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四 苦渋

 日が暮れ、帰り支度を済ませて事務所を出ようとした和泉に、板見が声をかけた。

「和泉さん、これから見舞いですか?」

「うん、そのつもり。板見くんも一緒に行く?」

「あの、今日は・・・多分また、深山さんが行かれると思うんです。仕事の切れ目のはずですから。それから吉田さんも。」

「・・・・?」

「だから、俺たちは、今日はやめときませんか?」

「板見くん・・・・」

 和泉は目をまるくし、やがて微笑して、板見に近づき右手をその頭へのせた。

「?」

「よしよし、偉いなあ。板見くん。」

「・・・・・」

「気をつかってるんだね。」

「ええ、まあ・・・・一応。」

「・・・・一番仲が良い深山さんは、きっとなるべく独りでゆっくり酒井さんに会いたいだろうしね・・・。それに、酒井さんが一番頼りにしてる吉田さんも、他の人間がなるべくいないほうがお見舞いにいらっしゃりやすいだろうし。」

「はい」

「今日は、我々は、遠慮しよう。そのほうがいいね。」

「はい」



 小さな病室の窓から、微かに星空がのぞいている。

「大分上手くなったでしょ。というかもともと上手いんだよ。」

 深山が小さな声で、しかし絶えず酒井に話しかけながら髭を剃っているのを、少し離れた場所でやはり円椅子に座って吉田は複雑な表情をしながら見ていた。

「床屋さんになれそうね、深山。」

「いつ転職しても大丈夫です。」

 カミソリを畳み、胸ポケットにしまい、外していた酸素マスクを元どおりにする。

 そして深山は小さくため息をついて同僚の顔を見下ろした。

「髪もカットしてあげようかな」

「・・・・さすがにちょっと大変かな」

「今度、看護師さんが髪を洗ってくださるとき、頼んでみます」

 再び沈黙があった。

「深山。大丈夫?」

「・・・・・」

「少し、休暇をとったほうがいい。仕事のないときは、ずっとここにいるようだけど。」

「・・・・・」

「確かに、エージェント仲間はときに家族同然だ。我々、本体部門の社員は、基本的に社外の実の家族・肉親とは縁を切って仕事をしているわけだから。でも、四六時中引きずっていたら、身が持たない。」

 深山の背中が、微かに震えたように見えた。

「吉田さん、僕が一度会社を去る前・・・・、かつて凌介が僕と一緒に仕事をしたとき、僕をかばって死にかけたことがあります。」

「そうね」

「凌介が生死の間を彷徨っている間、僕は怖くて病院へ行けなかった。」

「・・・・・」

「友人が死ぬかもしれないことも、そしてそれが僕のせいであることも、直視できなかった。」

「・・・・・」

「こいつは普通にやってたらこんな怪我するような人間じゃない。プロの殺し屋二人がかりで殺そうとしても、簡単に返り討ちにしてしまうようなエージェントです。」

「そうね」

「だから二度とあんなことはないと思っていました。でも今回、凌介は、お客様の言葉を叶えようとして・・・・また自分以外の人間をかばって、こんなことになった・・・。」

「・・・・・」

「もう僕は前のようなことはしたくない、怖くても逃げないって決めたんです。そのつもりで、いました。でも・・・・・」

「・・・・でも・・・?」

「そんなの無理です・・・友人が死ぬかもしれないのを逃げずに見ているなんて、無理です。生きて、僕のところに帰ってきてほしい。目を開けてほしい・・・僕を見て、話してほしいんです。それしか考えられない・・・・・」

「深山」

「今のこいつのことが、なにひとつ、なにひとつ僕は受け入れられない。許せない。」

「・・・深山。」

 座ったまま、深山はうつむいた。

「こいつが目を覚ましてくれるなら、僕の命が今すぐ終わってもかまわない。」

「・・・・・」

「それなのに僕には何もできないんです」

 深山の声はほとんど消え入るようだった。

 吉田からはよく見えなかったが、深山はやがてゆっくり左手を酒井の頭のほうへ伸ばしていた。額にかかった髪を脇へどけてやっているようだった。

 しかしその作業が完了しなうちに、深山の腕の動きが不自然に止まった。

「凌介・・・・」

 その声の調子から異変を悟った吉田が立ち上がり、ベッドへ一歩近づいたが、そのとたん吉田の手から、持っていた小さなバッグが床へと落ちた。

 額に置いた深山の手の下で、酒井がその目を開けて、目の前の同僚の顔を見上げていた。

 数回、ゆっくりまばたきした後、もう一度深山の顔を今度ははっきりと焦点を合わせてその目を見た。

 そして酒井は唇を少し開いて言葉を出した。

「・・・・祐耶・・・・どうした・・・・?そんな顔・・・して」

 深山は声を出すことも動くこともできなくなっていた。

 吉田はそのまま少しよろめきながらもベッドまで歩き、ナースコールを押した。

 医師と看護師が病室に到着し、患者に話しかけたり機器の数値を確認したりしている間、吉田に支えられるように深山はベッドから少し離れて、放心したまま立っていた。

 会話が成立しそうな吉田に向かって、医師が言った。

「正直、私も驚いています。意識状態は良好です。」

「話をしても大丈夫でしょうか?」

「あまり長時間でなければ大丈夫ですよ。」

「酒井の状態は・・・・」

「今日もう一度検査をしますので、結果はすぐにお知らせしますが、ほぼ、心配はなくなったと思います。」

 看護師だけを残して医師が一旦病室を去った後、看護師も手元の端末から何項目か入力すると二人に一礼し、出口へと向かう。そして振り返って、吉田と深山に言った。

「非科学的なことを言うようではありますけど・・・・皆さんのお気持ちが、届いたんだと、やはり思います。」

 微笑し、看護師は病室を出て行った。

 深山はベッドに近づき、酒井の両頬を両手で包むようにし、親友の意識が本当にここにあることを確認するように、その目を凝視した。

「・・・・・ほんとに起きてる・・・・?また、眠ってしまったり、しないよね・・・・」

「俺、どのくらい寝てた・・?」

「三週間だよ・・・凌介・・・・」

「・・・そうか」

「凌介、僕のこと、わかるんだね?祐耶だって、わかるんだね?」

「・・・ほかの誰や言うんや。・・・」

 膝を折り、深山は上体をかがめて、酒井の頭を両腕で抱きかかえ、そのまま自分の顔を酒井の頭越しに枕に埋めた。

 声を殺しても、嗚咽が漏れた。

 数十秒後、酒井が苦情を言った。

「祐耶。苦しい。」

「・・・・・」

「息できへん。こら。」

 吉田が苦笑し、深山の両肩を持って体を起こさせた。

 そのまま円椅子に座らされた深山の顔を見て、酒井も少し笑った。

 吉田は再び少しベッドから離れると、携帯電話を取り出して発信した。三カ所へ電話をかけた後、吉田は静かに病室を出ていった。

 三十分後に和泉と板見が、そのさらに二十分後、庄田と浅香が病室へ到着した。



 病院から事務所へ戻った庄田は、社長室を十回ほどノックして、ついに許可なしに扉を開けた。部屋の主は窓に向かってしつらえられた簡素な机に向かって座り、目を閉じて頬杖をついていた。

「失礼します、社長」

「・・・・・・」

 本当に初めて気がついた様子で、阪元が入口のほうを見た。

 上司の深い緑色の両目が自分の顔に焦点が合うまでに、かなりの時間を要したことに驚き、庄田は後ろ手に扉を閉めると足早に室内へと歩みを進めた。

「病院へ行ってきました。お電話でもお話しましたとおり、しっかりしています。医師もかなり驚いているほどの、良好な状態です。」

「うん、今、神と酒井に感謝していたところだよ。本当に、それ以外には、なにもない・・・・。」

「はい。」

「・・・明日、私も病院へ行くつもりだけど、酒井はなにかほしがっていた?もちろん、煙草以外でね。」

 庄田はようやく少し笑った。

「和泉さんにも喫煙に関して怒られていましたね。」

「そうだろうね」

「・・・・社長・・・」

「ん?」

「大丈夫ですか?とてもお疲れのご様子です。」

「ねえ、庄田。」

「はい」

 阪元は両手を机について、ゆっくりと立ち上がり、目の前の窓の外を見た。

「元アサーシン・・・・殺人専門エージェントの君に、聞きたいんだけど」

「はい」

「恭子さんのチームのふたりのアサーシン・・・・いや、正確には酒井も”元”だけど、・・・・彼らの今回の仕事、君から見て、どうだった・・・?」

 しばらくの沈黙があった。

 庄田はその切れ長の両目をゆっくり瞬き、上司のほうを見て言葉を出した。

「深山は、ぎりぎり及第点とはいえ、まだ未熟なところが出たと思います。より熟練したアサーシンであれば、踏み込まれたあと退避するまでの一~二秒間に、ターゲットに致命傷を与えることはできたでしょう。しかし彼の技術が追いつかなかった。課題ですね。」

「そうだね」

「そして・・・酒井ですが・・・・」

 一瞬、庄田は口籠った。

「はっきり言っていいよ、庄田。」

「・・・・・明らかに、過剰な対応です。お客様のご要望の範囲を超えています。アサーシンが命と引き換えにするのはターゲットの命だけです。どんなときも。」

「ああ、そうだね・・・。」

 阪元は少しだけだがうつむいた。

「社長・・・・」

「ごめん、酒井が生還してくれたとたんに、気が緩んだ。」

「・・・・・・」

「情けないことだね。恭子さんのほうがずっと気丈だ。」

「・・・・・吉田さんは、病院にいらっしゃいませんでしたが、やはり・・・・」

「ああ、明日香のところだろうね。・・・・私じゃなく、やっぱり明日香には、恭子さんから報告すべきなんだと思うよ、私も。」

「・・・・・・」

「故人に願い事をしてはいけないというけれど、お礼なら、いいだろうしね。・・・・・・・でも・・・」

「・・・・・・」

「・・・・でも、恭子さん・・・・ひとりぼっちで、泣いていないと、いいな。」

「・・・・そうですね。」

 庄田は目を伏せ、静かに微笑した。

 阪元も、少しだけ、笑った。



 晴れた明るい太陽の光のもと、ミケをサンルームで撫でながら、茂はお茶を出してくれた槙野に恐縮して頭を下げた。

「また来てしまってすみません。」

「いえいえ、遊びに来てくださって、僕も嬉しいんです。家をシェアしている人間たちは勤務時間がばらばらだし出張も多いですし、広い家にひとりでいることが多いので・・・。猫が欲しいと思ったのも、退屈だったということもあります。」

「おお、ならばほんとにしょっちゅう遊びに来ますよ。」

「ぜひ。」

「でも猫を飼うと、大変なことがありますよね。」

「はい・・・。憧れの葛城先輩と次にペアを組ませていただくときは、ペット用コロコロクリーナーが絶対に必要になるでしょうね。」

「ははは、そうですね」

「河合さんが、僕は羨ましいです。葛城先輩とすごくよく一緒に仕事しておられますよね。確かにペアはあまり変えないのがよいですが、葛城さんと組みたい警護員はいつも行列をなしてますから。」

「ちょっと俺も申し訳ないなとときどき思います。」

「もちろん、行列は高原さんほどではないですけれどね。」

「そうでしょうね」

 茂より少しだけ背が低く、体もさらに細い槙野は、しかし茂と違いフルタイムの警護員である。いつから大森パトロール社にいるのか茂は知らないが、自分とあまり年齢は変わらないように見えるが恐らくずっと多くの通算経験と実力の持ち主のはずである。

「でも高原さんは、決まったペアの相手はいなくて、いつも色々な警護員と組まれますね。」

「はい。波多野さんがいつか、高原さんにはとにかく多くの警護員の育成を特に頼みたいっておっしゃってました。」

「そうなんでしょうね・・・。僕は、一番お世話になった先輩警護員は、山添さんなんです。」

「そうなんですか」

「ちょうど今の河合さんが葛城さんと組まれているように、ほとんど固定的に、山添さんとペアを組ませてもらっていた時期がありました。最近はようやくそれなりに技術も身についたので、その関係はなくなりましたが。」

「山添さんもすごい警護員ですからね」

「はい。僕は大森パトロール社に入ったとき、既に別の警備会社での勤務経験があったんですが、山添さんと組んで、自分がいかに未熟かすぐにわかりました。」

 槙野は自分のお茶を一口飲み、視線を手元に落とした。

 表情がやや曇ったのがわかった。

「・・・・槙野さん?」

「あの強靭な警護員の山添さんが、これまで二度だけ、大きな怪我をなさいました。河合さんも、よく御存じの・・・案件です。」

「はい」

「阪元探偵社・・・・・」

「・・・・・・」

「誰もあえて口にはしないけれど、大森パトロール社に多少なりとも長くいる警護員たちは皆、心のなかに、いつもひっかかっている名前です」

「はい」

 茂は自分の声が少しだけ震えるのを感じながら、相槌を打つ。

「僕は、あいつらを絶対にゆるさない。」

「・・・・・」

「一度目、山添さんはあいつらの卑怯な罠にかけられて・・・そして危うく溺死させられそうになった。高原さんと、そして河合さん、あなたが助けてくださらなかったら今頃は・・・。」

「・・・・・」

「そして二度目は、ナイフで二か所も刺された。しかもやったのは、散々山添さんにお世話になったはずの・・・・なおかつ、うちの元警護員を兄に持つ人間。」

「・・・・・・」

「山添さんを負傷させた刺客が誰か、確証がないということで記録にもありませんが、警護員仲間の間では・・・。河合さん、もちろん業務上の守秘義務がありましょうからお尋ねはしませんが、僕はそういう認識をしています。」

「動画が長い間アップされていましたからね・・・。槙野さん、俺は阪元探偵社のことは、案件で何度か対峙してだんだん認識するようになりましたが、それまでは一度も名前を聞いたことがありませんでした。よかったら、俺も知っていることを話しますから、槙野さんがご存じのことも、教えてもらえないでしょうか?」

 槙野は少し驚いたように、茂の琥珀色の両目を見た。

「・・・・いいんですか・・?」

「・・・ええ。」

「タブーだから、あまり触れたくないのではないかと思っていました。」

「そんな空気があるようですが、でも俺は、少しでもなにか知りたいんです。」

「・・・僕もです。」

 ミケが一声鳴いて、茂の膝から降り、廊下を歩いていった。

 椅子の上で槙野は両肘を両膝の上に載せ、少し前かがみになった。

「河合さんもご存じかもしれませんが、阪元探偵社がうちの会社のクライアントであっても構わず狙うようになったのは、最近のことです。そう、ちょうど河合さんが本格的に現場に出られるようになったころですね。初めてかどうかは分かりませんが、少なくとも最初の明らかなケースが、確か葛城さんの・・・・・」

「はい。日本舞踊三村流家元の襲名披露公演ですね・・・。」

「その後、うちの警護記録に出てくる名前は、ヨシダキョウコ、サカイ、そしてイズミ、イタミ、・・・・ミヤマユウヤ・・・」

「あとは・・・ショウダ。アサカ。・・・」

「あと一人、いますね」

「・・・・朝比奈逸希。」

「殉職した元警護員の、朝比奈和人さんの弟。山添さんのクライアントを襲い、山添さんを負傷させ、最後はクライアントも殺した。」

「・・・最後に元クライアントを殺害したのが逸希かどうかは、わからないようですが・・・・」

「どんな奴らですか?ほかの人間たちは」

 茂は、吉田恭子を始め、自分がこれまでに見た阪元探偵社のエージェントたちの特徴を手短かに説明した。

「今回、葛城さんと河合さんのクライアントを襲撃したのは、ミヤマユウヤ、なんですね。」

「はい」

「クライアントは無事でしたが、葛城さんは危うく落命されるところだった・・・・。記録を読みました。転落の際、関係のない第三者が巻き添えになってしまったんですね。」

「・・・・はい。」

「さぞかし葛城さんはご自分を責めておられたでしょう。そういう人です。」

「はい」

「大森パトロール社ができた経緯を、波多野部長から聞かれましたよね?河合さんも。」

「はい。」

「大森社長が袂を分けた相手、”Y”が作った会社は今はもうありません。その後を受け継いでいるのが、阪元探偵社です。」

「・・・・・」

「”Y”の名前、ご存じですか?・・・まあ、調べれば誰でもわかることではありますが。」

「いいえ。」

「吉田明日香です。」

「ヨシダ・・・。」

「はい。そして吉田明日香は事故で亡くなっていますが、彼女には妹さんがおられますね。」

「・・・・・キョウコ、という?」

「恭子という名前ですね。」

「・・・・・。」

 茂は黙り込んだ。

 小さくため息をつき、気を取り直すように槙野は続ける。

「大森社長は、もちろん全て承知のはずです。その上で、今の方針を続けておられる。相手のことを、調べない。その必要はない。我々に必要なことは、我々のやり方を常に貫くこと、それだけだから。」

「・・・・・」

「このことはとても正しいと思います。だから僕は、事情を断片的に知った後も、この会社で仕事を続けているし、むしろこれからも続けたいと思います。」

「・・・はい。」

「でも今、余りにも、先輩たちが・・・いえ、河合さんもです、警護員たちが、危険に曝されすぎていると感じます。僕がこんなことを考えるのはおこがましいことだとは分かっていますが、でも、そう感じてしまいます。」

「・・・・」

 茂も事実は知っている。自分が本格的に現場に出るようになる頃より以前の先輩たちは、ほぼ武術を現場で使うことが皆無なほど、そのスキルに相応しい安全な警護を実現していた。岐路は、今思えば、茂が初めて高原に出会った、そして阪元探偵社と高原が対峙した、あの警護案件だった。

「警護員としての、分を越えたことなのかもしれませんが、」

「・・・・・」

 その気品ある表情で、槙野は怒りを極限まで押し殺しながら、言葉を続ける。

「もしも僕の警護案件に、いつかあいつらが関わるようなことがあったら・・・・クライアントを守るだけではなく、あいつらの逮捕、確保を絶対に考えたいです。」

「それは・・・・」

「そのためなら、自分の安全など、どうだっていい。」

「槙野さん」

「わかっています。優先順序が違うって。でも・・・・」

「今回、葛城さんも、今、槙野さんが言ったのと、ほぼ同じことをなさいました」

「・・・・・」

「警護員の範疇を逸脱されました。第一には、警護時刻が過ぎており、クライアントから終了ご指示が出た後だったこと。第二には・・・俺に、クライアント確保することと、ホテルの警備員の応援を得て犯人確保を試みることを指示されたこと。そしてご自身は完全に犠牲になり、クライアントを襲撃から救うことだけをされました。犯人逮捕を考えなければ、俺にご自身の援護をさせ、よりご自身の安全を確保した上でクライアントを守るという方法もあったはずです。」

「・・・・・・」

「しかし犯人は逃走した。普通ではつかまえることなどできない奴らです。」

「・・・・・だとすると、もしも今回たまたま命が助かっていなかったら、葛城さんは犯人逮捕のために危険にさらしたご自分の命を、無駄に失ってしまわれていたわけですね・・・」

「はい。もちろん、その可能性を十分考えて、それでもなさったんだと思います。」

「・・・そこまで・・」

「・・・はい」

「・・・そこまで、追い詰められているんですね・・・それほどの、やっかいな相手・・・」

「そうです。しかも芸の細かいしかけもしてくる。今回も、偽の”襲撃者”を使って、ボディガードをクライアントから引き離しました。」

 その気品ある槙野の表情の小麦色の両頬から、さっきまでの赤みは引き、逆に青みを帯びるような血の気の引き方をしていた。茂は戸惑った。

 槙野の怒りの、予想以上の深さがわかったが、その理由はわからなかった。

「それならば・・・・」

「・・・槙野さん・・・?」

「なおのことです。」

「・・・・・・」

「あいつらを、どんなことをしても、つかまえる。仕事を、やめさせる。僕はそのことだけを、考えて、仕事をします。どんなに不可能なことであろうと。」

「槙野さん・・・・」 



 その日の夜、槙野は大森パトロール社が訓練場として借りている、古い工場跡の建物で深夜までひとり鍛錬をしていた。

 五階ほどの高さの天井近くまで、吹き抜けになった螺旋階段に、スリング・ロープを投げては上がり、外して巻き取り、再び降りる、ということを何度か繰り返したが、何度目かでロープの操作を誤り、数メートルの高さから床へ転落した。

 辛うじて態勢を立て直して着地し、そして槙野がスリング・ロープのからみを直していると、背後から聞き覚えのある声が自分を呼んだ。

 慌てて振り返り、槙野は背筋を伸ばした。

「山添さん!」

「稽古場で会うなんて久しぶりですね、槙野さん。」

「・・・」

 黒目がちの目を細めて笑い、山添は後輩警護員の前まで歩き、からまった細いロープの端を持ち解くのを手伝った。

「本番でこんなことになったら大変ですよ」

「はい・・・・」

「いつからそこに居たんですかっていう顔ですね」

「・・・あ・・・・」

「大丈夫ですか?大分ひどく体をぶつけたようですけど」

「大丈夫です。すみません」

「なんだか声をかけにくかったんですよ。槙野さんがすごい形相をしていたから。」

「・・・・・・・・」

 山添は右手のスリング・ロープをさっと投げ、螺旋階段の一番上まで一度で先端を固定し、すぐに外して巻き取った。ロープに少しの緩みもねじれもなかった。

「標準型のロープの長さは十五メートル。遊びと余裕を考えれば実際に使えるのは十四メートル・・・・普通の建物だと四階は余裕、五階はぎりぎりです。」

「はい」

「槙野さんみたいに体が軽い人なら、今みたいにして一気に五階分登ることもできる。けれど・・・・」

「・・・・・・・」

「集中力が切れたら、どんなにコントロールが良くても意味がありません。大けがしますよ。」

「・・・・はい・・・・」

 よく日焼けした愛らしい童顔をほころばせ、山添が再び微笑する。

「なにを考えていたんですか?」

「・・・・・」

「河合さんが心配していましたよ。」

「・・・・・」

「そして、全然変わらないですね、槙野さん。なにかあると、ここに来て、やたらと体を動かす。」

 槙野はヘルメットを取り、うつむいて唇を噛んだ。

「・・・・・・」

「食事でもしましょう。久々に。」

「・・・・・はい」

 稽古場の近くにある小さな店で、二人は窓に向かうカウンターに並んで座った。

 二階にある窓から、目の前の通りを行き交う車が臨める。

「槙野さんとペアが多かったとき、ここもよく来ましたね」

「あの頃はいつもご馳走して頂いて、すみませんでした。」

「はははは。」

 笑顔を、しかしすぐに消し、山添は前を見たまましばらく黙り、そして再び口を開いた。

「警護記録、読みましたよね」

「はい。・・・・葛城さんが、本当に危ない状態になられました。河合さんにもききました。犯人を確保する可能性を僅かでもつくるために、葛城さんは・・・・・・」

「そうですね」

「僕は早く、あいつらと対峙したい。」

「・・・・」

「人を殺すための組織なんて、絶対に許したくないです。」

 後輩の怒りに満ちた横顔を見ながら、山添が食事に手をつける。

「まあ、とりあえず食べましょう。冷めないうちに。」

「はい・・・」

「・・・・生きてる間だけですからね、ご飯が食べられるのも」

「・・・・・・・」

「槙野さん」

「はい」

「知り合いが、いるんじゃないですか」

「・・・え・・?」

 山添はもう一度言った。

「阪元探偵社に、あそこのメンバーに、だれか知っている人がいるんじゃないですか?槙野さんは。」

「・・・・・」

「あなたも知っているとおり、私はいます。一番尊敬していた警護員の、実の弟」

「はい。」

「・・・阪元探偵社のことになると、あなたの反応はとても凄まじい。誰か槙野さんの家族や知人が彼らの犠牲になったのではと最初は考えました。しかし誰に聞いてもそういう経緯はなさそうです。」

「・・・・・・」

「次に考えられるのは・・・・・、そういうことです。」

 槙野は素直に頷いた。

「・・・・山添さんの・・・・おっしゃる、とおりです・・・・・。」

「誰ですか?・・って、尋ねてもいいですか?」

「・・・・・・・」

 後輩から目線を逸らし、山添は穏やかに微笑んだ。

「言いたくなければ、もちろん無理強いはしません。」

「・・・すみません。」

「俺もね、あんまり偉そうなことは言えないんですけど、槙野さん、今みたいな状態では、あいつらからクライアントを守ることすらおぼつかないですよ。」

「・・・・・・・・」

「警護のとき、犯人への同情とか思い入れとかと同じくらい、仕事の邪魔になるのが、怒りとか恨みとかの感情です。」

「・・・・はい」

「知らない相手でも、そういうものを完全に払しょくして仕事をするのは、とても難しいことです。俺だっていつまでたってもできないですからね。」

「・・・・・・」

「ましてや、襲撃犯やその仲間が、知り合い・・・・特にどのようなものであれ強い感情の対象であるとしたら・・・・クライアントを守ることだけを考えて仕事するのは至難の技でしょう。」

「はい」

「朝比奈逸希の件では、俺は部長にお仕置きされましたよ。」

「・・・・・・・」

「全然だめでした。悪い見本です。」

「・・・山添さん・・・・・」

 山添はもう一度後輩の顔を見た。

「もちろん、俺たちに襲撃犯を選ぶことなんかできませんから。明日にもそのあなたの知り合いとあなたが、警護現場で対峙することになるかもしれない。そのときに、覚えておいてほしいんです。こうしたことを。」

「・・・・・・」

「完璧にできるようになることなど永遠に無理なのだとしても、常にそれを目指してください。俺もそうしますから。」

「・・・・・」

「第一に守るものはクライアントの命。そして第二に守るものは警護員自身の命。それだけのことですが、プロの警護員として絶対に外れてはならないことです。」

「・・・はい・・・・」

「だから、葛城警護員と河合警護員のあの案件は、悪い見本として、記憶に刻んでください。」

 到底納得しているように見えない槙野を見て、山添は苦笑した。

 槙野はしばらく考え、そして質問をした。

「山添さん・・・・今、クライアントの命と警護員の命、とおっしゃいました」

「はい」

「たとえその場でひとりの警護員の命が危険にさらされるとしても、あいつらをつかまえることができたら、その先の未来の・・・たくさんのクライアントと警護員の命が助かる。そういうことは、いえないのでしょうか。」

「・・・・・・」

「葛城さんはそう考えて、ああいう行動をされたのだと思います。違うでしょうか。」

「違わないでしょうね」

「だったら・・・・・」

 山添は伏し目がちに苦笑した。

「できないことをするのは、無責任なことです。」

「・・・・・・」

「怜の・・・・葛城警護員の気持ちはわかる。しかし間違ったことだった。警護員の仕事として、自分の力量を越えたことを目指して自滅することは、なにひとつ生まないんです。」

「・・・・・・・」

「我々は警察ではない。それは、責任放棄ではなく、役割が違う、ということなんですよ。わかりますか?」

「・・・・・はい・・・・」

「警察にできないことを我々はやる。だから、我々にできないことなんですよ、警察の仕事はね。」

「はい」

「そして残念なことですが、あいつらを逮捕することは警察の仕事ですが、警察の力でも今はできない。我々はせめて一般市民として、警察にあいつらの情報を最大限提供することですね。」

「・・・・・・・」

 さらに山添は、自嘲するように笑った。

「まあ、そのことが、しかし皮肉なことというか・・・・・」

「?」

「葛城警護員と高原警護員が、精神的に立ち直れないような落ち込み方をしている、理由でもあるんですけどね」

 槙野が謎に包まれたような表情をするのを、申し訳なさそうに見ながら山添は両目を伏せた。

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