第3話 正論は私だけのものじゃない
噂というものは、空気に似ている。
誰かが吐いた息が、いつの間にか廊下の端まで広がり、呼吸するだけで肺に入ってくる。止めようとしても止まらない。遮ろうとしても隙間から入り込む。しかも厄介なことに、噂はいつも、少しだけ都合よく歪んだ形で伝わる。
「公爵令嬢が男爵に絡んでるらしい」 「叱られてるんだって?」 「いや、あれはもう……」
三日目の朝、レティシアは正門をくぐった瞬間から、視線の圧を浴びていた。
昨日までなら、視線は当然のものだった。見られる側であることは公爵令嬢の仕事で、見られること自体は勝利でも敗北でもない。ただの状態だ。
だが今日は違う。
見られているのは、彼女の美貌でも家紋でもなく、「変化」だった。公爵令嬢が何かに揺れている。その揺れが面白い。そういう視線が混じっている。
レティシアは扇を開いた。顔を隠すためではなく、視線を一度自分の手元へ落とさせるためだ。ほんの一秒、視線の集中を逸らす。その一秒で、自分の呼吸を整える。
整えながら、心の奥が不機嫌に疼く。
――昨日、あの男爵に褒められた。
「今のは良かったです」
たった一言。媚びも賞賛もない、ただの事実確認のような声。それなのに、胸の奥が跳ねてしまった。跳ねた自分が許せない。
しかもそれ以上に腹立たしいのは、その跳ねが「彼に認められたから」だけではないと、薄々わかっていることだった。
彼の正論に、自分の行動が合った。だから肯定された。
つまり――自分は、彼の土俵に片足を置き始めている。
昨日の自分なら「そんな土俵など踏むものか」と笑っていたはずだ。それが今は、踏んだことを自覚してしまっている。自覚した瞬間に、戻れなくなる感じがする。
だから、腹が立つ。
午前の講義が終わり、次の講義までの移動時間。廊下は生徒で混み合い、そこかしこで立ち話が生まれる。
レティシアは取り巻きを引き連れて歩きながら、視線だけで周囲を観察した。探しているのは一人の姿だと、自分で認めたくないまま。
昨日と同じく、見つけるのは簡単だった。
アラン=フィールドは、混雑の中心にはいない。だが、混雑が彼の周りでほんの僅かに整う。ぶつかりそうな人がぶつからない。行き違いが滑らかになる。誰かが荷物を落としそうになれば手が出る。そういう「整え」が自然に発生するせいで、逆に目立つ。
今日の彼は、階段脇で立ち止まっていた。
相手は上級貴族の女子生徒。伯爵家の令嬢で、レティシアの取り巻きの一人が親しいと噂されている人物だ。彼女はノートを抱え、眉を寄せている。困っている顔だ。
アランが、何かを説明している。
距離は近すぎない。声は大きくない。だが会話は確実に続いている。伯爵令嬢が男爵令息に教えを乞う形になっている。
レティシアの胸の奥が、冷たくきしんだ。
――どうして、あの人に?
昨日までの自分なら、伯爵令嬢が男爵に話しかけること自体が滑稽に見えただろう。身分の秩序から外れているからだ。だが今、自分の内側で疼いたのは秩序の怒りではない。
別の感情だ。
言語化したくない感情。
取り巻きが小声で囁く。
「あの伯爵令嬢、最近男爵令息とよく話していますわ。公爵令嬢がお近づきになっているから、真似を――」
真似。真似だと?
レティシアは、扇の骨を握りしめた。
真似ではない。――それは自分が決めることだ。自分が誰と話すか、誰が真似をするか、そんなことを他人の口に乗せられるのが、ひどく不快だった。
しかも、不快の中心にいるのは「自分の所有物でもない男爵令息」だという事実が、さらに不快だった。
レティシアは足を止めた。止めるつもりはなかった。止まってしまった。
自分でも気づかないうちに、体が反応していた。
アランがふと顔を上げる。視線がレティシアに当たる。ほんの一瞬、空気が固まる。伯爵令嬢が息を呑み、取り巻きがざわめき、廊下の端まで緊張が走る。
レティシアはその緊張に気づき、すぐに扇で息を整えた。
――そう。これが私の「圧」だ。
昨日、彼に「影響がある」と言われた現象。自分の存在が周囲を萎縮させ、空気を固める。今それが、はっきり目に見える形で起きている。
レティシアは、足を動かした。伯爵令嬢へ向かって。近づくほど、廊下の空気がさらに冷える。自分が歩くだけで、会話が止まり、周囲が黙る。
伯爵令嬢が慌てて頭を下げた。
「レティシア様……!」
レティシアは微笑みの形を作った。昨日アランに「相手が逃げる笑顔」と言われた笑顔。今日は、意識してその形を作った。武器として。
「何をしているの?」
声は柔らかい。柔らかいほど、圧が強くなることをレティシアは知っている。
伯爵令嬢は視線を泳がせ、言葉を探す。
「いえ、その……政治史の課題が難しくて……」
レティシアは視線だけでアランを見た。彼はいつも通り、落ち着いている。怯えない。逃げない。だが、余計な挑発もしない。
「男爵令息に?」
自分でも驚くほど、その言葉に棘が混じった。
伯爵令嬢が慌てて言い訳をする。
「違うのです! たまたま、通りかかったフィールド様が……」
たまたま。偶然。昨日アランに言われた言葉が刺さる。
レティシアは扇を閉じる音を、少しだけ強くした。
「そう。なら良いわ」
良いわ、と言いながら、胸の奥は良くなかった。
良いわ、ではない。良くない。何が? 何が良くない? 彼が誰にでも正論を向けることが? 彼が誰にでも「整える」ことが?
――自分だけじゃない。
その事実が、なぜか腹立たしい。
アランが静かに口を開いた。
「必要なら、僕が離れます」
その言い方が、腹立たしいほど正しい。
離れる? なぜ離れる? 自分が来たから? 自分が空気を固めたから? 正論で状況を整えようとしているだけだ。だが、その“整え”が、今のレティシアには耐え難い。
「離れる必要はないわ」
レティシアは言った。自分でも驚くほど早く。
アランの眉がほんの僅かに動く。伯爵令嬢が安堵したように息を吐く。取り巻きが戸惑う。
レティシアは、次の言葉を探した。探している間に、胸の奥の感情が不穏に膨らむ。言葉を間違えれば、自分が滑稽になる。公爵令嬢が嫉妬したように見える。そんなことは許されない。
だから、別の形にした。
「その課題なら、私が教える」
伯爵令嬢が目を丸くする。アランが何も言わずに一歩だけ引く。引くというより、場を譲る動き。
レティシアはその動きに、また胸がきしんだ。譲られたくない。譲られたら、自分が勝ったように見えてしまう。勝った形は欲しいのに、勝った形の中身が空虚になるのが嫌だ。
レティシアは伯爵令嬢のノートを一瞥し、要点を簡潔に示した。政治史の論点整理。貴族社会の同意形成。利害の結節点。自分は得意だ。得意だから、説明はできる。説明できるのに、胸の奥は満たされない。
アランが説明していた時、伯爵令嬢の顔はもう少し柔らかかった。理解の安堵だけではなく、安心が混じっていた。
その違いが、腹立たしい。
説明を終え、伯爵令嬢が深く頭を下げた。
「ありがとうございます、レティシア様……!」
レティシアは頷いた。それだけで、伯爵令嬢は救われた顔をして去っていく。去っていったあとに残るのは、廊下の静けさと、視線と、男爵令息の存在だけだ。
レティシアはアランを見上げた。身長差が、いつもより腹立たしい。見上げる必要があるからだ。
「あなた、誰にでもそうなのね」
自分でも、声の温度が低いのが分かった。
アランは淡々と答える。
「困っているなら、助けます」
「私が困っている時も?」
言った瞬間、レティシアは自分の口を呪った。今のは、明らかに甘えの形になっている。
アランは一拍置いてから言う。
「昨日も今日も、助けています」
その言い方は正しい。正しいのに、胸が痛い。助けているのは自分だけじゃない。彼の助けは普遍で、だから特別ではない。
レティシアは扇を開き、視線を逸らした。逸らしながら、言葉だけを尖らせる。
「そう。なら、あなたの正論は安いのね。誰にでも配る」
言ってしまった。言ってから、胃の奥が冷えた。
これは正論ではない。これは攻撃だ。しかも、みっともない攻撃だ。自分が一番嫌う種類の。
周囲の空気がさらに固まる。廊下の端で立ち止まっていた生徒たちが息を呑む。取り巻きが内心で勝ち誇ったのが分かる。――公爵令嬢が男爵を叩いた、と。
アランは表情を変えなかった。変えないまま、淡々と告げた。
「今の言い方は、迷惑です」
その一言で、レティシアの胸がひどく痛んだ。
迷惑。昨日と同じ言葉。だが、今日は昨日よりも刺さる。なぜなら今の迷惑は、事実だ。自分が勝手に感情をぶつけ、場を固め、周囲の人間の呼吸を止めた。
「……どうして?」
レティシアは思わず言った。何がどうしてなのか分からないまま。
アランは言葉を選ぶように、少しだけ息を吐いた。
「あなたは今、僕が誰にでも同じように接するのが嫌だと言った。けれど、僕が誰にだけ助けるかを選ぶと、今度は身分で選ぶことになる。あなたが嫌うはずの秩序の形になります」
嫌う? 自分が秩序を嫌う? そんなはずはない。秩序は当然だ。秩序は安心だ。秩序があるから自分は公爵令嬢でいられる。
だが、今の言葉は確かに、胸の奥を抉る。
自分は秩序の中で生きている。秩序の上に立っている。だから選ばれることが当たり前だと思っている。けれど、アランの世界では「困っているかどうか」だけが選ぶ基準だ。
それが普遍で、だから自分は特別ではない。
特別ではないことが、こんなにも苦しいなんて、知らなかった。
「……私は」
言いかけて言葉が詰まる。自分が何を望んでいるのか、分からない。彼を責めたいのか、自分を慰めたいのか、特別になりたいのか、正されたいのか。
アランは淡々と続けた。
「あなたが困っているなら助けます。でも、他の人が困っていても助けます。それが嫌なら、僕に求めるものを変えてください」
求めるもの。
レティシアは唇を噛んだ。求めている。自分は確かに彼に何かを求めている。昨日からずっと。
何を?
彼の正論? 叱責? 認める言葉? それとも――自分だけを見る視線?
最後の答えが浮かび、レティシアは背筋が冷えた。
ありえない。公爵令嬢が男爵に、独占を求めるなど。そんな感情を持つなど。
その瞬間、廊下の端でまた小さな声が上がった。別の上級貴族が、平民の生徒に荷物を押し付けている。いつもの構図。いつもの迷惑。
アランの視線がそちらへ向く。迷いがない。助けに行くべきだと判断した目だ。
レティシアの胸が、また痛んだ。
行くな、と思った。行くなと言えない。言えば自分がみっともない。だから、別の形で止めようとした。
「そんなことより――」
声を上げかけた瞬間、アランがこちらを見て言った。
「今のは、あなたが止めるべきです」
レティシアは息を呑む。
「あなたが公爵令嬢だからです」
その言葉は、皮肉ではなく事実だった。自分の身分の意味を、初めて「人を守るために使え」と言われた気がした。
レティシアは、足を動かした。上級貴族の前へ。空気が割れる。視線が集まる。圧が走る。
「それ、やめなさい」
声は冷たくもなく、怒りでもない。淡々とした命令。それだけで、上級貴族の顔が青くなる。公爵令嬢に叱られることは、秩序の中で明確に不利益だからだ。
「……失礼しました」
上級貴族が荷物を引き取り、平民の生徒が震える手で頭を下げる。
「ありがとうございます……」
レティシアは頷き返した。それだけ。余計な優しさは見せない。だが、場は収まった。迷惑が止まった。怪我は起きない。
背後から、アランの声がする。
「今のは、正しいです」
その一言が、また胸を刺した。
正しい。正しいことをしたのに、苦しい。なぜ苦しい? 自分は正しいと言われたら満たされるはずだ。秩序の中で正しいと言われることが、公爵令嬢の価値なのだから。
だが今、自分が欲しいのは「正しい」と言われることだけではない。
もっと個人的で、みっともなくて、言葉にすると崩れる何かだ。
*
放課後、レティシアは一人で図書室へ行った。
取り巻きを連れていない。理由は明確だ。彼に「取り巻きが威圧になる」と言われた。言われた通りにするのが腹立たしいのに、言われた通りにしないと自分が負けた気がする。
そして何より、今日は一人になりたかった。
図書室の静けさは、いつもより深く感じられた。紙の匂い。椅子を引く音。ページをめくる音。誰もが声を抑え、世界が丁寧になる場所。
レティシアは書架の間を歩き、アランの姿を探す。探している自分を認めたくないのに、探してしまう。いないと胸が落ち着かない。
いた。
奥の机。ノートを広げ、何かを書いている。髪は今日も少しモサモサだ。だが、背筋は真っ直ぐで、手の動きは無駄がない。整っている。外見の整え方は貴族的ではないのに、存在そのものは揺れない。
レティシアは机の前まで行き、立ち止まった。距離を詰めすぎない。声量を上げない。――学んだはずのことを守りながら。
それでも、胸の奥がざわつく。
アランが顔を上げる。
「何かありましたか」
淡々。いつも通りの声。
レティシアは、今日一日抱えてきた感情をそのまま吐き出したくなった。伯爵令嬢に教えていたこと。自分が苛立ったこと。自分がみっともなく攻撃したこと。迷惑と言われて痛んだこと。
全部吐き出して、叱られたい衝動がある。
その衝動に気づき、レティシアはさらに腹が立った。
叱られたい? 公爵令嬢が?
ありえない。だが――今日、迷惑と言われた瞬間、自分の胸は痛んだのに、どこかで落ち着いた。正された。整えられた。そう感じてしまった。
それが怖い。
レティシアは、言葉を選ぶ代わりに、逆の行動を取った。
机の上に置かれていた本を、わざと少しだけずらした。彼が書いているノートの端に触れるくらいの距離まで。迷惑になる程度に。ほんの少しだけ。
自分でも意味が分からない。だが、体が先に動いた。
アランの視線が、机上のずれに落ちる。次いで、レティシアの指先に戻る。
「……やめてください」
静かな声だった。怒鳴らない。だが、明確に窘める声。
レティシアの胸が、ひどく跳ねた。
「何を?」
わざと知らないふりをする。子どもじみている。みっともない。だが止められない。
アランは言った。
「今、あなたはわざと邪魔をした。理由があるなら聞きます。でも、理由なく人の作業を乱すのは迷惑です」
迷惑。
その言葉が、図書室の静けさの中で落ちた瞬間、レティシアの体の奥がふっと緩んだ。
苦しいはずなのに、呼吸が楽になる。
叱られているのに、安心している。
レティシアは、自分の内側が崩れる音を聞いた気がした。
「……あなた、誰にでもそう言うのね」
声が小さくなる。自分で止められない。今日はもう、強がりが剥がれている。
アランは淡々と答える。
「迷惑なら、誰にでも言います」
「じゃあ……私にも、ずっと言うの?」
アランの眉が僅かに動いた。意図を測る動き。レティシアはその動きを見て、胸が痛んだ。自分でも何を言っているのか分からない。ただ、言わないと壊れそうだった。
アランはゆっくり息を吐き、言葉を選ぶ。
「あなたが迷惑をかけるなら言います。でも、あなたが迷惑を止めるなら――言う必要はなくなります」
その言葉を聞いた瞬間、レティシアの胸の奥に、奇妙な空洞が生まれた。
言う必要がなくなる。つまり、叱られなくなる。
それは本来、勝利のはずだ。公爵令嬢が誰にも叱られずに済む世界。それは彼女が長年生きてきた世界だ。
なのに、今のレティシアは、その世界に戻るのが怖い。
叱られない世界では、また自分が傲慢に戻る気がする。迷惑を自覚できない自分に戻る気がする。何より――彼の声が自分に向かなくなる気がする。
自分だけではない正論。誰にでも向けられる正論。だからこそ、彼が自分に向ける言葉が途切れるのが怖い。
レティシアは、扇を握りしめた。今日は扇を持っていないはずなのに、指先が無意識に「扇を握る動き」をしていた。癖だ。自分を整える癖。守りの癖。
守る癖が、今は崩れている。
「……馬鹿みたい」
レティシアは小さく呟いた。何が馬鹿なのか分からないまま。
アランは静かに言った。
「馬鹿ではありません。ただ、あなたは慣れていない。叱られることに」
その言葉が決定打になった。
慣れていない。そうだ。自分は叱られることに慣れていない。だから昨日からずっと、叱られるたびに腹が立つ。腹が立つのに、落ち着く。落ち着くのに、また叱られたくなる。
レティシアは、ゆっくり息を吸った。目の奥が熱い。泣くほどではない。だが、何かが溢れそうだ。
「……ねえ」
声が、自分でも驚くほど弱い。
「あなたの正論が、私だけのものじゃないのは分かったわ」
言いながら、胸が痛む。分かった。分かったからこそ、苦しい。
「でも、私に向ける時は……少しだけ、違う言い方をして」
言ってしまった。
公爵令嬢が男爵に、甘えた。独占を求めた。みっともなく。
アランはすぐに答えなかった。沈黙が落ちる。図書室の静けさが、二人の間に膜を張る。
やがてアランが言った。
「違う言い方はしません」
レティシアの胸が冷える。
だが続きがあった。
「でも、あなたが変わろうとするなら、僕はその変化を見逃しません。良かったことは良かったと言います。間違いは間違いと言います。それは、あなたにだけ向ける言葉になります」
あなたにだけ向ける言葉。
その表現が、レティシアの胸の奥に灯を落とした。
特別ではない正論の中で、自分に向けられる「評価」だけが特別になる。彼はそういう形でしか、特別を作らない。
腹立たしいほど、彼らしい。
レティシアは俯き、そして小さく頷いた。
「……分かった」
頷いた瞬間、胸の奥が少しだけ楽になった。
自分が求めているのは、彼の正論を独占することではない。彼の正論の中で、自分が変わっていく過程を、彼に見ていてほしい。叱られ、正され、時に褒められ、整えられていく過程を。
そして何より――叱られることで、自分が自分でいられる感覚を、手放したくない。
その結論に辿り着いた瞬間、レティシアは理解してしまった。
自分はもう、あの男爵令息の「正論」から逃げられない。
逃げられないどころか――
その正論に、今日も叱られることを、どこかで望んでしまっている。




