベンチに辿り着く。これによって、ぼくは宙ぶらりんのベンチに立っている状態となった。これほど下半身が不安定で風が抜けるのを感じたのはゴンドラから落ちそうになった時以来だった。風が大事なところを優しく撫でるとキュッと縮こまった。


 「そこから左右どっちの足でもええからベンチを後ろに下げて逆の足を通す」


 何を言っているか理解できず、言葉も発することが出来ないぼくは何度も首を左右に振った。


 「はぁ~、講習で教わったやろ……それを思い出してみ」


 脳みその引き出しは真っ白なモヤがかかり、それを追い払い記憶の引き出しを探した。ようやく引き出しを見つけ開けてみると確かに収まっていた。一度呼吸を整え思い切ってその通りに足を動かしベンチに座った。


 「で、できた!」


 嬉しさのあまり固く閉じた口から言葉が漏れた。


 「やっと座ったか、ちょっと待ってなうちも乗り込むから」


 ルイさんは、まるで動きの遅いカメを嘲笑うウサギの如く素早く準備をすませてベンチに乗り込んだ。


 「それじゃ降りようか」


 講習で教わったようにロープを上に持ち上げると急に体が落ちて、素っ頓狂な悲鳴を上げてしまった。


 「ええか、急に落ちんように右手でロープと下降機を軽く持ち、左手でゆっくりロープを引き上げたると大丈夫や」


 そう言うと滑らかに降りていく。ルイさんのアドバイスと講習の経験を活かし、もう一度やってみると、ルイさんほど滑らかにではないが安全に降りることが出来た。ちょっと嬉しくなりどんどんと降りていく。


 「ほら、ガラス現れたで掃除しいや」


 気が付いたら目の前にガラスがあったので、シャンプーを握り塗布した。そしてスクイジーに持ち替えガラスをきろうとしたが、体が不安定で上手くスクイジーを動かすことが出来なかった。その横でルイさんは左右に振りながらガラス清掃をしていた。


 「足を上手く使うんや」


 ルイさんがお手本を見せてくれた。それを見よう見真似でやってみるとさっきより体が固定されガラスをきることができた。


 「よっしゃ、次行こうか」


 ルイさんは、まるで落ちるように降りると五階部分のガラスの清掃作業に入った。ぼくはゆっくりゆっくり目の前の壁を見つめながら降りる。ようやく五階部分のガラスに辿り着いた時に部屋の中の人がこちらに注目しているのに気づいた。その視線が気になり、あたふたとしていると中の人が笑っていた。


 「さっき教えたように足を使って!」


 気が付くと腕だけで作業をしていた。体全体を使ってバランスを取り作業をしないといけないんだと思い出した。終わった時には中の人が微笑み手を振ってくれたので、小さく会釈をした。それだけでもなんだか嬉しい気分になった。


 ――そんな作業を繰り返して、ようやく一本作業が終わり地面に辿り着いた。その頃には精神的にくる疲労と普段使わない筋肉を使い体全体が疲労困憊していた。


 「お疲れさん」


 先に降りていたルイさんがジュースを買って待っていてくれた。


 「いや~見た目以上に疲れますねぇ」


 今にもその場に崩れ落ちそうになったが、男のプライドで支える。


 「こんなのも慣れやよ、それ飲みながら休憩してな」


 そういうとルイさんは自分のブランコを担いでビルの中へと消えていった。負けまいと後を追おうとしたが、ルイさんが見えなくなった途端、男のプライドがどこかに消えて無様に片膝をついて座り込んだ。とりあえず貰ったジュースを飲んでから追いかけることにした。


 ――そんな調子で、ぼくが一本ロープ作業を終わる頃には、ルイさんは二本作業を終わらせていた。今あるこの差もいつか必ず追いついてやると思いながらロープ作業を続けた。


 「疲れたぁ~」


 午前中を終えただけでこの疲労感はハンパなかった。足腰が笑って無様な格好で歩きコンビニまで辿り着いて弁当を買った。ハイエースに戻ってきた頃には、弁当組は食べ終わっていた。


 「ロープ作業ってこんなに疲れるものなんですね」


 「普段使わん筋肉を使うからね」


 千石さんがぼくのボヤキに相槌をうってくれた。


 「ロープで大変な思い出ってあります?」


 「千さんは、ロープが届かなかった事件があるよね」


 ルイさんが話に加わってきた。


 「それどうだったんですか?」


 「あれは焦ったよ~。ロープが途中でなくなってるんだもん」


 笑いながら話す。


 「それでどうなったんですか?」


 「ルイちゃんが二階のオフィスに入ってそこから脱出できた」


 運転席でルイさんが忍び笑いをしていた。


 「うちもロープで焦ったことあったわ」


 「ルイさんが? どんなことですか」


 かなり興味があったので、乗り出し気味に聞き入った。


 「ロープで降りている時に髪の毛が下降機に絡まって、動けなくなった事があって焦ったわ」


 「どうしたんですが?」


 「更に降りようとしたら、どんどん髪の毛が巻き込まれるから降りれないし、上に戻る事も出来ないから、最終的にケレンで髪の毛をゴッソリ切って助かった」


 「それ、大変でしたね……」


 女の人が髪の毛を切るなんて辛い事だろうなと思った。


 「見た目そんなに変わらへんかったから、しばらくそのままやったけどな」


 豪傑のように笑い声をあげるルイさんに、少し同情した気持ちを返して欲しいと思った。


 「前に社長から聞いたんだけど――消火栓にあるホースをロープ代わりに降りたことがあるって言ってたよ」


 「そんなことできるんですか!?」


 「さすがに嘘だろうけど、どこからそんな嘘がでてきたのか不思議でね」


 千石さんのいうとおりだ。ウソをつくにももっと上手くやるだろうし、そのウソはどこからでてきたのかもわからない。


 「あのじいさん、意味わからんからなぁ」


 「それ分かる気がします」


 いつもなんの前触れもなくゴンドラ免許やロープ講習などをぶち込んでくる人だから、多分思い付きで生きているんではないだろうかと勝手に思ってしまう。

 色々なロープの珍事件を聞いた後、作業を再開した。まだ疲れがとれきっていないが頑張ってやるしかなかった。


 「昼一番の作業が事故率高いから気をつけてな、十分作業は終わるから焦らんとやりや西嶋」


 「分かりました」


 ルイさんが気を使って言ってくれた言葉は、ぼくの心の負担を軽くしてくれた。ここでぼくが怪我をするわけにはいかない。十二分に注意を払い午後からの作業を頑張った。


 ――すべての作業が無事に終わり、ようやく拘束された感のある全身ハーネスを外し解放感に感動する。後はロープの片づけに屋上へと上がった。ルイさんが先に片づけを進めていた。


 「どうでしたルイさん、ぼくのロープ作業?」


 仕事っぷりが心配になり、ルイさんの顔を見ると自然と口を開いて聞いていた。


 「初日にしてはようやったんちゃうか」


 ――やっぱりその程度の感想か……。

 分かっていたが、やっぱり悔しい思いが込み上がってきた。でも、実際ロープを降りてみて分かったことはあった。それは他では味わえない浮遊感と生の高さを味わえる事で、最高に気持ちよかった。それにルイさんはやっぱり格好良かった。


 「憧れのロープやってみてどうやった? やっぱりええか?」


 「はい、やってみてロープもルイさんも好きです」


 ますますこの仕事が好きになった。それにルイさんの事が好きだと再確認できた。


 ――あれ、今、口に出した?


 ルイさんの顔を見ると、口が大きく開き、目も落ちるんではないだろうかというほど見開かれていた。それで、好きだということを口に出して言っていた事に気づいた。


 「――あああ、あの、その……」


 誤魔化す言葉が浮かばず、ルイさんと目を合わすこともできず、ただただ狼狽えるだけであった。そんなぼくとは対照的にルイさんは寡黙にロープを引き上げだした。狼狽えていたぼくもとりあえずロープを引き上げる。

 ロープをこする音と街の喧騒だけが響く屋上で、黙々とロープを片づけていく。

 片付け終わってもルイさんは一言もしゃべらず、ましてやぼくと目も合わせずにロープを担いでさっさと降りていった。


 ――終わった……。


 ぼくの告白を無視するってことは、暗に断っているのだろう。目の前が真っ暗になり、消えてなくなりたい気分になった。帰りのハイエースの中では、疲労と絶望が混濁した気持ちが心を覆い、後部座席でレム睡眠のような状態で座っていた。

 結局、倉庫でも事務所でもルイさんは一言もしゃべってくれなかった。家に帰りつき、自然とスマホに手が伸びて井上に電話をしていた。


 「――ルイさんに告白した」


 「おおマジでか!? で、どうだった?」


 無邪気に傷口をえぐろうとする井上に罪はないのだが、それでも気分は落ち込む。


 「無視された――ずっと無視されたんだよぉ」


 「なんやそれ? どんな告白したんや?」


 すべてを話し終えてからも井上は黙ったままだった。


 「……聞いてるんかぁ?」


 「ああ、きいてたけど……それって最悪なタイミングやな」


 「自分でも分かってる……」


 口が滑ったとしかいいようがないミスでの告白だったのは重々承知していた。


 「とにかく今は様子見しかないんちゃうか」


 「いつまでやねん?」


 「しるか! ルイさんも急に言われて驚いたんやろ、近いうちに返事してくれるんちゃうか?」


 井上に宥められ、とりあえずルイさんが返事してくれるのを待つことにした。


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