第4話 反則の距離
その日、レティシアは朝から機嫌が悪かった。
正確に言えば、機嫌が悪い“ふり”をしないと落ち着かなかった。
図書室で、アランに言われた言葉が胸の奥に残り続けている。
――違う言い方はしません。
――でも、あなたが変わろうとするなら、僕はその変化を見逃しません。
特別扱いはしない。正論は誰にでも向ける。けれど、レティシアの変化は見逃さない。
それは、彼のやり方で作られる“特別”だった。
受け入れたはずなのに、胸の奥が落ち着かない。むしろ、受け入れたからこそ不安が増した。彼が自分を見ているのは、自分が変わろうとしている間だけなのではないか。変わり切ってしまえば、叱る必要はなくなり、評価も薄くなり、視線がどこかへ行ってしまうのではないか。
馬鹿げている。
そんな不安は、公爵令嬢が持つべきものではない。
そう分かっているのに、分かっているからこそ、余計に胸がきしむ。
正門前の空気は相変わらず張り詰めていた。レティシアが馬車を降りると、周囲は自動的に道を作る。その現象を、今日は少しだけ嫌だと思った。自分の存在が誰かを黙らせる。誰かを萎縮させる。
“影響がある”とアランに言われた現象。
その影響を、今日はやけに強く感じる。
「レティシア様」
取り巻きが慎重な声で言った。
「本日、学生会の掲示が出ています。午後の中庭利用について――」
「分かっているわ」
返事は冷たくなる。冷たくなると、周囲がさらに静かになる。静かになると、また胸が痛む。
自分は何をしているのだろう。
――今日は、会わない。
そう決めた。理由は簡単だ。会えば落ち着かない。会えば余計な感情が動く。会えば、見てほしいという衝動が出る。
見てほしいなど、傲慢で、みっともない。
しかし、講義へ向かう廊下でレティシアの足は自然と分岐を選んでいた。あの日からずっと増やし続けた“偶然”の導線を、体が覚えてしまっている。
気づいた時には、視界の先にアランがいた。
彼は上級生の集団と平行に歩きながら、床に落ちかけた書類を拾って、持ち主に返している。手の動きが早い。声は小さい。相手が礼を言う前に、もう歩幅を戻している。
あまりに自然で、誰も「ありがたい」と思う暇がない。だから彼の善意は、いつも静かに消費される。
その静かな消費が、今日は妙に腹立たしかった。
レティシアは扇を握りしめた。胸の奥が不機嫌にざわつく。
――誰にでも、そうする。
分かっている。分かっているのに、納得しきれない自分がいる。
自分で自分が嫌になる。
午前の授業を終えた頃、噂は別の形で回ってきた。
「伯爵令嬢が、男爵令息に勉強を教わっているらしい」
「公爵令嬢は気にしているみたいだ」
「いや、もう公爵令嬢が付きまとってるだけじゃ――」
最後の一言が耳に刺さった。
付きまとっている。
図書室で言われた通りだ。自分が、彼を追っている。自覚している。けれど「付きまとい」という言葉にされると、急にみっともなく聞こえる。目的がない衝動のように聞こえる。
目的はある。確かめるため。変わるため。秩序を守るため。
そう言い聞かせても、胸の奥のざわめきは収まらない。
昼休み。中庭は学生会の掲示の通り、午後に向けて一部が使用制限になるらしく、いつもより人が散っていた。ベンチもまばら。木陰に集まる声も少ない。
その静けさの中で、レティシアは見てしまった。
アランが、誰かと話している。
相手は下級生の少女ではない。上級貴族の令嬢でもない。――学園の事務員だった。備品の一覧を抱え、困った顔で説明している。アランが頷き、状況を整理し、必要な人手を確認し、動線を提案している。
彼の言葉は、今日も「整える」言葉だ。
事務員が何度も礼を言い、頭を下げて去っていく。その背中を見送って、アランが一人になる。
レティシアの胸が、きしんだ。
誰にでもそうする。誰にでも整える。誰にでも言う。誰にでも助ける。
自分が望む“特別”は、そんな普遍の中でしか成立しないと分かったはずなのに。
それでも、胸の奥が勝手に言う。
――あの人の時間は、私のものじゃない。
当然だ。所有などしていない。分かっている。
なのに。
レティシアは、歩き出していた。
取り巻きを伴わない。今日は一人で動くと決めていた。自分が自分の足で、自分の感情を確かめないと、余計に迷惑になる。そう思ったからだ。
アランが気づく。視線が合う。
彼は、逃げない。媚びない。だが、今日のレティシアの足取りがいつもより速いことに気づいたのだろう。ほんの僅かに眉が寄る。
「……どうしました」
声は落ち着いている。落ち着いているのが、腹立たしい。
レティシアは扇を開き、言葉を尖らせた。
「今日も忙しそうね。人助けで」
「必要があれば、動きます」
淡々と返される。その返しが、胸をさらに刺す。
「必要、必要って。あなた、いつもそればかり」
「それが基準だからです」
基準。結果。迷惑。整える。
その単語が並ぶたびに、レティシアの中の“公爵令嬢としての武器”が鈍っていく気がした。身分も、美貌も、笑顔も、扇も、彼の基準の前では攻撃にならない。
だから、別の武器を使いたくなる。
自分でも理解しきれない衝動で。
「……そう」
レティシアは扇を閉じた。言葉で勝てないなら、態度で圧す。いつものやり方に戻る誘惑が顔を出す。
だが今日は、戻りきれなかった。
胸の奥が痛い。苦しい。苛立つ。恥ずかしい。
それが全部混ざり、言葉にならないまま喉に詰まる。
「レティシア?」
アランの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。それが逆に、レティシアの中の何かを崩した。
柔らかくするな。心配するな。優しくするな。
そんなことをされたら、もう強がれない。
レティシアは一歩踏み込んだ。
距離が近い。近すぎる。自分の体温が相手の制服越しに伝わる距離。あの日から、何度も“近づきたくなる衝動”に耐えてきた距離。
アランの目が僅かに揺れる。視線が落ちかけて、すぐ戻る。戻したのに、耳の先が赤くなるのが分かった。
その反応が、胸の奥を熱くした。
「……近いです」
「分かってる」
分かっていて近い。自分で自分が怖い。だが止まれない。
「場所を――」
「黙って」
レティシアは言ってしまった。命令口調。公爵令嬢の癖。ここで引けば良かったのに、引けなかった。
そして、言葉より早く体が動いた。
胸元を、そっと押し付けた。
自分の“圧”が、物理の形になる。柔らかさと熱と、距離のなさ。彼の胸板の硬さが、逆に自分の体を意識させる。息が浅くなる。
アランが固まった。
動けない、というより、動かない。押し返せば否定になる。避ければ拒絶になる。受け止めれば――受け止めてしまう。
その葛藤が、彼の沈黙に滲む。
レティシアはそれだけで、胸の奥が満たされてしまった。自分が最低だと思う。けれど止まらない。
「……反則です」
アランが、絞るように言った。声が低い。いつもの正論の刃ではなく、戸惑いが混じっている。
「反則って何よ」
「その……距離は」
「嫌?」
聞いてしまった。聞きたくなかったのに。答えを聞くのが怖いのに。
アランは目を閉じ、息を吐いた。そして、逃げずに言った。
「嫌じゃない。……だから困ります」
困る。困るのが、嬉しい。
レティシアの胸が震え、次の瞬間、熱が目の奥に集まった。
泣くつもりはなかった。公爵令嬢が学園の回廊で泣くなど、最悪だ。噂になる。侮られる。弱みになる。
なのに、涙が勝手に滲む。
レティシアはさらに胸元を寄せた。自分でも制御できない。寄せれば寄せるほど、相手の体温と鼓動が近くなる。自分の鼓動が速くなる。視界が揺れる。
「……泣かないで」
アランが言った。命令ではなく、頼みだった。
その頼みが、レティシアをさらに崩した。
「だって」
声が掠れる。喉が熱い。息がうまく吸えない。
「あなたが……私から離れるのが嫌なの」
言ってしまった。自分の内側を、言葉にしてしまった。
言った瞬間、恥が全身を走る。公爵令嬢が言う言葉ではない。独占欲。依存。みっともない。
なのに、止められない。
アランの両手が宙に迷った。抱くべきか、離すべきか、肩に触れるべきか、距離を取るべきか。迷いが、そのまま空気に滲む。
その迷いが、レティシアには優しさに見えた。
「離れない」
短い言葉だった。短いから嘘が混じらない。
「ただ――」
アランは視線を逸らし、周囲を確認した。回廊は今、幸いにも人が少ない。だが、少ないだけで、ゼロではない。遠くの角に誰かが見えた気がする。
「ここは、だめです」
その言い方は窘めだった。いつもの正論の形。けれど声が柔らかい。柔らかいから、余計に胸が痛い。
レティシアは涙を拭おうとした。拭えない。指先が震える。自分の体が言うことを聞かない。
「……じゃあ、どうすればいいの」
問いが、子どもみたいになる。公爵令嬢の言葉ではない。だが今の自分は、公爵令嬢でいる余裕がない。
アランは息を整え、代わりに言葉を整えた。
「まず、落ち着く。次に、二人きりの場所に移る。最後に――」
最後に、の先が言えずに詰まる。その詰まりが、妙に生々しかった。彼も同じように動揺している。
レティシアは、それが嬉しいのに、苦しい。
「最後に、何?」
わざと聞く。意地悪だ。みっともない。だが、彼を困らせたくなる。困ってほしい。自分のせいで。
アランは目を閉じ、観念したように言った。
「最後に、ちゃんと話す」
話す。そうだ。話すべきだ。自分は今、衝動で押し付けている。迷惑だと言われても仕方がない。
なのに、話す前に、泣きが止まらない。
レティシアは唇を噛み、胸を寄せたまま小さく首を振った。
「……嫌」
「何が」
「離れるのが」
アランが、困ったように息を吐いた。次の瞬間、迷っていた両腕がようやく決まった。
肩口に触れ、背中を支え、体勢を安定させる。
抱きしめるほど強くはない。けれど、突き放すほど弱くもない。受け止めた上で、整える抱き方。
レティシアの涙が、彼の制服に一滴落ちた。
その瞬間、胸の奥がふっと緩む。
苦しかったのに、呼吸が楽になる。
「……反則です」
アランがもう一度言った。今度は少しだけ掠れている。
「何が反則なの」
「あなたの、そういう……」
言い淀む。言い淀むのが珍しい。正論で切り分ける彼が、言葉にできずに詰まっている。
レティシアは涙のまま、少しだけ笑ってしまった。笑ってしまう自分が信じられない。
「……胸?」
言ってしまう。最低だ。だが、止まらない。
アランの耳が赤くなる。明確に赤くなる。視線が泳ぎ、それでも逃げない。
「……はい」
認めた。認めてしまった。
その瞬間、レティシアの胸の奥が熱で満ちた。勝ったのではない。勝ち負けではない。自分が彼に“影響を与えた”という事実が、嬉しい。
それが、溺愛の形に変わる。
「じゃあ、もっと近くてもいいじゃない」
「だめです」
即答。けれど、腕は緩まない。口で窘めて、体は受け止めている。その矛盾が、レティシアの心をさらに煽る。
「どうして」
「……場所と順序を守ってください。公爵令嬢としても、人としても」
正論。正論なのに、今は優しさに聞こえる。叱っているのに、守っている。
レティシアは、そこでようやく理解した。
アランがいつも言う「迷惑」は、レティシアを否定するための言葉ではない。周囲を守るための言葉であり、レティシア自身を崩さないための言葉だ。
だから、叱られているのに、安心する。
安心してしまうから、余計に泣く。
「……ひどい」
レティシアは小さく呟いた。何がひどいのか分からない。自分がひどい。彼もひどい。正論がひどい。優しさがひどい。
アランは抱えたまま、静かに言った。
「ひどくありません。あなたが今、整え方を知らないだけです」
整え方。
その言葉が、胸に落ちる。
自分はずっと、外側だけを整えてきた。髪、服、笑顔、礼儀、序列。外側を整えれば世界が整うと思ってきた。
でも今、整えるべきは内側だ。衝動、独占欲、不安、泣きたい気持ち。全部。
アランは、それを整える役を引き受けようとしている。
レティシアは、ゆっくり息を吸った。涙が少しだけ引いていく。引いていくのが、惜しくなる。叱られていた時間が終わるのが惜しい。
そんな自分が、怖い。
「……二人きりの場所って、どこ」
声が少し落ち着いた。落ち着いたから言える。自分で動ける。
アランは周囲を見て、低い声で答えた。
「図書室の奥。今なら人が少ない」
レティシアは頷いた。頷いた瞬間、彼の腕が僅かに緩む。抱えが“支え”に変わる。
レティシアは離れたくなくて、一瞬だけ指先で制服の袖を掴んだ。
その小さな動きに、アランが目を細める。叱るべきか迷う目。だが、叱らない目。
「……行きましょう」
アランはそう言って歩き出した。レティシアは半歩遅れてついていく。半歩遅れるのは、彼の背中を見たいからではない。――彼が本当に離れないことを、確認したいからだ。
図書室の奥は静かだった。
書架の間は薄暗く、外のざわめきが遠い。机は幾つか空いていて、端の席は視線が入りにくい。
二人はそこに座った。向かい合う形ではなく、少し斜めの位置。真正面は圧が強くなる。アランが以前言った通り、環境を整える配置だった。
レティシアは唇を噛み、視線を落とす。泣いた痕が残っているのが分かる。恥ずかしい。みっともない。
アランが小さな声で言った。
「……落ち着きましたか」
レティシアは頷いた。頷いたが、嘘だった。落ち着いていない。胸の奥がまだ熱い。抱えられた感覚が残っている。彼の制服越しの体温が、まだ皮膚に残っている。
「さっきのは、迷惑だった?」
聞いてしまった。答えが怖いのに。
アランは一拍置いて、正直に言った。
「迷惑でした。周囲の人の呼吸が止まります」
言い切った後、言葉を足す。
「でも、あなたが苦しそうだった。だから、止めるより先に受け止めました」
受け止めた。
その言葉が、胸の奥に沈む。甘いようで、苦い。自分の衝動を肯定されたわけではない。ただ、苦しさを見て、逃げなかった。
逃げなかったことが、何よりの肯定に思えてしまう。
レティシアは指先を膝の上で握った。
「……私、嫌だったの」
「何が」
「あなたが、誰にでも優しいのが」
言ってしまう。昨日は言わないと決めたはずなのに。けれど今は、隠せない。泣いた後の自分は、化粧も仮面も薄い。
アランは否定しなかった。ただ、淡々と整理する。
「優しいというより、必要なら動く。それだけです」
「分かってる。でも、嫌」
レティシアは言った。自分でも驚くほど素直な言い方だった。腹立たしさの仮面をかぶる余裕がない。
アランはしばらく黙り、それから言った。
「嫌だと言うのは自由です。でも、僕に誰かを助けないでほしいと言うのは違います」
正論。逃げられない。
レティシアは苦笑し、そして息を吐いた。
「分かってる。分かってるのよ。……だから、嫌なの」
分かっているのに嫌。正しさと感情が一致しない。自分が一番不得意な領域。
アランが少しだけ目を細めた。叱る顔ではない。困っている顔だ。
「なら、あなたは僕に何を求めているんですか」
その問いが、胸を突いた。
答えは一つしかない。
自分だけを見てほしい。自分だけに向けてほしい。特別になりたい。
だがそれを言ったら、崩れる。公爵令嬢としても、人としても崩れる。
レティシアは言葉を選び、別の形に変えた。
「……私の変化を、見逃さないって言った」
アランが頷く。
「言いました」
「なら、今日みたいに……私が壊れそうな時も、見逃さないで」
卑怯な言い方だと分かっている。独占ではない形を装って、独占を要求している。
アランは息を吐き、そして言った。
「見逃しません」
短い。だが確かだ。
「ただし」
やはり来る。正論の条件。
レティシアは唇を噛む。条件が怖い。拒絶に聞こえるからだ。
アランは続けた。
「あなたが壊れそうな時ほど、行動に順序をつけてください。いきなり押し付けるのは、あなた自身にも良くない」
レティシアは目を伏せ、頷いた。
「……順序って、何」
アランは淡々と答える。
「言葉を一つ。助けて、と言う。次に、手を出す。手を繋ぐ。最後に、二人きりになってから、抱きつく」
レティシアは顔が熱くなった。抱きつく、という単語が具体的すぎる。
アランはそこで少しだけ視線を逸らし、低い声で付け足した。
「……胸は、その最後です」
レティシアの胸の奥が、熱で満ちた。言葉にされると、余計に意識してしまう。意識してしまうと、また衝動が湧く。
湧いた衝動を、今度は言葉に変えた。
「じゃあ、手を繋いで」
自分でも驚く。公爵令嬢が。頼むように。
アランは一拍置いて、それから手を差し出した。逃げない手。受け止める手。
レティシアはその手を握った。指先が温かい。硬すぎない。頼りになる硬さ。
胸の奥が、少しだけ落ち着く。
落ち着いたはずなのに、今度は別の欲が出る。
「……さっき、抱いた」
「抱いていません。支えただけです」
淡々と訂正され、レティシアはむっとする。むっとする自分が幼い。
「でも、私のこと……受け止めた」
「受け止めました」
認めるのがずるい。認めるから、もっと欲しくなる。
レティシアは手を握ったまま、少しだけ身を寄せた。胸を押し付けない距離。約束を守る距離。
アランが小さく息を吸う。
「……また、近いです」
「今は、手だけ」
「手だけでも、十分近い」
その言葉に、レティシアは少し笑った。笑ってしまう自分が信じられない。けれど嬉しい。自分が近いと、彼が意識している。それだけで嬉しい。
そして同時に、胸の奥に確信が生まれる。
この人は、逃げない。
逃げないまま、整える。
だから自分は――
「……明日も」
言葉が漏れる。
アランがこちらを見る。
「明日も、何です?」
レティシアは扇を持っていない指先で、自分の頬の涙の痕をそっと拭った。まだ少しだけ熱い。
「明日も、叱って」
言ってしまった。恥が走る。けれど取り消さない。
アランはしばらく黙り、そして短く頷いた。
「迷惑なら、叱ります」
いつもの言い方。いつもの正論。
それなのに、胸の奥が温かくなる。
レティシアは手を握ったまま、低い声で言った。
「……じゃあ私は、迷惑にならないように学ぶ」
「それがいい」
「でも」
レティシアは少しだけ目を細めた。
「二人きりの時は、迷惑じゃないでしょう?」
アランが固まった。ほんの一瞬。固まってから、視線を逸らす。耳が赤い。
その反応が、レティシアの胸を満たす。
アランは苦しそうに息を吐き、低い声で言った。
「……二人きりでも、順序は守ってください」
レティシアは満足そうに頷いた。
勝ったわけではない。けれど、今日は確かに“前に進んだ”。
衝動で押し付けて泣いた自分を、彼は受け止めた。受け止めた上で、順序を教えた。守り方を教えた。逃げないまま。
それがどれほど危険な甘さか、レティシアはもう理解してしまっている。
だからこそ、もう逃げられない。
図書室の静けさの中で、レティシアは手を握り返した。指先に力を込める。離すなと言う代わりに、握る。
アランは握り返し、そして小さな声で窘めた。
「……強く握りすぎです。痛い」
レティシアは少しだけ笑って、素直に力を抜いた。
「ごめんなさい」
謝る言葉が、こんなに自然に出る日が来るなんて。
アランは淡々と頷く。
「今のは、良かったです」
その一言で、レティシアの胸がまた跳ねた。




