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第一話『Devils Cut』

 二日酔いにとって、一番鬱陶しいのは、光と、音だ。


 光が目に飛び込んでくる度に、光合成すらも否定したい気持ちにもなるし、遠くで聞こえる工事の音すら地殻変動しているかのように思える。勿論それらが二日酔いのせいだと分からない程耄碌はしていないつもりだが、それでもやはり鬱陶しい事には変わりない。何度繰り返しても、酒という物は悪魔の飲み物だ。いっそ飲むだけ飲んだ分の、この苦しみをお裾分けしたい。ウイスキーの酒樽に残るらしい悪魔の取り分とやらに、俺のこの苦しみも足してやりたいくらいだった。


 吐ける程飲んでいるなら、吐けばいいだけなのだが、こうも酒に強くなると、多少の酒では吐くに吐けず、身体の中をグルグルとアルコールが循環している事だけが分かる。

 俺は自宅兼事務所のソファに横になりながら、少しだけ開いていたカーテンに手を伸ばして、閉じる。

「あー……しかし何度やっても、辞めらんねえや」

 後悔も含めて、二日酔い。


 しかし、俺は二日酔いも含めて、生きている。


 深酒など、飲みたくて飲むものかと思う。

 ただ、俺の仕事のように、人の悪意を見続ける為には、曇った瞳が必要な時だってあるのだ。

 そんな、人間には本来必要も無さそうな瞳で物事を見る事で、やっと悪意を持つ人間や、隠し事をしている人間と同じステージで物を考える事が出来る事もある。


 事実それをする事に長けてしまっていたからこそ、俺は無理に、この瞳という曇ったレンズで視界を歪ませながら世界を見ていた。

 ただ、それが人間にとってどれほどの負担になるかという事もまた理解はしていた。

「だけれどまぁ……答えがあるだけマシ、なんだよなぁ」

 沢山の『いつか』を思い出す。正しかった事もあるし、間違っていた事もあった。それらを思い出すのは、決まって酒が冷めつつある時だ。二日酔いの苦しみのピークを超えて、思考に余裕が出来た時に、記憶達は牙を剥く。


 だから俺は酒という必要なノイズで曇った瞳を洗い、消えない記憶を曇らせる。歪んだ世界は、実際に歪めてしまってはじめて、プラマイゼロ……とは言えないが、多少の相殺を得るのだ。

 決してそれらは綺麗にもならないし、忘れる事も出来ないが、アルコールというノイズは、心を無理やり消毒しているような気分を手に入れる為には、もってこいのものだった。


 このまま一眠りでもすれば、いつまで経っても襲ってくる記憶や、人間の悪意を思い出してしまう頃合いも終わる。儀式的に、理解しているのだ。要はそのうち、アルコールと一緒に一時的に排出していく。そうして俺はまたそのうちに、深酒をするのだ。そういう繰り返しで、俺は生きている。逆に言えば生きる為にそういう繰り返しをしていると言っても良い。


 探偵は、人の悪意を見る仕事だ。


 成りたくてなったわけじゃない。慣れてしまったから、成れてしまっただけの事。

「あぁ、くだらん、くだらんなぁ」

 こういう時に繰り返される思考に、意味があるとは思えない。それでも考えてしまう。それが人間だ。

 だから、俺みたいな人間も、探偵なんていう仕事に有りつける。


 光は、遮断した。瞳は静かに洗われていくだろう。

 だけれど、光を遮るより、音の方が問題だ。事務所の固定電話が鳴るのを無視するわけにはいかない。

 リングリングリングリングと、音が質量を持って頭に叩きつけられる感覚を覚えてしまうくらいに、電話の着信音は切れない円で繋がって俺の耳を叩き続ける。ついでに頭にも音が響いて、痛みが走る。正直、今日は臨時休業日にしようと判断しなかった俺を憎みたくなる。とはいっても、自宅兼事務所である以上、電話だって鳴る時は鳴るのだけれど。気持ちの問題だ。

 

「……よし、今日は臨時休業だな」

 そう決めても、電話を取らなければ音は止まない。俺は気に入っている黒字の固定電話を、今だけは少し忌々しい気持ちで目で追いつつ、受話器を取った。

「……」

 言葉がどうも思いつかない。臨時休業ですと言えばいいだけではあるが、二日酔いのせいか思考が分かれてすぐに言葉になってくれなかった。


『何の用事』だと言うのは流石に躊躇われる。

『二日酔いの時に電話して来るんじゃねぇ』というのも、流石に倫理感が壊れている。

 鳴る電話がある以上、取って対応するしか無いのは分かっていたが、こちらから定型文で投げ返すには、どうも体調から考えて気が引けた。


 頭の中では数分経ったように思えるが、実際はほんの数秒しか経っていない。しかしその数秒も待てずに、俺の耳に飛び込んできた声は、トーンも声量も制御出来ていない女性の声だった。

「すいません! 矢倉探偵事務所の矢倉(やぐら)響一(きょういち)さんですよね?!」

 ガチャン、と受話器を置いて電話を切る。

 リングリング……の締め句は大声だったというわけだ。


 寝直そう――そう思って俺が受話器を置いた数秒後、もう一度受話器が鳴る。

「矢倉さんですよね?! お願いガッ」

 ッチャンと電話を切る。裏返った声のバリエーションもあるのだなぁと思った時にはもう受話器を置いていた。

 この場所が探偵事務所だと知った上で、俺の苗字だけならず、名前まで知っている。その上でこんな勢いで電話をかけてくるような女性の知り合いはいない。ということはつまり、何らかの面倒事を持ってきた顧客だろうという事は明白だった。

「ごめんなお嬢さん、日が合わなかったと思ってくれ」

 俺は一人呟いて、受話器を元に戻さず、締まりきったカーテンをもう一度横に引っ張り直して、ソファに沈んで目を瞑った。


 受話器を元に戻さなかったから、要は通話中になっている。俺は安眠、彼女については申し訳ないが、日を改めて、縁があったら話を聞く事にしよう。


――ただし、来客用のチャイムは、対応しなければ終わらない。


 光を遮断して、音を止めても、どうにもこの、しつこい状況は俺を付きまとってくるようで、来客用のチャイムが鳴らされ続けるのを確認して、俺は沈んだばかりのソファから立ち上がり、玄関先へと転ばないように歩く。

 二日酔いなのは仕方ないにせよ、二日酔いになる自分を理解しているからこそ、俺は事務所に雑多な書類を撒き散らさないし、たかだか数メートルであろうと壁に手をついて歩く。

「どちら様ですかね?」

 とはいえ、どちら様であっても、本日休業だという事には代わりはない。

 さっさと俺をソファに戻して欲しい。チャイムに見えるような配線があったらハサミを用意していた所だ。

「突然の訪問、失礼します。無幌(むほろ)市警・捜査一課の樽山(たるやま)と申します。矢倉響一さんはいらっしゃいますか?」

 警察様が、しかも捜査一課の刑事様が直々にこんな探偵事務所を訪ねて来るなんて事は、そうあったもんじゃないどころか、二度とあってほしくない。

 しかし俺が法に触れたという記憶も勿論ない。酒なんぞは一人で飲むに限るから、誰に迷惑をかけたつもりもない。結果として仕事上での取り次ぎは先程拒否したばかりだが、俺じゃなく別の探偵に頼ってくれたなら済む話だろう。

 

 とはいっても、どういう理由であれ、警察が来てしまったなら仕方がない。俺は溜め息混じりに今日の休業を取り消さざるをえない事を確信した。まずは話を聞くしかない。俺はだらしない格好であるという事を理解しつつ。観念して扉を開けた。

「はいはい、いらっしゃいますよ……いらっしゃいますとも」

 

 樽山刑事は、どうやら俺に込み入った話があると切り口で話を始めた。

 つまりは、刑事という身分であっても、俺の顧客としてドアを叩いたという事だ。

「……という事で、矢倉さんには現場に来て頂いて」

 大体の理由を聞いた俺は、仕方ないという理由以外に、行くべき理由を見つけ、現場に赴く事に決める。


「あぁ……まぁ知らない仲じゃなかったから、自分で良ければ行きますよ。アンタ方のお眼鏡に敵うとは、思いませんけどね? 樽山さん?」

 これはおそらく、形式上の事なのだろうと思う。状況を簡単に聞いただけでは判断つけがたいが、おそらくは事故だ。そうしてさっきのけたたましい電話の理由も、繋がったように思えた。

「大変ですね、警察ってのも」

 俺は軽く身なりを整え、気持ち程度に口臭予防のタブレットを齧ってから、外に出る。

 樽山刑事はどうやら、覆面パトカーを使ってまで俺を呼びに来たようだった。

「俺如きを呼ぶのに覆面パトカーとは、大げさですね」

「私達としては、大真面目なのですがね」

 運転席で、ハンドルを握る太い腕が、警察という物の権力を象徴しているように見えた。一方俺のようなひ弱な人間とのギャップを思えば、少し笑ってしまいそうになるほどだ。

 探偵という、警察とは犬猿の仲にも成り得る俺に対して、真っ直ぐとした立ち居振る舞いも、丁寧な口調も、人間として好印象を持った。同時に、その瞳の奥に光のような熱のような、そんな、少なくとも俺が持っていない瞳の色が見えた気がして、言葉に出来ない気持ちを覚えた。

「まぁ、警察ってのはそういうもんですわな」

 彼らには彼らの仕事に必要な物がある。それに言及するのも野暮だし、彼らは彼らとしてやればいいだけの話。どうせ俺に求められているのは彼らとは違う仕事なのだから。


 パトカーの類に乗るのは初めてではなかったが、臭いの無い車というのに乗るのが久々で、何とも気持ちの悪い違和感を覚えた。それはもしかすると、これから見る事になる『現場』を想像したからなのかもしれない。


 刑事に連れられ現場についた俺は、挨拶するよりも先に、小さく深呼吸をする。

 視線が俺に集まっているのも気付いていた。それでも、俺は死の残滓を感じた時に、合掌よりも挨拶よりも何よりも、大事な儀式的なルーティンがあった。


 言ってしまえば、ただの深呼吸だ。


――血の臭いを鼻から吸い込み、酒の臭いを溜めて吐き出す。


 死の気配が残っている場所特有の、独特な――慣れきった臭い。

 その死の気配を作り出しているのは、俺の旧知の同業者であり、探偵のノウハウを教えてくれた天川(あまかわ)鉄二(てつじ)だった。

「話でも聞いたにせよ、呼ばれてきてみりゃ天川のおっさんが仏とはなぁ……」

 何度も通った事務所にある、大きな違和感。


――いつもみたく椅子にふんぞり返ってねえのかよ、おっさん。

 剛胆だけれど荒っぽさは無い彼は、俺としてはとても付き合いやすい人間だった。

 酒を飲んでも裏表がなく、悪酔いをしないあたりが、最高だ。出会いの場所こそ一軒のバーだったが、結局その出会いは俺の人生を変えたのだ。事実として、彼の言葉を聞くうちに俺は探偵という仕事を志す事にしたのだから。

 

 だが、感傷を持つというのは、答えから自ら遠ざかるようなものだ。


 その言葉が、目の前の天川のおっさんの声で頭に響く。

 教えてもらった事は多い。だからこそ、俺は俺の出来る事を、恩師に返すべきなのかもしれない。

 二日酔いを教えてもらった覚えはなくとも、崩れてしまった俺のやり方でも、まだ天川のおっさんは解ってくれるだろうか。そんな事を考えてから、感傷を思考から切り崩す。


 仏さんになった天川のおっさんの顔だけは見えていたが、頭の周りは警察の処置で既に隠されている。しかし視覚的に隠されているとは言え、臭いを隠す事は出来ない。きっと、おっさんの頭周りには、まだ渇ききっていない血が残っているのだろう。

 不思議と、静かな現場だった。家族は見た所、揃っているように思える。奥さんは会ったこともあったし、おそらくはその近くにいるのが、時折おっさんが話していた娘さんだろう。

 おっさんと俺は年の差こそあれど、時折酒をツマミに日々を語り合う仲だった。その中では、奥さんの話も娘さんの話も良く聞いたものだ。

 ということは、だからこそ俺が呼ばれるのは、必然だったという事になる。

 

 同業者として、そうして友人として、警察が掴んでいる事実と照らし合わせるにはもってこいの人間だったというわけか。


 書類が山のように積まれていて、ゴミのように散らばっている探偵事務所に、赤いシミをつけた、同業者が転がっていた。

 ただ、書類の山も見覚えがある。ゴミのように散らばっているのも見覚えがある。

 唯一、死体として倒れている天川のおっさんだけが、見慣れない。


 埃臭くて、煙草臭いと思っていた彼の事務所はもう、戻っては来ないのだろう。

 それに、彼が胸に秘めていた、俺に受け継がせようとしていた誇りも、全て受け継ぐ事は出来なかった。

「転んで死ぬには、おふざけが過ぎるだろうけどよ」

 警察の話を聞く前に、それと何か言いたげな天川の娘さんの話も一旦制して、俺は一人、小さく呟きながら、遺体には触れないように彼の周りの状態を確かめていく。


――死因は転倒による後部打撲。ただ隠されている部分から見て血液量は多くない。

 おそらくは内部出血だろうが、それを確かめるのは警察の役目だろう。

 天川のおっさんはあまり酒飲みじゃないから、俺みたいにふらつくって事も考えにくい。

「ただまぁ……この部屋じゃな」

 彼の部屋は、前にも増して荒れていた。知らない人が入ったなら事務所を荒されたと思っても仕方ない程度には、グシャグシャだ。彼の性格と現状を知っていた人間であれば納得も出来るが、警察あたりはこれを強盗と捉えてもおかしくはない。

 ただ、結局の所、遺族の供述などを照らし合わせたなら、事故と断定されるのが妥当だ。


 俺が彼の友人として出来る事、それは違和感を見つける事なのだろう。

 ただ、部屋の様子自体に違和感は無いし、配置が変わっていても、以前この事務所に来訪した時と今の状態を比べて違いを言い表せる程、俺は物をしっかりと見ていない。

 死亡推定時刻あたりも、警察が今この瞬間作業をしているから、すぐに分かる話だ。俺に分かるのはまだ血が乾かずに臭いが立ち込めているという事だけ。


 ただ、あえて一つ気になるとするなら、天川のおっさんの格好だ。

 彼は普段事務所で上着を着ない。それは事務所の椅子に深く腰をかけている記憶からも、容易に呼び出せる。暑かろうが寒かろうが、エアコンを使う人だったから、尚更だ。

 机の上にも仕事をしていた痕跡が無いことを考えれば、彼は何らかの用事で事務所に来て、事故にあったというのが、俺の考えとしても妥当だ。


 探偵なんて事業を始める時には、随分と色んな事を叩き込んでもらった恩師が、まさか殺される側に回るなんて、少しも思っちゃいなかったが、実際こういう現場を目にすると、俺は随分と冷たく物事を観察してしまうんだなと、自嘲してしまった。


 この事務所に来るまでの道中で樽山刑事の話を聞くに、どうやら今回は天川のおっさんの一人娘が俺を呼んで欲しいと、相当強く要望したらしいとの事。それに加えて、彼と俺との関係が同じ探偵業で顔見知りという事もあってか、しがない探偵の俺を、二日酔いの状態でも引っ張ってきたという事らしい。

「しかし、樽山さん。俺が見た限り、俺の見解もアンタらの見解とは変わりそうも無いが……」

「えぇ……状況証拠を見る限り、他殺の線はほぼ無いと考えています。指紋も無く、争った形跡もない。事故以外は、考えにくいですね……。アルコールも飲んでいた可能性もあります」

 樽山さんは、事務机の引き出しを開けて見せる。

 そこには、数本の小さなウイスキーボトルが横向きに入っていた。

「酒ぇ? 天川のおっさんは一人じゃヤらないタイプだったんだけどな。しかし机にあったからって飲んだとは言えんだろ?」

「いえ、机の書類が少し濡れていました。匂いからしてアルコールで間違いありませんし、ボトルの締め方が緩かったのも確認済みです」


――その言葉に、違和感を覚えた。


 その違和感は、おそらく彼を知っている人にしか気付け無い事だ。だが、彼は元来深酒をするタイプではない。むしろ、俺の深酒を常々注意するような人だったのだ。それに、彼ならわざわざ酒の一つや二つを引き出しに保管するとも思いにくい。机の上に出しっぱなしで、飲みたいなら適当に飲むくらいが、俺の知っている彼の人物像と一致している。

「その引き出し、見させてもらっても?」

 許可を貰った俺は、やや高額なウイスキーボトルが入っている引き出しを、丁寧にチェックしていく。

「なんだよ、良い酒溜め込んでんな」

 引き出しの奥までぎっしり詰め込んであるウイスキーボトルを、一本頂戴したい気分になったが、彼の知られざる一面として処理する以外は無いのかもしれない。

 少なくとも今のところ、コートを着たまま亡くなっているという事と、酒を飲んだ痕跡があるという事だけが、違和感だ。


――強いて言うならば、家族から感じる違和感。

 天川の奥さんは、茫然自失というような状態と、目を押さえる仕草を繰り返している。

 逆に、娘さんは俺を睨みつけて、何か言いたげな表情。


 俺はそれを見かねて、娘さんに声をかける。

「えっと? 何か言いたい事が?」

「じゃなくて! 電話切ったじゃないですか!」

 

――さっき、こんな声を聞いた気がする。

 つまり、俺の睡眠を邪魔した電話音は、彼女からのものだったというわけだ。

「あー……今日は休業予定でね……」

「ならそう言うべきでしょう?! 話も聞かずに切るなんて! しかも二度も!」

 天川のお嬢さんは随分とご立腹のようだが、しかし自分の父が亡くなった現場でこうも怒りを優先しているあたり、彼女はどうもおかしく見える。

「あぁ……後で話は聞かせてもらうから、勘弁してくれ……」

「そうよ日果(ヒカ)、矢倉さんも困っているみたいだし……」

 奥さんがフォローを入れてくれるが、それもどうやらあまり効果が無いようで、日果ちゃんは難しい顔をしたまま事務所の端に居座り、全体をじっと睨みつけていた。

 おそらく、日果ちゃんはこの現状を見て、事故だという事に納得が行っていないのだろう。

 そりゃ、突然実父が亡くなるのだ。事故だって信じたくない気持ちも分からないでもない。ただ、おっさんもそこそこに良い歳だったし、滑って転んで頭を打つなんて事は、あり得る事だ。

 警察の言う通り、アルコールを飲んでいたならば、尚更。移動の時に外の空気も吸って、身体を動かしていなければ、二日酔いだった俺だって今この場で滑って転んでもおかしくはない。


 ただ、疑念があるなら正しく晴らすべきだというのも、俺が天川のおっさんに教わった事だ。

 その結果、誰が泣くとしても、誰が納得出来なかったとしても、正しい答えに導く為に、思考を巡らせろという教えが、今も俺がこの一件を事故と断定付けない理由でもある。



「……ッ! 貴方……!」

 警察が仏さんから離れたタイミングで、耐えきれなかったような声を出して、奥さんが仏さんの身体を揺さぶる。俺が止めるよりも先に、警察が止めに入っていた。日果ちゃんに目を向けると、それすらも冷たい視線で見ている。


――この子は、何を見ている?


 まるで、俺が曇った瞳だと称するような物の見方をしているような、そんな気がする。

 悲しみより、苦しみより、感傷より、彼女は事実を追いかけているのかもしれない。そう思った時に、俺の頭に彼女と天川のおっさんが重なった。

 彼が俺に伝えようとしていた言葉の一つ一つが形になって、今彼女を構成している。そんな感覚。


「そうか、娘、だもんな」

 思わず、俺は呟いていた。それは俺の中で未だに消しきれない感傷なのだろう。

 歳の頃は二十歳と聞いていただろうか。確かおっさんが成人式の話をしていた記憶があるから、そのくらいのはずだ。ただ、名前を覚える程ではなかった。

 だけれど、今その名前が、天川(あまかわ)日果(ひか)という名前が天川鉄二の上に重なった。

 だから、きっともう彼女の名前を忘れる事はない。紛れもない、彼女は天川のおっさんの忘れ形見だ。


 そんな感傷を振り切って首を振っていると、日果ちゃんと目が合い、気まずさから俺は目を逸らす。

 

 その視線の先では、未だに警察に揺さぶられながらも、仏さんを揺さぶる奥さんの姿があった。

 気持ちは分かるが、それでもやっちゃいけない事はやっちゃいけない事。だが、奥さんはやけに聞き分けなく、仏さんの身体を揺さぶり続けていた。


 書類のベッドの上で眠りにつくというのは、どんな気持ちだろうかと考える。

 死んでも仕事をさせているみたいで、さっさと移動させてやってほしいという気持ちが強い。

 仏さんが眠っている書類のベッドが、警察に止められてからも、カサカサと揺れている。


「ちょっと奥さん! 気持ちは分かりますがね……指紋採取が終わっていたにせよ。まだ事件性があるなら、問題になりますから……」

 警察も大変だ、と思いながら、俺はせめてもの助け舟を出す。

「奥さん、お話を聞かせてもらってもいいですか? 警察の方と、聞く事は大差無いでしょうけれど、俺もこの場所に呼ばれた以上は、やる事をしなきゃいけないんで」


 青ざめた顔のままの仏さんを揺さぶっていた奥さんが、青い顔をして俺を見る。

 警察に止められ、力なくその手が、書類の上を滑っていた。


 俺の言葉を聞いて、やっと彼女はその場から立ち上がり、フラリフラリと、こちらへ寄ってくる。

 目の焦点は、合っていない。憔悴しているのは状況から考えて当然の事だ。

「こちらへ、どうぞ……」

 フラフラとした足取りとは裏腹に、彼女は別室のドアを開けて、俺をその中へと招き入れる。

 別室で二人きりになってからも、どうやら奥さんについては、娘の日果ちゃんよりもショックが大きそうに見えて、時折言葉では説明つかないような動作や表情が見えた。


 話自体は、そう難しい事ではなかった。

 ただ、最近、夫婦仲はあまり良くなかった事を素直に話したのは意外だった。


 俺自身、その話は天川のおっさんから聞いていて、知っていたからだ。

 それを隠したのならば、奥さんに何かやましい事があったと考える事も出来たのだが、それでもこれだけ取り乱しているのを見れば、夫婦仲が悪かろうと、生涯の伴侶に先立たれる事の方が辛いというのは、納得出来る。

「……大変でしたね」

「ええ……とても」

 俺の何気ない言葉に、彼女も何気なく答える。当たり前の会話。

 誘導尋問をしたつもりはなかった、ただあまりにもすんなりと答える彼女が、俺に小さな違和感の種を残した。

 俺は『大変でしたね』と言ったのだ。それは、過去をさした時間の概念だ。


――この会話は、噛み合っていない気がする。

 逆に言えば、即座に噛み合いすぎた事自体が問題なのだ。

 俺は現状の、天川鉄二の死について『大変でしたね』と彼女を気遣う言葉を出した。

 だけれど、彼女はその俺の気遣いに対して、何の躊躇も無く、反射のように『ええ……とても』と返したのだ。


 その理由こそ分からない。だけれど、俺と奥さんの会話は何処かズレている。

 その違和感を払拭する為、もしくは確実にする為、俺は言葉を選ぶ。しかし奥さんは泣き崩れてしまい、そこからはまともに会話が出来なくなってしまった。


 結局の所、緊張や極限状況を強く意識して観測しているせいで違和感をそれを捉えてしまったのか。それとも本当に何かしらのヒントがあったのかは、分からずじまい。状況としての話も、夫婦仲が悪かったという事を伝えられた上で、涙を流されたなら、これ以上は遺族として踏み込みすぎだと、そう思った。


 別室から出ると、奥さんはハンカチで目頭を強く拭っていたようで、赤い目をしていた。

 その目を一瞬睨みつけてから、日果ちゃんが俺の前に立ちはだかる。実の母の事は一つも気にかけていないように、ただ、俺だけを見据えて立っていた。

「矢倉さん――矢倉響一さん。お話を、聞いてもらってもいいですか?」


 その声は、奥さんのように震えているわけでもない。

 その瞳は、俺のように曇っているわけでもない。


 真っ直ぐと、信念を持っているかのように、事務所の淀んだ空気を崩そうと言わんばかりの声。

 そうして、俺が曇った眼で違和感を覗くのならば、逆に見開いた太陽のような眼で、何もかもを裸にしてしまおうとするような、力強い視線。

「あぁ、天川日果。話をしようか」


 彼女のその立ち居振る舞いは、亡くなった一人の探偵の魂が、乗り移っているかのように見えた。

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