ゴンドラに乗ってみよう!
――季節が進み、冬服から夏服へと作業着が変わり、事務所まで行く三十分の道のりだけで汗だくになる程の暑さにぼくは辟易としていた。
「おはよう、まだ六月やのに暑いなぁ」
玉部さんが作業着を着崩したまま事務所に現れる。
「おはようございます。ぼくも自転車で来るのが辛いですよ」
「そういえば西嶋は現場での夏は経験ないんだよな」
この会社で三番目に若い稲葉さんが団扇で仰ぎながら聞いてきたので、ないことを告げた。
「この仕事の夏はマジヤバイでぇ~」
「そうそう、死にたいじゃないもんな――殺して! って思うぐらいヤバイ」
その違いがよくわからなかったが、危険なほど暑いのは伝わってきた。
「ゴンドラなんて逃げ場が無くて、特に南面になると後ろは太陽光、前はビルの窓の照り返しで、しっかり中まで焼ける両面焼きの魚の気分が味わえるでぇ」
「聞いているだけでうんざりしてきましたよ」
「――それとルイちゃんには気を付けろよ」
玉部さんが真面目な顔で言うとみんなが一斉に頷いた。
「ど、どういうことですか……?」
ゴクリと生唾を飲み込む。
「夏場のルイちゃんは、二倍増しでキレやすくなるからな……当社比」
「誰が二倍増しでキレるって!?」
背後からルイさんの声が聞こえ、みんな百回肝試ししたぐらいの冷や汗を流した。
「お、おはようございます!」
「――うい」
ルイさんは挨拶するのもだるそうに、まるで朝から駐禁を切られ、警官に職質され、エレベーターが止まっていた程の不機嫌さと疲れを化粧に塗り込んだ顔で現れた。
「西嶋、さっきから何みてんのじゃ!」
いきなり胸倉を掴まれ絡まれたので、助けを求め周りを見たが、全員目を逸らす。
「な、なんでもないです……ハハハ」
「ヘラヘラすんなボケェ!」
――二倍どころじゃなかったぁーーーー。みんなが「だろ」って顔で見てきた。夏はおっかない。そんなことをしていると社長が出社してきた。
「おはようございます!」
「おはようさん。そうや、西嶋くん、今日はルイちゃんとゴンドラ乗ってもらうから」
社長の口調は、まるで「ちょっとコンビニでたばこ買ってきて」ってぐらいの気軽さでゴンドラに乗るよう言ってきた。
「ゴンドラって、ビルの外から窓を拭くために使う機械のことですよね?」
「そうや、そろそろ高い所にも慣れてもらおうと思っとってな。練習にはうってつけの現場やからルイちゃんにしっかり教わりや」
「は、はい!」
ついに高所作業ができると身体の内から喜びが溢れてきた。
「じゃ、ルイちゃんよろしくね」
「ういッス」
「ルイさんよろしくお願いします」
「落ちんようにしてや」
ルイさんに言われ、浮かれた気分でいる自分に気づき自重しなければと諌めた。そして、いつものように倉庫へ向かい準備をしていたら玉部さんが近づいてきた。
「いよいよゴンドラデビューか! 俺が西嶋教えたかったぜ」
悪巧みしているのが丸分かりな表情をぶら下げていた。
「玉部さんは遠慮しときたいですね」
「なんや、俺はこの会社じゃ一番やさしいんやで、ルイなんて運転荒いからなぁ」
ルイさんに聞こえるように大きな声で言う。
「玉部さんはチキンなだけや」
「いやいや、お前の運転はめちゃくちゃやから怖いっちゅーねん」
「ビビリ過ぎちゃいますか!?」
「アホか! 前に下見んと開いてた窓にカゴが乗り上げて、ひっくり返りそうになった事あったやんけ! 死ぬかと思ったわ!」
「ちょっと乗っただけで大袈裟やちゅーねんボケ!」
倉庫前で激しく言い争う二人に、他の人たちは無関心を装い淡々と準備をしていた。しかたないのでぼくが仲裁に入る。
「ぼくのゴンドラデビュー前にケンカはよしてください!」
「チッ、西嶋に注意されるなんて、なんかむかつくけどな!」
「どういう意味ですかルイさん」
いつからか、ルイさんのぼくに対する二人称が「自分」から「西嶋」に変わっていた。それって、ぼくのことを少しは認めてくれたってことだと勝手に思い込んでいた。
現場にはルイさんが運転して助手席には玉部さんが座り、後部座席にぼくと千石さんが座ってこの四人で向かった。
隣に座っている千石さんは、五十代後半のおじさんで掃除屋の経験は社長の次に長いらしい。凄いベテランなのだが、どうも少し――かなり天然が入っているそうだ。遅刻はかなりの頻度でやらかし、現場を間違えて違うビルの掃除をやったり、駐車違反の罰金を払うのに銀行の前に路駐していたら、また駐車禁止切符を切られたりととにかくすごい天然キャラだそうだ。
――現場に着くといつも通り準備をする。今日はぼくとルイさんでゴンドラ作業を行い、千石さんは三本ほどロープ作業をしてから内部に合流、玉部さんは朝から内部の作業とそれぞれが別れた。今日のビルは十階建のオフィスビルである。まずはエレベーターで最上階まで行くとそこから非常階段に出て、屋上へ続くタラップを登っていく。タラップはかなり傾斜がきつく昇るのが辛かったが、登り切った途端視界が開け、ぼくの顔に強い風が叩きつけてきた。こんな高い所で、遮蔽物のない解放された景色を初めて見たぼくの心は少し踊った。
「こっちやで」
ルイさんに案内され屋上を進んだ。ビルの屋上は意外に無骨な金属が剥き出しのままで、大型の室外機が多数並んでいた。ルイさんは慣れた足取りで進んでいく。その後を追っていくと、目の前に濃いめの緑色の防水加工された布を被った大きな物体が鎮座していた。
「ほな、この本体のカバーから取るで」
紐でしっかり結ばれたカバーをはずすと、グレーの鉄の塊が重厚感タップリにその姿を現した。
「次はカゴのカバーや」
本体のカバーを風に飛ばされないよう近くの鉄柵に結んだあと、カゴのカバーをはがしに掛かる。カゴは大人二人が入るのに適した大きさがあり、両サイドからワイヤーが伸び、その先は本体から延びたアームといわれる二本の腕へと続いていた。カゴのカバーを剥がしながら疑問に思ったことをルイさんに聞いてみた。
「この二本のワイヤーで、このカゴを支えるんですか?」
「そやで」
驚いたのはワイヤーが細い事である。多分ぼくの人差し指ぐらいの太さしかないようなワイヤーで、ぼくとルイさんを乗せた鉄の塊を支えることが出来るのだろうかと本気で不安になった。しかも、よくみると表面は錆びている――本当に大丈夫なのだろうか。
「大丈夫や、作業前にはゴンドラ屋が入って点検してくれてるからな」
ルイさんの言葉にとりあえずは安心した。
「でも、あいつらの点検テキトーやから、ホンマに大丈夫か分かったもんやないけどな」
ゴンドラを動かす準備をしながら、ぼくをビビらせようとルイさんが口を紡ぐ。
「冗談でしょ?」
「マジマジ、点検入っているはずやのに、たまに動かんかったり、異音がしたり、うちが一番怖かったのはゴンドラが止まらんようになったことや」
「そんな訳ないでしょう?」
ぼくをビビらせようとするルイさんの作り話だと疑う。
「普通はそう思うわな……でも事実で、下降ボタンから手を離してもずっと降りていったんや」
まるで、ホラー話でもするように神妙な顔で語り続ける。
「カゴには非常停止ボタンもあるんやけど、それを押しても止まらんねん。上昇ボタンや他のボタン押しても止まらんと、延々ゆっくり下降していったんや」
「でも、地面に着床するだけで助かるんちゃいますの?」
常識的に考えて、カゴは地面に降りるだけでたいしたことはなさそうに思えた。
「……そうやったらええんやけどな……そのビルは複合ビルで、四階部分から下は飲食店が入っていて、しかも四階部分は明り取り窓となっていて斜めに広がってたんや」
「そ、それじゃ……」
ルイさんの言う事の意味は分かった。四階部分が斜めに広がってるってことは、カゴは地面に着床することが出来ず、斜めに傾き最悪上下逆転して乗っている人を落としてしまう可能性があったのだ。そうなったら大惨事となる。
「屋上に社長がおったから電話して元の電源から落としてもらって、ようやく止まったんやけどな……」
話だけでぼくの心臓は早くなり、背筋が凍る思いがした。
「――でも、電源入れたらまた下に降りるんじゃ?」
「それが大丈夫やったんやけどな……すぐにあがってその日は中止になったわ」
「結局原因はなんやったんですか?」
「わからん」
「わからんってことあるんですか!?」
分からないってことは、またそんなことが起こる可能性があるってことではとゴンドラが怖くなってきた。
「そんな感じで、うちはゴンドラ屋の点検を全面的には信用してない」
色々経験している人の言葉はいつも重みがあると感心してしまうが、これから乗るゴンドラが心配になってきた。
「あ、あの~ルイさん……」
「これは大丈夫や――と思う。下は平らな地面やしな」
いたずらっ子のような笑みを浮かべ、準備ができたゴンドラを動かしだした。
ルイさんは怖い話ばかりじゃなく、ゴンドラについても簡単に話してくれた。このゴンドラも大まかに分けて二種類らしい。一つは仮設ゴンドラというもので、ビルの外壁などの工事で使うことができるどこでもゴンドラみたいなものらしい。それとビルの屋上に常設しているゴンドラだそうだ。その常設ゴンドラも大まかに分けると二種類あるらしく、一つは自走式ゴンドラと呼ばれる運転ハンドルがあって、自由に動かせるものと屋上に敷かれたレールの上を走るゴンドラの二種類があるそうだ。今日はレールの上を走るタイプであった。
「――それじゃ、ゴンドラに乗り込む前に注意点をいくつか言うから、しっかり頭に叩き込むんやで」
ルイさんはこういった危険な作業を行う前には、必ず注意点を説明してくれてとても助かる。
「落下物に注意するのが最重要や、万が一落下物が人に当たったら死んでまうかもしれん」
この高さからシャンプーやスクイジーが落ちて、人の頭に当たったら大怪我では済まない。落とさないようにカールコードというものをシャンプーとスクイジーにつけて落下防止とする。
「そして、作業員の落下も注意やで、今までゴンドラから落ちたってのはうちは聞いたことないけど油断はしたらあかん。カゴに乗り込むときは落ちないように安全帯をカゴにつけてから乗り込む。降りる時も安全帯をつけたままカゴから降りて、それからはずすように」
ルイさんの言葉を訊いて下を覗き見ると歩く人が小指ほどの大きさに見えた。その途端足がすくみ、全身の力が抜けそうになった。
「ほな乗り込むで」
ルイさんは軽やかな身のこなしでビルの外面に出したカゴへと乗り込んだ。
「ほら、西嶋もきいや」
ルイさんはカゴが動かないようにビルのパラペット部分に手をかけ固定してくれていた。意を決して乗り込もうとした時、ちょっとした風が吹いた。地上ではなんてことのない風だったが、十階という高さと不安定な場所で吹かれると、それはもう台風レベルの狂風に感じられた。尻込みして一旦屋上へと体を戻した。
「大丈夫やうちがしっかりもってるから」
励ましてくれるルイさんの声に、男らしいところを見せようと思い切って一歩踏み出した。乗り込んだだけでカゴは不安定に揺れ、足元が心許なく感じた。その恐怖でぼくが震えるとそのたびにカゴも揺れた。その揺れに怯えて震えるとカゴはずっと揺れていた。――とにかく震えを止めようと違うことを考える。ルイさんとデートするところやドライブするところやキスするところやHするところまで妄想してようやく震えは収まった。
「大丈夫か?」
ぼくの震えが収まるまでルイさんは待っていてくれていた。そんな優しいルイさんに卑猥な妄想して申し訳なく思って、目を合わせる事が出来なかった。
「……ありがとうございます。もう大丈夫やと思います」
「それじゃいくよ」
ルイさんの合図でカゴが下降する――動く一瞬、身体が浮く感覚があったが、それだけで身体が反応して震える。それに合わせてカゴも震えた。その時点で心が折れそうになったが、ルイさんにチキン野郎と思われたくない一心で耐える。じわりじわりと目の前の壁が流れていくので、それをじっと見つめていると少しだけ気が紛れた。それが分かると、ずっと流れる壁を見ている事にした。はたから見るとノイローゼの人のように見えるだろうな――なんてことを考える余裕が少し生まれてきた。そうなると少し怖いもの見たさで下を覗こうとするのは人の性だろう。つい下を覗いてみたが、それは無謀な挑戦だった。歩いている人が小さく見え、自分のいる高さが如実に分かり、足の力がゴンドラから零れ落ちるように感じて、膝から崩れ落ちそうになった。すぐに、目の前を通る壁を見つめ気持ちをリセットしようとした。
「――ほら、ガラスきたよ」
ルイさんに言われるまで、目の前に窓ガラスがきているの事に気がつかなかった。とにかく、目の前の作業にのめり込んだ。そうすることで、自分の置かれている状況を忘れる事ができたのだった。そうして目の前にガラスがきたら清掃をするといった作業を繰り返して、およそ三十分ほどかけて一本分の作業が終わった。
「仕上がりの悪いところがないかチェックしながら上がるよ」
ルイさんに声を出して返事しようとしたけど、自分の意志に逆らい上の歯と下の歯が、まるで別れを惜しむ恋人同士のようにくっついて離れようとしなかったので、頷くだけしかできなかった。そんなぼくを見て、ルイさんが微笑を浮かべたように見えたが、それどころではなくカゴが上へと登りだした。降りる時はガラスを掃除するという作業があったので少しは気が紛れたのだが、登るだけだと気の紛らわしようがなく、じっと目の前を見つめていた。
「西嶋、そこキリ残している」
カゴが急に止まったので驚いた。目の前にあるキリ残しを乾拭きタオルで拭いてやると、また昇り始めた――すると急にカゴが止まり大きく揺れた。なにか機械に不具合でもあったのかと心配してルイさんの顔を見る。
「手が離れただけやから」
ニコリと微笑むルイさんの表情を見て、安堵のため息を漏らす。そしてまたカゴが昇りはじめた――すると、また、急にカゴが止まった。今度こそなにか機械に不具合が生じたのかと思いルイさんを見ると、明らかに笑いを堪えている表情をしていた。――なるほど、ぼくをからかっているのだとその時分かった。今度は何も言わずカゴが昇りだす。しばらく上昇していくとまた急停止した。
「ル、ルイさん!?」
自分でも声がうわずっているのが分かった。
「あはははは、ごめんごめん、もうせえへんから」
大爆笑するルイさんに若干の怒りが湧いた。その後は、何事もなく上昇していき、屋上面が見えた時には、自分がどれだけ強張っていたのか分かる程に力が抜けた。
「西嶋はそのまま乗っときな」
ルイさんは軽やかな動きでカゴから降りるとゴンドラを移動させた。その動きに合わせるようにカゴも動き出したが、とても不安定に揺れるので縁に力一杯しがみついた。
そして、本体が止まると慣性の法則でカゴのほうは大きく揺れる。
「あわあわわわ」
「おっと、行き過ぎたかな?」
そういうと本体を少し戻す。それは本当に少しだったのだろうが、更に反動が大きくなりカゴは大きく揺れて転びそうになった。
「あれ、また行き過ぎたかな?」
また本体を前進させる。そうなると波のように大きな揺れとなって本気で危ないぐらい揺れた。
「ルイさんんん遊んでるでしょう~~~~」
揺れまくるカゴにしがみつき、なんとか抗議の声を上げることが出来た。
「あははは、やっとしゃべったか西嶋!」
弾けるような笑い声を屋上で響かせ、揺れるカゴを止めてルイさんが軽やかに乗り込んできた。
「マジで怖いんですから……」
「ごめんごめん、でも、こんなのは慣れやからな」
慣れる前にトラウマになりそうだ。ぼくの心が落ち着く前にカゴは下降を始めた。動くたびに内臓が口から出て来そうな感覚を味わいながらゴンドラに乗り続けた。
――本当にこんなの慣れるんだろうか?
そんな不安を抱えながら作業を続ける。そして、神経がすり減り限界が近づいた頃、休憩に入った。カゴから降りると力なくその場にへたり込んでしまった。
「ジュース買ってくるよ」
「――いや、ぼ、ぼくが行きますよ」
立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
「まだまだ頑張ってもらわなアカンからそこで休んでな」
牛若丸のような軽い足取りで、屋上を歩いていくルイさんの後姿を見ながら早く肩を並べれる掃除屋になりたいと切実に思った。
ルイさんが買ってきてくれたコーヒーを飲んで、ようやく人心地着けた。ルイさんはビルの縁になるパラペットに腰かけ景色を眺めていた。それに驚いたが、ぼくもつられて辺りを見る。仕切りがなくてどこまでも広がる景色に凄く感動した。
「景色いいですねルイさん」
「そうか?」
まさかの否定に驚いた。
「あれ、綺麗じゃないですか?」
「この程度の高さやとビルが多くて大阪を一望できひんやろ」
「なるほど」
ルイさんに言われて見渡してみたが、十階以上の高さのビルやマンションが多くて視界は悪かった。
「あの高層マンションの屋上から見る景色は凄いけどな」
ルイさんの指し示したマンションは、五十階の高さがあり大阪で一番高いそうだ。そんな所から見える景色はどんなのだろうかと想像してみたが――今は怖さが先に立つ。
「あそこから見る景色ってどんな感じですか?」
「すべてがちっぽけに思えるで、大坂城も下に見えるからな」
天下を取った豊臣秀吉が見た景色より高い所の景色が見えるのかと思うとなんだか凄く得した気分になった。
「……うちも西嶋と同じで、高い所に憧れてこの仕事はじめてん」
そんな話をルイさんがするのは初めてで驚いた。そして、ルイさんと共通点があることが嬉しかった。
「ぼく、実はマンガを描くためにこの仕事はじめたんです」
自然と言葉が出た。
「西嶋はマンガ家目指してるんか!?」
「はい! ぼくの夢なんです」
「そうかぁ夢かぁ――頑張りや!」
豪快に背中を叩かれ、乱暴な頑張れを頂いた。
「頑張って夢を叶えます!」
興味なさそうにされるかと思ったが、意外にもルイさんから応援の言葉をもらって、驚きつつも嬉しさが心を満たした。
「――さて、お昼までもうひと頑張りといこうか」
「はい!」
ルイさんは軽やかな足取りでカゴに乗り込んだ。ぼくはまだ恐る恐る乗り込むのが精一杯であった。それでも、少しは慣れてきたのか初めほどの怖さはなかった。この調子でいけば作業が終わる頃には克服できるんじゃないかと調子に乗っていた。そんなぼくの油断を戒めるように試練が訪れる。カゴが八階部分のガラスに到着したので、今までのようにガラス清掃をやっていると突然横風が吹きつけ、カゴがガラスから離れた。
「うおおおお!?」
一瞬でビルから離れ、驚いたぼくは固まって何もできなかった。――だが、ルイさんはすぐにサッシを握りカゴが開くのを止めてくれた。
「前押さえて!」
ルイさんの誰何に身体が反応して手を突き出した。カゴが元の態勢に戻ろうと凄い勢いでビルに戻っていく。そのままの勢いでガラスにぶつかれば、下手をしたらガラスが割れていたかもしれないほどの衝撃がぼくの腕に伝わり、多少ガラスに加わる衝撃を吸収することが出来た。カゴの揺れが収まる頃、心臓が爆発するんじゃないかと思うほど激しく慟哭していた。
「いくで」
「……!?」
ルイさんは何事もなかったかのように作業を再開する。あまりの大胆不敵さに新人類を見るよな目でルイさんを見た。それすら気にするそぶりも見せず、ルイさんは黙々と作業を続けていた。
「……ルイさんは怖くないんですか?」
「はあ? あんなんでビビってたらこの仕事やってられへんわ」
ちょっと怒られぎみに言われて焦ったが、あんなのは普通の事なんだと驚きつつ作業を続けた。それでも風が吹くたびに先ほどの恐怖が頭をよぎり、ぼくだけ作業が止まる。高さの恐怖と風の恐怖が作業に支障をきたしたせいで、午前中に六本しか作業ができなかった。ルイさん曰く、いつもより四本ほど遅いそうだ。
「――さーメシにしようか」
午前中の作業が終わりカゴから降りると、疲労困憊で屋上面に足が着くなり崩れ落ちた。
「大丈夫かぁーー西嶋?」
「だ、大丈夫ですハハ……」
言葉と裏腹にフラフラな足取りでルイさんの後をついて歩く。よろめきながらもコンビニに向かう道、ルイさんがハイエースへと向かっていた。
「ルイさん、今日はコンビニじゃないんですか?」
「うちは今日から弁当や」
「ええ、お弁当つくれたんですかああ!?」
「失礼やな!」
「あ、いや、そういう意味じゃないです」
今までお弁当なんて作ってきたことなかったルイさんが、急にお弁当を作ってくるなんて……まさか、男ができたんじゃないだろうかと焦った。そういえば、ルイさんに彼氏がいるかずっと確認できないままであった。
「急にどうしたんですか?」
「お金貯めようと思ってな」
「何か買うんですか?」
「まぁな」とそれだけ言って、ルイさんはハイエースへと向かった。
――お金を貯めて何を買うんだろう。結婚資金とかだろうか?
コンビニへ向かいながら、色々考えネガティブな方に思考が進み落ち込んでいく。
ハイエースに戻ると玉部さんが開口一番初ゴンドラについて聞いてきた。
「風が吹いてきた時にはめちゃくちゃビビりましたよ」
「初めてやと怖いわなぁ」
「あんなんで怖いゆってたら山さんとゴンドラ乗ったらチビるで西嶋」
ルイさんが、かわいい弁当箱でご飯を食べながら話に加わってきた。
「そんなに怖いんですか?」
「絶対作業やったらあかんような強風の中でもゴンドラ降りるから」
あんな風でも平気にしていたルイさんが怯える程の強風って、どんなものかイメージが湧かなかった。
「俺もあるわ、とてもじゃないけどガラスの掃除なんてしてられない風で、ずっとサッシにしがみついてないとひっくり返りそうな強風の中でも降りはるからな」
「そうそう、一瞬風が止んだ隙をついて降りていくとか鬼のような人やで」
「あの強風はヤバかった。作業中止にしても上に昇るにはサッシから手を離さなあかん、でも離したら強風にあおられてひっくり返りそうになる。早く屋上に逃げたいけど逃げれないというジレンマの中で、じっとサッシにしがみつく恐怖……もうコリゴリやな」
「なんでそこまでやるんですか?」
普通に感じる疑問をぶつけてみた。
「日程もあるんやけど、道路使用許可証の関係もあるからな」
ゴンドラでビルの外面部分が公道にかかる場合は、通行人の安全を考えて塞がなければならない。そういう時に警察署長等の許可が必要となり、それを取る為に二千五百円払うそうだ。そして、その有効期限が七日しかないのであった。道路使用許可証についてルイさんが教えてくれた。
「たった二千五百円をケチる為にうちら命がけでガラス清掃してるんやと思うと安い命やと思うで」
「まったくやなぁ」
半分冗談ぽくいっているが、確かに理不尽な話である。
「西嶋も山さんとゴンドラ乗るときは覚悟しといたほうがええで」
ガラス清掃って、そんな覚悟を決めてやらないといけないものかと疑問に思ったが、ルイさんとだったらいいかと一人ほくそ笑む。
――お昼休憩も終わり、玉部さんと千石さんはビルの内部作業に向かい、ぼくとルイさんはゴンドラの続きで屋上へと向かう。エレベーターの中で、昼からは少しペース上げないと日が暮れるとハッパをかけられた。
屋上に行きルイさんがカゴに乗り込み、続いてぼくが乗り込もうとした時、パラペットで足が滑り前後不覚となった。――気が付くとぼくの身体はビルの外に出ていた。
「うわあああああ!?」
足が宙に浮き身体が不安定に揺れているこの状況にパニック状態となった。
「暴れるな西嶋!」
その声に顔を上げると、ルイさんがカゴから半分身体を乗り出して、ぼくを捕まえていてくれた。
「ルイさん! ルイさん!」
落ちたくない一心で、ルイさんの腕を力一杯握りしめる。恐怖なんて生易しい言葉では言い表せない怖さが全身を駆け抜け、胃液が逆流してきそうな気持ち悪さが内臓を激しく揺さぶる。よく映画やドラマやアニメなどでこういう場面を見たりするが、知識として知っているのと実際に体験するのとではまったく別物だということがこのときはじめて分かった。
「……絶対助けるからがんばれ!」
ルイさんはお腹が圧迫され、苦しそうに声を絞り出しながらも励ましてくれた。
「ゴンドラ操作できたらええんやけど……」
そうなのだ。ゴンドラを動かしてカゴを中に入れれば、ぼくを引き上げる必要はないのだが、ぼくを掴んでいる状態では操作ができないから困っていた。何かいい方法はないか考えている間にも徐々にルイさんの身体が引っ張られるように乗り出してきた。このままだとルイさんまで落ちてしまう。
「……ルイさん放してください」
震えた声で絞り出すように言った。死ぬのが怖くないわけじゃないが、ルイさんまで道連れにはしたくない。
「……アホか……目覚め悪なるわ」
そういうとルイさんは更に強く捕まえてくれた。
「でも……ぼくルイさんを巻き込みたくないです」
「……しっかり巻き込まれてるちゅーねん……」
風が吹くたびに股間がスースーして、こんなに縮こまったのは初めてじゃないかと感じるほど背筋が凍りつく。
「ルイさん、もういいですありがとうございました!」
「縁起でもないこと言うな! ……それより死ぬ気があるんやったら一分、いや三十秒、一人でカゴに捕まってれるか?」
ルイさんは何か思いついたのだろう――ぼくは理由も聞かずにそれに乗ろうと思った。そしてどこか持てるところはないか見てみると、側面にちょっとしたでっぱりがあったので、そこを持っておけば三十秒ぐらいなら持ち堪えれそうだった。それを伝えるとそこに捕まってろと言われた。実際持ってみたが、思ったほどでっぱりはなくて、すぐに手が離れそうだった。
「じゃ、うちは手を離すで」
「いつでもどうぞ」
「絶対助けるから諦めんなよ!」
「はい!」
とにかくルイさんに迷惑かけたくない一心で、でっぱりに捕まった。ルイさんが手を離す。その瞬間、両腕に自分の体重が乗しかかり、身体が下に引っ張られた。自分だけで捕まっているのは思ったよりきつく、すぐに限界を迎えそうな気がした。このままじゃ三十秒も捕まっていられないかも――いや、無理だ。と諦めがぼくに頬ずりしてきた。
「……もう落ちそう!」
「もうちょっと頑張れ!」
ルイさんの声だけが聞こえ、その声を励みにしがみついた。それはまさに生への執着であり、ルイさんの為にも食らいついてでも生きてやるという思いが、限界を迎えているだろう腕に力を与え続けた。
「動かす、しっかり持って!」
振動と共にカゴが動く。その振動は限界を超えていたぼくの腕に更なる負荷を与えた。手が剥がれそうになり、慌てて握り直そうとしたが、振動がぼくの手を振りほどこうとするように動き――――手が離れた。心臓を氷の手で鷲掴みされたような冷たさと苦しさを同時に味わい、死が頭をよぎった。――体を打ち付ける音と衝撃が全身を突き抜け、目の前が真っ暗になるのを感じた。
「大丈夫か西嶋!?」
頭上からルイさんの悲鳴に近い声が聞こえた。一体何が起きたか分からず呆然としていたが、聴覚は機能していてゴンドラが動く機械音が鼓膜へと届いていた。
――生きてる?
そう思った途端、止まっていた呼吸が再開し身体が激しく酸素を欲する。ぼくは急いで酸素を取り入れると、心臓も未だかつてないほど激しく脈打っていた。
「頭打ってないか? どこか痛いところあるか?」
ルイさんが心配そうに見つめていた。ぼくはルイさんの顔を見て、ようやく自分が助かったのだと理解した。安堵の気持ちが広がると同時に恐ろしかった思いも込み上げ全身が震えだした。
「立てそうか?」
ルイさんの言葉に首を振るだけで精一杯だった。足に力が入らず、震えすら自分で止めることができない有様だ。それでもぼくは生きていると助かったんだという気持ちがジワリと湧き上がってきていた。
「よかったぁ~」
ルイさんもその場にへたり込み、安堵の吐息を深く吐き出した。
「……す、すみませんでした」
ようやく声を出せたが、その声も消え入るような小さなものであった。
「しっかり面倒見てなかったうちが悪かった」
申し訳ない表情を浮かべるルイさんに全力で首を振って否定した。それを見てルイさんは疲れた笑顔を浮かべる。
「――西嶋はそこで休んどき」
ルイさんは立ち上がるとカゴに乗り込もうとしていた。ぼくも作業に戻ろうと立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
「ちょっと待ってください、ぼくもいきます」
なんとか立ち上がろうと、近くにある鉄のレールに手をかけて身体を起こそうとしたがそれでもダメだった。
「ええから、ゆっくりしとき!」
ルイさんはちょっと強めに言うとカゴに乗り込み動かしだした。悔しいが、今のぼくでは足手まといでしかないと思いルイさんを見送る。ルイさんが見えなくなった途端、涙が溢れだしてきた。慌てて涙をぬぐったが、それでも次々と涙が溢れてきた。
――本当に怖かった。
高い所は危ないと認識していたが、どこか慢心していたのだろう。そんな自分に腹立たしく思った。ぼくだけならまだしもルイさんまで巻き込んで死なすところだったと考えると悔しくて、情けなくて、涙がとめどなく溢れてきた。
――それから、内部の作業が終わった玉部さんと千石さんが合流して、三人が交代でカゴに乗り込み今日の作業を終わらせてくれた。
「……すみませんでした」
四人でゴンドラの片づけをしながら、ようやく謝ることが出来た。
「うちも初心者相手に不注意やったわ……」
ルイさんが申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ぼくが不注意やったんです。ルイさんは悪くないです」
その言葉にルイさんは何も答えてくれなかった。
「無事やったからよかったやないか」
玉部さんに軽くヘルメットを二回叩かれた。その後は、みんな黙々と片づけを終わらせハイエースに乗り込み事務所へと戻った。
「――社長ちょっといいですか」
ルイさんは倉庫で「うちが社長には話すから」と言い、今、社長と奥のソファーで話をしている。
「西嶋君こっちきて」
社長に呼ばれぼくもソファーに座った。
「この仕事は危険なことが多いから気を付けなあかんって、口が酸っぱくなるほど言ったよね……今回は大きなケガはなかったからいいけど……」
社長の口調は穏やかだが、眉間に皺をよせかなり怒っている様子が窺えた。
「うちがついていながらすみませんでした」
隣に座るルイさんが深々と頭を下げるのを見て、ぼくは胸が苦しめられるような気持ちになり自然と言葉がこぼれた。
「ルイさんは悪くないです。すべてはぼくの不注意です。すみませんでした」
「うちが社長から任されたのにこんな事が起こったんやからうちのせいや!」
「いや、ルイさんはよく面倒を見てくれてます。それを聞かなかったぼくが悪いんです」
ここは絶対に譲ることはできないと、睨んでくるルイさんを真っ直ぐに睨み返した。
「うちが今日の責任者や下の者の責任はうちの責任なんや!」
「不注意やったんはぼくなんやからぼくの責任です!」
「いい加減にせいよ! うちの所為やゆうたらうちの所為やボケ!」
ルイさんはぼくの胸倉をつかみ、脅すように言ってきた。それでも引かなかった。ここで引いたら男として情けなさすぎると最後の意地でルイさんを睨み返した。
「なんと言われてもぼくは引き下がりませんよ!」
「上等や!」
「ストップストップ!」
今にも殴りかかりそうだったルイさんを社長が止めてくれた。
「新人のクセに生意気言いやがって……」
社長に止められてもルイさんは不満をタラタラと零しながら横目で睨んできた。めちゃくちゃ怖かったので目を逸らした。帰りに殴られるんじゃないかと本気で心配になった。
「まぁ、二人ともいい経験になったみたいやし、この失敗を今後に生かしてくれたらええからな」
「……わかりました」
ぼくとルイさんは異口同音に発した。
「西嶋君はどうや?」
立ち上がろうとしたぼくを社長は意味不明な言葉で呼び止めた。
「どうとは?」
「ゴンドラ乗れそうか?」
ゴンドラと言葉だけで過剰に体が反応を示した。多分今すぐにはゴンドラに乗れないだろう――でも、このまま乗れなければ、自分の責任だとルイさんは思うかもしれない。そんな負い目をルイさんには持って欲しくなかった。だからこそ、ここは毅然と言わなければならないという思いがぼくを衝き動かした。
「……今すぐには無理かもしれませんが――慣れていけば大丈夫だと思います」
「そっかそっか……慌てんとゆっくり慣れていけばええからな」
社長は笑顔を浮かべ、ぼくの肩を叩いて応援してくれた。
――無事に家に帰れてホッとした。ベッドで横になってその感動に胸を一杯にした。今回はいい経験が出来たとポジティブに考え、この体験をマンガに活かせないかとアイデアを練った。そこで辿り着いたのが、掃除屋で働く主人公を描く物語であった。実体験を基にしたストーリーなのでリアルに描けそうだと思った。そうなるとルイさんを出さないわけにはいかない――ルイさんをどのポジションで描くかが重要であった。しばらく頭を悩ませていたが、一つしか思い浮かばず、それが良いのか悪いのか最後の判断はやはり奴しかいないと電話を手にした。
「お前、またくだらん恋愛相談だったら切るからな!」
電話に出るなり井上は脅し文句を吐く。
「大丈夫やマンガのアイデアの相談だよ」
「それじゃ聞こうか」
思いついたことをとにかく手当たり次第話して聞かせた。それを黙って聞いていた井上は長い沈黙の後ようやく口を開いた。
「ベタにいくなら掃除屋を舞台にした恋愛もの、他は掃除屋の日常を面白おかしく描くコメディーもの、掃除屋の暗部を通して会社の闇を描く社会派ものなどかな……お前の話聞いてるぶんじゃ恋愛ものが妥当じゃないか」
「やっぱりそうかぁ」
「なにがやっぱりそうかぁだ! それしか頭にないって話しっぷりだったぞ、しかもお前の好きな先輩を出したいだけの気持ち悪い妄想垂れ流しのマンガだろうが!」
自分でも気づいていたが、そこまではっきりと言われると深く傷つく。
「そんなに気持ち悪くないやろう?」
「めちゃくちゃ気持ち悪りぃよ! 犯罪者予備軍だよ! ――だけど、その分思いが強く伝わるんじゃないか」
思いもよらぬ言葉に驚いた。
「逆に気持ち悪いわ……」
「失礼やな! 寝る!」
あっさり切られてしまった。それでも井上の言葉で、なにか手応えのようなものを感じたぼくは、掃除屋と恋愛ものをコラボさせたマンガを描き進めようと決めた。
――それからマンガのアイデアを練り込み、仕事では、お昼休みなどに屋上へ上がり高い所に対する恐怖を克服する特訓を繰り返した。
プールや海水浴にも行ってないのに顔や腕が真っ黒になった八月後半頃のある日、社長がいつもの軽い口調でぼくに言ってきた。
「今度、ゴンドラ免許講習あるから西嶋君行く?」
仕事が終わり、挨拶して事務所を出てようとしたときに突然言われ、反射的に「はい」と答えていた。
「それじゃ申し込んでおくよ。終わったら事務所まで戻ってきてね」
よく分からないまま、今度ゴンドラの免許講習に行くことになった。
――ゴンドラ免許の講習当日、事前に場所を調べていたので迷わず会場には着けたが、やっぱり緊張する。来る前にみんなから色々な話を聞けたが、どれもこれも「眠たかった」という感想だった。最後にテストがあるらしく、八十点以上取らないと免許はもらえないらしい。役に立つようで立たないアドバイスを受けたが、昨日ルイさんも講習が終わったら事務所に戻ってくるように言ってたけど、なにか用事でもあるのだろうか? もしかしたらお祝いに飯でも奢ってくれるのかもしれない。そして、良い雰囲気を作ってぼくからの告白を待っているとか――などとつまらない妄想をしてしまった。
――そんなくだらん妄想をしているうちに講習も進む。ゴンドラ免許といっても実際にはゴンドラの操作に必要な資格のことである。労働安全衛生法第59条(ゴンドラ安全規則第12条)により、事業主は従業員にゴンドラを操作する業務に就かせる時は安全のための特別教育を実施することを義務づけられていて、ゴンドラの操作をしない場合でもゴンドラに乗るときには必要とされるものである。講習内容は、一、ゴンドラに関する知識。二、ゴンドラ操作に必要な電気に関する知識。三、関係法令。四、実技(ゴンドラの操作方法・設置方法・基本操作について勉強していく。授業は玉部さん達のいうとおり、とにかく眠たいだけで睡魔との戦いに苦しめられた。チラっと周りを見渡すと完全に寝ている人やウトウトとしている人などがチラホラと見受けられた。――授業の終わりにテストを受けたが、普通に授業を聞いていたら簡単に解ける問題であった。その日のうちにすべての講習が終わり、ゴンドラ取扱業務特別教育修了証をもらって終わった。これでは身分証明証にはならないらしい。
長い一日を終え、社長やルイさんに言われた通り電車を乗り継ぎ事務所に戻ると電気が消えていた。
――あれ? 戻ってくるように言われていたけど誰もいない。
誰か待っていてくれるものと思っていただけに期待はずれな気持ちになった。それでも一応事務所のノブに手をかける――すると、あっけなく開いた。電気が消えていて扉が開いているなんて、どこかの殺人事件のような展開に少しの高揚と少しの恐怖とたっぷりの好奇心で中を覗く。事務所は薄暗く誰も居ないようだったが、奥に青白い光が女の人の影を浮かび上がらせていた。思わず悲鳴を上げそうになったが、よく見るとルイさんだった。
「お帰り西嶋、どうやった?」
「ただいまです。取れましたよゴンドラ取扱業務特別教育修了証」
ぼくはブイサインと一緒に修了証を見せた。それを見てルイさんは優しく微笑んでくれた。
「それじゃ行こうか」
スマホをしまい事務所に鍵をかけてスタスタと歩き出す。
「どこに行くんですか?」
「ついてくれば分かるよ」
ルイさんは、しっかりとした足取りで歩いていく。遅れまいと後を追いかけた。近くの駅に行き、そこで梅田までの切符を買って乗り込んだ。ルイさんと電車に乗るなんて初めてで、何かしゃべらないといけないと思い一生懸命考えてみた。
「西嶋は起きていられた?」
「え? あ、はい! かなりきつかったですが……」
「やろうな、うちなんて前のオッサンがデカかったからその陰に隠れて寝てたけどな」
ルイさんは、イタズラっぽい笑顔を浮かべる。
「最後のテスト大丈夫でした?」
「隣のオッサンのを盗み見たよ」
豪快な人だと感心するべきか悩んだ。でも、魅力的な人なのは間違いないと思った。
「今度は西嶋の運転でゴンドラ乗せてもらうわ」
「ルイさんより安全運転で操作します」
「生意気なこと言うようになったな」
ルイさんは軽くぼくの右肩を叩いた。なんて幸せな時間なんだろうと電車に揺られながら、まったりしたハッピータイムが流れているのを肌で感じた。ルイさんとこんな時間を何度も味わいたいと思いながら電車は梅田駅へと着いた。さすがに大阪一賑やかな場所である。人が多く、しっかりルイさんについて歩かないとはぐれそうな勢いだった。
「どこまで行くんですか?」
不安になってルイさんに問う。
「もうすぐやから」
そういうだけで、ただひたすら歩く。そして一軒の居酒屋に入るとそこには長峰美装の全員が集まっていた。
「おう、きたきたこっちや!」
社長が大きな声でぼくらを呼んだ。
「無事免許とれたか?」
社長に言われ修了証を見せる――それを見たみんなから賛辞の言葉をもらった。
「それじゃ、西嶋くんのゴンドラ免許習得と歓迎会を兼ねた飲み会を開催する」
社長の音頭で飲み会が始まった。まさか、歓迎会までしてもらえるとは思っていなかったので凄く嬉しかった。飲み会での会話の流れは、自分たちがゴンドラの免許を取りに行った時の話に大いに盛り上がった。ぼくが何度も寝オチしそうになった話をすると全員が分かると頷いてくれて嬉しかった。
――宴も盛り上がってきた頃、社長がルイさんに言った一言がぼくの心を鷲掴みにした。
「そろそろルイちゃんにいい男紹介したらんといかんなぁ」
全員が条件反射のように肩を震わせる。
「そんなんまだええよ」
ルイさんはアルコールで顔を赤らめながらもグラスのビールを一気に飲み干す。
「主婦って柄じゃないわなルイちゃんは」
バカ笑いをする社長の言葉にみんな頷く。
「ほっとけ!」
「ルイちゃんに合いそうな男なんて……西嶋くんぐらいじゃないかしら?」
事務員のオバサンがポツリと呟いた言葉が、この場の空気を一瞬にして戦場へと変えた。
「いや~西嶋はないやろ~」
「西嶋じゃルイちゃんにコキつかわれるだけやで」
「もし付き合っても一週間もせず捨てられるで!」
酔っぱらっているせいもあるのだろうが、みんなボロカスに言うのでさすがにへこんだ。
「西嶋とか絶対にないわ!」
とどめはルイさんに強く否定され、心が砕ける音が聞こえた。そして、外野の男たちからはざまあみろという顔で見られた。――しかし、ルイさんに今は彼氏がいないという情報を得たのは大いなる一歩である。ぼくでも頑張り次第では、ルイさんの彼氏にもなれる可能性が残されているのだからだ。
「――そうや、ルイちゃん独立の準備すすんでるのか?」
「ぼちぼちですよ」
「え!? ルイさん独立するんですか?」
我が耳を疑いもう一度ルイさんに問い直す。
「今すぐってわけやないけどな。それがうちの夢やからな」
夢という言葉を使った後、ルイさんはぼくの方をチラリと見た。前にぼくが「マンガ家になるのが夢です」って言った言葉を覚えていてくれたんだと嬉しくなってビールを一気に飲んだ。
「――ぼく、ルイさんにまだまだ教えてもらわなあかんことあるのにまだ居て下さいよぉ……」
ルイさんが長峰美装を辞めて独立するのは残念で寂しくて、つい愚痴のように呟いていた。
「だからすぐってわけやないから!」
「じゃあいつなんですかぁ?」
「分からん言ううてるやろ!」
ウザくなったのだろうルイさんはぼくの頭を叩き立ち上がった。
「すみませんルイさん。どこにもいかないでください」
酔っているせいもあり、感情がうまくコントロールできず、情けない自分を晒している自覚だけはあった。
「うっさいねんトイレや!」
「早く戻ってきてくださいよ」
うるさい! と最後に怒鳴って行くルイさんの後姿をなんだか本当に遠くに行ってしまうような気がして泣きそうに見送った。
「西嶋くんはルイちゃんのことが好きなんか!?」
社長が笑顔を浮かべ訊いてきた。そんなにはっきりと聞かれると否定しずらかったが、肯定する勇気もなく俯く。
「……こいつ、ほんまに分かりやすいなぁ」
玉部さんの言葉で、みんなが同意するように頷く。それを見て、ぼくの気持ちがみんなにバレている事が分かり、恥ずかしくて穴があったら入りたい気分になった。
「ルイちゃんの方はどうなんや?」
「さぁな、その辺りはまったく読まれへんからなルイは……」
山岸さんの一言にみんな大きく頷く。そんな話をしているとトイレの方でなにか大騒ぎしている声が聞こえてきた。覗いてみるとルイさんが男と何か揉めている様子だった。
「ルイさんがケンカしてる」
「あいつまたか!」
誰が言ったか分からないが、みんなでルイさんを止めに向かった。
「かかってこいボケェ!」
ルイさんは、店員に羽交い絞めにされながらも足で男を蹴ろうと振り回す。ぼくたちが間に入ってルイさんを宥めようと話した。しかし、そんなことで止まらないのがルイさんだ。店員さんによるとルイさんがトイレに入る前から男がナンパしてきて、トイレからでてもしつこくナンパしてきたので、ルイさんが突き飛ばしたらしい。それに男が怒り掴みかかるとルイさんは拳で男の顔面を殴った事で、ここまで騒動が発展したそうだ。
店員やぼくたちが向こうの男を宥めて事なきを得たが、席に戻ってもルイさんは不機嫌にお酒を飲んでいた。
「お前ら何で止めたんや。もっとルイちゃんにやらしたったらよかったのに!」
お酒を飲みながら無責任な言葉で社長が茶化す。
「気にしないで飲み直しましょうルイさん」
ぼくの注いだビールを一気に飲み干した。
「……気分悪いんでお先に帰ります社長」
「なんやルイちゃんもう帰るんかぁ」
みんなに軽く会釈してルイさんが席を立った。
「ぼ、ぼくも帰ります」
ルイさんが心配で送っていこうと思った。
「西嶋ぁ、送り狼になるなよぉ~」
「そんな根性あるかいな」
冗談と笑い声が飛び交う宴会ブースから急いでルイさんを追いかけた。
「――ま、待ってくださいルイさん、送りますよ」
「お前に守ってもらわなあかんようになったらうちも終わりやな」
冗談かマジなのか分からないことを言いながらルイさんは待ってくれていた。
夜行性の人たちにとっては、まだまだ宵の時間だろうが、ぼくたち掃除屋は朝が早い分、夜は早めに就寝する人が多い。久しぶりに歩く繁華街は大勢の人がお酒に酔い楽しそうに雑談をしながら歩いていた。そんな中をルイさんと歩いていると気になるのはすれ違う人の視線だ。みんなルイさんを一度は見てくる。それほど綺麗なのだが、綺麗な薔薇にはトゲがあるを具現化したようなルイさんには、特に今は誰も近づかない方がいいと思いながら繁華街を歩いていた。
「――ほんまよかったなゴンドラ免許取れて」
喧騒が響く街中で、ルイさんがポツリと呟いたのをかろうじて聞き取れた。
「ありがとうございます」
「……あのままゴンドラ乗れんようになってたらうちのせいやったからな」
ルイさんは、ぼくがゴンドラから落ちそうになった事件を今も気にしていたんだとこの時はじめて知った。
「でも、こうやって無事免許取れたんで気にせんといてください」
「……悪酔いしたみたいやな、あんたに慰められるなんてな」
「まだまだ頼りないかもしれないけど、話ぐらいならいつでも聞くんで言ってください」
「生意気言うな!」
おもいっきりケツを蹴られた。――でも一瞬だけどルイさんが照れていたように見えた。でもそれは、アルコールで顔が赤く見えていただけなのかもしれなかった。
家まで送ると言ったのだが、駅まででいいと頑なに断られ、駅までルイさんを送るとそこで別れた。――帰り道、複雑な思いに思考が巡っていた。それは、ルイさんに彼氏いないのは嬉しい情報なのだが、いずれ独立するって情報はとても寂しものだった。タイムリミットが分からないが、ルイさんともっとお近づきになりたい。ならなければならないのだが、どうすればいいのかまったく見当がつかなかった。
「――で、こんな時間に俺に電話してきたと……」
「こんな相談できるのお前だけだろ~聞いてくれよ……」
ベッドに横たわり中学時代からの親友で、ぼくのマンガなどのアドバイスをしてくれる井上に電話で相談した。すると井上の呆れた様子が電話越しにでも伝わってきた。
「頑張れとしか言えないな」
「なんだよそれ、こっちは真面目に悩んでるんだぞ」
「……マンガのアドバイスはできるが、彼女のいない俺に何を求めているんだ」
「マンガのアイデアだと思ってアドバイスしてくれ~」
「なるほどな……盛り上がるためにはもう一波乱あるほうがいいと思うぞ。例えば、焦った主人公がヒロインに告白して振られるとかどうだ」
「ぼくに死ねと言っているのか」
「何を言っている。この告白はヒロインに主人公を意識させるために必要な布石じゃないか!」
本当にマンガのアドバイスをしてきた。
「もうええわ!」
「――んだよ、話が盛り上がってきたとこやのに……まぁ、頑張れや」
何を頑張ればいいのか分からないが、とにかくルイさんがいる間は仕事について色々教えてもらおう――そして、告白できるところまで頑張ろうと思った。