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一 襲撃

再びふたつの会社そのものが主役の回です。酒井凌介にややスポットが当たります。

 河合茂は、土日夜間限定で警護員として働いている大森パトロール社で午前中の作業を自席で終えると、そのまま持ってきた弁当を食べ慌ただしく弁当箱を給湯室で洗った。

 後ろから背の高い先輩警護員が声をかけてきた。

「おう、河合」

「あ、高原さん。おはようございます」

「うん、おはよう。でももう昼か。なんか慌ててるけどこれからどこか行くのか?」

「はい、槙野さんの家に、猫を見に行くことになってるんです。」

「へえー。」

 会社内ではもちろん、恐らく全国探しても彼を上回るレベルのボディガードはなかなかいないと思われる高原晶生は、茂より十センチほど背が高く、すらりとした長身に知的なメガネと短髪、そして知性と愛嬌が不思議に同居した好感度の高い青年である。趣味は宴会一発芸と鍵の研究である。

「俺がペットロスになってるって、バレバレでした・・・・」

「拾った後、短い間だったけどお前ほんとに献身的に面倒みてたもんな」

「アパートがペット禁止じゃなかったら絶対飼っていましたから」

「確か槙野は一軒家に友達と家賃を割り勘にして住んでるんだったな。」

「はい。猫にとって良い環境で・・・・槙野さんに引き取ってもらえてよかったです。その節は彼を紹介してくださいまして、ありがとうございました。・・・それじゃ、俺、さっそく行ってきます」

「慌ててバイクこけるなよ」

「ははは・・・・」

 日曜日の午後の気持ちよく晴れた空の下、茂が私物の中型二輪で私鉄駅から少し離れた住宅街の槙野の家に着くと、槙野は門の外まで出て待っていてくれた。

「こんにちは、河合さん。ここの場所、すぐ分かりました?」

「大丈夫でした。今日はありがとうございます。お邪魔します」

 槙野俊幸警護員は、茂と同じくらいかそれより明るい茶髪をしているが茂と違い髪は高原くらいに短くすっきりしており、身長は茂より少し低くて百六十五センチくらい、そして体は細身の茂よりさらに華奢である。小麦色の肌をした顔は非常に上品な表情で、茂より経験も実力も上のフルタイムの警護員とは一見信じがたい容貌である。

 茂が槙野に案内され、奥の居間を抜けた南側のサンルームへ入ると、三毛猫が一匹、気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた。

 顔をほころばせて茂が猫をなでるのを笑顔で見ながら、槙野は居間のソファーのテーブルでお茶を淹れ、菓子皿とともにサンルームまで運ぶ。

「ありがとうございます。元気で幸せそうで安心です。あ、これ、お土産です・・・・槙野さんと、それから、猫に。」

 茂がふたつの紙袋を差し出した。

「ありがとうございます。すみません。」

「そうだ、猫の名前はつけられましたか?」

「はい。・・・・ミケ、なんですが・・・・」

「・・・・・」

「ちょ、ちょっと安直ですよね・・・・」

「ははは・・・いえ、俺の実家に昔いた黒猫の名前はクロでしたから・・・・」

「はははは・・・・実は、気がついたら同居人たちがミケ、ミケって呼んでいて・・・・」

「なるほど」

 茂と槙野は顔を見合わせて声に出して笑い、そしてお茶を飲んだ。

 ミケが伸びをして起き、座布団に正座した茂の膝へと登ってきた。

「河合さんは、土日夜間のパートタイムで警護員をされてるんですよね。今日も今まで事務所にいらっしゃったんですか?」

「はい。仕事が入るのも土日か夜ですが、事務所でまとまった作業ができるのもやっぱり週末なので・・・・」

「次の仕事はもう決まっているんですね。」

「ちょうど来週の土日、少し遠いので金曜夜から泊りがけになる予定です。・・・あ、高原さんに今日アドバイスもらうのを忘れてた・・・・」

「不安なことがあるんですか?」

 茂は頷いた。

 槙野は少し遠慮がちに一瞬目を伏せた。

 その意味を茂は察し、大丈夫ですよというように少し首をふってみせた。

「・・・警護案件は担当する警護員以外にむやみに話さない、ということになっていますが、資料だって共有フォルダで閲覧できますし、社外にさえ漏らさなければ社内ではそれほど厳しいことはいわれないですよね」

「まあそうですね」

「・・・・クライアントは、会社の出張で会合に出席されるんですが、宿泊するホテルが会合のある会議室のある同じホテルなんです」

「はい」

「そこには泊まりたくないそうなんですが、小さな町で、ほかに泊まるところがないんだそうで・・・。もちろん選ばなければ民宿とかもあるんでしょうけれど、部屋でインターネットがつかえて仕事ができること、などという諸条件を考えるとそこしかないんだそうです。」

「なぜ泊まりたくないんですか?」

「・・・・高校の修学旅行で宿泊したホテルで・・・・。いえ、正確には、建物は同じでホテル名は変わっているそうですが・・・・生徒が酔ってバルコニーから転落死した事故があったんですが、同じ部屋に泊まっていたひとりがクライアントなんです。」

「クライアントがなにかその原因を?」

「いえ、それは特には・・・。」

「ご遺族から脅迫されているとか?」

「いえ、それもないんですが、最近、夜な夜なその亡くなった生徒の夢をみるんだそうです。」

「・・・・・・」

「精神的に安心したいので、実際に襲撃の危険等があるわけではないのだけれど、ボディガードをつけたいというご要望で・・・。」

「難しいですね。具体的な危険がよくわからないというのは。」

「そうなんです。それに・・・・」

「怪しいですね」

「・・・・はい。」

「クラスメートが亡くなったホテルだから気分的にいやだ、というだけではなさそうですね。」

「そうなんです・・・」

「クライアントが恐れているのは亡くなった人間ではなく、多分、生きている人間・・・・。でも、クライアントが何もおっしゃらない以上は、それは我々警護員の関知すべき問題ではない。」

「はい。」

「明らかな虚偽でない限り、怪しきはクライアントの利益に解するのが、うちの会社ですからね・・・」

「はい。」

「今回、また葛城さんとペアなんですね?」

「はい、葛城さんがメイン警護員、俺がサブ警護員です。難易度が決して低くないということで、今回はメイン警護員はまだ俺には無理とのことでした。」

「葛城さんのことですから、クライアントの情報は事細かにカルテをつくっておられることでしょう。」

「そうですね。そしてそれでも、特段に不審な点は出てきませんので、警護をお断りする理由もないという状態です。」

「・・・河合さん、なんとなくこの案件、気が進まないんですね・・?」

 茂はミケを膝の上で撫で、一瞬の間を置いて、ゆっくりと頷いた。

「クライアントとあまり意思疎通ができていないですし・・・・それに、なんとなく、妙な胸騒ぎがするんです・・・・」

 槙野はじっと茂の顔を見ていた。



 街の中心にある古い高層ビルの高層階に入っている事務所で、事務室内へ戻ってきた同僚を迎えた酒井凌介は応接コーナーに座ったまま、たしなめるような口調で言った。

「祐耶、アサーシンは成功して当たり前やから別に満足そうな顔する必要はないけど、なんやその浮かない顔は。」

「・・・・・」

 金茶色の波打つ長髪を乱暴に右手でかき上げながら、深山祐耶が黙って酒井の斜め向かいのソファーに座り、背もたれに体を預ける。

 酒井は深山より十センチほど背の高い長身に相応しい長い脚を組み、耳の下まで伸ばした黒髪と同じ色の両目を皮肉に細めた。無精ひげの口元には、煙草が咥えられている。

「今日もひとつの仕事が無事成功したんやから、もう少しまともな顔せい。ていうか、一か月で四件連続成功や。ほかのチームの案件の請負がそのうち三件。破格の業績やで。しかも全件、それなりの警護がついていた。」

「だって」

「ん?」

「ボディガードが二人ついていたとはいえ、あの会社だったわけじゃないから。」

「お前なあ。」

「わかってるよ。仕事は趣味じゃない。」

「そうやで。我々は自分の満足のためやなくて、お客様のご満足のために仕事してるんやからな。お客様のご満足を通じて、自分は満足してればいい。まだまだそのことが徹底できてないよな、お前は。」

 酒井は、しかしすぐに柔和な表情になり、椅子の背にもたれた。

「凌介?」

「でもまあ、自分の分を越えた事柄に無駄に悩んでいるより、そうやって自分のこだわりの分野で職人みたいに文句言ってるほうが、まだ健全やな。」

「あのね」

「反論あったら聞くで」

「・・・・・お客様のご満足っていうのはわかるけど。でも・・・・何が、お客様の満足なのか。それは、ほんとに僕たちにわかるの?」

 ため息をついて酒井は天を仰いだ。

「お前なあ」

「・・・・・・」

「そういうことが、自分の分を越えた事柄っていうんや。」

「・・・・・・」

「どうした?」

「凌介は、最近妙に機嫌がいいね。」

「お前に比べたら地味な仕事続きやで。先週は板見と一緒にデータ破壊と書類の廃棄。」

「嬉しそう。」

「そりゃそうや。首尾は完璧で、そしてお客様にものすごく感謝されたしな。」

「・・・・殺人案件じゃないから嬉しいとかじゃないだろうね?」

「そんなわけあるかいな。」

 なにかさらに言おうとした深山は、しかし酒井の視線が自分を超えて事務所入り口へ向いたことに気がついて自分も振り返った。

「・・・吉田さん」

「深山、今日もお疲れ様。すぐに休んでほしいところだけど、次の案件の最終確認だけ今日しておきたい。」

「はい」

 事務所に入ってきた吉田恭子が、二人のところまで来て、鼈甲色の縁のメガネの奥の静かな両目で、微笑んだ。

 チームリーダーに続いて、背の高いショートカットの女性と、それより少し背の低い男性も加わり、五人はカンファレンスルームの舟形のテーブルを囲んだ。

 吉田恭子は、チームリーダーらしい落ち着きと、少し憂鬱そうな、子供の心配をする母親のような色をその目によぎらせながら、四人の部下達をさっと見つめ、手元の資料に目を落とした。

「お客様と今日最終の面談をしてきた。我々阪元探偵社が通常提供しているサービスのうち、今回は”アサーシンのカウント”はご無用とのことで変更なしよ。中止命令を出すことは百パーセントありえないとのこと。」

 酒井が笑った。

 カンファレンスルームの、奥の壁は天井から床までガラス張りの大きな窓になっており、日曜昼過ぎの街の穏やかな明るさが室内に届いている。

「そしてもうひとつの、こちらは強いご要望も・・・お変わりないとのこと。」

「・・・そうですか」

「よかったな、祐耶。お前のために出されたような、完璧な条件やないか?」

「凌介。いいかげんに怒るよ。僕をバカにしないで。」

「やめなさい、二人とも。」

 吉田が酒井と深山をたしなめた。

 殊勝に姿勢を正した二人から目を離し、吉田はその横の更に若い女性と男性・・・・和泉麻衣と板見徹也のほうを見た。

「和泉と板見はホテルスタッフとして当日も入ってもらうけれど、くれぐれも持ち場を離れないように・・・・・自分の身を守るためにやむを得ない場合を除いては。緊急事態が起こったら基本的に対応するのは酒井だから。二人は通信機での連絡に集中すること。」

「はい。」

「和泉はホテル内部から、板見は外からの、監視と状況報告。それだけならば難しくはないけれど・・・・・絶対にボディガードと鉢合わせしないように、気を付けて。」

「大丈夫です。大森パトロール社の二人の動きは昨日までに把握しました。」

「セオリー通りにしか動かないのが普通はボディガードというものだけど、彼らは予想外のことをする。気を抜かないで。・・・一回目の襲撃が、ほぼ成功の全ての要素になる。」

「はい。」

「明後日、協力チームのメンバーとも最終打ち合わせになる。そちらの準備もよろしく。」

「はい。」



 翌月曜午前、郊外の、新しいが敷地の狭い一軒家で、葛城怜警護員はクライアントとの最終面談に臨んでいた。

 居間はダイニングと一緒になっており、高いテーブルをソファーのような椅子が取り囲んでいる。

「本来、サブ警護員も一緒に伺うべきところですが、土日夜間の限定契約のため、今日は私ひとりで伺わせていただきました。」

「はい」

 クライアントは大柄な体に不似合な神経質そうな青白い顔で、目の前のボディガードをちらりと見て、そして細君が置いていったお茶を勧めた。

 葛城は女性と見紛うような美貌を、長めの濃い栗色の髪で包むように隠したいつものスタイルで、その美しい切れ長の両目でクライアントの顔を見つめ、相手の内面を読み取ろうと努めていた。葛城の繊細かつ秀麗な容貌そのものが、多くの場合クライアントとの話題の種となり、会話が進む材料となる。しかし、今回のクライアントである横矢久仁夫氏は、自分の事柄以外にはほぼ興味がないように見えた。

「警護はすべてロー・プロファイル・・・・内容はホテルのお部屋から会議会場までの往復警護と、最終日の懇親会の会場での警護、そしてお部屋におられる間のドア目視ですが・・・・」

「それで結構です。」

「・・・・横矢さん、襲撃の可能性についてはやはり・・・・」

 横矢氏は眉間にしわを寄せ、葛城警護員をじろりと見た。

「またそのご質問ですか・・・。具体的なことや、心当たりとかは、全然ありません。ただ、なんとなく不安・・・そういう理由では、警護はお願いしてはいけないのでしょうか?」

「いえ・・・。」

「はっきり言っていいんですよ。クライアントのことは極力詳しく把握されるのがボディガードさんの事前準備なんですよね。・・・・ひょっとして、探偵みたいなこともされてるんですか?」

「そういうことはありません。一般的な事柄だけです。普通にお聞かせいただける範囲の・・・・ご経歴とか、ご出身地とか、日常の生活のことなど、そうしたことだけです。」

「出身高校とか、ですね?前田武司の、事故があった高校ですよ。」

「・・・・・」

「クラスメートで、修学旅行で同じ部屋でした。不幸な事故でした。その事故のせいで僕はいまだに気持ちが晴れることはありませんし、今回その事故のあったホテルに行くなんて精神的に耐えられないくらいつらい。家族についてきて支えてもらえたら一番なんですが、色々な理由で、そういう訳にもいかないのです。だから貴方達にお願いしただけのことです。・・・・・でも貴方達は、僕を疑っているんですよね。」

「なにかを疑っている、ということではありません。ただ、もしも具体的に横矢さん、貴方を狙う人間にお心当たりがあるなら、非常に重要な情報なのですが・・・・」

「ありません。あえて言えば、同じ部屋だった僕に、意味のわからない恨みを・・・・前田の肉親が抱いている可能性はあるのかもしれませんが、今まで一度も襲われたり脅迫されたりそういうことはありませんから・・・・。可能性はないに等しいでしょう?」

「・・・はい。」

 クライアント宅を後にした葛城は、車を置いた公共駐車場まで歩きながら、携帯電話を発信した。

 相手はすぐに出た。

「もしもし・・・晶生、今大丈夫?」

「ああ。どうした?怜。」

 電話の向こうの高原は、その言葉は質問形だったが、葛城の言いたいことはよく分かっているという口調だった。

「やっぱり、嫌な予感がする。クライアントは何も言ってはくださらなかったけど。」

「背景があるクライアントだよね、多分。そしてそういうとき、登場するのは・・・俺たちが一番会いたくない奴らだね。」

「あいつらの思うようにはさせない。そして・・・茂さんを危ない目にだけは、遭わせないようにするよ。」

「お前も気をつけろよ、怜。後でまた事務所で話をするけど・・・あの事故は、かなり関係者が多い。そして、一切証拠はないけれど恐らく・・・・」

「うん。」

 空の太陽が、雲に遮られ一瞬その光を弱めた。

 そして再び明るい太陽光がさし始め、葛城は駐車場の自分の車に乗り込み、運転用サングラスをかけた。



 一週間前の週末とは全く違う、荒天の土曜の夜を迎え、しかし街の中心は天候を気にしない人々が思い思いの用件に向かい慌ただしげに行き交っていた。

 下界のそうした喧騒とは無縁であるかのように、古い高層ビルの事務室の、大きな窓のある部屋は、静まり返っている。

 カンファレンスルームの閉まった扉から漏れる細い明りを一瞥してから、庄田直紀は事務室内の自席で再び手元の端末に目を落として作業を続けた。

 しばらくして、目の前に来て立ち止まった長身の部下が、少し心配そうに自分を見ていることに気づいた。

「・・・・どうしました?逸希さん」

「あ、いえ・・・・」

 朝比奈逸希は、穏やかな瞳を瞬かせ、真っ黒な短い髪と暗めの肌色によく映える真っ白なシャツの袖を、居心地悪そうにまくり上げながら口籠った。

 庄田は座ったまま部下の顔を見上げ、その涼しげな切れ長の目を少し細めて微笑した。

「今日は車で送ってくれなくても大丈夫です。もう少し私は作業していきますから。」

「はい。・・・あの、最近連日遅くまで残っておられますが、お体のほうは・・・・」

「ありがとう。心配してくれていたんですね。特に、吉田さんのチームの仕事が佳境に入ると、私がすぐおつきあいで徹夜とかするから。」

「・・・・・」

「今回はうちのチームから応援のメンバーはいないですからね、そこまではしませんよ。」

「はい。」

「・・・・逸希さん」

「はい」

「気になりますか?」

「・・・・はい。大森パトロール社の警護員が二人、予定通り警護に当たると聞きました・・・。」

「浅香ですか。よそのチームの案件についてあまり噂話するのは感心しませんね。今度注意しておきましょう。」

「そ、それは・・・」

 庄田はぬけるように白い肌をした気品のある顔を、ほころばせ、さっきよりもはっきりと笑った。

「冗談ですよ。今回、親友の深山さんがまた担当するわけですから、心配なのは仕方がありませんね。我々は、仲間があの会社のボディガードに妨害をされずに済むことを祈りましょう。」

「・・・・・はい。」



 小さな町全体を包むような暗雲が、ささやかな会議室で土曜夜の会合イベントを終えたホテルにも、激しい雨を降らせている。

 かつては観光ホテルとして需要が高かったと思われる構造だが、今は学術と産学連携の町として再生を計っている地元の状況を反映するように、学会や産業界の会合を主に担う会場として華やかさより実務家向けの効率重視な空気が勝っている。

 九階の客室は最上階ではないが、重要人物が宿泊することを想定し、一部屋一部屋の客室は広くゆったりと配置されている。かつて二つの部屋だったものが改装され一室になったように、ふたつのバスルームが左右対称にあるスイートルームで、酒井凌介はソファーにふんぞり返った姿勢のまま、しかしその姿勢に似合わぬ表情で、親友のほうを一瞥した。

「気いつけや、祐耶。」

「大丈夫だよ。凌介・・・なんだか今日はちょっと変だよ。」

「そうかな」

「そうだよ」

 金茶色を隠し黒く染めた髪を後ろでひとつに縛り、異国的な顔立ちをベルボーイの制帽で紛らわせた深山祐耶が、酒井の顔を怪訝な顔のままで見返す。

「・・・恭子さんの指示に従って、淡々と進めることだけ、考えろ。」

「ああ。凌介もね。」

「そろそろやな。」

「うん。」

 深山はドアのところまで行き、そして振り返った。

「・・・凌介。」

「なんや」

「今日は髭をちゃんと剃っているんだね。」

「・・・・・無精ひげがないだけで、別人効果満点やって恭子さんに言われたからな。しかしほんまにそうかな。」

「はははは。ほんとにそうだよ。それに・・・・」

「?」

「髭をきれいに剃ると、ほんとに色男だよね、凌介。」

「うるさいなー。さっさと行け。」

「はいはい」

 

 茂のインカムに葛城の声が入る。

「お疲れ様でした。会合はもうすぐ終わります。予定通り、エレベーターで私が同行しますので、階段からクライアントの部屋の前まで先回りしてください。」

「はい。」

 サブ警護員とはいえ茂も右手にスリングロープを装着し、腰にはスティール・スティック、そして七つ道具のうち携行を許されたいくつかのものを持って、なおかつ目立たないように周回警護にあたるという課題を鋭意遂行している。葛城同様に茂もビジネス客らしいスーツ姿をしているため、思った以上に周囲から見咎められることはなかった。

 クライアントの宿泊している部屋のある九階でエレベーターを降りたとき、葛城は素早く横矢の前に回った。

 廊下の向こうから、一人の女性がキャリーバッグを引きながらこちらへ歩いてくる。

 クライアントと葛城がエレベーターから降り、ドアが閉まりかかったのを見ると、女性が「すみません、乗ります・・・」と言って小走りにこちらへとやってきた。

 横矢がエレベーターのボタンを押してドアが閉まらないように留めた。

「ありがとうございます。」

 キャリーバッグが、そのときありえない動きをした。

 女性は葛城と横矢の間にバッグを叩き込むように振り、そして右手に持った光るものを振り上げた。

「横矢!お前を殺して私も死ぬ!」

 驚いた横矢が後ずさりして躓いて尻餅をついた。

 葛城が女性の腕をつかんで捻り、ナイフが手を離れて飛び、廊下の絨毯の上に転がる。

 女性が涙をこぼしながら横矢のほうを睨んだ。

「お前が殺した武司の・・・恨みを思いなさい・・・・・」

 一瞬動きを止め、次の瞬間恐ろしい勢いで腕を葛城の手から振りほどき、女性は階段のほうへ向かって後退した。

 手にもう一本のナイフが握られていた。

「今度は私が幽霊になって、お前を必ず殺してやるわ」

「・・・・」

 くるりと踵を返し、女性が走り去り、ちょうど階段を上がってきた茂とすれ違いそのまま階段室へと駆け込んでいく。

 茂がこちらを見て驚いた表情をしている。

 葛城はインカム越しではなく、茂に直接、言った。

「すみません、クライアントを頼みます、茂さん」

「はい」

「あの女性を追います。自殺の恐れがあります。」

「了解しました。」

 ホテルを出た歩行者用スロープの、すぐ外側で、ようやく葛城は女性に追いついた。

 腕をつかまれ、植え込みと芝生の間のライトアップ用機器に躓くように女性は地面に膝をつき、それでも葛城から逃れようと抵抗した。

「落ち着いて」

 葛城は相手からナイフを奪い取り、そして相手の腕をつかんだまま、しかし極力穏やかな声で言った。

「離してください・・・・・」

「貴女は、前田武司さんのご友人ですか?」

「・・・・・」

 葛城は女性を助け起こし、優しい目で相手の顔を見つめた。

「・・・失礼しました、私は、大森パトロール社の警護員で、葛城と申します。貴女を捕まえるつもりはありません。安心してください。」

「・・・・・・」

「ですから、訳を聞かせてもらえませんか・・・?」

 女性は改めて葛城の顔を見た。

「私・・・立野美香といいます。」

「はい。」

「・・・私は武司とつきあってました。高校のとき。」

「・・・・」

「この辺鄙な町のこのホテルに、十年ぶりにまた横矢が来るって知ったとき、迷わず決めました。運命だって。」

「殺そうと決めたんですね。それは、横矢氏が、前田さんの事故死の原因をつくった人だからなのですか?」

「そうです。」

 インカムから茂の声が入る。

「葛城さん、クライアントは無事にお部屋に送り届けましたが、今日の警護はこれで終わりにしてほしいとのことです。騒ぎを知ってホテルの警備員も来ましたが、クライアントが対応は断っておられます。どうしましょうか。」

「・・・茂さん、クライアントに警護終了の理由をお聞きしてください。」

「わかりました。」

 茂に指示を出すと、葛城は再び目の前の女性へ注意を戻した。

「立野さん、どうして、そうお思いになったんですか?」

「・・・みんな、知っていることなんです。」

「・・・・・」

「あの日、部屋でお酒を飲んで酔ってふざけて・・・・バルコニーから武司を横矢たちが突き落した。」

「・・・・・・」

「いえ、落とす気はなかったんでしょうけど、無理やり体をバルコニーの外側まで押し出して、柵につかまらせた。十階の部屋で、ですよ!酔っているのに・・・!」

「・・・そうなんですか」

「思ったより早く力尽きたって・・・・。落ちたとき、誰も下に助けに行きさえもしなかった。皆、自分の部屋へ逃げて帰ったって。同じ部屋だった横矢も、どこかに逃げてしまった。」

「・・・・・」

「学校側もろくな調査をしなかった。武司のご両親が、それからずっとずっと、関係した生徒たちに話を聞き続けた。最初は皆何も言わなかったけど、でも、だんだんに真実って明らかになってくるものです。真実はもう、ほぼ明らか。でも・・・・証拠がない・・・・・。」

 立野は声を殺して涙を流した。

「それで、貴女が・・・・?」

「十年目の今こそ、このホテルで殺せ。武司が私に命じているんだと、確信したんです。」

「そして貴女はその後で、武司さんのところへ行こうとしたのですね。・・・・それが、本当に彼の望みなのだと、思われますか?本当に・・・・?立野さん。」

 立野は真っ赤に腫れた目で葛城を見て、長い間黙っていた。

 やがて、噛んでいた唇を開き、小さく、言った。

「ボディガードさん・・・止めてくれてありがとう・・・・・・。」

「・・・・・・」

「こんなことで犯罪者になってしかも死んだら、武司に怒られますよね・・・・」

「そうですよ」

「私・・・・この町で、最近仕事に就いたんです。武司が夢見ていた、大学の研究室の仕事・・・・・」

「はい」

「・・・私・・・・生きます・・・・・」

「はい」

「ありがとう、警護員さん。」

 葛城はタクシーを拾い、立野を乗せた。

 タクシーが走り去ると、さっき立野から奪い茂みと芝生の間に投げたナイフを、拾い上げた。

 しばらくその光る歯を見つめていた葛城の、表情が変わった。

 葛城はインカムから茂へ呼びかけた。

「茂さん、クライアントはやはり警護は?」

「はい。今日はありがとうとのことで、どうしてもと。明日は予定時刻に部屋へお迎えに上がるようにとおっしゃっていました。」

「・・・・茂さん」

「はい」

「今、自室ですか?」

「はい」

「これから私はもう一度クライアントの部屋へ行きます。すみませんが、周回警護をお願いできますか。」

「了解しました。今戻ったばかりですので、すぐ上がっていきます。一分で着きます。・・・・・・・えっ!」

「どうしました?」

「ドアが・・・・開きません」

「!」

 葛城は振り返りクライアントの部屋の窓を見上げた。明りが消えていた。数秒間バルコニーを見ていた葛城の、顔色がみるみる変わった。

「すぐにホテルスタッフに連絡して、開けてもらってください。ドアが開いたら連絡を。次の指示を出します」

「はい!」

 葛城はそのままロビーからエレベーターに乗り、最上階で降りると、頭に入っているルートマップ通り屋上へ上がる階段室へ入り、そして最後の扉の鍵は小型電動ドリルで破壊した。


 部屋の鍵とドアチェーンを簡単に破壊して入ってきた、長髪のベルボーイ姿の若い刺客は、その異国的な顔に似合う茶色の目を細め、美しい銀色の凶器をまっすぐにターゲットへ向けた。

「バルコニーへ、出てください。横矢さん。」

「・・・・・・」

「せっかくプロのボディガードが、あなたのお部屋を見張ってくれる予定だったのに、警護を断っておしまいになりましたね。なぜですか?」

「・・・それは・・・・・・」

「もう襲撃が終わったから?それもありましょうけれど。」

「・・・・・・」

「おおごとにしたくなかったんでしょう?まかり間違ってマスコミ沙汰になったりしたら、さらに困る。」

「・・・・・・・・」

「それは我々も同じです。利害が一致して、助かります。」

 深山が一歩ターゲットへ近づき、横矢はその分後ずさりをした。

「あなたが助けなかったお友達が、幽霊になっていまあなたに会いたがっておられるようです。」

「・・・・・・」

「このホテルの。このバルコニーで。お詫びをされたほうがよいと思います。その間、お待ちしていますからね。」


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