第十二章 巴里陥落
第十二章 巴里陥落
東京 一九四〇年(昭和十五年)六月〜十一月
六月十四日、パリが陥落した。
黒瀬は外務省の机で電報を受け取った。七時間前にドイツ軍が市内に入った、とあった。フランスは戦っていなかった。抵抗の跡がなかった。ただ、退いた。
地図を出した。
ヨーロッパの色が変わっていく。ドイツが中央にいる。フランスが消えた。英国が、島に残っている。オランダは五月に降伏していた。ベルギーも。デンマークも。ノルウェーも。
指で地図の端をなぞった。大西洋を越えて、太平洋に指が届いた。
フィリピン。仏印。蘭印。
インドシナはフランスが持っていた。そのフランスが消えた。インドネシアはオランダが持っていた。そのオランダが降伏した。フィリピンはアメリカが持っている。しかしそのアメリカは、大西洋を見ている。英国を支えることで頭がいっぱいだ。
太平洋に、誰もいなくなった。
余白が、一夜で広がった。
窓の外に六月の東京があった。雨だった。梅雨の雨は重く、音がした。
*
石射が来たのは昼過ぎだった。
「読みましたか」
「読みました」と黒瀬は言った。「地図も出しました」
石射は椅子に座った。
「陸軍が動きます。今日明日には」
「分かっています」
「南か、北か」と石射は言った。「どちらだと思いますか」
「南です」と黒瀬は言った。「北はソ連がいる。独ソ不可侵が生きている間、陸軍は北に動けない。南は今、空っぽに見える」
石射は窓を見た。雨が続いていた。
「空っぽでは、ない」
「はい」と黒瀬は言った。「アメリカがいます。見えにくいだけです」
「あなたは、どう動きますか」
「陸軍が動くのを止めることはできない。しかし、動いた後の形を設計することはできます」
*
七月、近衛内閣が成立した。二度目だった。
黒瀬の言葉を演説した男が、別の状況で戻ってきた。今度は新体制、という言葉を掲げていた。頷く男が、掲げる男になっていた。掲げた言葉が誰の抽斗から来たのかは、今度も書かれなかった。
外務大臣の椅子には、松岡洋右が座った。
就任の挨拶の列で、黒瀬は七年ぶりに間近で松岡を見た。
「久しいな」と松岡は言った。
「はい」と黒瀬は言った。
それだけだった。松岡の目が一瞬、黒瀬の顔の上で何かを数えるように動いた。帳簿の目だった。ジュネーブの夜の話を、どちらもしなかった。しないことが、二人の間の唯一の約束のようなものだった。
同じ七月、欧州から一通の公電が回ってきた。
リトアニア、カウナス。領事代理が、避難民に通過査証を発給し続けている。一日に数百件。行き先の欄には、日本経由——樺太。
黒瀬は公電を二度読んだ。
会ったことのない領事代理だった。訓令を待たずに動く判子が、バルトの小さな町にあった。リヒターの判子と、同じ速度の判子だった。判子の速度が、そのまま人数になる——五年前に自分が書いた手順の先で、知らない手が動いていた。
公電の末尾に、小さく名前があった。杉原千畝。黒瀬はその名前を、頭の抽斗に入れた。
*
九月の初め、田中が外務省に来た。
少将に進んでいた。制服が変わっていた。歩き方は変わらず、肩が少し落ちていた。七年の重さが、体に入っていた。
「北部仏印に兵を入れる」と田中は言った。「外務省に、通知しに来た」
「反対します」と黒瀬は言った。「記録のために」
「記録など」
「記録がなければ、何もなかったことになる。あなたも、同じはずです」
田中は黒瀬を見た。しばらく、何も言わなかった。
「黒瀬。お前は、何のために動いている」
「日本のためです」と黒瀬は言った。「あなたと同じです。方法が違うだけです」
田中は出ていった。廊下で足音が遠くなった。
止めることはできない。しかし使える。ワシントンは撤退を求める。撤退は交渉の材料になる。設計図の一部になる。
九月、北部仏印に日本軍が入った。ワシントンが動いた。鉄の対日輸出が止まった。石油は、まだだった。
しかし黒瀬には分かった。次が来る。石油が止まれば、日本に残された時間は決まる。
*
同じ九月、田中が今度は文書を持ってきた。
日独伊三国同盟。
「これに署名すれば」と黒瀬は言った。「アメリカは日本を枢軸国と見なす。太平洋での交渉の可能性が消えます」
「交渉などしなくていい」と田中は言った。「英国が倒れれば、アメリカは引く。その時は、南の資源を確保する」
「英国は倒れません。ドイツの空軍は海峡の上で止まっている」
「時間の問題だ」
「海軍に聞いてください。アメリカと戦えるかどうか」
「海軍はやれると言っている」
「やれると言うことと、やって勝てると言うことは別です」
部屋に沈黙が来た。石射が入ってきた。海軍の担当者も来た。二時間の議論の末、「時期を見る」に落ちた。陸軍は納得していなかった。しかし、海軍が動かなかった。
そしてもう一つ、動かないものがあった。
外務大臣室で、松岡は文書を一瞥して言った、と石射が後で伝えた。
「私は、連盟に残った男だ。教科書の一行はもう買ってある。枢軸に入った外相として買い直す気は、ない」
帳簿の男の算盤は、七年経っても同じ玉で弾かれていた。ジュネーブで教科書の一行を買った男にとって、三国同盟はその一行を消しゴムで消す契約だった。署名しない理由としてこれほど固いものはなかった。
九月二十七日、ベルリンでドイツとイタリアが二国同盟を結んだ。
日本は入らなかった。
「今回は止めました」とその夜石射は言った。「しかし、次は」
「次が来る前に動きます」と黒瀬は言った。「ワシントンとの接触を始めます」
石射はしばらく黒瀬を見た。
「七年、かかりましたね」
「七年かかりました」と黒瀬は言った。「しかし今夜、始めます」
*
十月十二日、大政翼賛会が発足した。
政党が全部、自分から店を畳んで、一つの会に入った。
外相官邸で、松岡は朝刊を長く読んだ。
政党解消。六年前の冬、講堂で自分が言った言葉だった。あの時は、若手将校の会と、拍手と、孤立が返ってきた。同じ言葉が、いま近衛の名前で記事になっていた。
六年遅れの配当だった。しかしそこに自分の名前はなかった。
借りていきますよ、とも、返しますよ、とも言わない男の下で、松岡は外務大臣をしていた。
新聞を畳んで、松岡は執務に戻った。
*
十月の初め、グルー大使との最初の会合があった。
赤坂の料亭だった。仲介は外務省の外にいる人間で、幣原と近衛が動いていた。名前を記録しない種類の会合だった。
ジョセフ・グルーは五十五歳。駐日アメリカ特命全権大使。一九三二年から日本にいて、日本語を話した。日本の陶器を集め、日本の庭を好んだ。駐日大使の中で例外的に、日本を知っている人間だった。
「あなたの名前は、聞いていました」とグルーは日本語で言った。「日本の連盟脱退を、阻止した」
「過分な評価です」
「いいえ」とグルーは言った。「ワシントンは樺太を見ています。あの構想がどこから来たのか、気になっていました」
「一九三三年に書いた設計図があります」と黒瀬は言った。「まだ、完成していない」
「どういう設計図ですか」
「太平洋を、戦場ではなく秩序の場にする設計図です」
グルーは少し間を置いた。
「ワシントンにも、それを聞きたい人間がいます。しかし、今の日本の動きを見ていると——」
「信じる必要はありません」と黒瀬は言った。「聞いていただければ、十分です」
グルーは黒瀬を見た。値踏みではなかった。重さを確かめていた。
「仏印進駐。あれは、何ですか」
「間違いです。しかし、交渉の材料にできます。撤退を条件にできます」
「それは、あなた個人の見解ですか」
「今は、個人の見解です」と黒瀬は言った。「しかし今夜、私はあなたとここにいる。それも、誰かの見解の結果です」
グルーは少し笑った。乾いた笑い方だった。
「続けましょう」
二人は三時間話した。通訳なしだった。どこかで三味線の音がした。秋の虫の声がした。同じ夜の、別の音だった。
別れ際、グルーは一度だけ、言葉を選んだ。
「一つだけ、言っておきます。大統領は——」短い間があった。「大統領は、あなたの構想をハワイの話として聞かないかもしれない。血の話として、聞くかもしれない」
「血の話、とは」
「いつか、自分で確かめてください」
最後の一言だけ、英語だった。日本語から切り替わったことが、答えの一部だった。
その夜、宿舎で、黒瀬は遅くまで起きていた。三つの言語が、三時間の会話を三通りに再生し続けた。騒がしい夜だった。
抽斗は、開けなかった。小瓶には、触らなかった。
騒ぐ言語を、今夜は仕事に使った。朝まで、設計図を直した。
*
十一月になった。
独伊の同盟は日本なしで動き、ワシントンは日本の不参加を確認した。グルーからの連絡が増えた。
石射が部屋に来た。
「田中少将が異動になりました。参謀本部です」
「上がった、ということですか」
「上がりました」と石射は言った。「東條の近くへ」
黒瀬は窓の外を見た。十一月の東京は乾いて、銀杏が黄色くなっていた。
「田中の後ろには、最初からいました」と石射は言った。「見えていなかっただけです」
「これからは、もっと見えてくる。それでいい。見える敵の方が、設計しやすい」
石射は頷いた。
「グルーとは、どうですか」
「手応えがあります。ワシントンに橋を渡してくれる人間です。渡った先に何があるかは、まだ分からない。しかし、橋はある」
石射は立ち上がった。
「急ぎましょう。時間がある時とない時の違いが、一年後には逆転するかもしれない」
「はい」
石射が出ていった。
黒瀬は机の上の地図を見た。太平洋の地図だった。六月に出して、そのまま机に残っていた。
フィリピン。ハワイ。アメリカ本土。
線を引くとすれば、どこに引くか。
線ではなく、余白を作る。余白に、秩序を置く。秩序の名前は、まだない。
窓の外で、銀杏の葉が一枚、風に落ちた。
火・木・土曜 朝6時更新。(全20話/11月12日完結予定)
n o + e 記事 【史実と小説の間】架空歴史小説「太平洋の夢」制作ノート
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