二 救命
茂がホテル従業員の協力と自らの工具によってようやくホテル自室のドアをこじ開け、廊下に出ると、ほぼ同時にインカムから葛城の声が入った。
「出られましたか?」
「はい!たった今」
「茂さん・・・。メイン警護員として、指示します。」
「はい、葛城さん。」
「クライアントの部屋で、クライアントの確保を。そして・・・・できることなら刺客を、ホテルの警備員に取り押さえてもらってください。」
「はい。」
「逃がせば、また誰かが殺されます。」
「・・・はい。」
「私は屋上からバルコニーへ向かいます。恐らく刺客はクライアントをバルコニーで殺害するつもりです。」
「・・・・葛城さん・・・しかし、スリングロープの長さでは屋上から九階は・・・・・」
「茂さんは第一にクライアントの保護を考えてください。」
「葛城さん」
「私に何があっても、です。」
「葛城さん・・・・!」
インカムのスイッチを切り、葛城は屋上フェンスにスリングロープの先端をからませ、そしてひとり呟いた。
「茂さん・・・・。良い警護員に、なってくださいね。」
「そのままどうぞ、横矢さん。バルコニーに出る扉の鍵は、開いていますから。」
「・・・・・」
深山の右手に光る銀の華奢な刃物が、まっすぐに横矢に向けられ、刺客が一歩一歩距離を詰めると同時に、ターゲットは後退しバルコニーへ出るガラス戸に背が当たる。
「開けなさい」
横矢が深山のほうを見ながら、体を斜め後ろに向けガラス戸に手をかける。戸は滑らかに開いた。
深山の通信機から吉田の声が入った。
「深山。部屋へ河合警護員とホテルの警備員が向かっている。直ちに退避するか、逃走経路を西側窓からに変更しなさい。」
「了解しました」
夜の、冷たく湿った空気は、バルコニーの開いた扉からゆっくりと部屋へ忍び込む。それは、ここに迫る危機も死も遠い世界のように思わせた。
そのとき、通信機から別の声が入った。酒井だった。
「祐耶。葛城さんが屋上から来てはるで。」
「・・・・・!」
「隣から止める。間に合えばな。」
「了解」
しかし対応はわずかに遅すぎた。
ターゲットが一歩バルコニーへ踏み出したとき、走り寄ろうとした深山は、辛うじて足を止めた。
湿った風が、さらに強く部屋へと吹き込んだ。一度止んでいた雨が、再び降り出した。
屋上柵から長さが足りなくなったスリングロープを切り離し、葛城はバルコニーへと落下しながらクライアントを両足で蹴るように部屋へと押し戻した。
同時に部屋の扉が、内側からの閉鎖金具が外から破壊され、開いて茂が踏み込んだ。
クライアントを室内へと突き飛ばした反動で葛城はバルコニーのフェンスへ後ろ向きに衝突し、崩れかかっていたバルコニーが完全に崩壊するとともに葛城の体は深夜の空中へと投げ出された。
「葛城さん・・・・!」
一瞬行動に迷った茂は、深山が部屋のコーナー西側の窓ガラスを破って飛び降りたとき初めて目の前のクライアントへ駆け寄った。
茂に続いて部屋へ入ってきたホテルの警備員たちは、割れた窓へと走り下を見て声を上げた。
「すごい・・・・ロープ一本で・・・・」
雨の夜空の下、姿を消した深山が離した細いロープだけが、窓の枠から空中へと垂れ下がり滴を落としながら靡いていた。それは事前に窓枠にしっかりと、かつ分からぬように取り付けてあったことが明らかだった。
南向きのバルコニーはすっかり崩れ落ち、ほぼ跡形もなかった。
クライアントは茂から体を逃れるようにして、ドアから部屋の外へと駆けだした。
「横矢さん!」
廊下に出た横矢に茂は廊下の反対側の端ちかくで追いつき、腕をつかんだ。
「・・・・・!あいつが僕を殺しにきた・・・・・あいつが・・・・」
「落ち着いてください、大丈夫です」
「離して!」
激しく叫び抵抗する横矢を、なんとか留まらせようと揉み合う。近くの部屋のドアがいくつか開き、不審そうに見る者や、すぐにドアを閉じる者などがあり、やがてホテルのスタッフが二人駆けつけてきた。
「どうされました?」
茂は身分証を示し状況を説明した。
ようやく落ち着いた様子の横矢の腕をしっかりつかみながら、茂はインカムから呼びかけた。
「葛城さん・・・・・!」
返事はなかった。
茂はスタッフへ告げた。
「○○号室のバルコニーが崩れて、人が・・・・人が、落ちました!」
「えっ!」
すぐにスタッフは目の前の廊下の端の扉を開け、屋外の階段へと出た。そこから顔を伸ばすと、○○号室のバルコニーがあった場所を横から見ることができた。
そして一同は息をのんだ。
バルコニーへ出るガラス戸の縁にロープの先のフックが辛うじてひっかかり、その先に男性が右手でひとり空中でつかまり、その左手でもう一人の男性の右手首をつかんでいた。
酒井の耳へ、通信機器からそのチーム・リーダーの声は届いていた。
「酒井。自分の退避を優先しなさい。」
「・・・・・」
「ボディガードを殺傷するなというリクエストは、エージェントに死ねということではない。」
「・・・・・」
叩きつけるように降る雨が、二人の髪をたちまち濡らし、滴をはるか下の地面へと落としていく。
葛城の右手首をつかんだ左手に力を込め、酒井は美貌のボディガードを見下ろし微笑した。
「こんなテレビドラマか映画みたいなシチュエーション、できれば遠慮したかったですな。大森パトロールの葛城さん。」
葛城は驚愕の表情のまま酒井を見上げている。
「・・・・・」
「初めてお会いしたときも、なんか似たような姿をお見かけしましたが。」
「・・・・・」
吉田の声が耳元から響く。
「葛城の行動は自らの責任だ。踏み込む必要はない。」
酒井は構わず、葛城へ静かに語りかける。
「今回は私の責任において、あなたを地面に叩きつけるわけにはいかなくなりました。」
「どうして・・・・」
「でもね、どう考えてもロープがもうもちません。あなたをつかまえる時間と、それから多少なりとも着地点を見極める時間をくれただけです。」
「・・・・・」
「あと七~八秒ってとこです。もう少しロープと窓枠が丈夫でしたら、むこうのバルコニーまで移れたんですが、残念なことです。それじゃ、歯を食いしばって、顎引いててください。」
「・・・・・」
そして最後に通信機器を通じて、上司に酒井は一言、言った。
「すみません。恭子さん。」
「酒井!」
酒井の予言はほぼ正確だった。
切れたロープを離し、酒井は葛城の腕を引いてその体を引き寄せ、ともに落下しながら目指す態勢を一瞬で取り終えた。
次の瞬間には、二人は下の地面の、鋭利な設置物のない平らな面を選ぶように、転落した。
葛城は激しい衝撃に少しの間体が動かなかったが、すぐに身を横に半回転させ、仰向きの態勢からうつ伏せになり、酒井の体の上から下りて地面に両膝をついた。
「酒井・・・・」
葛城が離れるとともに酒井の右手が力なく地面へ落ちた。
左手は既に地につき、そしてその顔はやや右に傾き、静止した。
目を閉じ、体の数か所から血を流し、酒井はぐったりとしていた。
葛城が、インカムからの茂の声に反応したのはさらにその数秒後だった。
「葛城さん!大丈夫ですか?」
「・・・茂さん・・・・クライアントは・・・」
「確保しました。お怪我もありません。葛城さんは大丈夫ですか?」
「・・・私は怪我はありません・・・・。茂さん、警察と救急をお願いします。・・・・」
「はい!」
葛城は地面に崩れるように座りこんだ。
再びインカムから茂の声が入った。
「救急車、すぐに到着します。ホテルスタッフにもお願いしました。・・・・葛城さん、怪我人の・・・・酒井の、状態は・・・」
「・・・・・」
「葛城さん!」
はっとして葛城は腰を上げ、再び膝立ての姿勢になり、酒井の口元と首元に手を持っていき呼吸と脈拍を確認した。
「・・・心肺停止・・・しています・・・・」
「・・・・・」
「・・・・救命処置・・・CPR、します・・・・茂さん、クライアントと、警察の対応を頼みます。」
「了解しました。・・・葛城さん、落ち着いてくださいね。・・・・出来る限り早く合流しますから」
「凌介を助けに行きます!協力病院へ連れていかないと、凌介が・・・」
通信機器から吉田の制止の声が入った。
「だめだ深山。もう救急車が到着してる。警察も。」
「・・・・・」
「人目もありすぎる。どうしようもない。」
「見捨てるんですか!」
「落ち着いて、深山。お前は現場の後始末をして帰還なさい。搬送先の病院は板見に調べさせる。」
「・・・・・」
「いいわね?」
「・・・・・・はい・・・・」
板見に必要な指示を出し、通信を終えて初めて吉田はカンファレンスルームの入口ドアのところの人物に気がついた。
「大丈夫ですか」
「・・・・」
「吉田さんの声の調子がいつもと違うので。気になりました。失礼しました。」
庄田直紀は、ドア口から数歩室内に入り、一礼してもう一度吉田の顔を見た。
「酒井は致命傷ですか」
「わからない。けれどその可能性は高い。」
「念のため、うちのチームから警察情報のチームへ連絡を取っておきます。社長には私から事後承諾を取ります。」
「・・・・ありがとう、庄田。」
そのまま庄田は出ていった。
数時間の後、和泉と板見が事務所に戻ったとき、深夜の事務室には吉田のほかには誰もいなかった。
応接コーナーから立ち上がった吉田に近づき、その顔を見たとたん、張りつめていたものが切れるように和泉が涙を浮かべた。
「吉田さん・・・・」
「和泉、そんな顔をするな」
「・・・すみません・・・・」
「板見が連絡してくれたとおり、酒井はまだ、死んではいないのだから・・・」
「・・・・はい・・・・」
「あの・・・・俺、コーヒー淹れます・・・」
板見がふらつきながらパントリーへと歩いていく。
さらに遅れて深山も帰還した。
「遅くなってすみません」
「現場の後始末があったから仕方ないわね・・・。・・・お疲れ様」
「・・・・はい」
「大丈夫?」
「・・・・はい、大丈夫です・・・・・」
深山の表情は、その言葉とはまったく異なるものだった。
「座りなさい、深山」
「はい・・・・」
崩れるようにソファーに身を沈めた深山の、両肩を支え、吉田は部下の蒼白な顔に慈愛のこもった視線を向けた。
「しっかりしなさい」
「・・・・・」
「これから、我々にはやることがたくさんある。」
「・・・・・」
「落ち着いたら、帰って体を休めなさい。」
「・・・・はい・・・・」
深山は両膝を両肘につき、深くうつむいた。そのままじっと動かない。
板見が持ってきたコーヒーのカップを一つ取り、和泉が深山の前のテーブルに置く。
和泉は涙声になりながら、深山に声をかける。
「深山さん・・・・おつらいと思いますが、私達、吉田さんを支えて、チームとして今こそがんばらなくてはいけないです・・・・がんばらなくては・・・。」
「・・・はい・・・・」
うつむいたまま深山が細い声で答えた。吉田は向かいの席に座りコーヒーカップを手にした。
パントリーへと戻っていった板見の後から、続いて和泉もやってきて、シンクでコーヒーポットを片づける板見の背中を見つめた。
「板見くん・・・・」
振り向かずに、板見が答える。
「・・・地元の小さな病院では手に負えません。明日、緊急転院になりますが、大森パトロール社が身元引受人になり、彼らの契約病院へ搬送されるそうです。」
「・・・・・」
「死んでいない・・・それは確かです・・・・しかし、意識不明の重体です・・・まだ自発呼吸も・・・・」
「板見くん」
和泉が板見の肩に手を置く。板見はシンクの水を流しっぱなしにしながら、声を殺して泣いていた。
少し自分より背の低い板見の頭を肩のあたりで抱きしめ、和泉は後輩の髪に目を埋めるようにして泣いた。
ようやく深山が顔を上げると、吉田が少し目線を下げたまま、言った。
「お前たちが戻る前、社長がここに立ち寄ってくださった。」
「・・・・・」
「社長はお約束してくださった。もしも酒井ががんばってくれて・・・蘇生してくれたなら、必ず・・・会社の総力をあげて、彼を取り戻すと。だから・・・」
「・・・・・・」
「だから、お前も希望を捨てるな、深山。最後まで。」
「・・・・・はい・・・・」
まだパントリーからの水音は続いていた。
時刻は、日付の変わるころを過ぎようとしていた。
茂が高原とともに大森パトロール社に近い契約病院に到着したのは、日曜の深夜になってからだった。
集中治療室の待合室へ行くと、電話で聞いたとおり葛城が二人を待つようにひとり座っていた。
「怜、その後状況は変わらずか」
「晶生、茂さん・・・・」
「大丈夫ですか・・・・、葛城さん・・・・・」
血の気の引いた顔で葛城が二人を見上げ、高原と茂は葛城を挟んで椅子に腰かける。
「晶生、途中で警護を交代してもらってすまなかった」
「いいよ。今日一日だけだったし、その後は何事もなかったんだから」
「クライアントはさきほど無事にご自宅にお送りしてきました」
「ありがとうございました・・・・茂さん・・・・」
待合室には他に誰もおらず照明も暗く落とされているが、奥の集中治療室の入口からは明々とした光が漏れている。
高原は茂を伴い、集中治療室へ入りナースステーションに声をかけると、酒井のベッドの近くまで行くことを許された。
自発呼吸が始まったという葛城の話どおり、人工呼吸器ではなく酸素マスクをつけられた酒井が目を閉じて横たわっていた。
待合室へ戻ると、高原は茂の顔を改めて見て、言った。
「河合、車の中でも言ったけど、この後、酒井のことは俺たちに任せてほしい。」
「高原さん・・・・」
「酒井は、身元が不明ということになっている。・・・実際、不明なんだが、それだけじゃない。」
「はい・・・・」
「負傷の経緯も、真実は警察にも病院にも告げていない。社内でも極秘だ。怜が転落したときに、巻き込まれた第三者ということにしてある。」
「・・・・・」
「わかるな?お前はこれ以上関わるな。波多野さんの指示でもある。」
「・・・了解しました・・・・・。」
高原の目が、優しくなった。
「・・・お前の気持ちは、わかるよ。ごめんな。」
「・・・・・」
「とにかく今日は帰ってゆっくり休め。できれば明日の、平日昼間のほうの会社も休んだ方がいいとは思うが・・・・」
「はい。・・・ありがとうございます・・・高原さん。」
茂が帰っていった後、高原はゆっくりと同僚のほうを振り向いた。
葛城は身を固くしてじっと座り、こちらを見ようとしない。
高原はそのまま待った。
数分も経った後、葛城がうつむき、言った。
「・・・謝らないよ。俺は。」
高原は何も言わない。
葛城はさらに深くうつむいた。
長い沈黙の後、高原が低い声で、言った。
「俺に謝ることはない。でもな」
「・・・・・」
「河合に、俺は説明できないよ。お前は・・・できるのか?メイン警護員として。」
「・・・・・」
「クライアントを守るために、そのためだけに命をかけるのが、警護員だと教え、教えられてきたはずだ。」
「・・・・・」
「俺たちはそのことを、河合から一番言われて、怒られてきたよな。」
「・・・・そうだね」
「自分でしたことだ。申し開きは自分でしろ。」
「・・・・ああ。そうするつもりだ・・・」
「それからな」
高原は、同僚の肩に手を置き、そして葛城が驚くほどの力でつかんだ。
「・・・・!」
「俺も、怒っているよ。・・・・死ぬほどね」
振り向いた葛城は、高原の表情を見て、さらに驚愕した。
屋外から、何度目かの救急車のサイレン音が響いてきていた。