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『高慢公爵令嬢は、男爵令息の正論から逃げられない』 ――男爵令息は今日も公爵令嬢を叱っている  作者: 月白ふゆ


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第5話 逃げられない関係の合意

翌朝、レティシアは“守るべき順序”を胸の中で三回唱えてから馬車を降りた。


助けて、と言う。

手を出す。

最後に――二人きりになってから。


昨夜、何度もそれを反芻してしまったのが腹立たしい。公爵令嬢が、男爵令息の言葉を反芻する。しかも、その反芻が妙に心を落ち着かせてしまう。もっと腹が立つ。


正門前の空気は、今日も相変わらず騒がしい。だが騒がしさの中に、別の混じりものがあった。


視線が刺さる。囁き声が刺さる。


「昨日、見た?」

「公爵令嬢が、男爵令息と……」

「手を……」


レティシアは扇を開き、口元を隠した。隠すのは負けだと分かっているのに、今日は“防御”が必要だった。自分の表情を守るためではない。周囲の空気を守るためだ。自分が顔を赤くした瞬間、それが噂の燃料になる。


取り巻きたちが、いつも以上に苛立っているのが分かる。彼女たちの苛立ちは、レティシアの苛立ちを代弁してくれる時もある。だが今は、それが迷惑に変わりやすい。


「騒がないで」


一言で制す。声量は抑える。アランに教えられた通りに。


それでも囁きは止まらない。止められない。止めようとすると、こちらが必死になる。


レティシアは胸の奥に小さな針を刺されたまま、講義棟へ向かった。


廊下の分岐で、視界の端にアランが見えた。


昨日と同じ、少しモサモサした髪。細身の体に余計な力は入っていないのに、歩く姿勢がまっすぐだ。周囲に気を配る癖は変わらない。誰かが落とした紙片を拾い、手渡し、礼を言われる前に歩幅を戻す。


誰にでも同じ。


そう思って胸がきしむ自分を、今日は否定しなかった。


否定しない代わりに、順序を守る。


レティシアは歩幅を崩さず、彼の横をすれ違う瞬間だけ視線を合わせた。挨拶も、声もない。ただ目だけで「いる」と示す。


アランの眉が僅かに動く。理解の合図だ。追って来る気配はない。追ってこないのに、逃げもしない。


それだけで、胸の奥の針が少しだけ緩んだ。




午前の講義を終えた頃、噂は噂で済まなくなっていた。


学生会の掲示が追加され、昼休みに「規律と学園秩序」に関する注意喚起が出たのだ。名指しはない。だが誰もが察する。誰が原因で、誰が話題なのか。


レティシアは掲示の前で足を止めた。取り巻きが背後で息を呑む。


そこには「身分に関わらず、学園内の公共空間での過度な接触を慎むこと」と、丁寧な文言が並んでいた。恋愛を禁ずるわけではない。だが“過度”という曖昧な言葉で、空気を縛っている。


レティシアは扇を閉じ、掲示を読み切った。


腹が立つ。自分が注意されたように見えることが腹立つ。だがそれ以上に、アランまで同列に扱われることが腹立つ。


彼は何も悪くない。昨日だって、受け止めたのは自分が勝手に押し付けたからだ。手を繋いだのも自分が頼んだ。順序を守れと言われたのに、守れなかったのは自分だ。


腹が立つ。自分に腹が立つ。


「レティシア様、学生会に抗議を――」


取り巻きが言いかけるのを、レティシアは扇の先で止めた。


「必要ないわ」


言い切ってから、自分の声が思ったより落ち着いていることに驚いた。


必要ない。――その言葉が、自分の口から出るのが、少しだけ怖い。アランの言葉遣いが、確実に自分の中へ入り込んでいる。


だが今日は、それで良かった。


抗議すれば噂が燃える。公爵令嬢が“正当化”に動いたと思われる。動けば動くほど、学園の空気は固まる。固まれば、誰かが息をしにくくなる。


それは迷惑だ。


レティシアは掲示から離れ、廊下の端に寄った。中庭へ行く気分ではない。視線が多すぎる。息が詰まる。


その時、背後から足音が近づいた。焦りのない、一定の歩幅。


振り返る前に分かる。アランだ。


「見ましたか」


小声。周囲に響かないように調整された声。


レティシアは扇を開き、視線を逸らしたまま答える。


「見たわ。あなたも見たでしょう」


「見ました」


それだけで会話が止まる。止まってしまうのが、苦しい。


レティシアは言葉を探した。公爵令嬢としての言葉か、個人としての言葉か。どちらを出せば場が整うのか。どちらを出せば噂が増幅しないのか。


答えは一つしかない。


「二人きりの場所へ行きましょう」


口に出した瞬間、心臓が跳ねた。昨日の“二人きり”が頭に蘇り、熱が頬に集まる。だが今日は順序を守る。今日は整える。


アランは一拍置き、頷いた。


「図書室の奥でいいですか」


「ええ」


それだけで、ふたりは歩き出す。距離は近づけない。並んで歩くと噂が増える。だから、レティシアが先に歩き、アランが少し後ろを歩いた。


それが、意外なほど胸を落ち着かせた。


離れているのに、離れていない。


彼が一定の距離を保ち、一定の歩幅で付いてくる。その“整った追随”が、守られている感覚に変わる。


図書室に入ると、空気が変わった。紙の匂いが現実を丁寧にする。噂の刺が少しだけ鈍る。


奥の席に着き、レティシアは扇を膝に置いた。アランは斜め向かいの位置。昨日と同じ、環境を整える配置。


レティシアは深く息を吐き、言った。


「学生会の掲示、迷惑ね」


アランの視線が静かに上がる。否定も肯定もせず、まず事実を確認する目。


「迷惑だと言う理由は?」


問われた瞬間、レティシアは少しだけ落ち着いた。彼の問いは責めるためではない。整理するためだ。


「噂が燃える。空気が固まる。皆が息をしにくくなる。――私はそれが嫌」


言い切って、胸の奥が少しだけ軽くなる。いつもなら“私が嫌”を言うのは高慢になる。だが今は違う。迷惑の方向が自分から外へ向いている。


アランは頷いた。


「今の言い方は、良いです」


その一言に胸が跳ねる。腹が立つ。嬉しい。悔しい。全部混ざる。だが今日は、それを整える。


レティシアは扇の端を指でなぞり、続けた。


「……私たちがどうすれば、迷惑にならないか。決める必要がある」


“私たち”と言った瞬間、指先が熱くなる。二人を同じ枠に入れた。公爵令嬢が男爵令息を、自分の側に置いた。


アランは迷わず言った。


「公共空間では距離を取る。声量を抑える。必要な会話だけで済ませる」


淡々とした提案。正しい。正しいから腹が立つ。だが、腹が立つだけでは終わらせない。


「私の取り巻きは?」


「あなたが制する」


即答だった。レティシアは少し目を細めた。


「あなた、私に厳しいのね」


「あなたは影響が大きいからです」


影響。現象。効果。彼の言葉は冷たいのではなく、現実に沿っている。だから逃げられない。


レティシアは小さく頷いた。


「分かった。取り巻きは私が抑える」


言い切ってから、少しだけ背筋が伸びた気がした。公爵令嬢としての力を、迷惑を減らす方向へ使う。それは意外と心地良い。


アランは続ける。


「それと、二人きりの場所では――」


そこで言い淀む。昨日と同じ。言葉にしづらい領域だ。言い淀むのが、妙に可笑しくて、可笑しいのが嬉しくて、嬉しいのが腹立たしい。


レティシアはわざと聞いた。


「二人きりでは?」


アランは観念したように息を吐き、言った。


「あなたが感情を崩すなら、まず言葉にして下さい。助けて、と。そこから順序を守る」


レティシアは頷き、そして素直に言う。


「助けて」


言ってしまってから、胸が熱い。言い方が子どもみたいだ。けれど、言えた。言葉にできた。


アランの目が僅かに柔らかくなる。


「どうしました」


それが、もう受け止めの始まりだ。レティシアは膝の上の扇を置き、机の下で指先を握りしめた。


「噂が怖い。掲示が怖い。あなたが巻き込まれるのが嫌。私のせいで、あなたが居づらくなるのが嫌」


言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ痛む。原因は自分だと認めてしまったからだ。でも、認めた方が整う。


アランは短く頷いた。


「あなたのせいだけではない。周囲の好奇心のせいもある。学生会は火消しのつもりでしょう」


火消し。現実的な整理。だがそれでも、レティシアの胸の奥の不安は消えない。


「……あなたが、距離を取ると言ったら」


言いかけて、喉が詰まる。言葉にするとみっともない。だが言わないと崩れる。


「私は、たぶん、耐えられない」


アランは一拍置き、淡々と答えた。


「距離は取ります。公共空間で」


レティシアの胸が冷える。


だが続きがあった。


「あなたから逃げる距離は取りません」


その言葉が、胸の奥の針を抜くみたいに効いた。


逃げない。逃げないまま、整える。彼の一貫性が、今日も自分を救う。


レティシアは息を吐き、視線を落とした。


「……じゃあ、二人きりで、確認したい」


「何を」


レティシアは机の上で指先をそろえ、順序を思い出す。言葉を一つ。手を出す。


「手を、繋いで」


アランは静かに手を差し出した。レティシアはそれを握る。昨日より落ち着いている。落ち着いているのが、少しだけ悔しい。昨日みたいに崩れたい衝動がある。だが今日は整える。


それでも、手を握った瞬間だけは、胸の奥が柔らかくなる。


「……ありがとう」


言ってしまって、レティシアは自分に驚く。謝罪が自然に出た昨日に続き、感謝が自然に出た。


アランは頷くだけだったが、その頷きが、他の誰の肯定より重い。


レティシアは、手を握ったまま、もう一つだけ言った。


「私、決めたわ」


「何を」


「私が私のまま、迷惑にならない形を作る。あなたに言われたことを真似するんじゃない。私が選ぶ」


アランの眉が僅かに動く。肯定の気配。


「それでいい」


短い言葉。短いから確かだ。


レティシアは胸の奥で小さく勝った気がした。彼に勝ったのではない。昨日の自分に勝った。噂に勝った。衝動に勝った。


だから、次を言える。


「その代わり」


アランの視線が上がる。


レティシアは少しだけ目を細め、意地悪く言った。


「二人きりの時は、私をちゃんと受け止めて」


卑怯だと分かっている。だが今は、合意を作るために必要だ。自分の欲を、秩序に落とし込む。そうしないと暴走する。


アランは息を吐き、困った顔をした。困った顔をしたまま、逃げない。


「受け止めます」


それだけ言って、付け足す。


「順序を守るなら」


レティシアは満足そうに頷いた。


「守る。……たぶん」


「たぶん、はいりません」


即座に窘められ、レティシアはむっとする。むっとするのに、胸の奥が温かい。




その日の午後、レティシアは“公爵令嬢としての仕事”を、初めて別の意味で実行した。


中庭で、上級生が下級生に雑務を押し付けていた。いつもの光景。いつもの迷惑。以前の自分なら、見なかったふりをしただろう。関われば面倒だ。噂にもなる。


だが今日は、順序を守った上で、自分の影響を正しく使う。


レティシアは歩み寄り、声量を抑え、淡々と言った。


「やめなさい」


それだけで空気が固まる。固まるのは嫌だが、迷惑が止まるなら必要な固まりだ。上級生の顔が青くなる。下級生が震える。


レティシアは上級生だけを見る。


「あなたの家名に泥を塗りたいの?」


その言葉は残酷だが、事実だ。秩序の言葉で縛り、迷惑を止める。秩序がこういう時の武器になるのを、初めて肯定的に使えた。


上級生は荷物を引き取り、頭を下げて去る。下級生が小さく礼を言う。レティシアは頷くだけで、それ以上の優しさは見せない。見せれば“いい人ごっこ”になる。自分が好きになれない自分になる。


回廊へ戻る途中、遠くにアランがいた。距離がある。公共空間の距離。


それなのに、彼の視線が一瞬だけこちらを捉え、僅かに頷く。


言葉はない。褒め言葉はない。だが、確かに“見逃していない”。


レティシアは、胸の奥がふっと満たされるのを感じた。


ああ、これだ。


自分が求めている特別は、独占ではなく、観測だ。自分の変化を、見ている人がいる。正論で叱り、正しく評価し、逃げない人がいる。


だから、噂の針はまだ刺さっていても、折れない。




放課後、図書室の奥。


レティシアは自分で二人きりの場所を作れた。取り巻きは遠ざけた。声量も抑えた。距離も整えた。


そして、順序も守った。


「助けて」


言えた。言えた瞬間、胸が熱くなる。言えた自分が、少し誇らしい。


アランは机の上の本を閉じ、視線を上げる。


「今度は、何ですか」


“今度は”と言われて、レティシアはむっとする。だがそのむっとが、もう以前の屈辱ではない。日常の一部になっている。


レティシアは手を差し出した。


「手」


短く言う。素直に言う。


アランは一拍置き、手を差し出す。レティシアは握る。握ると、胸の奥が落ち着く。


落ち着くと、欲が出る。


レティシアは視線を落とし、少しだけ声を小さくした。


「……昨日の続き」


アランの耳が赤くなる。赤くなるのが分かると、胸の奥が甘くなる。


「順序は」


「守る」


即答する。今日は守れる。守れるのに、心が急ぐ。


レティシアはゆっくり息を吸い、言葉を足す。


「抱きたい」


言ってしまって、頬が熱い。だが、言えた。衝動を言葉にできた。昨日なら押し付けて泣いていた。


アランは息を吐き、困ったように言う。


「……抱きつくなら、ここでいいです。でも、胸は――」


「最後」


レティシアが先に言う。先に言ってしまう自分が腹立たしいのに、嬉しい。


レティシアは立ち上がり、アランの隣へ回り、そっと抱きついた。押し付けない。寄せない。腕と体温だけで近づく。昨日の反則の距離ではない。


それなのに、十分に近い。


アランの肩が僅かに強張り、次いで少しだけ緩む。受け止めた、と分かる。


レティシアは小さく息を吐いた。


「……落ち着く」


「それは良いことです」


淡々と言われて、レティシアはむっとする。淡々としているのに、抱き返してはいないのに、逃げない。逃げないのが、もう充分な溺愛に思えてしまう。


レティシアは少しだけ顔を上げ、囁くように言った。


「ねえ。噂がどれだけ増えても、あなたは逃げない?」


アランは、短く答えた。


「逃げません」


短い。短いから信じられる。


レティシアの胸が痛くなり、同時に温かくなる。泣きそうになるが、今日は泣かない。泣かない代わりに、最後の順序に進みたくなる。


「……最後、いい?」


自分で言って、自分で恥ずかしい。だが、言えた。許可を求める形にできた。迷惑にならない形にできた。


アランが息を呑む気配がする。


「……だめと言っても、やるんでしょう」


「やらない。だめなら我慢する」


言い切って、レティシアは自分に驚いた。我慢する、と言えた。公爵令嬢が。


アランは数秒黙り、それから低い声で言った。


「……短く」


許可。条件付きの許可。正論の許可。


レティシアは、勝ったような気持ちになりながら、勝たないように気をつけて、そっと胸を寄せた。


柔らかい圧が、制服越しに伝わる。アランの体が固まる。固まるのが嬉しくて、嬉しいのが怖くて、怖いから、短くで止める。


レティシアはすぐに離れた。


「……守った」


小さく言う。自分に言い聞かせるように。


アランは顔を逸らし、耳まで赤くして、絞るように言った。


「今のは……反則一歩手前です」


レティシアはむっとして、けれど笑ってしまった。


「反則じゃない。順序を守った」


「守ったから、余計に困ります」


その言葉が、胸の奥に甘く落ちる。


困らせる。迷惑ではなく、困らせる。自分の存在が、彼の中で“個人的な反応”を引き出している。


その事実が、溺愛の形になる。


レティシアは腕をほどき、席へ戻った。正すべきことは正す。順序を守る。公共空間では距離を取る。二人きりでは合意の範囲で近づく。


自分たちの秩序を、作れた。


レティシアは扇を取り上げ、静かに言った。


「これでいいわ。学園の空気にも、あなたにも、迷惑をかけない」


アランが頷く。


「はい。これでいい」


その頷きが、今日の締めになるはずだった。


だがレティシアは最後に、どうしても言いたいことがあった。


「……それと」


アランが視線を上げる。


レティシアは扇で口元を隠し、わざと冷たく言った。


「あなた、私に対してだけ、少し甘いと思う」


言った瞬間、胸が熱い。自分で言っておいて、恥ずかしい。


アランは一拍置き、淡々と返した。


「気のせいです」


即答がひどい。レティシアはむっとして、扇を閉じた。


「嘘。昨日も今日も、受け止めた」


「迷惑だから止めるべきでした。でも、あなたが苦しそうだった」


「それが甘いのよ」


アランは困った顔をし、そしてようやく、ほんの少しだけ柔らかく言った。


「……甘いのではなく、責任です。あなたが変わろうとしているから、投げない」


投げない。逃げない。見逃さない。


レティシアの胸が、静かに満ちる。勝ち負けではなく、合意。関係の確定。


だから、今日も言える。


わざと小さなわがままを、ひとつだけ。


レティシアは席を立ち、扇を胸に当てて言った。


「じゃあ、明日はもう少し早く図書室に来て。私が先に待つのは、気に入らない」


アランが目を細めた。


「それは、迷惑です」


レティシアは胸を張り、当然のように言い返す。


「公爵令嬢に待たせる方が迷惑よ」


アランはため息を吐き、けれど逃げずに窘める。


「身分で勝とうとしないでください」


レティシアはむっとして、でも嬉しくて、扇の奥で微笑んだ。


こうして整えていく。今日も明日も。反発しながら学び、学びながら溺愛し、溺愛しながらまた叱られる。


図書室の静けさの中、レティシアは確信した。


自分はもう、この男爵令息の正論から逃げられない。


そして、その日常は早速始まる。


男爵令息は今日も、公爵令嬢を叱っている。

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