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五 苛立ち

 酒井の自宅マンションの駐車場へ入った車から降りた五人は、エレベーターに乗った。和泉は大きな紙袋ふたつを持っている。深山が先導し板見が酒井の乗った車椅子を押している。吉田もひとつ紙袋を持っている。

 酒井から鍵を借りて部屋のドアを開け、和泉は奥の寝室のベッドを見て「あーあ、やっぱり」と言いながら、ベッドメーキング作業を始めた。

「枕もないし、シーツもしわしわ。新しいの持ってきてよかった。」

「でも男の部屋にしてはキレイだよね、凌介」

「物がないだけじゃないんですか」

「うるさいなー板見」

「あ、吉田さん、和泉さん、しばらくリビング立ち入り禁止です。お着替えされますから」

「はいはい」

 ソファーの上で深山と板見が手伝い、吉田が持ってきた新しい寝巻に着替えさせる。

 吉田は自ら台所でコーヒーを淹れる準備をし、リビングに背を向けたまま尋ねる。

「コーヒー豆、どこにある?酒井」

 深山が代わりに返事をした。

「右奥の棚の上から二段目です、吉田さん。」

 一同はゆっくりコーヒーを飲み、そして煙草を吸いたがる酒井を和泉が一喝し、深山と板見が無理矢理に近いかたちで寝室へ連れていった。

 きれいに整えられたベッドには、枕のほかに羊のデザインのクッションがふたつも置いてあった。

「なんや、このヒツジの枕、どこかで見たことあるで。」

「枕じゃなくてこれはクッションです。可愛いでしょう?ベッドですわって本を読んだりされるとき、背中に当てるとラクですよ。」

「えらいおおきに。」

「自宅療養中、退屈でしょうから。」

「外出したらあかんのか。せっかく小洒落た車椅子まで病院が貸してくれはったのに。」

「当たり前です。酒井さんは車椅子の扱いに慣れてないんですから、一人で外出なんて言語道断ですよ。」

「両腕は無傷なんやから、車椅子マラソンかて行けるで。」

「車椅子は室内の移動用です。三度の食事は家政婦さんがつくりに来てくれますから。あと、リハビリに毎日病院へ行けますよ。送迎付きです。足の骨が治るまであとたったの二か月なんですから、我慢できなくてどうするんですか。」

「あーあ」

「大人しくなさっててくださいよ。」

 深山と板見がベッドにヘッドボードにもたれるように座らせた酒井の背中に、和泉が枕とクッションを入れ、腰まで掛布団をかけた。

 深山は踵を返した。

「じゃあね、凌介。またときどき様子見に来るけど、大人しくしててね。」

「もう行かれるんですか、深山さん」

「うん」

「お送りしますよ」

「大丈夫、仁志が迎えに来てくれることになってる」

 そのまま深山は部屋を出ていった。リビングですれ違いざまに、深山は吉田のほうを見て、一礼した。

「吉田さん。凌介をよろしくお願いします」

 吉田は微笑した。

「・・・がんばるけど、私だけじゃ無理よ。」

 深山も少し笑い、もう一度頭を下げると、玄関から出て行った。


 十五分後、次に酒井の部屋から出てきた和泉と板見は、マンションのほうを少し振り返りながら顔を見合わせた。

 板見が少し心残りな顔をしている。

「俺たち、ちょっと過剰に気を使いすぎましたかね。考えてみれば、酒井さんの家に二人きりでご婦人を残していくなんて、飢えた狼のところへ上品な羊を・・・・」

 和泉は思わず噴き出した。

「酒井さんはそんな人じゃないし。」

「いや、男なんてみんな似たようなもんです」

「あははは、仮にそうだったとしても、今の酒井さんの体力じゃどんなに非力なご婦人だって押し倒せないから。」

「まあ、確かにそうですね。」


 酒井は背中のクッションと枕に上体を預け、前を見たままため息をついた。

「恭子さん、リベンジはダメですよ。」

「なんのこと?」

「俺が命を粗末にしたら、恭子さんも命を粗末にする件ですよ」

 吉田はおかしそうに笑った。

「お前、粗末にしたのか?今回」

「そんなことはないですけどね。とりあえず、確認しただけです」

「確かに、ずいぶん今回、私はひどい目にあった」

「・・・・・」

「寿命がまた縮んだ。弁償してほしいくらいだ。」

「・・・・すみません・・・・」

 吉田は組んだ足をもとに戻し、そして椅子から立ち上がった。

「反省すべきことはあろうけれど、それはきっと社長から言われると思う。私からは、ひとつだけ。」

「はい」

「チームリーダーとしてではなく、個人として、頼む。・・・生きることを、優先してほしい。どんなときも。」

「・・・・・」

「お前が目を覚ましたとき、看護師さんが言ってくださった。我々の気持ちが通じたんだ、と。でもそれは看護師さんの優しさだ。」

「・・・・・」

「怪我からお前が生還したのは、たまたま三つの要素が重なっただけのことだ。第一には、協力病院の医療スタッフが、最高のケアをしてくれたこと・・・・そしてふたつめは、お前もがんばったこと。」

「・・・・・」

「そしてもうひとつ大事なみっつめの要素。そう、単なる偶然だ。幸運な偶然。」

「・・・そうですね」

「でもね、お前がそもそも負傷したこと、これは、偶然ではない。お前の行動の結果だ。」

「・・・・はい。」

「だから、お前に頼みたいことはひとつしかない。わかるか?」

「・・・・おっしゃること、もちろん、わかりますよ」

「長かった。わたしにとっても。あの三週間。それは・・・」

 言葉を切り、吉田はうつむいた。

 次の瞬間、吉田は腕を取られ、バランスを崩すように酒井に引き寄せられた。

 酒井が右手で吉田の左腕をつかみ、あっという間にその上体を抱きしめていた。

「・・・・・!」

「すみません」

「酒井」

「怪我で、小説かドラマみたいに記憶をなくして、個人として話すんでしたら、これからはどんなときも自分の安全第一で行動しますとお答えできるんですけどね。」

「・・・・・・」

「でも、残念なことなんですが、自分のこれまでのこと、全部覚えてますんで」

「・・・・・・」

「やっぱり、どうしても、恭子さんに心配かけることを、これからもやめられないでしょう。」

「・・・・酒井・・・・」

「・・・でも恭子さんは、今だけ、記憶喪失になってください。」

 吉田はベッドに浅く腰掛けるような態勢で酒井に抱きしめられたまま、バランスを取りなおすことを模索し、両手をようやく相手の肩に置き、顔を相手の胸から離した。

 酒井と吉田の目が一瞬合い、酒井は左手で吉田の背中にを支え、右手で吉田の眼鏡を外すとその手は彼女の頭の後ろに回した。

 酒井が、そして間もなくして吉田も、目を閉じた。

 酒井の唇が吉田の唇の端を少しかすめ、頬に触れ、そして涙が一杯にたまった目に、左右ともにゆっくりと口づけた。

 そして、再び酒井の唇が、吉田の唇へと戻り、今度は長いキスをした。

 吉田が声で苦情を表明し呼吸の苦しさを訴えるまで、何十秒も酒井はそのままでいた。



 深山祐耶はほぼ生まれて初めて、自分が相手へなにか不安に近いものを感じていることを意識していた。

「大森パトロールさん側からご連絡をいただく日が来るとは、おもわなかったよ。」

「あなたたちは、俺たちを常に監視している。探偵社だから。俺がインターネットのソーシャル・ネットワークで自分のアカウントを持って、なにか発信したら、きっとあなたたちの目にとまると思いました。」

「そうだね」

「万一見つけてもらえなかったときのために、念のために阪元探偵社さんの一般の窓口にも電話をしました」

「知ってる」

「浮気調査では定評があるらしいですね」

「ドル箱の分野だからね」

 茂の表情が少し柔らかく静かなものに変わり、深山の、自分よりやや濃いがまったく異なる異国的色彩のある茶色の両目を見た。

「酒井さんは、大丈夫ですか・・・?その後の容体は・・・・。差支えなければ、教えてはもらえないでしょうか。」

「・・・・・・」

「ご存じのはずです・・・。だって、あなたたちが、連れて帰られたんでしょう?」

「・・・・・凌介がどうなったか、どうしてあなたたちに関係あるの?」

「もちろん、関係ありません。葛城さんのために、知りたいだけです」

「そう。」

「そして、お願いがあります」

「?」

「俺を、殺してください」

「・・・・!」

「それで、終わると思うんです。」

「なにが?」

「ふたつの会社の、不幸な関係がです。」

「・・・・・・」

「庄田さんが、お考えになったこと。やっと今、わかったんです。」

「・・・・・・」

 深山は、その金茶色の長髪を右手で乱暴にかき上げた。

「今すぐとは言いません。あなたたちは、殺人鬼ではない」

「そうだよ」

「次の警護案件で、お会いしたとき。殺してください。警告にも関わらず・・・あるいは職業として、あなたたちの仕事を妨害する、俺を。・・・それはあなたたちの通常業務のはずです」

「そうだね。だけどね」

「・・・・」

「河合さん。僕たちの通常業務のことなら、どうしてわざわざ、君が僕に頼むの?」

「それは、あなたたちが、通常業務に支障を来していると思うからです」

「・・・・」

「そしてそれは、我々大森パトロール社も、同じだと思っています。」

 絹糸のような明るい茶色の髪が、微風に茂の額で揺れた。

「君が死んだら、どうなるの」

「ひとりの警護員が、ふたつの会社の間で命を落とした。このことは、ふたつの会社の、これまでのあいまいな躊躇を払拭する、決め手になると思います。たとえそのために多くのことを犠牲にして妥協してでも、これ以上、スタッフの・・・警護員そしてエージェントの犠牲を出さないこと。そのことが優先されることになると思います。そして・・・・」

「そして?」

「過去のしがらみを、断ち切る動機も与えてくれるのではないですか。ふたつの会社はもともと、親友だった。どうやったって、そのことは事実。それを本当の意味で乗り越えるには、本当の意味で敵にならなければならない。そうではないですか。」

「・・・・・」

「庄田さんが、俺を襲う振りをして死のうとしたとき、それはずいぶん長い間考えてこられたことだったと、そう感じました。俺は。」

「・・・・・」

「そしてたぶんですが、俺は、理由はわかりませんが、ある意味とても・・・大森パトロール社らしい、警護員なんでしょう。あなたたちにとって。」

「・・・・」

「こんな未熟者なのに、リクルート活動をされたり、そしてあそこまでのレベルの・・・たぶん超一流のエージェントが、自分を殺害させる相手に選んだり。」

「・・・・・河合さん」

「はい」

「上司や先輩たちに、教わらなかったの?警護員って、そう簡単に命を粗末にすることは、しちゃいけないって。」

「もちろん、教わりました。しかし、捨てるべきときに捨てることと、粗末にすることとは、まったく違うことですから。」

 深山はオートバイのエンジンをかけた。

 そのまま、しかし跨らずにヘッドライトの光で目の前の若き警護員を照らすように、凝視した。

「河合さん」

「はい」

「凌介は・・・・酒井は、意識を取り戻したよ。死なずにすんだ。」

「そうなんですね」

「どう?」

「え?」

「今、どう思った?」

「・・・・・」

「聞く必要もないね。その顔を見ればわかる。君は、喜んでいる。そうでしょ。」

「・・・・・・」

「人命尊重のヒューマニズム?そんな範疇じゃないね。酒井凌介は、あなたたちのクライアントを過去何度も狙い、警護員を負傷させた、阪元探偵社のエージェントだよ。その安否をなぜ気にするの。それは、葛城さんを今回凌介が助けたから?」

「・・・そうです」

「ばかばかしい。お客様のご要望だったから。それだけなんだよ。」

「そうだろうとは・・・・思いましたが・・・・・」

「お客様がボディガードを殺せとおっしゃるならば殺す。助けろとおっしゃれば助ける。それだけなんだから。凌介はね、葛城さんを助けたんじゃないんだよ。単に、お客様のリクエストに応える、エージェントとしての仕事をしただけなんだよ。わかる?」

「・・・・・・」

「次のお客様が、ボディガードを殺せとおっしゃったら、凌介は葛城さんだろうと誰だろうと、殺す。迷いもなくね。」

「・・・・・」

「だからね、僕たちはさっき君が言ったようなことはないんだよ。・・・・通常業務に支障を来しているということは、ない。庄田さんのことは、君の考えすぎってこと。わかった?」

「ではどうして浅香さんは山添さんを助けてくれたんですか?」

「・・・・・」

「どうしてあなたは泣いたんですか、高原さんを殺そうとしたときに」

 ため息をつき、時計を見て、そして深山はゆっくりとオートバイに跨った。

「ずいぶん長話になったね。・・・・・・君を殺せば・・・そうした質問に答える義務も、免除されるわけ?」

「そうですね」

「通常業務の範囲で、もちろん、殺してあげる。ただし、たぶんひとつ、通常じゃないことが、伴うと思う」

「?」

「君のお葬式は、僕たちで出す。比喩じゃなくて、文字通り。そういうことになると思う。どうしてかと言うとね」

「はい」

「君をとっても気に入っている人が、何人もいるんだよ。そして、個人的に気に入っている人間を、仕事として殺さなければならないとき、せめてやりたいと思うのは・・・・丁寧に弔うこと、なんだから。」

「・・・・・」

「分骨くらいはしてあげる。大森パトロール社さんに、そう伝えておいてね。」

「・・・はい。わかりました。」



 誰もいない事務室の、打ち合わせコーナーで、葛城のほうを見ずに、高原はやや自嘲的な調子で低く呟いた。

「・・・やり方がなんだかワンパターンで、恥ずかしいことだったけどね。」

「晶生・・・・・」

「河合は、気づかなかったようだね。まあ、月ヶ瀬でも気がつかなかったから」

「そうだね。業務用携帯は、構造が複雑だから、少々の細工はほぼ分からない」

「ああ。」

 高原は落ち着いた言葉の調子とは裏腹に、今にも倒れそうに見えるほどに顔色が青ざめていた。そしてそれはほぼ葛城も同様だった。

「機密保持のために、会社は社員のインターネット上の情報発信はチェックしてる。河合のそれは、一見怪しいところはなかったけど・・・・。スタッフが気の利いた奴でよかったよ。」

「ああ、そうだね・・。」

「なんてこった」

「・・・・どうすればいい?俺たちは・・・」

「河合を永遠にどこかに幽閉しておくしかないな」

「そうしたいよ」

「どうしてあんなにバカな奴に育ってしまったんだ・・・・。怜、お前の教育が悪かったんじゃないのか?」

「晶生こそ」

「だいたい今回お前が、自分の命をなんとも思わないような行動をするから、あいつは・・・・・」

「晶生だってであった最初の警護で自殺行為したじゃないか」

「・・・・・・・」

「・・・・・・・・」

 二人は顔を見合わせ、沈黙し、深いため息をついた。

 葛城が両手を組み、両肘をついたままその手を額へ当てる。

 高原が葛城を見て、そして目線を逸らし、再び同僚のほうを見る。

「怜・・・・」

「・・・・・」

「・・・泣くなよ」

「・・・・・」

「頼む・・・・」

「あの場で、俺が踏み込んで深山を殺してやりたかった」

「怜」

「近くで盗聴なんて悠長にしてないで、うちの警護員に手を出すことなど絶対にさせない、今すぐお前を殺すって言ってやりたかった。そして実際にそうしてやりたかった」

「・・・・・・怜・・・気持ちはわかるが、慎め」

「・・・・」

「だから泣くなって」

「晶生、もう本当に、どうすればいいのか、わからないよ」

「俺もだけどさ、でも怜、諦めずに考えよう。落ち着いて。」

「・・・・」

「いつか河合に、叱られたことがあったよな、俺たち。そしてあいつに言われたよな。クライアントを守るため以外には、その命を一ミリも使うな、って。でも、結局それができない俺たちが、あいつをこんなにしてしまったんだよな。」

「・・・・うん・・・」

「俺たちがこれから、この先、あいつに・・・・河合に教えなければならないことは、クライアントや仲間のためにいつでも命を捨てる覚悟ならば、それならばなおのこと、自分が・・自分も、生き延びる可能性が少しでもあるなら、その努力をもっとすべきってことじゃないか?」

「・・・・・」

「その手本を見せるしかないんじゃないか?」

「・・・・そうかも・・・・しれない・・・・・」

「俺たち自身が、その努力をサボってきたんじゃないか?」

「・・・そうだね・・・・そうかも、しれないね・・・・・」



 深山は、兄のここまで怒った顔は恐らく少なくともここ数年は見たことがなかった。

「祐耶。」

「・・・・・」

「恭子さんには、私から直接言うと言ってあるから。彼女には手間はかけさせない。」

「・・・・・反省してるよ」

 閉めた社長室の扉の前で、深山は低い声で言った。

 阪元の声に苛立ちが加わった。

「軽々に言うな。酒井のことで、私もお前に少し休みをやらなければと思っていたが、暇な時間を持つのはお前のためには百害あって一利なしだったようだね。」

「対応方針が決まる前に、勝手に僕がアポをとったのは悪かったけど、でも、ほぼ僕が行くことで決まりそうだったでしょ。」

「ひとりで、ということではない。少なくとも。・・・・・まったく反省していないね。祐耶。」

「出勤停止処分?」

「処分は今ここでする。」

 深山がなにか言う間もなく、大きな音をたてて、阪元航平の右手が深山の左頬に強烈な平手打ちを見舞った。

 よろめいてそのまま深山は円卓の椅子の背につかまり、辛うじて転倒を免れた。

「録音装置を持っていったことだけは、評価するけれど。」

「・・・・・」

「恐らく、近くに大森パトロール社の人間が潜んでいただろう。どれだけ危ないことをしたか、分かっている?祐耶。」

「わかってるよ・・・・敵と接触するときは、現地支援要員と本部からの指令要員の、少なくとも三人以上で対応するのが基本。場所も時刻もこちらが指定するのが基本。僕は今回全部守らなかった。」

 二人はしばらく黙ってそのままでいた。

 やがて、阪元の表情から怒りが和らぐと、それは哀しみと当惑とに変わった。

「・・・・会いにいけなくなると思ったの?」

「そうだよ。対応しないという結論になるんじゃないかと危惧したんだよ。」

「そんなに、河合警護員と話がしたかったんだね」

「うん。・・・・ごめん、兄さん・・・」

「社長といいなさい」

「・・・はい」

「庄田のことでも、そしてお前自身のことでも、お前が今でもどれだけ悩んでいるのかは知っているよ。そして・・・」

「・・・・」

 阪元の表情が、はっきりと、曇った。

「・・・そして、酒井があそこまでしてお客様のリクエストを実現しようとしたことが・・・なにを意味するのかも、ね・・・。」

「・・・・・」

「いずれにせよ・・・。はっきり言うよ。高原だろうと、河合だろうと、お前には殺せないんだ。・・・いや、正確には、自分もろともでなければ、殺せない。そうだね?」

「・・・・・」

「だから、これもはっきり言うけれど・・・当分の間、私は、お前をあの会社のボディガード殺害を担当させるつもりはない。お前の命と引き換えに殺すべきボディガードなどはいない。」

「・・・・兄さん・・・・・」

「必要なときは、別の人間に担当させるよ。」

「・・・・はい・・・」

「祐耶。・・・・問題が存在していること。それを我々が認識していること。そのことと、それらに直ちに完全な解決策を得ることや、ましてやそれらから逃避することとは、全然関係のないことなんだよ。わかる?」

「・・・わかる、よ・・・・」

「ならば、慌てないで、祐耶。」

「・・・・・」

「焦るな。いいか?」

「・・・・はい。」

「わかったね?」

「・・・・はい。」



 翌日、大森パトロール社で、茂は今までみたことのないほど話しかけづらい葛城を前に、異常に緊張をしていた。  

「あの、葛城さん」

「・・・はい」

 茂は、もともと言い出しづらい話題であることに加え、明らかに葛城の様子がおかしいことをすぐに感じ、言葉を詰まらせた。

「・・・あの・・・」

「なんですか?」

 席に座ったまま、硬い表情で葛城が茂のほうを見上げる。これも普段ではありえないことだった。高原の身に危険が迫り葛城が逆上しているときを除いては。しかし今、そういう事態が存在しないことは明らかだ。

「もしも今、お時間ありましたら・・・」

 ようやく茂は、応接室で葛城と二人きりになることができたが、緊張のあまり麦茶を持ってくることも忘れていた。

「葛城さん、すみません、俺、阪元探偵社の人間と会いました。」

「・・・・」

「いち警護員が一存でこんなことをしたのは、良くなかったと思っています。この後、波多野さんにお話ししてお詫びするつもりです。」

「はい」

「その前に葛城さんにお伝えしたかったんです。酒井は、一命を取り留めたそうです。」

「・・・・それは・・・・」

 葛城の表情が、苦しそうなものに変わった。茂はその意味をつかみかねたが、やがて目の前の先輩警護員の、天然のアイシャドウをしたような美しい両目に涙が滲んだのを見てうろたえた。

「葛城さん・・・」

「それは・・・よかった・・・です・・・・」

 葛城の両目に溜まった涙が、安堵によるものだろうと茂は思ったが、しかしそれにしては表情があまりにも苦痛に満ちていることが、茂を当惑させた。

 涙が美しい両目から辛うじて零れずに引いていってしまうと、葛城はさらに表情を硬くした。両目に残った表情は、頑なな何かだった。

「すみません。ご心配をおかけして・・・」

「・・・・茂さん。私はあなたの心配をしているのではありません。」

「・・・はい」

「酒井の安否はとても気になっていましたから・・・教えてくださり、正直うれしいです。でも、あなたがしたことは、あなただけではなく、うちの会社そのものに大きな迷惑をかけるかもしれないことだったんですよ。」

「・・・・はい。」

「詳しい内容は波多野さんに説明されるでしょうから、私からお尋ねはしませんが、とにかく・・・・二度とそういうことはしないでください。」

「はい。申し訳ありませんでした。」

 葛城はソファーから立ち上がった。

 茂のほうを見ず、応接室出口へ向かおうと、ドアのほうを見た。そしてそのまま足が固まったようにじっとしていた。

「・・・・茂さん」

「はい」

 葛城は茂のほうを振り返らずに、言った。

「阪元探偵社の人間に会ったのは、酒井のことを尋ねるためだけですか?」

「・・・・・」

「どうなんですか?」

「・・・・・・・」

 波多野部長への説明用に、茂は一通りのストーリーを用意していた。しかしそうしたものは、一瞬で吹き飛んでいた。

 そのまま葛城は部屋を出ていった。

 事務室を足早に通り抜けて従業員用出入り口へ向かった葛城は、逆に事務室へ入ってきた同僚警護員と肩がぶつかり、うつむいたまま詫び、さらに足早に事務室から出て行った。

 月ヶ瀬は不思議そうな表情で、通り過ぎて行った同僚の去った後を見ていたが、やがて応接室の中を覗き、ため息をついた。

「後輩を泣かした先輩の話は聞くに事欠かないけど、逆は聞いたことがないね。」

 茂はおずおずと応接室入口の、黒髪を長く伸ばした先輩警護員の、冷たく美しい容貌を振り返った。


 月ヶ瀬は応接室の扉口に立ったまま、後輩警護員の淋しそうな顔を見た。

「僕は、めんどうなことが、なにより嫌いなんだ。知ってるよね、河合さん。」

「・・・・・」

「そして今までの経験から、言えることがある。君が問題を抱えると、しばらくの間、先輩警護員たちがすごくめんどうなことになる。」

「・・・・・・」

「僕でさえ、多少なりとも巻き込まれる。困るんだよ。」

「・・・すみません・・・・」

 月ヶ瀬はまだ右手にオートバイ用ヘルメットを持ったまま、やるせないため息をふたつばかりした後、応接室へ足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉めて一番入口近くの席に座った。

「葛城のバルコニー転落事件の記録は読んだよ。記録はぼかして書いてあったけど、襲撃者がミヤマユウヤなら、つまり”巻き添えになった第三者”も阪元探偵社のエージェント・・・酒井あたりでしょ・・・そして恐らく実際は巻き添えなんかじゃないんだろうね。」

「・・・・・」

「葛城はかすり傷ひとつ負ってない。おかしいでしょ。普通に考えたら。」

「はい」

 右手に持っていたヘルメットを床に落とすように置き、月ヶ瀬が体をソファーの背に預ける。

「で、その事件以来問題行動してるのは、君なの?高原たちなの?」

「・・・・・」

「僕の質問の意味がわからない?」

「・・・俺だと、思います・・・・・。あの案件以降、葛城さんと高原さんが、ずっと悩んでおられたのに俺はなにもできなかった。それで、色々一人で勝手なことをしました。」

「なにをやったの」

「酒井が入院していた契約病院で、勝手に何日も張り込みをしました」

「・・・・・」

「体力的にもたなくなって、そして、高原さんに注意されて、やめました・・・。」

「そう。」

「そのうち、酒井があいつらに・・・阪元探偵社に連れ戻されました。これであの案件も本当に終わりなんでしょう。でも・・・・」

「・・・・」

「でも、このままだとまた先輩たちも、ほかの警護員も、また危ない目に遭うに違いないんです。なのに、俺にはやっぱり・・・何も・・・・・・。」

「それで?」

「夕べ、阪元探偵社のミヤマユウヤに会いました。」

「・・・・・・どうやってアポをとったの」

「インターネットのSNSのアカウントをとって、実名と会社名つきで情報発信しました。阪元探偵社のエージェントに会いたいって。そうしたらミヤマユウヤから連絡があったんです。」

「・・・・・・」

「葛城さんに、酒井がどうなったかお伝えできたらと思いました。あいつは教えてくれた。酒井が回復してることを・・・。でも・・・・」

「・・・葛城は、君が予想したような反応をしなかったんじゃない?」

「はい。こんなことをしたことについて、もっともっと叱られると覚悟してました・・・・。それから逆に・・・・酒井が助かったことについては、もっと喜ばれると思ってました。でも・・・どちらもそうじゃなかった・・・・。」

「ほとんど怒られなかったし、逆に酒井のことはそれほど嬉しそうな様子を見せなかったんだね。」

「はい。むしろとても冷たい反応でした・・・・。俺のことを、心底怒っておられるんだろうと、思います・・・・・。」

 艶やかな長い黒髪を右手でかき上げ、月ヶ瀬は青みを帯びるような白い肌によく似合う薄く端正な唇をゆがめて、皮肉な表情をした。

「河合さん、君はこれまで何度葛城と一緒に仕事をしたのか知らないけど」

「・・・・・・」

「とても勘がわるいんだね。それとも本当は葛城の考えていることなんか、興味ないんじゃないの?しおらしいことをうわべでは言ってるけど。」

「・・・・・・」

「不正確な言い方だったね。まず君は、頭が悪すぎる。インターネット上で今君が言ったようなことをしたら、高原たちの目にとまるに決まってるでしょ。」

「・・・・・・」

「そして葛城の反応を普通に解釈すれば、どんなにバカな人間でも、わかる。」

「俺が・・・・ミヤマと話した内容を、お二人は・・・・・・」

「そうだよ。盗聴か、あるいはもっと二人が馬鹿だったら、立ち聞きか。少なくともこのどっちかはしてたはず。当然でしょ?」

「・・・・・・」

 茂は絶望的な表情になって宙を見つめた。

 月ヶ瀬が茂の顔を見て、質問をした。

「で、河合さん。阪元探偵社の奴に、何を言った?」

 茂は月ヶ瀬の顔を見て、その冷ややかな切れ長の目に、これまでに見たことのない強い厳しさが湛えられていることに驚いた。

「・・・・・・」

「僕が推測できないから質問してるんじゃないけどね。・・・・もしも僕の口から聞きたいなら言ってもいいけど?葛城があんなふうになるようなこと。それは・・・・」

「月ヶ瀬さん・・・・・」

「ふたつの会社の人間たちが、これ以上害しあうことがないように、何らかのかたちで河合さん、君自身を犠牲にすると言ったんだね?・・・そして大方・・・」

「はい。殺してくれと、言いました。」

 月ヶ瀬は一瞬黙り、茂の顔を見た。

「ばかだね、河合さん」

「・・・・・」

「それ以上無意味な発言は、ないよ。」

「・・・・・・」

「奴らが君を殺すことに支障がないなら、そんなこと君が言わなくても君を殺す。支障があるなら、君が頼んだくらいでその支障がなくなるとでも思う?」

「・・・・・・・・」

「まあ、相手をちょっとばかり困らせる効果はあったかもね。その程度のこと。くだらない。」

「・・・そうですよね・・・・・」

「そして、君の大事な葛城先輩を、絶望の淵に突き落すにも十分なこと。」

「・・・・・」

「頭わるすぎるよ。河合さん。つきあっていられない。」

 月ヶ瀬はヘルメットを拾い、ソファーから立ち上がった。

「月ヶ瀬さん」

「しばらく家で、大人しくしてることだね。バカな人間が、考えすぎたり行動しすぎたりすることほど、有害なことはない。」

「・・・はい・・・・」

「そして後輩は後輩らしく、先輩の後を謙虚についていけばいい。それ以外のことを考えるのは、百年・・・いや、一生、早いんじゃないの。」

「月ヶ瀬さん・・・・」

 踵を返し、月ヶ瀬は部屋を出て行った。

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