エピローグ 交際一年後――「婿入り」という名の最難関
交際を始めて一年。
この一年で一番変わったのは、レティシアが「正論から逃げない」ことを覚えた点――ではなく、逃げない代わりに「正論を使う側」になってきた点だった。
学園の中で、誰かが誰かを雑に扱う空気が生まれれば、彼女は以前のように扇で黙殺しない。淡々と近づき、声量を落とし、秩序の言葉で止める。やるべき時にやる。必要がある時に動く。
それが“公爵令嬢としての責務”だと言い切れるようになった。
そして、その責務を身につけた彼女が、今もっとも不機嫌だった。
理由は簡単で――公爵家の応接間に、男爵家の当主夫妻が座っているからだ。
もちろん、ただ座っているだけなら問題はない。問題は、その座り方に「現実」が滲み出ていることだった。背筋はまっすぐ。言葉遣いも丁寧。だが、手元の帽子を握る指先に力が入り、視線の置き場が微妙に揺れる。
場慣れしていない。緊張している。
それは、公爵家に呼ばれる立場として当然だ。けれど同時に、レティシアにとっては苛立ちの種になる。
自分が選んだ相手の家が、格の差で小さくなる光景など見たくない。
レティシアはソファに座り、背中を反らせることなく、姿勢だけで圧を作らずに場を保った。学園で学んだ“影響”の扱い方は、こういう時こそ生きる。
向かい側には、父――公爵が座っている。温度のない視線。責務の視線。家の格の視線。
その横に、アランが立っていた。いつもの少しモサモサした髪は、今日は整えられている。似合っていないわけではない。ただ、本人が慣れていないのが見て取れる。細身の体は相変わらずだが、近くにいると分かる程度には筋肉がついている。必要な分だけを、必要な形で。
彼はこの一年で、彼女が変わっていく様子を見逃さなかった。叱る時は叱り、褒める時は短く褒めた。だからレティシアも変わった。
変わったのに――今は、腹の底が熱い。
「本日はご足労いただき、恐れ入る」
公爵が静かに言った。礼儀としては完璧で、だからこそ距離がある。相手を迎え入れる声ではなく、相手を計量する声だ。
男爵当主が喉を鳴らし、深く頭を下げた。
「お招きいただき、光栄に存じます。わが家としても、身に余る……」
言葉が一瞬だけ詰まる。“身に余る”という単語は、丁寧でありながら、自分たちの立ち位置を自分たちで小さくする言葉でもある。
レティシアは扇を開きかけて、やめた。ここで扇を使えば、また“公爵令嬢の圧”が空気を固める。固めてはならない。固めるべきは、交渉の骨格だけだ。
その時、アランが一歩だけ前に出た。
声量は低い。けれど、場に届く。
「父上。まず前提を整理させてください」
公爵がわずかに視線を動かす。“父上”という呼び方はまだ成立していない。その言葉を今ここで使うのは、半歩早い。半歩早いからこそ、牽制になる。
公爵は何も言わない。許可でも拒否でもない沈黙で続きを促す。
アランは淡々と続けた。
「私は男爵家の次男です。家督を継ぐ立場ではありません。従って、婿入りによって男爵家の継承に穴が開くことはない」
男爵当主夫妻が息を吐いた。そこは、彼らにとって最大の不安点だったのだろう。次男であることが、ここでは武器になる。必要な事実を、必要な順序で提示する。いつものやり方だ。
公爵の視線が冷たいまま、問いが落ちる。
「それは男爵家に都合が良い。では、公爵家にとっての都合は」
格の問題が、ようやく言語化された。
婿入り。つまり、レティシアが家を継ぐ側に立つ。公爵家の名と権限を、男爵家の男に預ける。貴族社会の常識としては、躊躇が生まれる。とりわけ“新興男爵家”というラベルがつくなら、なおさらだ。
レティシアは息を吸い、口を開こうとした。だが、アランが先に答えた。
「都合ではなく、義務として整理できます。公爵家の継承を最優先に置く。私の姓は公爵姓に改める。公爵家の慣習、対外関係、政治的義務を学び、実務を担う」
公爵の眉がわずかに動く。“学ぶ”という単語は、彼女を一年で変えた男の単語だ。そこに空疎さがない。
だが公爵は、核心を外さない。
「格はどうする」
アランは即答しなかった。ここは理屈ではなく、貴族社会の肌感覚の領域だ。学園の正論だけでは切り分けられない。
レティシアは、そこで口を挟んだ。
声量は低い。だが、逃げない声。
「格は、私が上げるわ」
応接間の空気が一瞬止まる。男爵当主夫妻が驚き、侍女の呼吸が止まり、公爵の目だけが細くなる。
レティシアは続けた。感情をぶつけない。順序を守る。言葉で整える。
「公爵家の格を落とさない。落とさないための手続きを、私がやる。私の名で招く。私の名で紹介する。私の名で、彼を“公爵家の人間”として立たせる」
それはつまり、彼女が“圧”を正しく使うという宣言だった。
昔の彼女なら、圧は他者を黙らせるための武器だった。今の彼女は、圧を秩序として使う。外に向けて家を守り、内に向けて人を守る。
公爵は静かに言った。
「男爵家にとっては、出来すぎた話だな」
男爵当主が身じろぎした。否定したいのに否定できない。“ありえないほど良い話”という現実に、誠実な人間ほど狼狽える。
だが、アランがそこで淡々と補足した。
「男爵家に利益があるのは事実です。公爵家との縁は信用になる。事業でも融資でも、評価が変わる。けれど――だからこそ、釣り合う責務を背負うべきです」
責務。釣り合い。彼は“良い話”を良い話のまま受け取らない。必ず代償を言語化する。
「男爵家は、私が公爵家に入ることで得る信用を、家の実力に変換してください。無理な拡大をしない。慢心しない。迷惑をかけない」
最後の一言に、レティシアの指先がぴくりと動いた。彼はここでも“迷惑”を使う。だから場が整う。
男爵当主が深く頭を下げた。
「……承知いたしました。浮かれてはならないと、肝に銘じます」
公爵の視線が、レティシアに向く。
「お前は、それで良いのか」
問いは短い。だが中身は重い。“恋”ではなく“家”の問いだ。
レティシアは頷いた。
「良い。私は逃げない」
その言葉を言えた自分に、少しだけ驚く。昔なら“当然よ”で押し切った。今は違う。“逃げない”という言葉で、自分の責務を選び取っている。
公爵がもう一つだけ、落とす。
「私情が混じれば、家は崩れる」
レティシアは反射的に言い返しかけた。だが、そこで呼吸を整えた。言い返すのではない。整理する。
「私情は混じる」
正直に言った。男爵当主夫妻が固まる。公爵の目がわずかに細くなる。
レティシアは続けた。
「混じるから、順序を作る。公の場の私と、二人きりの私を分ける。必要な時は私が公爵令嬢で立つ。必要な時は、彼が私を叱って止める」
最後の一文で、公爵の視線がアランに移る。
アランは、間を置かずに言った。
「止めます。必要なら」
公爵が小さく息を吐いた。ため息に近い。だが、否定のため息ではない。状況が読めた時の息だ。
そして、極めて現実的な結論に落ちる。
「なら、条件を付ける。婚約発表は王都の社交期に合わせる。家名の連結は段階を踏む。婿入りの儀礼は、公爵家の形式で行う。男爵家は、それに異議はあるか」
男爵当主夫妻は顔を見合わせ、深く頭を下げた。
「異議はございません。むしろ、ありがたく……」
レティシアは、その“ありがたく”の続きを言わせないために、視線だけで柔らかく止めた。小さくなりすぎるな。あなたたちは、彼の家族だ。自分が選んだ相手の根を、卑下させない。
その瞬間、アランの視線が一瞬だけレティシアに落ちた。
声は出ない。だが、“今のは良かった”と分かる目だった。
レティシアの胸が、ほんの少しだけ甘くなる。
会合が終わり、男爵当主夫妻が退出した後。
応接間の扉が閉まった瞬間、レティシアは息を吐いた。背筋を崩さないまま、肩の力だけが抜ける。
公爵は最後に一言だけ残した。
「格の問題は、結果で黙らせろ」
それは公爵なりの許可だった。秩序の世界で、最後に物を言うのは“結果”だ。
扉が閉まる。
二人きりになった空気が、少しだけ柔らかくなる。けれど、レティシアはすぐに近づかなかった。順序を守る。
言葉を一つ。
「……助けて」
アランが即座に視線を上げる。
「どうしました」
レティシアは唇を噛み、少しだけ素直に言った。
「疲れた。家の話は、胸の奥が冷える」
アランが短く頷き、手を差し出した。レティシアはその手を握った。握るだけで呼吸が整う。彼女はようやく、彼の手が自分の“内側を整える装置”になっていることを認められるようになった。
レティシアは少しだけ身を寄せた。胸を押し付けない。反則の距離にしない。
それでも、彼の耳が赤くなるのが分かる。
「……今の場でそれをするのは、迷惑です」
相変わらずの窘めが落ちる。
レティシアは扇を持ち上げ、口元を隠しながら言った。
「もう二人きりよ」
アランが一拍置き、低い声で返す。
「二人きりでも、順序はあります」
レティシアはむっとした。むっとしたまま、しかし満足している自分に気づいてしまう。結局、彼が崩れないことが安心なのだ。
「分かった。じゃあ、次」
そう言って、抱きついた。短く。整った抱き方で。受け止められる温度だけをもらう。
アランは逃げずに支え、静かに息を吐いた。
「今日のあなたは、よくやりました」
その短い褒め言葉が、今日の何よりの褒美になった。
レティシアは胸の奥で、ようやく笑った。
「じゃあ、婿入りの準備も、あなたが整えなさい」
アランが即答する。
「僕が整えるのは手続きです。あなたは感情を整えてください」
「それが一番難しいのよ」
「知っています」
淡々と言われて、レティシアは腹が立つのに、安心してしまう。
結局この先も同じだ。
格の問題が立ちはだかり、外は噂でざわつき、手続きは面倒で、正論は逃がしてくれない。けれど二人は、その正論と順序で“関係の秩序”を作っていく。
そしてきっと、結婚しても変わらない。
男爵令息――いや、公爵家の婿は今日も、公爵令嬢を叱っている。
甘い恋愛ものを書こう、と思って始めたはずでした。
溺愛で、もっと素直で、もっと分かりやすいラブストーリーになる予定だったのに、気が付けば「叱る」「正論」「順序」「迷惑にならない形」といった単語ばかりが並んでいました。
たぶん私は、恋愛を書く時でも
「感情がどう動くか」より
「その感情をどう扱うか」
の方が気になってしまう人間なんだと思います。
好きだから近づく。
でも、近づき方を間違えたら誰かを傷つける。
守るためには、整える必要がある。
そういうところに話が寄ってしまうので、
結果として“素直なラブストーリー”にはならず、
少し理屈っぽい、でも逃げない恋の形になりました。
それでも、自分の中ではこれはちゃんと「甘い恋」です。
叱られて、困らせて、受け止められて、逃げられなくなっていく。
その全部が、二人にとっての愛情の形だと思っています。
甘さの出し方が、少し不器用なだけなのかもしれません。




