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三 昏睡

 就業ベルが鳴っても作業をやめない同僚を見ながら、斜め向かいの自席で三村英一はしばらく考えていた。

「河合」

 呼びかけたが返事はない。

 二度目は呼ばなかった。

 英一は立ち上がり、係の島を回り込んで茂の背後に回り、親友の肩におもむろに手を置いた。

「わっ」

 予想通り驚いて茂が振り返った。

 その透明度の高い琥珀色の両目の、下に濃い隈ができている。

「前回よりさらに重症だな」

「なんだよいきなり」

「帰るぞ」

「ええっ?」

「その資料は来週まで使わないから今日やらなくてもいい。」

「・・・・」

「行くぞ」

 無理やり茂の二の腕をつかみ、英一はロッカールームへ同僚を引っ張っていく。

 帰り支度をしながら茂はしょんぼりと黙り込んでいる。

「・・・・毎晩どこへ行っている?」

「・・・・・」

「事務所じゃない。まさか第二の副業があるわけでもないだろう。」

「・・・・・」

「大森パトロール社がらみだな。」

「・・・そうだよ」

「毎日残業した後、時刻を見計らったように出て行って、そして翌朝疲弊して出勤してくる。もう一週間続いているな。」

「・・・うん・・・・」

「体力の限界を考えろ。お前が体調不良になって休んだりしたら俺の負担が増えて困るんだよ。」

「・・・・ごめん・・・・・」

 ため息をついて英一は茂のやつれた横顔を見下ろす。

「・・・今日は稽古がないから車で来た。送っていくよ。」

「ありがとう。でも・・・・」

「行くところがある?」

「・・・うん。」

「まだ時間はあるな?」

「うん」

「じゃあ、そこへ送ってやる。その代わり」

「?」

「その前にうちに来るんだ。」

「え?」

 茂は腕を取られビル地下の駐車場へ無理やり向かわされながら、最後のほうでようやく親友に質問した。

「あのさ、三村」

「なんだ」

「俺が通っているところって、ここからのほうが、お前の家からよりずっと近いんだけど」

「どこなんだ」

「契約病院だよ。大森パトロール社の」

 地下駐車場で自分の車のキーを遠隔で開け、茂に助手席に乗るよう促していた英一は、茂の言葉を聞いてさすがに立ち止まった。

「え?」

「だから、病院。」

「どうして」

「・・・・・・」

 英一は漆黒の髪と同じ色の、端正な両目を丸くしたまま、しばらく茂の横顔を見ていたが、気を取り直したように再び口を開いた。

「言いたくないならいいけど、とりあえず行くぞ。」

「なんでさ」

「俺が一人暮らしを始めたことは知っていると思うが」

「うん」

「先週、義姉さんが段ボールふたつぶんの食料を送ってきた。」

「蒼風樹さんが?」

「ああ。一生かかっても食べられない量のビーフシチューの冷凍も。」

「・・・・・」

「お前、この一週間、弁当も持ってきてないし多分ろくな食事もしていないよな。」

「・・・・まあね」

「利害が一致している。手伝え。」

「・・・・・」

 茂が今度は目をまるくして英一を見た。

「なんだよ」

「いや・・・・日本舞踊三村流宗家の御曹司でも、料理は教育されてないんだなと思って」

「うるさいな。義姉さんが心配性なだけだ。」

 英一が一人暮らしを始めたマンションの一室は、六畳一間のアパートに住んでいる茂から見ても、意外なほど狭く見えた。それは若い一人暮らしのサラリーマンの住まいとしては普通なら十分な広さの1LDKだったが、英一が最近まで住んでいた実家が門から玄関まで車で行くような家だったからだった。

 英一が解凍し温めてくれたシチューは確かに同じものが、冷凍用パックに小分けされて、英一の冷蔵庫の冷凍室のほぼ全容積を占めていた。

「蒼風樹さん、料理うまいんだね。おいしい。」

「しかし量が多すぎる。お前今度何袋か持って帰れ。」

「いいよ。お前すごく女性にもてるんだから結婚しろよ。こういう心配されたくないんだったらさ。」

「俺だってその気になれば料理くらいできる。大方、兄さんが俺の生活態度の悪さを、尾ひれをつけて大げさに義姉さんに語ってるんだよ。」

「ふうん」

 茂がうつろな目になっていることに英一は気がついた。

「・・・河合。大丈夫か?」

「うん・・・なんか三村が家族の話をしてるのって、珍しいけど良いことだなって思ってさ」

「・・・・・で、河合」

「ん?」

「病院には何しに行っている」

「ああ・・・大丈夫だよ、三村。別に、うちの警護員の誰かが怪我とかしたわけじゃないから。」

「・・・・・・」

「訳あって、高原さんと葛城さんが対応しているんだ。そして多分葛城さんはあれから毎日・・・昼間、朝から晩まで病院で見張っておられる。あいつらが何か動きを見せるようなことがないか・・・・」

「もしかしたら、河合」

「うん」

「入院しているのか。身元を高原さんと葛城さんが隠さないといけないような人物が」

「業務上の秘密だけどそうだよ」

「それはあの会社しか想像できないな」

「うん」

「・・・なるほど・・・これはさすがに、お前でも軽々に他人には話せないよな・・・・」

「そうだよ」

 英一は黙り込んだ。

「それで、お前はもしかして夜の部を受け持っているのか?」

「まあ、そうだよ」

「高原さんたちの指示で?」

「ううん。俺が勝手にやってる。」

「は?」

「検査やなにやらで患者が動かされるのは昼だから、危険があるとしたら日中で、俺が夜見張っててもほとんど意味はないとは思うんだけど、でも、何かやりたいんだ。」

「・・・・・・」

「葛城さんはものすごく落ち込んでおられるし、高原さんは死ぬほどショックを受けておられる。でもお二人とも、俺には何もやらせてくれなくて、お前は関わるなっておっしゃるばかりなんだよ。」

「そうおっしゃるのは当然だとは思うけど」

「わかってるよ。俺だって、わかってる。けどさ。」

「・・・・・気持ちはわかるけど、お前さ・・・・」

 茂はうつむいた。

「・・・お腹いっぱいになったら、眠くなってきた」

「おい、ここで寝るな」

「大丈夫・・・あ、食器洗うの手伝うよ」

 顔を上げ、ソファーから立ち上がったとたん、茂はなにかに躓くように両膝を折った。

 英一が叫んだ。

「河合!」 


 大森パトロール社の事務室でひとり作業をしていた高原は、業務用携帯が着信を知らせたので腰のホルダーから取り出し、発信者を見てすぐに応答した。

「はい、高原です。」

「三村です。遅い時刻に申し訳ありません。今お電話大丈夫ですか?」

「はい。そろそろ仕事を終えるところです。なにかありましたか・・?」

「今うちに河合がいるのですが・・・・」

「はい。」

 英一は唾を飲み込むように一瞬の間の後、言いにくそうに言った。

「病院へ連れていこうかどうか迷ったので・・・・それにその場合は確か大森パトロールさんには決まった病院があったと思って・・・」

「えっ?」

「河合が、意識を失っているんです。突然倒れて」

「・・・・・!」

「もしも可能でしたら、お越し頂けないでしょうか」

「すぐに行きます。」

「自分で呼吸はしています。」

「わかりました。ご自宅の住所を・・・・はい、それでは二十分ほどで着くと思います。」

 ほぼ高原の予告通りの時間に英一のマンションの部屋のインターフォンが鳴った。

 廊下に、肩で息をしながら、手に車のキーだけを持って高原が立っていた。

 英一は導きいれた高原に、自分の背後の、リビング中央のソファーを指し示した。

 毛布を胸までかけて、茂が目を閉じて横たわっていた。

「倒れたのはいつですか?」

 高原が茂に駆け寄って傍に跪き、右手で茂の頬に触れる。

 しかしそのまま高原は、自分の後ろに立っている英一のほうを振り返り、見上げた。

「・・・・三村さん」

「はい」

「眠っているだけのように・・・・見えますが」

「・・・・」

「三村さん」

「はい」

「・・・もしかして私に、リベンジされましたね?」

「確かに意識がないでしょう?」

「熟睡しているのも意識がないといえばないですね」

 高原は安心と脱力が混ざり合った笑顔になり、立ちあがると腕組みをして英一を睨みつけてみせた。

 その端正な顔に悪い人の微笑を浮かべ、しかしすぐに英一は頭を下げた。

「すみませんでした、高原さん。しかしどうしてもお尋ねしたいことがありました。」

「・・・・・」

 英一と高原は茂が寝ている場所を避けて、ソファーに向かい合って腰を下ろした。

 ガラステーブルの上にはすでに二人分のコーヒーセットが用意してあり、英一がカップにコーヒーを注ぐ。

「前回の警護案件以来、河合の睡眠時間がどんどん短くなっているようで」

「・・・・・」

「最初は会社の席でいつもより多く居眠りする程度だったんですが、ここ数日はもうふらふらでした。」

「・・・・・」

「大森パトロール社の事務所にも全然行っていないそうですし」

「そうですね」

「なにかあったのかと聞いても、高原さんと葛城さんが悩んでおられて自分はそこに関わることもできない、というようなことを言うばかりで。」

「・・・そうですか・・・・」

「倒れたのは本当です。」

「・・・・・」

 英一が、そして続いて高原も、昏々と眠る茂の顔に目をやる。

「久々に少しまともな食事をしたら、一気に疲労が出たようで、そのまま動けなくなって。それで、ここで少し寝るように言いました。」

「・・・すみませんでした、三村さん」

「・・・・」

「ご心配かけました・・・・。そして河合にも、かえって気を遣わせてしまった。」

「毎晩、河合はどこへ行っていたのか、想像つきますか?高原さん」

「はい。昼間は怜が・・・葛城が行っているだろうから、自分は夜に、と思ったんでしょう」

「・・・・・」

「病院でしょう。」

「はい。」

「怜は・・・・、自分のことで河合に負担をかけたくないと言って。そして案件自体も、はっきり言って犯罪者をかばうのに近い事柄です。後輩を巻き込みたくはなかった。」

「・・・・・」

「救急外来は二十四時間開いてますから、徹夜に近いようなことをしていたのかもしれないですね。」

「そうですね。おそらく、契約病院ですから社員証を見せれば大抵のことは大丈夫なのでしょう?」

「はい。」

 高原は勧められたコーヒーをひと口ふた口飲み、息を吐き出した。

 英一が、整った漆黒の目で、目の前のボディガードの憂鬱な表情を見つめる。

「高原さん。事情は甘くはなさそうですが、しかし、お願いします。・・・河合の友人として。」

「はい」

「あいつが関わった案件に関することならば、その後のことについても、なにか役割を与えてやってはもらえないでしょうか。」

「・・・・・・」

「どんなことでもいいと思います。話せない情報があるなら話さないままに、単なる使い走りなどでもいいと思います。」

「・・・・・はい」

「お二人があいつを守ろうとしていることが、どうしても、伝わってしまうんだと思います。そのことは、あなたたちを思う河合には、耐えがたい」

「はい」

 メガネの奥の知的な目を哀しそうに曇らせ、高原は唇を前歯に挟むように噛み、そしてそのまま小さくため息をついた。

 英一は自分の言葉が過ぎたのではないかと、後悔するように高原の知的な顔を見つめた。

「・・・・・」

「三村さん、お恥ずかしいことですが、俺には今、まったく余裕がありません・・・・」

「・・・・・」

「俺がこいつに・・・河合にかまってやれないのは、守っているわけじゃないんだと思います。」

「・・・・・高原さん」

「どちらかというと、こいつから逃げているような気がします。俺は。」

「・・・・・・」

「俺たちは、と言うべきかもしれません。」

「葛城さんと、高原さんがですか」

「はい。」

「・・・・こいつに合わせる顔がないんですよ。俺たちは。」

「・・・・・・・」

 高原は力なく微笑した。

「三村さん、ありがとうございました。ご心配をおかけしてすみません・・・・。こいつには・・・河合には、俺から話します。こんな無理なことはもう続けないようにと。」

「高原さん・・・・」

 英一は整った端正な顔に、凍るような不安を露わにして、尊敬するボディガードの憔悴した表情をもう一度見た。それ以上のことは英一にはもう言えなかった。



 まだ太陽が東の空で柔らかい光を放っている。

 肩近くまで伸ばした波打つ黒髪を後ろでひとつに縛り、白衣の上衣を来た青年は、酸素マスクをしたまま眠り続ける患者の、耳元にすっと口を近づけた。

「迎えにきたよ。凌介。待たせてごめんね。・・・・容体が安定するまでは、ダメって言われてたんだ。」

 点滴を持ち上げ、酸素マスクを可動式のボンベからのものに取り替え、スタッフたちはストレッチャーにそっと患者を移すと、エレベーターから階下へと静かに搬送していった。

 ナースステーションで見送った二人の看護師は、すぐに端末の操作の続きを始めた。

 大森パトロール社の警護員が事態を知ったのは二時間も後のことだった。

「どうした?怜」

「晶生・・・・やられた・・・・・」

「・・・・・・」

 事務室に入ってきた同僚の顔を見て、概ね高原は事態を悟ったが、同時ににわかには信じがたい気もした。

「転院、したって。」

「えっ」

「今日、俺がいつもの時刻に病院に行けないってことを、あいつらは調べていたんだと思う・・・。波多野部長を騙った人間から事前に病院に電話も入っていた。」

「・・・・・」

「そして、ナースステーションにいた看護師はふたりとも、ごく最近入った人間で・・・そして、今日で辞めていた。」

「・・・そうか・・・・」

「転院の記録だけが残っていた。病院は実在する名前だけど、問い合わせたけれどもちろん・・・・」

「そんな患者を受け入れた覚えも形跡もないんだな」

「ああ。」

「病院名の入力ミスじゃないか、って、病院は関係者に確認させてる」

「無駄だろうな」

「そう、そしてそのうち・・・・病院の記録も外部から消されるだろうね。」

「そうだな。警察には?」

 葛城は複雑な表情をした。

「それは・・・・。名乗り出た肉親が、波多野部長の承諾を得て転院させたってことになってるし・・・・。」

「波多野部長には?」

「さっき携帯電話で一報した。・・・・感心してらした。鮮やかなもんだなって。」

「そうだろうな・・・・。本当に・・・・見事なもんだ。」

「病院には、あの電話は偽物だとは、言わないっておっしゃっていた。」

「確かに・・・それを言っても、意味がないもんな。」

「そう。なんの意味もない。」

 葛城が打ち合わせコーナーの椅子に力なく腰を下ろし、高原は給湯室から麦茶を持ってきてグラスに注いだ。

 一口飲み、葛城は儚げな微笑を浮かべた。

「茂さん・・・夕べは来なかっただろうね」

「大丈夫だと思う。」

「ほんとに俺は、ダメな先輩だよ。」

「・・・・・・」

「これから先のことが、まったくイメージできない。」

「まあ、そうだろうな。」

 高原が自分もグラスに麦茶を注いで右手でグラスを持ち、窓から漏れる朝日に透かしてみる。

「・・・・」

「酒井は・・・、意識が戻るといいね・・・・」

「ああ。でも・・・・」

「・・・・怜。」

「・・・・・・」

「・・・酒井は、お前を助けたんじゃないと思うよ。念のためにもう一度言うけど・・・・気にするな。」

「・・・・・」

「いいな?」

「・・・・もう、遅いよ、晶生。」

「・・・・・」

「そうだろう?」

「・・・・まあな。」

「酒井を告発しなかった時点で、もう十分、今回のことを気にしてるってことになるんだから。俺は。」

 高原は椅子の背もたれに体を預け、天井を見た。

「それなら、俺たちは、と言うべきだな。」



 街の中心にある古い高層ビルの事務室は、普段あまり早朝から出勤しないトップを迎えてやや緊張していた。

 社長室と呼ぶには簡素すぎる室内で、社長と呼ばれるには若すぎる容貌の男性が、いつもと変わらぬ整った身なりで部下を迎えた。

「座りなさい。とても顔色が悪い。ちゃんと睡眠とってるの?恭子さん」

「はい。ご心配おかけし申し訳ありません」

 吉田恭子を部屋中央の円卓に向かう椅子に座らせ、阪元航平は奥のカウンターから繊細な磁器のコーヒーセットを持ち出し、テーブルの上でコーヒーをカップへ注いだ。

「恭子さん、君も我慢しているんだから、私も我慢する。」

 阪元がその金茶色の髪と異国的な顔立ちによく合う、深い緑色の両目に哀しい優しさを湛えて静かに言った。

 吉田はセミロングの髪が顔にかかるのを、右手ですこし払うようにしてうつむいた。

「・・・・・」

「うちの会社は、エージェントを一生守る。なにがあってもね。でも例外が三つ・・・三つだけ、というべきか、三つも、というべきかわからないけど・・、ある。」

「はい」

「すべて、強制ではなく、事前にエージェントが同意し意思表示しておくことが必要、つまり任意のルールだけどね。」

「はい」

「ルールC。エージェント殺害が試みられた場合、その後は当該エージェントの救出より敵への報復を優先する。そしてBは、最近あったね。」

「特定された人物からのエージェントへの報復の危険がある場合、エージェントの保護より敵の確保を優先する。」

「そして最後・・・ルールA・・・・」

 阪元はゆっくりとそれを言葉にした。

「負傷したエージェントが三か月意識が戻らない場合、死を選ぶことを・・・これも事前に意思表示しておくことができる。」

 吉田は表情を変えなかったが、唇を一瞬、こわばらせた。

「・・・もちろん、酒井は意思表示をしています。」

「そうだろうね。」



 窓から柔らかい午前の光が差し込む小さな病室で、点滴を取りかえていた看護師は、入ってきた金茶色の長髪の青年を認めて笑顔で会釈した。そしてその申し出を聞いて、やや戸惑った。

「看護師のほうでやりますよ。付添のかたはそんなことまでなさらなくても・・・・」

 深山は微笑して、言った。

「いえ、僕がやりたいんです。刃物の扱いは慣れてますから」

「わかりました。それじゃ、お願いしますね。酸素マスクは少しの間なら外しても特に問題はありませんから。」

 深山は枕元の明りを点け、ベッド脇の椅子に腰かけると、酒井の顔から酸素マスクを取り、持ってきたタオルをその頬にあてた。そして頬に薄くシェービングクリームを塗り、カミソリをあてた。

「髭をちゃんと剃ったほうが色男だって言ったよね。絶対そうだよ。」

 そっと酒井の顔をややこちらへ向け、右頬、口元、首、そして反対に向けさせて左も同じように剃っていく。

 左の顎あたりに来たとき、小さく声を出して深山は手を止めた。

 そしてそのまま、I字カミソリを持った右手を下へ降ろし、うつむいた。

「・・・・・」

 そして数秒後には、酒井の顔に、涙の粒がぱたぱたと落ちた。

 病室へ入ってきた板見は、目の前の光景を見て驚いて深山に駆け寄った。

「・・・どうしたんですか、深山さん。」

「・・・・・」

 酒井の胸元あたりに放置されているシェービングクリームの容器と濡れタオルを見て、状況を理解した板見は、しかし深山が返事もせず動こうともしないため、再び声をかけた。

「深山さん」

「・・・・」

 円椅子に座っている深山の両肩を持ってこちらを向かせ、板見は涙を頬に伝わらせたまま放心している深山を揺さぶった。

「深山さん!」

 ようやく深山の両目の焦点が板見の目に合った。

「板見くん」

「どうされたんですか」

「・・・髭を、剃ってた・・・」

「はい」

「うまくできると思ったんだけど」

「・・・・はい」

「左の顎、ちょっと切っちゃった」

 板見が酒井の顔を見ると、よく見なければわからないが、確かに赤い点のような傷があるようだった。僅かだが血がにじんでいる。

「・・・・そうですね」

「凌介が起きてたら、なにするねん!ってすごく怒るよね。」

「・・・・そうでしょうね・・」

「でもね、なんの反応もないんだ。」

「・・・・・」

「なにも、ない」

「・・・深山さん・・・・」

「・・・ほんとに、凌介・・・深く眠っちゃってるんだなって、思ったんだ・・・・・血が出てるのに、感じないくらいに。眠ってるんだなって・・・・」

 板見はなにも言えず、ただ深山の茶色の両目を見ていた。

 全てが、現実とは思えなかった。いつも冗談ばかり言っている酒井が、呼んでも揺すっても何も言ってくれないこと。いつも飄々としている深山が、茫然自失し泣いていること。刃物を自分の手の延長のように使うアサーシンがカミソリの扱いを誤るということ自体、普通であればありえない。

「深山さん、しっかりしてください。・・・髭剃り、大体はうまくできてますよ。さあ、道具を片づけましょう。」

 深山の手からカミソリを受け取り、ベッドの上のクリーム容器とタオルも取り、まとめる。

 そして、深山の手を取り、立ち上がるのを手伝おうとして、板見は手を止めた。

 床のほうへ視線を落としている深山の両目から、再び涙が零れ落ちていた。

 板見は、右手で、そっと深山の頭を引き寄せた。深山の額が板見の鳩尾あたりにつき、顔を埋めるようにして声もなく深山は泣き続けていた。


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